#02 かわいそうに。脳が

 私は年寄りのようによろよろと立ち上がった。全身が震えていて、歯がカチカチ鳴っている。木々の間を抜けて街灯のある道に出るまでに何度かつまずいた。女の子は普通に歩いているようだった。女の子が「おなか空いた」と言うので、スーパーに寄って夕飯の食材を買うことにした。女の子が辛いのが平気なのを確かめて、キムチ鍋の材料を買い物籠に入れた。お菓子も何か買っていいよ、と言ったら、女の子はなぜか惣菜コーナーからおいなりさんを持ってきた。


「おじさん、お酒は飲まないの?」

「今日はいい」

「酔っ払ったら何するかわかんないもんね。おじさん、えっちだから。それにわたしに恋してるんだし」

「黙って! 人に聞かれる」

「聞かれてもわたしは困らないよ」


 そばを仕事終わりの男性が通り、こちらをちらりと見た。今のやりとりを聞かれていたみたいだが、とくに何も言われなかった。


「誰も気にしないよ。みんな忙しいから。わたしがおじさんをピストルで殺しても、いまの人は何も言わない。みんな自分の家族さえ幸せなら他人のことなんてどうでもいいんだよ」


 確かにそうかもしれない。私よりもこの女の子の方がずっと世間慣れしている。ピストルを持つと、世間のことがもっとよくわかるようになるのかもしれない。


「やっぱりお酒買いなよ」と女の子に言われて、私は500ミリリットル缶のビールを2本買い物籠に入れた。「遠慮しないでね。酔っても安心だよ。へんなことしたらわたしがちゃんと殺してあげるから」女の子はペットボトルの炭酸ジュースと紙パックの牛乳を入れて、「これで乾杯できるね」と言った。


 女の子と一緒にマンションに帰り、コートも脱がずに風呂にお湯を入れ始めた。


「あ、おじさん、何か飼ってるんだ」

「ああ、わたしを飼ってるんだよ」

「ワタシって生きものなの? 砂に潜ってる。虫? アリジゴクかな」

「わたしは生きものというよりも、もっと形而上学的な存在なんだ」

「わかるように言えないの?」

「わたしとは瞬間と永遠のことだ。不確実性の中心であり、生と死の絶え間ない闘争だ。小説の唯一正統なテーマであって、それ以外の小説は小説とはいえない。だが残念なことに現代の小説家はわたしを忘れてテロだの難民だの貧困だの差別だの日本語の危機だのを書くのが小説だと思い込んでる。それはいわゆるブンガクではあっても小説ではありえないのだ」

「すごいね。滑舌悪いのに一度もつっかえずに言えたね」

「ねえ、コタツ出すかい?」

「出して」女の子はもこもこの格好のままで言った。エアコンはつけたが部屋が暖まるまでにもう少し時間がかかりそうだった。私の文学論を女の子は何ひとつ聞いていなかった。


 風呂に入り、体の中が内蔵まで温められていくあいだ、私は何も考えていなかった。知らない女の子が家にいることも忘れ、温水のなかで体ひとつ浮いていた。風呂が好きだ。孤独のままでも暖かく、孤独のままで満たされているから。体ひとつが宇宙であり、その宇宙には私もいなければわたしもいない。一生そうしていられればいい。死後も風呂のなかでいい。しかしいつまでもそうしてはいられない。次第に思考が戻ってくる。宇宙は無限に分裂し、私はこの狭い国土の片隅でマンションの狭い一室にいる。湯気が天井からポタリと背中にツメてえな(♪ハハハン)。こんなちっぽけな世界でさえ私は神のように振る舞えず、ドリフのコントのように頭に金ダライを喰らってばかりだ。女の子ひとり自分の意のままにできず、むしろ意のままにされている。私は風呂を出た。


 居間で女の子がコタツに入っていた。もこもこはもうすっかり脱ぎ捨てて、薄手のベージュのセーターを着たやせっぽっちの女の子の姿をしていた。背が少し伸びたように見える。小学校高学年くらいでもおかしくないし、中学生だと言われても私は素直に信じるだろう。ショートカットで、やはり目がきれいだ。鬼ににらみつけられるような力強い視線を感じる。眉毛や鼻や口は子どもらしく線がぼけて淡い感じだが、目だけは化粧もしてないのに鋭い印象だった。


「コタツ、あったかい?」

「うん。でも、もう動けない」

「おいなりさん、先に食べてなよ」

「あ、そうか。おやつに買ったんだった」


 コタツの上にパックのおいなりさんを置くと、女の子はコタツから片手だけ出して手づかみで食べ始めた。


「箸とお皿もってくるよ」

「いらない。この食べ方がいちばんおいしいの」


 キッチンでお茶を入れて、女の子の元に運んでいったときには、三個入りのおいなりさんは全部無くなっていた。女の子はべたべたになった手をぺろぺろなめてた。私はティッシュの箱とお茶を女の子の前に置いた。女の子はティッシュで手を拭こうともせず、両手で湯飲みの温かさを感じながらお茶を飲んだ。


「キムチ鍋、ニンニクたくさん入れてね」


 女の子の声は眠そうでとろけそうだった。


「いいの? 明日、学校に行くんだろう? 口くさいねってお友だちに言われちゃうよ?」

「わたし非登校だから」

「不登校のこと?」

「ちがう、非登校。不登校だと、本当は登校しないといけないのにズルして家にいるみたいでしょ? 非登校は最初から登校しなくていいの。だからキムチ鍋めちゃくちゃくさくしていいよ。早く乾杯しよう。話はそれから」


 私は非登校児の女の子に言われた通り、たっぷりのニンニクとニラ、キムチを使ってキムチ鍋を作った。ニンニクは最初に半量をスライスしたのを炒め、仕上がる直前に残り半量をすりおろしたのを入れて混ぜた。土鍋のふたをして、余熱でニラに火を通しているあいだ、食器と鍋敷きをコタツの上に並べた。「わたしも手伝う」と女の子はやっとコタツから出てきて、冷蔵庫からジュースとビール缶を取り出して居間に持って行った。ちらっと見ると、下は半ズボンに黒タイツで、コートを着てないと最初の印象より脚が長く見えた。高校生と言われても信じるかもしれない。大学生? 社会人? どんどん掛け金を積み増ししていっても、私はすべてを信じるだろう。


 キムチ鍋を居間に持って行って、私もコタツに入った。缶ビールとペットボトルのオレンジジュースで乾杯して、私たちは鍋をつつき始めた。女の子が肉ばかり食べるので女の子の取り皿にニラや白菜をたくさん入れてあげるとやめろと怒られた。


「ねえ、おじさんさっき、えっちじゃなかった」

「さっきって、いつ?」

「わたしがキッチンに行ったとき。わたしのことじろじろ見てた」

「見てないよ」

「女の子の脚が好きなの?」


 私はむせた。深呼吸をしたが、喉に何か引っかかっているのかヒューヒューと音がした。女の子の前でヒューヒューと音を立てるのは道徳的にまずいかもしれない。意識するとさらにむせて、ハアハアというあえぎ声が自然と出た。女の子の前でハアハアは道徳的にほぼアウトだ。咳払いし、ふたたび深呼吸するとやはりヒューヒューした。ハアハア、ヒューヒュー、ハアハア、ヒューヒュー。私の孤独な自意識の闘争を、女の子は無表情な目で見つめていた。ドン引きしてるのか、冷笑してるのか、困惑してるのか、諦観してるのか、そのすべてなのか。


 君はいくつなんだい? 声がうまく出なかったので聞き返され、「君はいくつなんだい?」とくり返した。かぼそい声にヒューヒューが少し混じっていた。


「いくつに見える?」

「十歳かな」

「ふうん。わたしは十歳に見えるんだ」

「十五歳?」

「ふうん。わたしは十五歳なんだね」

「本当はいくつなの?」

「教えないよ。女性に年を聞くなんて失礼でしょう?」

「そういうのを気にするのは若くない人たちだよ」

「おじさんは、本当に若い女の子が好きなんだね。若くない女の人たちが嫌いなんでしょう?」

「そんなこと言ってないだろう。どんな年齢の女性とも良好な関係を築きたいと思ってるよ」

「えっちなおじさん。わたしが今もピストルを持っているのを忘れないでね」

「コタツの中に入れるなよ? 危ないから」

「爆発すると思ってるの? これだから素人は。ほら、お肉無くなってきたよ」


 私は女の子に言われるがまま鍋をキッチンに持って行って、スープを継ぎ足し、肉を追加して火にかけた。土鍋に蓋をして待ちながら、私は女の子に言われたことを考えていた。女の子の脚を見る私の視線はいやらしかったのだろうか? なぜ私は女の子の年齢を気にするのだろう。自分がもう長いこと同年代の女性を好きになったことがないのに気がついた。


「気にしないでいいよ」居間から女の子の声が聞こえた。「おじさんが何を考えるのかは、おじさんの自由だからね。わたしをえっちな目で見るのも、わたしに恋するのも」


 私は返事をせずに黙っていた。土鍋のふたの穴から蒸気が噴き出して、ふたを開けると、真っ赤なキムチ鍋が地獄の釜のように煮え立っていた。目をこらせば大量の豚バラ肉のあいだを逃げ惑う亡者と追いかける鬼たちの姿が垣間見える。しかしそれはただのアクだ。アクの語源は悪であるとどこかで聞いたことがあるような、ないような。アクだか悪だかよくわからないものを発見するたび私はお玉ですくっては流しに捨てた。


 女の子は相変わらず肉ばかり食べようとする。私の食べる分がどんどんさらわれていくので、私も肉を素早く奪おうとする。一度、一枚の肉をめぐり女の子と奪い合いになりそうになったので、私は女の子に譲った。女の子は戦利品の肉をぷらぷらかかげながら「そんなんだと戦場で生き残れないよ!」と言った。その通りだと私は思った。きっと戦場でも私はこんな風に振る舞う。死にたくないと思っているくせに、命の奪い合いになると、すっと自分から命を差し出してしまう。


「おじさんは、もっと自分に素直になった方がいいと思うよ。昨日はなんだったのかな」

「昨日って?」

「わたしに声かけてくれたでしょう? ありがとうね。本当はすごくうれしかったんだよ」


 女の子がとつぜんやさしい声を出したので、私は驚いてエノキダケを膝の上に落としてアチイと叫んだ。


「昨日のこと、よく覚えてないんだ」

「おじさん、病気なの? 脳の」

「ちがう。小説のせいだよ。小説を書いてると、小説と現実の境目がぼんやりしていくんだ。うまく書けているときはずっと夢を見ているような感じがする。でも、目が覚めたら何もかも忘れてしまっている。書いた小説を読み返しても、自分が書いたものとは思えないことがたまにある」

「かわいそうに。脳が」

「そうだよ。脳が」


 脳が脳がと言い合っているうちに、そろそろ具が無くなってきた。ご飯を入れて溶き卵をかけて蒸らしておじやにした。女の子はおいなりさんを3つも食べたせいか、それとも肉にしか興味がないのか、おじやはほとんど食べなかった。私はふたり分のおじやを食べて汗が出てきたので、コタツから脚を引き抜き横になった。女の子は水槽のところに行って、砂の上のわたしを観察していた。


「この子の名前は?」

「わたしだよ」

「ポチとかタマとか無いの?」

「無いよ。名前を呼ばないから」

「おじさん、わたしの名前も呼ばないよね」

「フェリーツェだっけ?」

「うん」

「外国生まれなの?」

「日本生まれの日本育ちで親も日本人」

「あだ名は? 友だちからはなんて呼ばれてるの?」

「だから友だちいないって。おじさんの名前は?」

「カフカ」私はペンネームの下の方を名乗った。

「じゃあこの子の名前はフカフカにしよう。フカフカ、フカフカ、あなたはフカフカだよ」


 女の子は水槽の中に手を差し入れて、フカフカの背中をなでようとした。上から降りてきた見知らぬ手に就寝間際のフカフカは驚き、ガラスの壁にぺたりと張り付いた。


「フカフカが逃げちゃう」

「人見知りなんだよ。餌をあげてみる?」

「うん!」


 私は餌の箱からビスケットを1枚取り出し、女の子にわたした。


「フカフカ、ごはんだよ」


 女の子はフカフカの目の前でビスケットをぶら下げて誘った。フカフカはガラスに張り付きながらもちらちらとビスケットを見たり、女の子の顔を見上げたりした。


「フカフカと目が合ったよ!」

「あまり目がよくないから、見えてるかどうかはわからないよ」

「かわいそう。今度メガネ買ってあげるからね。あ、近づいてきた」


 フカフカはガラスの壁から手を離し、ビスケットに向かい合って両腕を広げ、自分の体くらいあるビスケットの両端をぐっとつかむと、大きなカブを引き抜こうとするようにビスケットを思い切り引っ張った。


「すごい! ぐいぐい引っ張ってる!」


 女の子が興奮している。こんなことでピストルを持った女の子に喜んでもらえるとは思っていなかったので、私はわたしを飼っていて本当に良かったと思った。ませているようだが、この子には世界のいろんなことが初めてなのだ。私は長いことフカフカと暮らしつづけてお互いにほとんど空気のような存在になっていたが、女の子の目を通してみることでフカフカもなかなかかわいいじゃないかと新鮮な気持ちになることができた。


 フカフカはとうとう女の子からビスケットをもぎ取った。しかし大きなカブを引き抜く姿勢だったので、ビスケットを抱えたまま後ろに倒れ、砂の上を派手に転がって砂まみれになってしまった。舞い上がった砂に女の子は顔を背け、手でばたばた砂をあおいだ。砂煙が静まると、フカフカはジャケットについた砂を軽く払ってから、ビスケットの上辺のあたりにかじりついた。


「ねえ、ビスケット大きすぎない? 割ってあげた方がいいかな」

「そうやって食べるのが好きみたいだよ。それに結構食べるんだ。1日に3枚くらい食べる」

「食べても太らない体質なんだね。ねえ、結局、わたしのこと名前で呼んでくれないの?」

「さっきから考えてたんだけど、フェっちゃんってのはどうかな」

「なにそれ?」

「あだ名だよ。フェリーツェだと呼びにくいから」

「ふうん。よくわかんないけど、呼びたいように呼んでくれ」フェっちゃんは初めてあだ名で呼ばれて少し恥ずかしがっているみたいだ。共感性の低い私でもそれくらいわかる。

「フェっちゃん、そろそろ家まで送るよ」

「眠いから今日はここに泊まるよ」

「ダメだよ。ポリス沙汰になるし、布団もないし」

「フカフカもわたしに泊まってほしいって」

「言ってないよ」

「わたし眠いから、ここで眠るね。布団無かったらおじさんと一緒でもいいよ。おやすみ」


 フェっちゃんは水槽の前で気を失ったようにばたんとうつ伏せに倒れた。あの鋭い目が見えなくなると、本当にただの小さな子どもにしか見えない。そして、本当にただの小さな子どもなのだ。


「困るよ。ここで寝るんなら、寝ているあいだにえっちなことしちゃうよ」


 いいよー、と遠くから寝ぼけたような声が聞こえてきた。私はフェっちゃんの両脇に腕を差し込んで体を持ち上げ、そのまま寝室のベッドまでなんとか運び、そこに寝かせて毛布と布団をかけた。フェっちゃんはしばらくもごもご何か言っていたが、やがて本当に眠ってしまったみたいだった。私はキムチ鍋の後片付けをしてからコタツで寝た。深刻な未解決問題が山積みのような気がしたが、今日は今日のことのみ思い煩えとかなんとか、偉い人の名言が私の眠りを後押ししてくれた。

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