#03 それは母なりの新作ギャグだったのか。

 朝になって寝室を覗くとフェっちゃんの姿はなく、毛布も布団もはねのけられて、女の子ひとり分のしわがついたシーツはすっかり冷え切っていた。枕の上にメモがあった。


 またくるよ フカフカによろしくね

              フェリーツェ


 しかしその日フェっちゃんは来なかった。私は毎日のノルマの小説10枚を書き、フカフカにビスケットをあげ、通販サイトでお客さま用の布団一式と歯ブラシとバスタオルとフェイスタオルを注文した。着替えは本人に持ってきてもらおう。この部屋に誰かが泊まるなんて考えたこともなかった。そうそうスリッパを忘れていたとポチったころにはもう冬の陽は沈みかけ部屋はすっかり暗くなっていた。


 私は窓辺で水槽のそばに座り、今はフカフカと名付けられたわたしに話しかけた。わたしは何もしゃべらない。何を言われているかもわかっていない。しかしこんなときわたしと話すと私は落ち着く。寄る辺ない気持ちを言葉にし、わたしに手渡しすることで、私は私を取り戻す。中学生のころからずっとそうしてきた。あのころ私はまだわたしを飼っていなかった。野生だったわたしは庭木の手入れをする母と時々遭遇しては慌てて石の陰に身を隠した。普段わたしは土の中に潜って息をひそめていたが、天気のいい日は外に出て、庭石の上で亀のようにひなたぼっこすることもあったのだ。


「あんたがまた庭でひなたぼっこしてたよ」


 母の鉄板のギャグだ。実家にいるあいだは何度も何度も聞かされ私は文字通り閉口したものだ。いかがわしいものを見つけられた思春期の息子然として私はそそくさと庭に出てわたしを探した。やっと見つけると私はわたしのそばにしゃがみ込み、いろんなこと語りかけた。クラスの好きな女子の髪型が最近ダサすぎてますます好きになってるとか、夏目漱石の後期の小説を読むとおなかが痛くなるのなんでだろうとか、学校で生茶ばかり飲んでたらあだ名がナマチャになって最近はヤムチャになったとか、どうでもいいことばかりだったが、当時はそこに私の命がかかっていた。


 私が一人暮らしを始めるとき、わたしを持たせてくれたのは母だ。小学生のころクワガタを飼っていたプラスチックの水槽に母は庭の土を敷き詰め、餌のつもりなのかレタスの葉を数枚入れていた。出発の時間まで、母は水槽の中のわたしをぼんやりと見ていた。元気の無い母が心配で、「そいつ、家に残していってもいいよ」と声をかけた。すると「ちゃんと連れて行きなさい」と母はこちらを振り向かずに答えた。「あんたはこの家を出て行くんだから。あんたがもう一人残ってたらおかしいでしょう?」それは母なりの新作ギャグだったのか。母が亡くなった今ではもう確かめようもない。


 ガラスの水槽をばんばん叩く音がして思い出から覚めた。わたしがガラスの壁に向かって両腕を広げ、寄りかかるような姿勢で呼吸を荒くしていた。暗くてよく見えないが、ガラスはわたしのはき出す息でくもっているだろうな。寒くて先週から水槽にヒーターを入れたせいか、わたしはずいぶん元気になってしまった。ときどきジャンプして水槽から出ようとするが、手が届かず、ガラスの壁をずるずると滑り落ちる。そのたびにキュルキュルとガラスのすれる耳障りな音がする。元気すぎて怖い。


 水槽の中に右手の人差し指を差し出すと、わたしはすかさずその指に飛びつき両手両足でしがみついた。罪人ひとり分の蜘蛛の糸。下から足を引っ張る亡者どもはいない。私はゆっくりと手を引き上げわたしを水槽の外に出すと、わたしは大喜びでフローリングの床の上を駆け回った。「うるさいよ」と声をかけても効き目が無い。暗いのに壁や家具にぶつからないのは、コウモリのように超音波を出しているわけではなく、部屋の家具の配置をすべて正確に記憶しているからだ。その証拠に、私がこっそり座る位置を変えるとわたしはまっすぐ私の方に突っ込んできて、横腹のあたりにぶつかって派手に転んだ。わたしは抗議するみたいに床の上で地団駄踏んだ。下の階に響くので、そろそろ遊びの時間は終わりにしよう。私はじたばた暴れるわたしをつかみ、水槽の中に戻した。まだエネルギーがあり余っているわたしは、砂の上でぴょんぴょん跳ねてた。元気すぎて怖い。

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