文体を捨てよ、死にゲーにしよう

残機弐号

#01 どうしてあんなつまらない小説を書いたのだろう。

 私はマンションでわたしを飼っている。ペット禁止のマンションだが、鳴き声は一度も聞いたことがないし物音を立てることもほとんどない。三十を過ぎてからは加齢臭が気になり出しこまめにシャワーをするようになった。耳の裏をよく洗うと臭いが消えるのだといつだったか床屋の人に教えてもらった。


 水槽の中でわたしはあまり動かない。寒くなると砂に潜って何日も出てこないこともある。そういうときは餌なしでも平気らしい。しばらく見ないと飼っていることを忘れてしまいそうになる。おしっこもうんちもするが、量は多くないから砂がきれいに吸収してくれる。とはいえ週に1回の掃除は必要だ。砂から掘り出し、外に出してやると、フローリングの床の上でわたしは眉間にしわを寄せる。ジャケットについた砂を軽く手で払い、壁に寄りかかったり、窓辺で体育座りをして空をぼんやり眺めたりする。コーヒーをあげると礼も言わずに受け取り、ずるずる音を立てて飲む。


 めずらしく電話が鳴った。わたしは臆病で、電話が鳴ると砂のなかに全身もぐってしまう。そうして何時間でももぐっていられる。どうやって息をしているのかは生物学的にもまだ解明されていないのだと昔どこかで読んだ。


「ねえ、今どこにいるの?」


 中学生か、小学生くらいの女の子の声だった。


「家だよ」

「ずっと待ってるんだよ? 早く来てよ」

「ああ、ごめんごめん。どこに行けばいいんだっけ?」

「もう! 公園のベンチって、おじさんが言ったんだよ?」

「そうだった。そう、ええと、あおぞら公園のベンチだったよね? わかった。今から行く。10分で行くよ」


 約束を忘れている気がずっとしていた。それなのに、手帳を見ても何も書いてない。書きそびれていたのだろうか。しかし本人と電話で話してもいったい何の約束だったのか思い出せない。どんな顔だったかも思い出せない。人ちがいかとも思ったが、人ちがいだという証拠も無い。


 砂にもぐったわたしに「ちょっと行ってくるからね」と声をかけた。砂の丸く盛り上がったあたりがぴくっと動いた。玄関の下駄箱の上にA4サイズの茶封筒が置いてあるのを見つけた。中を見ると、原稿用紙が10枚くらい入っている。私が一日に書けるのは10枚までで、それ以上書くと次の日書けなくなるし、それ以下だとだんだん書くのがおっくうになる。これはいつの分のノルマだろう? 封筒から出して読んでみると、お人形が主人公の童話のようだった。私は童話作家ではない。書いた記憶はないが、そもそも昨日自分が何を書いたのか、まったく思い出せない。経験上、よく書けているときほど何を書いたか思い出せない。しかし、ここまでまったく思い出せないというのは初めてだ。何かを書いたという記憶さえない。


 この封筒が玄関に置いてあるということは、持って行けという、昨日の私からのメッセージだろう。封筒を手に持ったまま、私は女の子との待ち合わせの公園まで走った。走るのは高校の体育のとき以来なので、あおぞら公園についたときは息があがり、背中が割れそうに痛かった。あおぞら公園は閑散としていた。夕方と夜のはざまの時間だから、子どもたちもママ友たちも浮浪者たちもいない。枯れ葉を踏むと鳴る音だけがさくさくと耳に響いた。もう冬だ。こんな寒いところに女の子を待たせるなんて私は気が利かない。私は自閉症気味なのだ。ひとつのことばかりに夢中になって、空気をうまく読み取ることができない。どんな空気なのかわからないので、疲れているのにやみくもにまた走り出した。走ればぜんぶチャラになるだろうという甘い考えを抱いて。広い公園だ。ベンチはいくつもあるから、しらみつぶしだ。枯れ葉がさくさく音を立てて私の足を引っ張る。


 木がまばらに生えているあたりのベンチに、コートと毛糸帽子にマフラーをぐるぐるに巻いてもこもこになった女の子が座っていた。目だけ出していて顔はわからないが、黒いストッキングの小さな脚で女の子だとわかる。足が地面につかずぶらぶらしていた。思った以上に小さな女の子だった。小学校3、4年生か、もしかしたら低学年かもしれない。枯れ葉の音で気づかれて目が合った。もう逃げられない。私の動線は明らかに女の子に向かっていたし、女の子は私の到着をじっと待っていた。私は女の子のベンチにとぼとぼ近づいていった。


「座っていいよ」


 感情の読み取れない声だ。それは女の子のせいではなく、鈍い私のせいかもしれない。私は言われたとおりに女の子の隣に座った。ちらっと目を合わせたが、目にも感情は読み取れなかった。


「すまなかったね」私はまず女の子に謝罪した。「遅くなって。それに、こんなところを待ち合わせ場所に選んだのもよくなかった」

「いいよ。わたし、もっこもこにしてきたから」

「あったかそうだね」

「あったかくない。でも、寒くもない」

「とにかく、待たせてごめん。考えごとをしていたんだ」

「何考えてたの?」

「それが、電話の音にびっくりして、ぜんぶ忘れちゃったんだよ」

「おじさん、そんな感じだよね」


 そんな感じとはどんな感じなのか。マフラーと帽子の奥の女の子の目を探り当て、見てみたが、笑っているのか怒っているのかよくわからない。大きくてきれいな目だ。目だけでも女の子だとわかる。いくつになっても女性は苦手だ。女性は正しい手順を踏んでくれないから。そのことを女性に訴えると、女性は目を大きく見開いて私を見る。女性の目に映る言外の意味は私にだってわかる。女性のまなざしに傷つくのに疲れて心を閉ざし、私はすべての女性をあきらめてしまった。そのあきらめが私を小説家にした。小説はすべて手順でできている。この行を書かなければ、次の行は書けない。誰もが手順を守ってくれる安全地帯。


「で、持ってきてくれたの?」

「ああ、ここにある」


 A4版の茶封筒を女の子にわたすと、期待外れのものがわたされたというように目が死んで、なかなか受け取ろうとせず、私は分厚いミトンをつけた女の子の手にねじこむように封筒を押しつけなければならなかった。女の子はわざとらしいため息をついてミトンを外し、義務的に茶封筒を開け、中から原稿用紙を取りだした。女の子は笑った。


「なんで作文の宿題が出てくるの?」

「作文じゃないよ。きちんと書くためには原稿用紙に書いた方がいい。万年筆の滑りがいいし、字数を数えやすいしね」

「ねえ、おじさんが読んで。字が汚くて読みにくい」

「おじさんは滑舌が悪いから」

「知ってるよ」


 そろそろ日が落ちかけていた。ベンチは木陰になっているのでなおさら暗い。目に近づけるとかろうじて読むことができたが、10枚もあるのだ。早く読み終えないともっと暗くなって、完全に読めなくなる。


《フェリーツェへ》


 フェリーツェ? この女の子は西洋人なのだろうか。目を見てみると、少し青みがかっているようにも見える。しかしもう少し見つめていると、灰色のようにも見えてきた。辺りが暗くて色なんて見えてない。私は自分が見たいものを見ているだけのようだ。私は先をつづけた。


《黙っていなくなってごめんなさい

 あなたが寝ているうちに列車が来てしまったものだから

 何度も起こしたのよ

 でもあなたはぐっすり眠ってしまっていて

 わたしのちいさな声や手では起こすことができなかった》


「寝ぼすけなのはあの子の方だよ」フェリーツェという名の女の子は口を挟んだ。「わたしがおはようって声をかけてもいつも寝てるし」


《フェリーツェと一緒にいてつまらなかったわけじゃないわ

 わたしはもっと広い世界が見たかったの

 ねえフェリーツェ

 この世界はあなたが思っているよりずっと広いのよ

 もっとたくさんお友だちをつくるべきよ》


「旅行なんかしなくても、本を読めばどこでも行けるのにね」

「君は本が好きなのかい?」

「ゲームの方が好きだな。友だちいなくて退屈だから」

「私も友だちはいないよ」

「そんな感じだもんね」

「そんな感じってどんな感じ?」

「それより先を読んでよ」


 しかしもうほとんど読めなくなっていた。日は完全に落ち、道から外れているので街灯の光も届かない。夜闇の中に知らない女の子とふたり、私は何をしているのだろう。


「もう帰るよ」

「もうちょっと」


 女の子が分厚いミトンで私の腕をつかみ引っ張った。しかし握力がないので簡単に腕を引き引き抜くことができた。


「まっ暗で字なんか読めないよ。それに君の親だって心配してると思う」

「おじさん、わたしといると捕まるって思ってるでしょ」

「そうだよ。今どき、子どもに話しかけただけで人生が終わる時代なんだから」

「大丈夫。おじさんがわたしに何かしようとしたら殺すから」


 女の子はコートのポケットから何かを取り出した。暗くてよく見えない。ポケットに何か入っているのには気づいていた。ストラップがついていたので防犯ブザーだと思っていた。女の子は取り出したものを私の方に向け、鋭い金属音を鳴らした。


「今、何をしたの?」

「これをしないと、弾が出てこないの」

「もしかしてピストルかい?」

「うちのパパ、ギャングなんだ。家にたくさんあるから、一番使いやすい女の子用のを持ってきたの。試しに何か撃ってみようか」


 女の子は女の子用ピストルを両手で握り、地面に向けて引き金を引いた。思ったより音は響かなかったが、反動で私たちの座っているベンチがひっくり返りそうになって、私はあわてて踏ん張りベンチを押さえた。女の子の体が一瞬浮いたように見えた。


「大丈夫?」

「慣れてるから。でも、暗くてなんだかよくわかんない」

「穴開いたんじゃないかな」

「わたしの足に?」

「足に当たったの?」

「わかんない。見えないから」


 私は心配になって、ベンチから降りて女の子の足を持ち上げ、よく調べてみた。


「穴、開いてた?」

「よく見えないけど、たぶん開いてない」

「よかった」


 女の子の足を下ろし、顔を上げると、女の子はピストルを私に向けていた。暗くて女の子の目はまったく見えず、闇の中に沈んでいた。私は何か言おうとしたが、声が出てこなかった。


「えっち。わたしの足いじって何してるの?」


 ピストルの撃鉄を起こしたのかどうか、金属音の記憶を探ったが、聞いたような気もするし、聞かなかった気もする。何か言わなくては。私は大人なのだから、子どもの前で沈黙してはいけない。しかし声が出てこない。


「何も言い訳しないってことは、やっぱりえっちだったんだ。ねえ、わたし、人を殺したことあるんだよ。セイトウボウエイだったけどね。おじさんがえっちなら、セイトウボウエイになるよね」

「おじさんは、えっちじゃない……」


 しゃっくりのようなかすれ声がやっと出た。流産された私の声を聞いて、女の子はけらけらと点滅するような笑い方をした。こんなどうでもいいことを言いたかったのではない。自分の思考が小学生くらいに戻っているのを、無力な大人の私はやさしく見守るしかなかった。


「ねえ、なんで昨日わたしに声かけたの?」

「それは君が泣いてたから」

「わたし泣いてなかったよ」

「さびしそうだったから」

「だから声かけたの? さびしそうな子がいたら誰にでも声かけるの?」

「そういうわけじゃない」

「わたしだったから声かけたの?」

「そうだと思う」

「わたしに興味あるってこと?」

「わからない」


 鋭い金属音がした。撃鉄は起こしてなかったらしい。しかし今は起こされている。


「君に興味があった」

「どうして?」

「うまく言えない。インスピレーションが湧いたんだ」

「インスピ?」

「私は小説家だから。ときどき何かを見て、インスピレーションが湧くことがある」

「つまり、わたしを見て、小説を書きたくなったってこと?」

「そうだと思う」

「なんで、そうだと思うって言うの? その言い方きらい」

「そうだ」

「じゃあ、さっきのは手紙じゃなくて、おじさんが書いた小説なの? 昨日、おじさん言ったよね。お人形は旅に出たんだよ、おじさんが明日、お人形からの手紙を持ってきてあげるよって。わたし、ぜんぜん信じてなかったけど、楽しみにしてたんだよ? だからここに来たんだよ? せっかくもこもこにしてきたのに、わたしをだましたんだ! あんなつまらない小説書いて!」


 女の子の声が少し涙ぐんでいるように聞こえ、わたしはこんな状況なのに、女の子を気の毒だと思った。どうしてあんなつまらない小説を書いたのだろう。命乞いよりも、この女の子を助けてあげたいという気持ちがして私も涙ぐんだ。


「あれは小説でもあり、手紙でもある」

「わかるように言って」

「その前に、ピストルを下ろしてくれないか。おじさんがえっちじゃないのはわかったろう?」

「まだわかんない。インスピを感じたんだったら、やっぱりえっちってことじゃないの」

「ちがうよ。インスピレーションっていうのは、恋みたいなものだよ」

「おじさんはわたしに恋してるの?」

「そうとも言えるし、そうとも言えない」

「わかるように言って」

「そうだよ! とにかくピストルを下ろしてくれ! こんな状況でうまく説明できないよ!」


 勇気をふりしぼった私の抗議で、女の子はやっとピストルを下ろしてくれた。私はベンチに戻って座ったが、地面でしばらく四つん這いになっていたせいで、体が凍りついていた。


「説明してよ」

「まず風呂に入りたい」

「殺すよ?」

「寒くて頭がガンガンする。うまく言葉が出てこない」

「わかった。じゃあ、おじさんの家に連れてって。お風呂入っていいから、それから話そうよ」

「小さな女の子を家に連れ込んだりしたら本当に捕まるよ」

「知らないよ。何かしたらわたしが殺すから。警察なんかいらない」

「わかった、わかった。じゃあ行こう」

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