#07 一富士二鷹三茄子
目が覚めたときフェっちゃんの姿は消えているだろう。私はそれを夢の中で確信していた。あまりに長いこと孤独とともに暮らしてきた私にとって、女の子ひとりの消失は世界の消失に等しい。私は夢をぎりぎりまで先延ばしするため、だらしない言い訳を神様に申し立てて時間稼ぎした。急ごしらえの神様はめんどくさそうにそれっぽい罪状を並べ立てた。怠惰放置罪、無成長中年罪、優柔不断面倒回避罪、無用小説蔓延罪、妄想系小児恋愛罪……。たくさんの罪が一滴ずつ私のなかにたまっていき、やがて罰と同じ重さになった。この罪も、この罰も、私ひとりのものだ。誰とも共有できない私の私物。誰にも私のことはわからないし、誰のことも私にはわからない。慣れ親しんだ孤独モードが再起動して、私はようやく目を覚ました。
私はまだ夢から覚めていないのだろうか。フェっちゃんがまだいて、隣のベッドで寝息を立てて眠っていた。口を半開きにして少し前歯を見せ、冬眠から目覚めないまぬけリスのような顔をしている。フェっちゃん、もっと美少女じゃなかったっけ。いや、ちがう。この子は目はきれいだけど、別に美少女というわけじゃなかった。それでも私はそのまぬけづらがかわいくて目が離せなかった。こんな気持ちはもう二十歳くらいのころからずっと忘れていた。存在が身体にも記憶にもアンカーされてなくて、他人にまるっと奪われている感じ。フェっちゃんは私の食べる肉を奪い尽くしただけでなく、私の存在までも奪い尽くしてしまったのか。この小さな体にいったいいくつの臓腑があるのだろう。きっと私の小説の才能も食べられてしまったのだ。だとすると彼女の言ったとおり私の小説は今日からゲームになるのだろうか。
フェっちゃんを起こさないように寝室を出て2畳の書斎に入った。元々トイレだった部屋で、不動産屋は「物置」とか「クローゼット」とか呼んでいた。陽の当たらない部屋で冬は極寒だが電気ストーブをつければすぐあったかくなる。私は電気ストーブのそばで壁に寄りかかった。狭いので脚は伸びきらず自然と体育座りの格好になる。膝に画板を立てかけ、原稿用紙を画鋲ふたつで留めた。いつもそんな風にして書いている。机があると書けなくなるのだ。本当は机でも書けるのかもしれない。しかし私はもう20代のころからずっとこんな風に書いてきたので、今さらやり方を変えたら書けなくなると信じている。小説の神様が初めて私のもとに降り立ったのは私がトイレで体育座りしているときだったからだ。それまでうんともすんとも言わなかった彼がなぜ突然降りてきたのか、愚かな私にはわからない。可能性はふたつある。私が体育座りしてたから。もしくは小説の神様がトイレの神様を兼ねていたから。いずれにしても、それは私の信仰だ。儀式をせよ。小説の神様を迎えよここに。
しかしいつも通りのはずなのに、何も言葉が出てこなかった。昨日書いたものを読み返しても気が乗らず、半年以上寝かせた積ん読小説のように文字が像を結ばない。一昨日書いたものも、その前に書いたものもぜんぶそう。小説が小説になってない。私がこれまで書いてきたものは何ひとつ小説ではなかったし、これから私が書くものは何ひとつ小説にならない。帰納法の教えによるとそういうことになる。しかし私はなぜか焦らず、目をつぶり、電気ストーブのぬくもりを感じていた。
画板を置いて書斎を出て、寝室に戻った。まだ眠っているフェっちゃんを見た。少し首の角度が変わっていて、顔の輪郭が朝陽の中でバターみたいにとろとろに溶けている。まぬけづらというよりも、もはや顔ですらない。これはこれでかわいく、胸がしめつけられるようにキュンとする。私はこれまで、自分が書いた小説を何度も読み返すのが生きがいだった。今は、フェっちゃんの顔を何度も見るのが生きがいになっているのだろうか? 美少女でもなんでもない、どうってことない子どもの顔なのに、見るたびに新しいかわいさを発見する。生命そのもののようで、小説そのもののようでもあった。小説はフェっちゃんに食べられてしまったんじゃないか。今やこの子が私の小説なんじゃないか。
私はまた自分の布団にもぐりこみ、目をつぶった。この部屋、カーテンをつけた方がいいな。朝陽がまぶしくて二度寝できない。こんなときこそ私にはわたしが必要だ。わたしが水槽から出てきて枕元まで来てくれるといい。今はフカフカという名前がつけられたわたし。私とわたしはずっとふたりでやってきた。それなのに今はフェっちゃんに夢中になってしまい、フカフカはすねてるのかもしれない。水槽にヒーターを入れてあげたっけ、あげなかったっけ。わたしをないがしろにしたことが私が小説を書けない原因ではないか。小説の神様の正体はフカフカなのではないか。早く会いに行って謝らないと。フェっちゃんはもう追い出すから。コバヤシに任せておうちに帰らせるから。小説をゲームなんかにしたりしないからさ……。
しかし布団の中があたたかくなってきて私はばっちり二度寝してしまったらしい。夢を見た。お正月に見るような、一富士二鷹三茄子系の無意味にハッピーな夢だ。無意味にハッピーになった私はこれ以上無いほど満ち足りていた。
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