#06 えっちだね。フラグ立ったよ
部屋に入るとフェっちゃんが「早く手袋を脱いで」というので私は言われた通りに脱いだ。手袋は「脱ぐ」のか「外す」のか。私の故郷のアレは方言だったのか、それともフェっちゃんの方こそ地方出身者なのか……。
フェっちゃんもミトン手袋を「脱いで」、冷え切った私の右手を両手でぎゅっと握りしめた。
「どう?」
「どうって?」
「あったかい?」
「フェっちゃんも寒かったでしょ? コタツで温まってきなよ」
「好感度が5ぐらい上がらない?」
「10ぐらい上がったよ」
「よし。あと10」
好感度上昇を確認するとフェっちゃんはコタツの方へとことこ走っていって、立ち止まらずに帽子やマフラーやコートをつぎつぎと放り投げるように「脱ぐ」と、コタツの中に見事にヘッドスライディングして姿を消した。まるでフェっちゃんの存在が音もなくこの世から消え、コタツとフェっちゃんの抜け殻だけが居間に取り残されたかのようだった。私はこれに似た雰囲気の風景画だったか肖像画だったかを昔見た気がしたが思い出せず、諦めてコートを「脱い」で、浴槽にお湯を張り始めた。お米をといで水に浸け、買ってきた食材を冷蔵庫に入れ、お湯を沸かしてお茶を入れると、コタツの上にお茶と買ってきたおいなりさんを置いて「ご自由に」と声をかけた。コタツの中から小さな手が食虫植物のようにするする出てきて湯飲みをつかむのを見た。
風呂に浸かりながら、このパターンくせになりそうだなと思った。私が風呂に入っているあいだ、よく知らない女の子がコタツでくつろぎ、おいなりさんをお茶でおいしくいただいている。その子はギャングの娘で、いつも真っ赤な女の子用ピストルを携帯していて私の生命を脅かし、私の彼女への好感度はいまや90に達している。あと10上がったらフラグが立つのを私は不安に思う。こんなことなら5刻みにしておけばよかった。1刻みならもっと引き延ばせたのに。今さら下げたら怒るだろうな。好感度は上げてもそれほど喜ばれないのに、下げるとだいたい怒られる。上げるのはデフォルトでも、次からは1刻みにしよう。
私はフェっちゃんとの関係をもう少しこのままにしておきたいと思っているのかもしれない。私とわたしのさびしい生活に不思議な女の子が加わって、私はちょっと楽しくなってきてるのかもしれない。調子に乗ってるのかもしれない。かもしれない、かもしれない。いろんな「かもしれない」が私の日々に薄く重ね塗りされていって、少しずつ淡いピンク色になっていく。女の子用ピストルとコバヤシに監視されているとしても、その監視そのものを私はそれなりに楽しんでいるのではないか。私の意中が他者にとってこんなに意味を持ち、注視されるなんて、いつぶりだろう。昔、恋人がいたころでさえこんな風ではなかった。恋人は私の言葉を何ひとつ聞いていなかった。初めて会ったとき「わたし、雰囲気ゲーが好きなの」と言われたのを覚えている。
「RボタンとZRボタンの区別もつかないから死にゲーとか絶対無理。3Dスティックだけ使ってどうぶつの森の浜辺に行って、日がな一日ひなたぼっこしてたいよ。そのまま居眠りしているうちにエンディングを迎えて長い長いスタッフロールに祝われたいよ」
今の人はなんでもゲームなんだな。彼女が「雰囲気ゲー」が好きなのなら、私は「監視ゲー」が好きなのかもしれない。私が監視するゲームではなく、女の子用ピストルやコバヤシに監視されるゲーム。私のことをよく考えてくれる人がいるなんて、胸がキュンとすることじゃないか。
風呂から上がるとおいなりさんはまた無くなっていた。3個入りパックを買っても5個入りパックを買っても、フェっちゃんはあればあるだけおいなりさんを食べる。あの小さな体のどこにおいなりさん専用の臓腑があるのだろう? お茶のおかわりはどう、と聞くと、自分で入れたからいらないやとコタツの中から声が聞こえた。私はコタツのなかに両脚を入れた。足くさいよーとコタツからか細い悲鳴が聞こえた。
「お風呂に入ったばかりだからくさくないよ」
見た目がくさい。いいかげん足の爪切ったら?
「そろそろ切ろうと思ってるんだけどいつも忘れてしまう」
たぶんそれ、一生忘れつづけるよ。
「歩きにくくなったらさすがに思い出すから」
おじさんの爪切ってあげようか? わたしうまいよ。
「いいよ。フェっちゃんもお風呂に入ってきなよ」
おじさんの入ったあとに入るとかちょっと抵抗ある。
「人の足の爪を切るのは抵抗ないのに? ていうか、こういうこと話してるとコバヤシさんが来ちゃうよ」
これ、えっちな話?
「ちがうと思うけど」
ねえ、コバヤシ、こういうこと話してるとコバヤシは来るの?
(しばらくコタツの中からひそひそ話が聞こえる。森の妖精たちのおしゃべりのようでもあり、墓場の亡霊たちの嘆き声のようでもあった)
コバヤシ今、カップラーメン食べてるってさ。わたしたちの今の会話は基本アウトだけど、今はラーメン食べてるから無理って。
「じゃあ、ラーメン食べ終わったら来るのかな」
(またひそひそ話が聞こえる)
行かないけど、厳重注意ですよってさ。なんかハアハア言っててキモかった。
「人間はラーメン食べるとハアハア言うんだよ。これからキムチ鍋つくらないといけないから、爪は食後に切る」
気づいたときに切ればいいのに。
「足の爪切った手で料理したくないよ」
永遠に忘れつづけるよ。
「人生って忙しいんだよ。普通の人はどのタイミングで足の爪を切るんだろう?」
なんだかんだで切っちゃうんだよ。なんだかんだでどうかなっちゃうのが人生だから。
「名言だね」
おじさんの小説に書いてあった。
「そんなこと書いたっけ。ねえ、どの小説? ていうか読んでくれたの!?」
ほら、そんなこと話してるとコバヤシ来ちゃうから。早くキムチ鍋作って。ニンニクもニラもたっぷり入れてくさくしてね。
私は若い読者のために、言われたとおりにニンニクとニラをたっぷり入れてくさいキムチ鍋をつくった。肉は前回の反省から1パック余計に買っておいた。しかしフェっちゃんの食欲はおいなりさんを5つも食べたのに少しも収まっておらず、肉は前回以上のハイペースで消費されていった。
「今日のキムチ鍋、ナンプラーを少し入れてみたんだけど、どうかな」
「ナンプラーってくさい?」
「独特な風味があるかな。そんなにくさいのが良いなら、ブルーチーズとかどう?」
「あるの?」
「ないけど」
「じゃあ言うなよ。脳」
「言葉遣いが汚いよ。コバヤシさんが来ちゃうよ」
「大丈夫、コバヤシの方がすごいから」
「コバヤシさんってしゃべるの?」
「わたしの前ではしゃべる。お嬢、ってわたしのこと呼ぶんだよ」
「ねえお嬢、肉ばっかりじゃなくて魚介も食べなよ。ネギもナスもしなしなでおいしいよ」
「なんでナス入れるの? キムチ鍋なのに」
「鍋なんだから何入れていいんだよ。ほら、シラタキもお麩も食べなよ。仙台麩だよ。味が染みてておいしいよ」
「もはやすき焼きじゃん。生卵もってこいよ、脳」
「言葉遣い、言葉遣い」
「日本語教師かよ、脳」
「お風呂の中で考えてたんだけど、フェっちゃん、うちの子にならないかい?」
「どこの子?」
「おじさんの子」
「いやあ」
「きっと楽しいよ」
「あ、コバヤシくるって」
まもなくインターホンが鳴って私はビビり、行くと、モニターにコバヤシの姿が映っていた。サングラスにもこもこマフラーで表情がわからない。怒っているようには見えないが、怒ってないようにも見えない。
「すみません、さっきのはただの冗談なんです。お仕事中にすみませんでした」
コバヤシは何も答えず、ドアの前でじっと立っていた。もこもこした墓標が草原にまっすぐ立っているように見えた。
「あの、好感度はまだ90なので、お引き取りいただけませんか」
墓標が少し揺れたように見えた。モニターのスピーカーからは風の音が聞こえたが、それはコバヤシの呼吸音と混じり合っていたかもしれない。何も反応がないので、わたしはモニターを切って、居間に戻った。
「コバヤシどうだった?」
「なんか動かないから放っておいた」
「しばらくしたら消えるよ」
「あの人、実在するのかな」
「実在って?」
「あ、もうお肉実在しないじゃん」
「だからもう1パック買おうって言ったのに」
「買ったよ。買ったのに実在がアレになっちゃった。フェっちゃん、好きなものはあればあるだけ食べちゃうからなあ」
「好感度上がった?」
「なんで? いまそのタイミングじゃないでしょ」
「私の方もとくに好感度上がってないかな」
「おじさんに対する好感度のこと?」
「うい」
「いま、いくつくらいなの?」
「おじさんには関係ないよ」
「80くらいいった?」
「言い方がやらしい」
「ええ??」
「好感度なんておじさんには関係ないの。おじさんにはぜんぶ小説なんでしょ? ぜんぶゲームなのはわたしなんだから」
「今度、自分の小説にも好感度システムを導入してみるよ」
「ところでさあ、さっきコバヤシ来る前へんなこと言わなかったっけ」
「忘れて」
「なんで」
「よく考えてみたら、人と一緒に暮らしたら小説書けなくなる」
「わたし一緒に暮らすなんて言ってないよ」
「フェっちゃん、もううちに2回もキムチ鍋食べに来たでしょ? そしたら3回目もあるよ。すると4回目がないということは考えにくいよね。そしたら帰納法により半永久的にうちにキムチ鍋を食べに来ることになるよ。つまりフェっちゃんはうちの子になるよ。つまり毎日、四六時中一緒に過ごすことになるよ。つまりそれでおじさんは一日中フェっちゃんとおしゃべりしてばかりで小説が書けなくなるよ」
「噛まずにぜんぶ言えたね。それで今日は小説書けた?」
「ノルマ分はなんとか」
「わたしも書いていい?」
「それはフェっちゃんの自由だよ」
「そういうことじゃなくて、わたしがおじさんの小説のアイデア出すの」
「でも小説ってひとりで書くものだから」
「ゲームだったらだいたい分業するものだよ。おじさんも小説をゲームっぽくしたいんでしょ? 好感度システムを入れたいとか言ってたし。だったら、わたしがシステムを担当するから、おじさんはストーリーを担当して」
「小説はストーリーだけじゃなくて文体も大事でね」
「文体なんてマジでクソ。そんなの気にするの小説家だけだよ。みんなストーリーが大好きなんだから。家に引きこもって文体いじってるだけで仕事になると思ってたの? それでお金もらえるなんてチョロすぎない? 人生がさ。明日からさっそく始めよう」
「人生を?」
「人生という名の分業をね」
「明日も来てくれるの? ねえ今回も泊まっていきなよ」
「だからなんで今回は歓迎モードなの?」
「いやあ」
「脳」
「脳。そう、脳がね」
「じゃ、わたしはお風呂入って寝るから。おじさんの小説は明日からゲームになります」
「お風呂覗かないよ」
「覗くなよ」
「パジャマはちゃんと持ってきた?」
「パンツ盗んだら殺すからね」
フカフカは水槽のなかですやすやと寝息を立てて眠っていた。私もそろそろ眠ろう。でも、フェっちゃんがお風呂から上がったとき、私が居間にいなかったら何と思うだろうか。何も思わないだろうか。それはそれでさびしいので、フェっちゃんが出てくるまでコタツであったまってがんばって起きていた。やがて居間に現れた湯上がりパジャマ姿のフェっちゃんは、「うわ、まだ起きてた」とだけ言い残して寝室に姿を消した。もう少しやりとりがあると期待していたので私はがっかりした。生活とはこんなものだろうか。そうだ、私はどこで寝ればいいんだろう? 今回もコタツで寝ればいいか。もう目を開けている力も残されてないし、電気を消すのもめんどくさい。私は少し投げやりになっていた。うつらうつらしていると、上からフェっちゃんの声がした。
「ねえ、わたしが布団で寝るの? ベッドで寝ていいの?」
「ベッドで寝ていいよ」
「じゃあおじさん布団で寝なよ。コタツで寝たら体バキバキになるよ」
「フェっちゃんと同じ部屋で寝るわけにはいかないよ。コバヤシに殺されるよ」
「ほら、手貸してあげるから」
フェっちゃんに手をつかまれて、私はコタツからずるずると引きずり出された。投げやりな大人の体はミイラのように軽くなり女の子の細腕でも引きずり出せる。外の寒さに涙がこぼれ、がんばって立ち上がると、フェっちゃんが私をおんぶしようと背中をかがめるので、その小さな背中に感動してそろそろと覆いかぶさってみた。
「重い! 重い!」
「ごめんなさい。降ります。調子に乗りました」
「降りなくていいよ。ちょっとやってみたい」
フェっちゃんがうんしょと言いぐっと膝を伸ばすと私の足は床から数センチだけ浮いた。
「すごいよフェっちゃん。浮いてるよ!」
「おじさん体重何キロ」
「65キロ。歩ける?」
「歩くのは無理。もう下ろすよ」
私を下ろすとフェっちゃんはなんか全体的にテンションが高くなってぴょんぴょん跳ねた。
「次はおじさんがわたしをおんぶして」
「いいよ」
フェっちゃんをおんぶすると、今度はその軽さに感動した。こんなに軽くてもこの人は人なのか。私はフェっちゃんをおんぶしたままコタツの電気を消し、居間の電気を消し、豆電球でぼんやり照らされた暗闇のなかをすり足で歩いて行った。首筋にフェっちゃんの息づかいが感じられて、いとおしく思った。この子は今もどこかに女の子用ピストルを隠して私を狙っている。そのことも含めいとおしく、この子と暮らすことと引き換えに小説を捨ててもいいと思った。しかし明日になったらこんな感動も消えているだろう。私は小説家だからその展開を予想できる。しかし消えるまでは、この感動を心の底から味わえる素朴な善人でありたい。
「おじさん、好感度100になった?」
「なった」
「えっちだね。フラグ立ったよ」
「フェっちゃんの好感度はどうなった?」
「1だよ」
「え、ひどい」
「2だよ」
「どっち?」
「3だよ」
「もしかして羊かぞえてない?」
「4だよ……」
部屋は羊たちであっというまにぎゅう詰めになった。完全に眠りに落ちたフェっちゃんをベッドに寝かせ、私は床に布団を敷いて寝た。
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