第4話『悪魔と休暇とワーキングホリデー』

 

 デパートが閉店し、働いている総菜売り場の片付けが終わった。

 矢島歩未はロッカーへ着替えに向かった。

 ロッカー室に入ると、化粧品と香水の匂いが、そして女子店員たちの嬌声が歩未に押し寄せた。

 これから遊びへ、デートへ行く予定や計画、そしてどこかの誰かの恋の噂。


 そんな華やかな空気からはじかれながら、歩未は自分のロッカーへ向かい、総菜売り場の制服を脱いだ。

 これから、叔父の経営する食堂の手伝いに行く。叔母が体を壊して入院してしまった今、店に人手が足りないのだ。かといって、人を雇う余裕はない。恩のある相手なので、いくら疲れていても手伝いを断るわけにはいかない。


 それに、家に帰っても独りですることは無い。

 遊びに行く相手も、恋人もいなかった。

 ロッカーに取りつけている鏡には、疲れにぼやけた暗い女が映っている。

 売り場を動き回って乱れた髪の毛だけ、手櫛で整えた。


 ノーメイクなので、他の女性たちのように化粧を直す必要も無い。

 滑稽で、悲しい顔立ちだ。口に紅をつけても、不細工な顔に色が乗るだけで、むしろ滑稽さが際立つ。装えば装う程、道化になる顔立ちだった。化粧品売り場を歩いても、店員に声をかけられたことすらない。


 私服に着替え、ロッカーを閉めた時だった。


「すいません、ヤジマアユミさん」

「はい?」


 私服に着替え終わっている女性店員が立っていた。ロッカーが近いので顔と名前くらいは知っているが、それだけだった。文具品売り場の「印布」という変わった名前の派遣社員だった。


「ワタシの知り合いが、通用口で貴女を待っているのです。ちょっとついてきて」

「え……?」


 印布が突然、歩未の手を掴み歩き出した。


「あ、あの何ですか、あなたの知り合いが、どうして私に? それに、私はこれから……」

「いいからついてきて下さい。すぐに終わります」


 有無を言わせない強引さ。歩未は印布と通用口を出た。

 外に出た瞬間、大勢の女性たちが目の前に飛び込んだ。道の上でたむろしているのは、歩未より先に店を出たはずの女性たちばかりだった。

 とっくに帰っているはずなのに、何があるのか、あちこちで固まって一点を見つめている。何かを取り囲んでいるらしい。


「はいはい、ちょっと皆さん、道開けて」


 女性たちの群れをかき分けて、印布が歩未を連れて進む。

 若い男がいた。


「連れてきましたよ」


 女性たちは、この男を遠巻きに見つめていたらしい。

 仕立ての良いスーツを着た男。

 その姿を見た瞬間、歩未は女性たちどうしてここからいつまでも離れずに立っているのか、理由がよく分かった。


 男が微笑むと、背後から大勢の嬌声とため息が押し寄せた。

 何あの子、と尖った声も聞こえる。

 しかし信じられないことに、男の微笑は歩未に向けられていた。


「矢島歩未さん」


 男は歩未を見つめ、名前を呼んだ。


「……はい」


 知らない男だった。いや、女ならこの男性と一瞬すれ違っただけでも、一生忘れられなくなるに違いない。

 そんな人が、何故私みたいな女を待っているのかと、歩未は答えを求めて印布を見たが、印布はそっぽを向いて知らない顔をしている。


 男は日本人だが、どこか無国籍だった。

 手に持つ赤いバラの花束にすらどこか恐怖を感じながら、歩未は恐る恐る口にした。


「あの、なんの御用ですか?」

「やっと会えた」


 男のその足元に、赤い花びらが数枚落ちている。

 男は赤いバラの花束を差し出し、顔を引き締めると音楽的な声を出した。


「歩未、私と結婚してくれ」



 大久百貨店の社員食堂にて、西城輝美は隣の文具品売り場の派遣社員、印布の姿を初めて探し求めた。

 いつもなら、定食のトレイを手にして席に座った瞬間、隣に印布がうどんの出汁の匂いを漂わせて隣にいるのが定番だが、今回姿が見えない。


 しかし、文具売り場で彼女の行先を聞いているので、食堂に間違いはないはずだ。


「いた、みつけた」


 輝美は印布を食堂の隅で見つけた。

 柱の陰に隠れて、しかも壁に顔を向けて座っている。


「いんぷちゃあん」

「……」


 印布がちらりと顔を向けた。いつもは黙っていても近づいてくるのに、この思い切りイヤそうな顔は珍しい。


「印布、あのさ……」

「ぺっぺっぺっ、どうせテル姉ちゃんもあの男の事聞きたいんでしょ『昨夜に店の前にいたあの超絶お美しいお方はだれなの』ロッカー室から売り場に行くまでに7人に呼び止められ、売り場に着いたら、地下1階食料品売り場から12階のダイニングまで、各フロアの代表が1人ずつ私のところに代わる代わる来ましたよ。仕事にならないおかげで、商品整理が滞っています」


「そう、そして私は『筆記ラボ』代表よ」


 ――元々、百貨店は女性の園なので、噂話は百花繚乱である。特に恋愛話で、両思いから片恋まで、不倫からダブル不倫に2股3股、果ては部長と係長の同性愛と、ありとあらゆるパターンが流されている。

 その話題の全てを一掃し、一色に染めたのは昨夜未明、閉店後の通用口に現れた男と、その次に起きた衝撃的シーンだった。


 通用口から出た瞬間に、目に入ったあの男を輝美は思い出す。

 彼を見た瞬間、輝美の足が止まった。

 今までに見てきた「イケメン」「美男子」一般人から芸能人、俳優を全て否定した。手に提げていたバッグが落ちた。


 目から魂を掴まれて、ぼうっと突っ立って男を見つめている内に、同類のギャラリーが増えてきた。ついには押し合い圧し合いしながらも、絶世の美青年から目を離せずにいたら、印布があの子の手を引いて現れ、そして……


「短い恋だったわ。手のひらに落ちて消え失せる、雪の結晶のような、幻にも似た恋……でも、あの美しきお方の、せめてお名前くらいは知りたい」

「矢島さんに聞けばいいじゃん」


「彼女は、今日は非番でお休み。それに、あんた彼を知っているんでしょ。ロッカー室から矢島さんを連れて行くとき『ワタシの知り合い』あんたは確かにそう言ったという証言があるわ」


 しかし、何であんな青年が『地下1階総菜売り場のコロッケすみとも』の従業員、矢島歩未にプロポーズしたのか。

 それが女性たち、共通の謎だった。

 歩未が物凄い美女なら、皆も納得しただろう。


 だが彼女は『美しくない』だった。ありていに言えば「醜女」の部類に入る。

 今まで彼とは何らかの付き合いがあり、内面で心を射止めたのかと思えば、どうも初対面にも思える。


 矢島歩未は、中学生の時に両親を事故で失い、その後は親類の元に引き取られた。

 そして高校卒業後、親類の家を出て食品会社に就職し、その会社の一部門である「コロッケすみとも」に配属され、それが元でこの百貨店の派遣販売員としてやって来たらしい。


 名門の出でも、金持ちでもない。むしろ苦労人である。

 お総菜売り場の、今まで目立つことのなかった一店員のプロフィールが、昨日の出来事であっという間に拡散されたのも、女の園の恐ろしいところだった。


「凄まじいですよね、女の嫉妬。どうしてあのブスがとか、美男と妖怪だの、実は臓器が目的かとか、呪いにかけられているのだとか保険金目当てとしか考えられないとか、死んでしまえドブスとか美的感覚が狂い過ぎだとか、まあ黒さ全開闇噴出です」


「あんた、それが好物でエネルギーなんでしょ?」

「いえ、もう食べ過ぎて食傷、げっぷ」


 紙フキンで口元をぬぐう印布。

 成程、避けられていた原因はそれかと輝美は納得した。


「例えるなら、フレンチのコースに前菜オードブル無し、スープからソルベもすっ飛ばし、牛フィレに子羊に鴨に鳥にフォグラと、こってりソースのアントレの肉料理を立て続けに、しかも大皿料理で食べさせられていたようなもんです。うええ」


「それはきついわね」

「そしたらテル姉ちゃんが……うええええ、ローストポーク級の闇を……」

「何よその等級は!」


「……何なら、彼に会いますか?」

「え?」

「名前も何も、名刺交換すりゃ良いじゃないですか。会わせますよ、何なら明日どうです」


「……本当?」

「矢島歩未さんもご一緒ですがね」


 げんなりした顔で、印布は言った。


「2人で食事をしたいが、さすがに彼女は2人きりは気が進まないらしい。なのでクッション役に私に同席しろと、彼から連絡がありました」


 図々しい事は分かっていた。

 だが輝美は全ての羞恥心や礼儀をかなぐり捨てて言った。


「行きます! 行くわよ!」


 待ち合わせは、高級フレンチレストランだった。

 しかも、個室が予約されていた。

 高い天井に、押さえられたシャンデリアの照明、白いテーブルクロスがかけられたテーブルの前で、輝美は流石に己の立場を振り返る。

 クッション役のお供である。図々しい。


「支払いは心配しないで下さい。全額相手持ち」


 印布の言葉に、羞恥心が更に増した。

 だが、個室に入って来た二人、矢島歩未とあの時の青年を見た瞬間、羞恥心も反省も、全ては吹っ飛んだ。


 こんな美しい男を間近で見るにはこのお邪魔虫のお供、この方法しかなかったのだ。美とは人を狂わせて惑わせる、そして尊いものである。

 例えお邪魔虫以下の南京虫と蔑まれ、この食事会がバレて周囲の販売員仲間からフルボッコにされても後悔はしない。


「佐壇といいます。私の部下がお世話になっています」


 この笑顔を見ただけで、10年は幸せに浸れる気がする。

 差し出された佐壇の名刺には、印布の派遣元の会社名とその役職名があった。印布の所属している会社は、封筒やカードなど幅広く紙製品を扱う老舗だが、佐壇にはデザイナーの肩書もある。


「……あの、その若さで取締役、ですか?」

「若いかどうかは分かりませんよ。見た目より、意外に年は食っているかもしれません」


 そう言って、浮かべる微笑は、実に年齢不詳、かつ蠱惑的だった。

 オーダーメイドのスーツに趣味の良いネクタイ、その全てを美の従属物とする、こんな奇跡の固まりが上司なのか羨ましい、と思わず輝美は印布を横目で見やった。

 しかし、もっと羨ましいのは目の前にいる矢島歩未……と、言いたいが。


「仕方がないかもしれませんが、まだ2人きりに慣れていないもので……無理を言って済まなかったな、印布」

「仕方がないです。アナタの部下の運命です」

「そう言わないでくれ」


 ……たしかにこりゃ、キツイかな。

 歩未の表情は硬く、怯えすらある。確かに美形とはいえ、正体不明の男に突然プロポーズなんて、下手すれば相手は狂人である。


 おまけにこの超絶ハンサムは、観賞する分には無責任にうっとりしていれば良いが、彼女の立場で彼の隣に並ぶのは、美人と並ぶより苦痛だろう。

 美人と並ぶなら、美醜を比較される嘲笑だけで良い。


 しかしこの青年が隣にいたら、同性の嫉妬と憎悪、悪意が四方八方から石や槍のように飛んでくるに違いない。

 いや、すでに印布を食傷に追い込むほど、歩未は周囲から悪意を投げつけられている。

 しかし、佐壇が彼女を見る目は……


「プロポーズしたのに、まだ返事をくれない」


 歩未が顔を引きつらせた。


「そ、それは、お、おとついの話じゃないですか! そんないきなり……っ……第一、私は佐壇さんを良く知りません、いいえ、一昨日が初対面です」

「や、やっぱり初対面だったの?」


 輝美はナイフを取り落とした。


「あの、初対面でいきなりプロポーズ?」

「だけれど、私は歩未を知っている」


 佐壇が歩未を見た。


「ご両親を事故で亡くした後、どんな子供時代を叔父さんの家で過ごしたか、従妹たちの中で、どんな想いで今まで生きてきたか」

「……調べたの?」

「見ていただけだ。ずっとね」


 それではストーカーだと輝美は思ったが、佐壇の目は蛇の厭らしさや執着の粘りが全く見えない。

 むしろ好きな娘を物陰から見ていた少年の顔である。


「私は、佐壇さんを知りません」


 気弱な警戒心を滲ませて、歩未が言った。


「私の事を知っている、そう言われても、かえって戸惑うだけです」

「戸惑わせるのも無理はない。歩未を困らせているのも分かっているが、それなら私を知ってくれ」


 佐壇はまっすぐに歩未を見つめた。


「何度も言うが、これはお願いだ」


 佐壇の真摯さに、個室の空気がピンと張り詰める。


「今すぐ私を愛してくれとは言わない。だが君に愛してもらえる努力を、私は怠らない。だから頼む、歩未」


 絶句する歩未。

 いつも見かける姿は単調な色で地味な格好だが、今はリバティ柄のワンピースを着ていた。

 正直、似合うとは言い難いが、装いたい女心といじらしさはよく理解できる。


「歩未に嫌だと言われても、ここは譲れない」  

「そんな……」


 歩未の言葉を遮るように、着信の振動音が鳴り響く。佐壇のものだった。


「失礼、少し席を外す」


 佐壇が部屋を出ていった。緊張が解けて、歩未が腑抜けたように脱力した。

 そして再び面を上げた。頬が染まっていた。


「……何だか、私もよく分からない状況なのに、お2人にこんな場所までお付き合いさせて、本当に申し訳ありません」

「あ、いえいえ」


「正直、初めて会った瞬間に、あんなことを言われて戸惑っているというか、何でこの人が私の事を、とか、目の前で何が起きているのか、自分の事なのに理解さえ出来ないです」

「うん、羨ましいけど気持ちは分かる」


 強引な求愛は、その情熱は恋か狂気か、見極めるには難しく、甘い気持ちにさせるか警戒させるか両極端だ。

 特に彼のそれは急ぎ過ぎている。

 いくら条件が良い相手でも、それがかえって恐怖の元だ。

 歩未の口が、笑いに歪んだ。


「だって、私はブスだし」

「え」

「今まで、男性から声をかけられたことは無いです。自分でもちゃんとわきまえています」


 歩未の自嘲に、輝美の良心が疼く。

 実際、自分も同じことを考えていた。

 何故この人を? と意地悪なことすら考えていた。


「だって、あの人と並んでいたら、まるで合成写真だって自分でも思うもの。見た目も醜いし、そんなすごい才能だってないし、お金だってない。誰かに愛される条件そのものが、私には無いんです。今まで男の人とは全然縁が無くて、結婚とか恋愛なんか自分とは無関係と思っています。だから、あんな人に好きだとか、何を言われても……分からないです。あの人の言葉を、信じていいのかすら分からない。だって、今まで誰にもそんなこと言われたことがないから……どうしていいのか分からない」


 疑心暗鬼の目は、暗い。

 あのね、と輝美は言った。


「佐壇さん、あの日に通用口で矢島さんを待っている間、真剣な顔でバラの花で花びら占いしていたのを、私は見たの『くる、こない、くる……』って。それにあの人、矢島さんを好きなのは確かだわ。表情見ればわかる」


「だから、その理由が分からないんです。からかわれているのかと……」


 安心ください、と印布が口を挟んだ。


「佐壇は本気です。付け加えると、異常者でもないし美的感覚狂ってもないし、特殊な趣味もない、犯罪者でもないし、アナタのおカネとか狙う結婚詐欺でもありませんよ。経済力をスカウターで計ったら爆発します。暴君ですが対象は部下限定です」


 輝美は思わず、印布の頭を押さえつけた。


「いいじゃあないの、もう理由なんか!」

「理由なく、こんな私を好きになれるものですか? 貴女のように、綺麗な人なら……」


 歩未の苦痛が浮かぶ。

 生まれ持った容姿を人から嘲り蔑まれる、価値が無いと決めつけられる美醜の苦しみは尋常じゃない。己の責任ではないが、振り払うことが出来ない、べったりと貼りつく運命だ。


 それが卑屈と怯えの元になって、劣等感と疑心暗鬼という鬼まで生んだ。

 輝美はやり切れなくなった。女としての共感、だが一時とはいえ歩未を見下した自分は、加害者でもある。


 だから。


「とりあえず、行っとけ」

「……え?」


「自分に自信なんか、そうそう持てやしないわよ。でも真剣な相手を疑うのは、また別問題! あんな完璧な男が好きだっていうのよ! 理由はなんだっていい、どーでもいいわよ、あんな美形に惚れられるなんか、1万人の女の人生を全部合わせたってそうそう無い! チャンスを逃すな、嫌いになる理由は多々あるが、惚れることに理由はない! というか、そもそも愛に理由はない! 同じ女として命令よ、行け!」


 ――時が完全停止した。


 その停止状態を破壊したのは、個室のドアの前で爆発した笑い声だった。

 げ、と輝美は呻いた。

 いつ帰って来たのか、佐壇がいるのに全く気が付かなかった。


 佐壇の笑いは遠慮がなかった。

 顔から火を飛び越して顔が燃え上がっている輝美、目を丸くしている歩未に憮然としている印布の前で構うことなく笑い続け、息が切れる頃にようよう笑いを鎮めた。

 顔を輝美に向けた。


「貴女がここに来てくれて、本当に良かった。ありがとう」


 そして歩未を見つめる。


「君を好きな理由はたくさんある。一生かけても話し切れないと言えば、一生かけて聞いてくれるか?」


 冷たい印象すらある佐壇の美貌だが、過ぎる笑いが張り詰めた緊張を吹き飛ばし、表情に陽光が差していた。

 口元の笑いの名残は、石の花ですら生花に変えてしまいそうな優しさだった。

 歩未が、その笑顔に見惚れていた。

 

 歩未が佐壇の求愛を受け入れたのは、その数日後だった。


 その噂はデパートの女性店員たちの間を音速で駆け巡った。

 大久百貨店の従業員用女子トイレは、個室に駆け込んで失恋に泣き崩れたくても、個室は全て先客で埋まって順番待ちという事態が起きたが、販売員は強かった。


 このまま2人の結婚が決まれば売りつけようと、指輪に新居の家具、食器にリネンにブライダルと、売り場各階の店員たちは雄々しく営業活動の準備に立ち上がった。


「社販3割引きじゃなくて、3割増しにしてやる」と、どす黒い言葉を口にする者もいたが、その職業意識の高さには変わりない。


「皆さん、仕事の鬼というか、鬼女ですね」


 輝美は印布をぶん殴った。


 

 お気に入りのイタリア宝飾ブランドに、待ちに待った新作ジュエリーが入荷されたと、浅海真子の元に大久百貨店の外商から案内状が届いた。

 カラーの写真には、ピンクにブルーとキャンディのように愛らしい色の石がコロコロと、上品な茶目っ気を漂わせたアクセサリーが砂浜の上に無造作に重なっている。


 真子はいたくお気に召した。百貨店の外商に連絡を入れて、来訪を伝える。この店以外に回りたい場所もあって、真子は大学の講義を午後にさぼり、愛車で行くことにした。

 アルファロメオのスパイダーを駐車場に入れると、すでに担当の外商が背筋を伸ばして真子を待っていた。


「浅海様、わざわざお越し頂きまして有難うございます」


 江川という、エリート然とした若い外商だった。

 父と母の案内役は、ベテランで初老の男だが、若い娘には若い男が良いと思ってか、真子が1人の時は江川が付いてくる。


 しかし、真子にとってこういう類の男は、代議士をしている父の周辺や、見合い話の相手写真によくいるタイプで、特に新鮮味も有難みもない。


 歩いている間、江川は真子の父の精力的な政治活動や、母が先日購入した着物が作家物の、素晴らしい商品であることなど、礼儀正しくつまらない賛辞を話し続けたが、新作で頭が一杯の真子にとってはどうでも良い事だった。


「嬉しいわ。この日を待っていたのよ。だって今年はイタリアどころか、外国に行けなかったんだもの……パパがね、テロを必要以上に警戒しちゃって、何かあったら大変だって。お前を人質にされたらたまったもんじゃないって、夏休みは国内のリゾートで済まされちゃった」


「真子さんが人質にされたら、確かに日本は大騒ぎですよ」

「でもお、ホントはミラノの本店へ行きたかったのよ」


 百貨店のフロアの中で、すれ違った客が数人、真子と江川へ振り向いた。

 ファッション雑誌のモデル衣装を丸写しの真子と、それに付き従う江川の姿は、見るからに普通の客とは違う空気を放っている。


 店の中に足を踏み入れた……この瞬間が真子は好きだ。

 日常とは切り離された、華麗な空間。見るからに美しく、愛らしいアクセサリーがガラスケースの中で輝きながら真子を待っている、店は緊張感とわくわく感が詰まった華麗なおもちゃ箱だ。


 だが、先客がいた。真子は気分を害した。

 この場の雰囲気をぶち壊す女だった。

 金だけを握りしめて、不相応な贅沢を求めてこういう空間にずかずか入り込む、品の無い身の程知らずを真子はひどく嫌う。


 一流と呼ばれる場所に、場違いに紛れ込んでいる野蛮人を見ると、真子は自分のお気に入りの場所を汚された気になるのだ。

 だが、目の前にいる女は野蛮人ではなく、醜い女だった。

 自分と年齢は変わらないが、着ているものは明らかに安物だった。暗黙のドレスコードを踏みにじる行為だ。


 そんな女でも、やはり綺麗なものに惹かれるのかと憐れみと侮蔑を感じつつ、真子は女をさりげなく覗き込んだ。

 苛立ちつつも、何を選ぼうとしているのか興味があった。

 何と男連れだ。しかも出してもらっているのは指輪だ。


 真子に背中を向け、男が女に言った。


「これも良い。可愛らしいピンクサファイアだな」

「ですけど、あの……」

「手に取って見てごらん」


 女が恐る恐る指輪に手を伸ばす。

 試着を勧められて、ついに指を通した指輪に真子の胸が煮えくり返った。

 今日、目当てにしてきたシリーズだった。

 センターのキャンディカラーのカラーストーンを、愛らしいメレダイヤと小さなカラーストーンがカラフルに取り巻く新作である。


 女の指は、真子とはかけ離れた形だった。同じなのは機能性だけ。爪は短くマニキュアすらない、しなやかさも肌理もない労働者の指だ。

 そんなみっともない指に、この指輪をはめるなんて美しい物への、宝石への嫌がらせではないか。腹に据えかねて、真子は尖った声をかけた。


「似合わないわ、止めておいたら?」


 女が振り向いた。その吃驚した顔に、真子は冷笑を投げつけた。


「そんな指にそんな指輪をはめるなんて、やめてよ。私、ここの商品が好きなの。気分を壊さないで……」

「そうだな、確かに似合わない」


 女の連れの声が飛んだ。真子は男に目を向けた。

 真子への抗議なのか、同意なのか分からない。

 しかしここの客として、自分の方がランクは上だと真子は確信していた。相手は一見の客だった。


 こんな女をこんな場所に連れてくるなんて、どういう趣味をしているのか。軽蔑と好奇心でその顔を確かめた瞬間だった。真子は息をのんだ。

 男は戸惑う女の左手の甲を取り、くすり指を見つめて呟いた。


「そうだな、アユミには……」


 そして面を上げ、固まっている店員を呼んだ。


「あの奥のショーウィンドウの指輪を持ってきてくれ」


 男の軽い口調に、店員が目を剥いた。

 ばね仕掛けの人形のように背筋をピンと伸ばす。


「フローレスの3カラット、ブリリアンカットで無色透明の石の方だ」


 無造作な店員へのオーダー。

 何よりその美貌。

 どちらも信じられず、真子は男を凝視した。しかし、男は真子を一瞥もしない。


 指輪がやってきた。

 アユミと呼んでいる女の指に、男は運ばせた指輪を自らの手で女の指にはめる。

 そして煌めく水面のような、眩しい石の輝きに満足げに頷いた。


「やっぱりだ。アユミにはこちらの方が似合う」


 女の指に輝くダイヤモンドが、フローレスと呼ばれる最高級品であり、しかも重さが3カラットとなると、市場ではほとんど出回らない希少品であることくらい、真子は知っている。


 そしてその金額は、さっきのキャンディカラーの指輪の倍どころか、この店の、いや百貨店全体の中で最高金額であることも。


「サダンさん! 待ってください、こんな宝石、私なんかに……」

「アユミの指に添えるものだ。妥協はしたくない。いっそこれを婚約指輪にしてしまおう」


 真子は目を剝いた。アユミの抗議にサダンが笑う。


「今に限らず、私はいつもアユミに求婚しているじゃないか。この買い物もそうだ。いい加減慣れてくれ」


 声を出すことが出来ない真子の目で、サダンがさっさと黒いクレジットカードを出して店員に渡す。


 待って、と真子は衝動的に言いかけた。何でも良い、この男を引き留めたい。振り向かせ、自分を印象付けたい。

 そのために何を言えば良いのか、謝罪か感嘆か、口を開いたものの思い悩む真子の視線に、今更気が付いたとでもいうように、男は真子を見た。


 無機質な声で、男は言葉を放った。


「アドバイスを感謝する」


 2人が出て行った後、しばらく真子は動けなかったが、このままではあのサダンという男を見失うことに、ようやく思考が追い付いた。

 店を飛び出した。江川の声が聞こえたが、構う気はない。

 真子は2人の姿を探し求めた。


 この後どこへ? 買い物の続きがあるか、何を見るか、その後の2人の行動を頭の中で詮索し、買い物後の喫茶という可能性に思い当たった。

 時間は14時を過ぎていて、15時のピーク混雑までには間がある。

 休憩をするには良い頃合いに思えた。


 予感は当たった。

 2人は3階のオープンカフェにいた。

 近づく真子に、会話が聞こえてくる。


「いいじゃないか、指輪くらい」

「……どう言えばいいのか、言葉にならないくらいすごく嬉しいです。でも、何だか度が過ぎて……怖いです」

「そう言わず、受け取ってくれ」


 アユミが困った顔になった。

 きっと今まで男から花の1本すらもらったことが無いのだと、真子は決めつけた。

 そんな女にとって、フローレスのダイヤだなんてホームレスにベルサイユ宮を与えるようなものだ。


 見れば見るほど、サダンは美しい。

 真子の大学に兼業でモデルをしている男子生徒もいるが、比べ物にならない。

 そんな男が慈愛に満ちた目で見つめている先が、何故こんなブスなのか、疑問より憎悪が燃え上がる。


「会社を抜けてきたって仰ってましたけど、お仕事は本当に大丈夫なんですか?」

「大丈夫。その分仕事を早めに済ませて、部下にも少々分けてやった。それより、アユミの店の手伝いは、今日は何時からだ?」

「16時からです。ヒデヨちゃんと交代で入ります」


「今日みたいな休みだけではなくて、デパート勤めの後でも、食堂の手伝いをしているんだろう。働き者は良いけれど、身体を壊さないでくれ。何なら私がインプに……」

「ダメですよ。私の家の問題です」


 ふう、と優しいため息をつくサダンを、真子は目を食い込ませるように見つめた。

 あんな目で、女を見つめる男を真子は知らない。

 いつだって、男性に取り巻かれ、視線を浴びて生きてきた。

 賛嘆に慕情、恋に欲情、生々しいオスの視線なんて、もう慣れていた。だがあのような慈しみはもらった事が無い。


 一目惚れしてしまったと簡単に表せるものではなく、渇望だった。見た瞬間から炎が生まれ、心が渇いた。

 痛切に彼が欲しかった。

 あの美しい顔に見つめられたら、どれだけ幸せだろう。彼さえいれば、もう他の男など要らない。大学の取り巻きなんてゴミだ。


 今までに所有欲を刺激する男は幾人かいたが、それとは比べ物にならない。臓腑をえぐる感情だ。

 ……視線に気が付いてくれたのか、ようやくサダンが真子を見た。

 心臓がはねた。


 しかし、その歓喜を押し隠して真子は自分でも飛び切りの、魅力的な笑顔を作り、サダンの前へ歩む。


「先ほどは、ごめんなさい。失礼なことを言ったわ」


 アユミが真子を見て、怯えた顔になる。

 その気弱さが一層気に障り、憎たらしくなったが、真子は一切それを顔に出さず甘い声を出した。


「お詫びに、お茶をご馳走させて下さるかしら? ご一緒しても良い?」


 サダンに気圧されるが、それでも自分の美貌には自信がある。相手が男なら、例え女連れであっても自分の同席を断るはずがなかった。

 第一この女よりも自分は上等の女なのだ。

 この女と並べば自分の美しさが一層際立つだろう。

 

その姿をサダンに見せつけて、自分を選ばせる気だった。事実、これで何度も真子は女の勝利を収めてきた。

 返事は一言だった。


「断る」


 頭の中が凍り付いた。相手の言葉が信じられず、動けなくなった真子を一瞥さえせずにサダンは続けた。


「お詫びも要らない。遠慮してくれ」


 手足が冷たくなった。真子はそのまま立ち尽くす。

 やがてサダンが立ち上がり、アユミの手を取って店から出て行く。真子は白くなった視界の中で、ただそれを見つめていた。


 その時からだ。

 サダンという男が、真子の中で抜けない杭となって突き刺さったのは。

 


 まず真子は、サダンの身元を教えろと大久百貨店の外商、江川に詰め寄った。

 ベテランよりも、若い江川なら与しやすしと見たのだ。あんな買い物をする客なら、顧客カードがあってもおかしくはない。


 江川はとんでもないと首を横に振った。

 会社には守秘義務がある。顧客情報は、その際たるものだった。取り扱いは慎重を極める最重要事項である。どんな事情があろうと、漏洩すれば企業の信頼失墜につながり、違反者は懲戒解雇、問答無用のクビだ。


「じゃあ、パパに言いつけるわよ。江川さんは私にとんでもない無礼を働いた、江川なんかの顔を見たくないから、もう二度とこの店で買い物はしない。それでどう?」


 江川の顔から血の気が引いた。浅海真子の父親は大物代議士であり、店の上層部にも影響力を持つ実力者だった。そんな彼の愛娘の不興を買い、顧客を失ったとあればデパート外商として最上級の失態で、将来に大きな傷がつく。

 江川がかすれた声を押し出した。


「お客様の情報は、職務上教えられません」

「あっそ、なら……」

「ですが……同伴の女性なら、個人的に知っています」


 あらまあ、と真子は笑いかけてやった。

 女もサダンの事を知る太い手掛かりだった。江川も顧客情報を漏らすより、個人的な顔見知りの事を教えるなら、罪はまだまだ軽いと踏んだのだろう。


「地下一階の、お総菜売り場の店員です。直接話をしたことはありませんが、店でよく買い物に行きますから、知っています」


 地下1階には、江川の言ったとおりにアユミがいた。

 真子は興信所に 『矢島』と名札を付けた女店員の身の上調査を依頼した。父が良く使っているところで、信用はおけるし口も堅い。


『矢島歩未』彼女の生い立ちから現在の状況、生活。そして交友関係から紐が付き、サダンの名前はすぐ判明した。

 サダンの身元調査の依頼を考えたが、真子は止めた。

 歩未と違い、彼なら調査員の動きに気付きそうな予感がしたからだ。

 それ以上に、彼の事は自分で探りたい。


 他人のフィルターを通した姿ではなくて、この目で彼の真実を見たい。

 それでも『佐壇』という名前と住所を手に入れて、真子は彼の住処へ向かった。

 調査報告書に記載されているのは、一等地にある30階建ての高層マンションだった。


 不動産情報を調べると、幸いそのマンションには、25階に1室空きがあった。

 その物件を扱っている不動産屋を探し出し、営業に連れられて真子はマンションへ行く。


「ステキね」


 広いエントランスに入り、真子は周囲を見回した。

 昼間の陽光が、ガラス張りの壁を通してふんだんに差し込み、中庭の噴水が見えた。内装はモダンで、ソファは北欧のデザイナーによるものだった。


「セキュリティは当然ですが、間取りも眺望も申し分ありません。浅海様の大学やご実家にも近いですし……」


 営業のトークを頭の脇で聞きながら、ここで佐壇に会える可能性を真子は考える。同じマンションの住人ならば、いつかは会うチャンスがある。部屋さえ分かれば適当な理由をつけて、訪ねて行っても良い。


 何気なく、奥にあるエレベーターに目をやったその時、信じられない光景に真子は胸が飛び上がり、そのまま呼吸が止まった。

 ――エレベーターから、佐壇が出てきた。


 休日なのか、ラフな格好だ。

 赤い絨毯をエルメスのスニーカーで踏みしめて歩いてくる。

 しかし、エントランスに立つ真子と、不動産屋の営業にも目をくれず、そのまま通り過ぎて行く。真子は我を忘れた。

 今呼び止めないと、彼に永久に会えないとすら思った。


「待って!」


 佐壇の足が止まった。

 振り返って、真子を見る。そう簡単に手なずけられない冷たい顔に、かえって真子の闘志が燃え上がった。

 真子は自分を立て直す……これは女としての戦いだ。


 駆け引きだ。自分の事を印象付け、相手に忘れられない存在感を残すための駆け引き。佐壇は、見るからに人を従えさせる自信と傲慢に満ちている。

 真子も同様、人に屈したことは無い。特に彼には弱みを見せてはならない。

 真子の肌は高揚と緊張で、衣服の下で鳥肌が立つほどだった。


「お久しぶり。一度百貨店でお会いしたわ。良いマンションにお住まいね」


 この自分を忘れているはずはない、真子は自信たっぷりに、佐壇へ無言の圧力をかけた。

 佐壇はすぅっと目をスライドさせた。真子はそれを許さない。


「私、ここに住むの。よろしくね、ご近所さん……」


 佐壇は最後まで聞かず、ジャケットから携帯を取り出してプッシュした。

 相手はすぐ出た。


「私だ。インプ」


 次の言葉は、真子を奈落へ突き落す。


「虫が出たので、家を変える。引っ越しの手配にかかれ。私が歩未と会っている間に、全てを済ませろ。今夜にはここを引き払う」


 通話を切る。そのまま出て行こうとする佐壇を真子は追った。


「待ってよ! 何よ、これ見よがしなその態度!」


 離れてくれ、と佐壇は言った。


「もうすぐ歩未が来る。歩未に貴女を見せたくはない」

「なによそれ」ようやく真子は笑えた。自分の気持ちに、彼は気づいていたのだ。

「何を考えているの?」


 この必要以上の冷たさは間違いなく、彼もまた私を意識していると真子は舞い上がる。

 意識さえさせれば、こちらのものだ。


「再会したばかりよ。それでも私たちの間を、彼女に誤解されるって怖いのかしら?」

「虫を見たら不快だろう。歩未にそんなものを見せたくない」


 真子はその意味を理解するのに、ショックのあまり時間がかかった。


「貴女が一体何を考えているのか知ったことではないが、私は今、虫と会話をしている気分なんだ」

「……」


 真子は動けない。

 一瞬で全てが灰になった。今までの自信も何もかも。

 佐壇は、さっさと真子から離れた。人を傷つけた罪悪感も何もない、本当に存在を忘れて去っていく。


 冷たい背中が遠ざかる。床がぐにゃりと歪んだ。

 気が付くと真子の腰は崩れ落ち、床にべったりと座り込んでいた。

 営業の男が赤くなり、青くなりながら何か真子へ向かって話しかけているが、何も聞こえず、感じない。


 ああそうなのかと、冷え冷えとした頭の中で、真子は佐壇の今までの振る舞いに、ようやく納得した。

 佐壇にとって、真子は意識する存在ではなく人間ですらない、周辺を飛び回るコバエなのだ。


 それに気が付かないまま彼を追い求め、一瞬とはいえ馬鹿な思い込みに舞い上がった自分、そして佐壇がその姿をどんな軽蔑の目で見ていたか想像すると、真子は羞恥と屈辱で身体が燃え尽きそうだった。


 それでも佐壇が欲しい。

 狂おしいほどではなく、もう狂っていた。

 だが、どれだけ手を伸ばしても、執着しても自分のものにはならないだろう。自分をどう言い聞かせようと、暗い炎は消えそうにない。


 だが、今まで武器に振るってきた美貌も、家柄もあの男には通じない。歩未から彼を奪う手立てはない。

 それでも、彼が欲しい。

 だが、その想いは一方通行だった。


 佐壇にとって、虫が何を考えているのかどうでも良いのだ。虫けらの真子に、感情があることすら考えていないに違いない。

 真子は、もう一つの感情を見つけ出す。

 愛に似たもう一つの感情がある。


 それならば、間違いなく彼の心を奪えるだろう。

 同時、あの歩未への腹いせにもなる。

 真子は、興信所に調査した、歩未の日常についてのレポートを思い出す。

 生活パターンは決まっていた。


 デパートの地下に勤め、勤務が終われば、次は叔父の経営する小さな食堂で働く。佐壇との逢瀬は、そのせいもあって週に一回程度だ。

 真子はその時、光を見つけた。だがそれは闇でもあった。


 歩未から、佐壇との結婚が内定したと報告を受けたのは、あの2人が出会い、輝美がレストランで歩未に檄を飛ばして3ヶ月目の事だった。


「西城さんと、印布さんのおかげです」


 百貨店の社員食堂の片隅で、真っ赤な顔をした歩未は深々と輝美に頭を下げた。


「今、叔母の入院で叔父の食堂に人手が足らないこともあって、手伝いが必要です。そのせいで今は結婚どころではないのですけど、叔母が元気になって仕事に出られるようになったら、このお話を進めたいと思います」


「佐壇さんのご家族には会ったの?」

「はい、ご家族は外国にお住まいなので、スカイプですけど……私なんかに、喜んでくれて……」


 涙ぐむ歩未。

結婚の結婚の話が本格化したら、佐壇の家族は歩未に会いに日本に来るという。


「結婚相手が歩未さんだから、ご家族は喜んでいるんでしょ」


 輝美の本心だった。

 当初、佐壇と歩未の2人に対し、百貨店の女子店員たちの間では『釣り合いが全然取れていない』歩未への怨念と嫉妬が渦巻いていたが、2人が一緒の目撃情報、幸せそうな佐壇の姿が広まるにつれ、皆の見方は変化していった。


「彼氏をあれだけ幸せ顔にするのは凄い」

 歩未の価値を見直す動きが出て来たのだ。

 今では悪口は完全沈静化し、諦観混じる祝福に変化している。


「確かに、嫁にするにはすごく良い子だわ」


 歩未が売り場に戻った後、輝美は深くうなずいた。


「あんな人と付き合っていながら、ありがちな彼氏自慢とか恋人マウント、幸せ見せびらかしが全く無い。働き者で、しかも自分の結婚より世話になった叔父さんの事情を優先か」


 愛と幸せに包まれている威力か、以前より可愛く見える。


「……シアワセの陰に苦労あり」


 横から細い声が聞こえた。

 印布だった。


「佐壇は幸せミュージカルの真っ只中です。やっと歩未嬢が自分と結婚を決意したと、喜びで踊り狂っていますよ。『雨に唄えば』ジーン・ケリーのキチガイ版です」

「なんて言いぐさよ。名作に対して」


「その舞台裏でワタシは奴隷の踊りです。こないだの歩未嬢と佐壇の家族と顔見せに、スカイプとはいえ手続きや根回しがどれだけ厄介だったことか……そもそも、佐壇襲来……いえ来訪に、彼が住む家に家具に生活用品一切合切の手配や準備に走り回り、今だって雑事のあれこれ一切合切が押し寄せて来ます。仕事の山どころかヒマラヤ山脈です。仕事量は砂漠の砂です」


「それって、秘書の仕事じゃないの?」

「この案件につきましては、ワタシのアテンドなんです」


 よよよと印布は泣き崩れた。


「佐壇はそもそも、暴君と傲慢の典型じゃなくて、原型なんですよ。この間なんて『マンションに虫が出たから、今日中に引っ越す。1時間以内に手配しろ』ですよ。虫くらい潰せっての。それに限らず、わざわざ人を呼びつけてあれ持ってこいだのコーヒー淹れろだのまずいだの。優しさは歩未嬢限定です」

「傲慢な暴君……うん、彼なら似合うわ」


 しかし、その顔は絶対に歩未には向けられない気がするので、それでいい。


「歩未嬢が制止してくれなかったら、ワタシは佐壇の命令で、今頃彼女の代わりとして叔父上の食堂に下働きに出されていました。こないだブルーレイで『プラダを着た悪魔』を鑑賞していたのですが、メリル・ストリープにこき使われるアン・ハサウェイに、己の身を重ねて泣いちゃいましたよ」

「この場合、人魚と鯛焼きくらい違うわよ」


「ああ、結婚式となったら、手配がまた大変なんだろうな……教会式とか言い出したらどうしよう」

「そういえば、あんた悪魔だっけ」

「逆さ十字の教会って、あるのかな……あっぶたないでテル姉ちゃん!」


 ――歩未が交通事故に遭い、死亡したのはその10日後だった。

 いつものように、百貨店の総菜売り場の勤めを終えて、叔父の食堂の手伝いへ行く途中だったという。

 歩未は信号のない横断歩道を渡っていた。そこに直進するスポーツカーが彼女を跳ね飛ばした。即死だった。


 道は見通しが良く、運転者の完全な過失。

 スピードの出し過ぎと前方不注意だった。

 加害者は、20になったばかりの女子大生だった。


「嘘だ!」


 バックヤードで、輝美は印布に怒鳴った。


「そんなの認めないからね! いくらあんたでも、人間のカッコをしているなら、言っていい冗談と悪い冗談がある!」


 印布は黙っていた。

 初めて見る表情だった。

 ……思考がようやく事実を認めたのは歩未の葬式で、見たくもない歩未の遺影だった。


 葬式で初めて会った歩未の叔父一家の姿に、輝美は恥じた。

 歩未の両親が亡くなり、叔父夫婦に引き取られた身の上に、幸の薄い日々を勝手に想像していた。

 だが目に入ったのは、慟哭する歩未の家族以外の何物でもなかった。


 歩未の叔父は、目を真っ赤にして喪主を務めていた。

 叔母は自分のせいで歩未が事故にあったのだと、何度も歩未に謝り、従妹のヒデヨという女は放心していた。

 そして、職場の人々が、そして同級生が。


 叔父の食堂だけではなく、百貨店の客までいた。

 歩未を愛していたのは、佐壇だけではなかった。

 周囲にも間違いなく愛されていたのだ。

 自分も、その中の一人だったのだと改めて輝美は気が付いた。


 だが、それは悲しみを膨らませるだけだった。

 真っ赤に染まった顔で結婚の報告をしてくれた歩未を思い出し、むなしさと無慈悲に輝美は泣いた。


 弔問客たちの中に、佐壇の姿がある。

 歩未の叔父の前に佐壇は進み出た。

 口元が、虚ろな笑いの形に動いた。


「本当なら、貴方がたにご挨拶に伺うのは、もう少し先の予定でした」

「……あなたが……歩未の……?」


 叔父とその家族に向かい、佐壇は深々と一礼した。

 そして歩未の棺を覗き込んだ。小箱を取り出すと、蓋を開けて3カラットのダイヤがついた指輪を見つめ、棺の中にいれた。


 焼香する人々の中に、百貨店の社員は多かった。歩未の上司に同僚、輝美の知っている顔もあれば知らない顔もある。

 だが、輝美にとっては奇妙な弔問客がいた。外商の人間である。


 同じ店で働くとは言っても、階や売り場が違えばお互い顔を知る機会はない。

 特に地下食料品売り場と外商では、知り合う機会も接点すらない。場合によっては、入社から退職まで見知らぬ赤の他人だ。

 9階の文具品と外商も、例には漏れないが輝美は彼を知っていた。


 同期入社で数少ない男性であり、新入社員時代に合コンをした相手だった。


「江川君じゃないの」


 同期入社の中で、外商部員の彼は出世頭だ。

 どこで歩未と知り合いになったのだろうか。

 だが、彼の様子は違和感があった。

 周囲の弔問客の表情に比べて何かが違う。沈痛ではあるが、悲しみだけではない。追い詰められている、怯えている顔だ。


 焼香を終えて、江川が席を立つ。外へ出て行こうとする後ろ姿を、輝美は追っていた。


「えがわ……」


 呼び止められて、江川は振り向く。

 その瞬間に、彼の前に人影が滑り出た。江川は小さな悲鳴を上げた。


「宝石売り場で会ったな」


 江川の前に、佐壇が立っていた。


「同じ店で働いていても、歩未は君を知らなかった。友達ではないな」

「……」

「なぜ来た」


 江川が震えだす。

 口が何度も開閉し、言葉を出そうとしていたが、出て来たのは言葉でなくて嗚咽だった。

 身体を床に投げ出し、頭皮がすり切れるほど、地面にこすりつける。

 すみません、すみません、とうめき声がようやく聞き取れた。


「私の事を教えろとあの女に責められて、代わりに歩未の事を教えたのか」


 江川の泣き声が高くなった。

 それは自白だった。

 彼と歩未の間に何があったのか、起きたのか、輝美には分からない。

 ただ潰れたカエルのように地面にへばりつき、泣き声で謝罪を重ねる江川を見下ろした。


 分かった、と佐壇は言った。

 顔は虚無だった。

 怒りすらない空っぽの表情は、心を少しでも残していたら、発狂してしまう危うさがあった。


 背後から、喪服の端を引っ張られた。印布だった。

 印布は黙って首を振った。

 佐壇に声をかけずに、そのまま輝美を引っ張り外に出る。


「歩未嬢は、殺されたんですよ」


 真相という爆弾をいきなり手渡され、輝美は言葉を無くした。

 原因は、加害者の運転する車のスピード違反と前方不注意だと聞いていた。見通しの良い道で他に車もなく、アクセルを踏み込んでしまったのだと。

 そして目の前を横断する歩未に気が付くのが遅れたと、そう聞いていた。


 世間的に見れば、運転が未熟なドライバーが起こしたありふれた事故のはずだった。

 驚愕が喉に絡みつき、声をそのまま塞ぐ。

 印布は淡々と告げる。


「佐壇に全く相手にされなかった、その腹いせです」


 歩未を轢き殺した運転手は、若い女であったことを輝美は思い出した。

 そして、政治家の娘であることも。

 加害者本人は葬式に姿を見せず、来ていたのは代理の弁護士だった。


「何でよ、意味わかんない……そんな理由で人を殺せるの?」


 三角関係に陥っていたなら、2つに割かれた男の愛のもう片方を取り戻そうと、相手の女を手に掛ける事はあるだろう。

 だが、佐壇に元々相手にされていなかったのだ。

 最初から手に入るはずがない、それなのに腹いせだけで他人の人生を破壊し、その家族や友人までを不幸に突き落せるのか。


「殺せますよ」


 印布の言葉を、人間として輝美は否定する。


「だって、相手にされなくても、佐壇さんを好きなんでしょう。例え歩未さんが邪魔だとしても、憎くて殺したくても、それでも踏み越えられないのが、相手を悲しませたくない愛情じゃない」

「テル姉ちゃんには理解出来ませんよ。あなたは基本、そうやって人の幸せも願える人だから」


 印布は斎場の建物を見やった。


「佐壇は全く彼女を相手にしませんでした。アプローチしたら虫けら扱いですよ。でも、彼女は虫じゃなくて人間ですからね」


 印布は呟く。


「全然関心を払ってくれない佐壇相手に思いつめた挙句、あそこまで極端な手に出たんでしょう。あの加害者の対人感情は、愛情ではなくて執着なんですよ。もしくは所有欲か支配欲かな」

「所有欲も執着も何も、佐壇さんから歩未さんを奪って、人殺しになって、そいつになんのメリットがあるのよ」


「今に分かります」


 重い表情で、印布は言った。


 歩未が逝き、季節が変わった。

 地下1階の食料品売り場は、配置転換や異動で顔触れが変わった。歩未がいない売り場は、風景として定着した。


 あの江川が、外商から地方の他店へ移動したと噂を聞いた。

 エリートコースの梯子を自ら外すような道を希望し、周囲は驚き引き留めたが、本人が頑として聞かなかったという。


 歩未の事故は、示談で済まされた。

 加害者の浅海真子は、大物代議士の娘だった。愛娘のために、そして有権者と政治生命のために、代議士は辣腕弁護士を雇った。


 歩未の叔父一家は、札束の重量と凄まじい政治的圧力に襲われ、気力と怒りをぺちゃんこに潰され、力ずくで示談にされた。

 真子は過失運転致死罪で裁判を受けたが、遺族とは示談が成立し初犯であること、本人が深く反省していると考慮され、執行猶予がついた。


 それはほとんど無罪放免だ。

 完全犯罪の殺人だ。

 輝美は怒り狂ったが、すでに事件は処理済みのファイルの中に納められた。

 いくら輝美が憤慨しても、手の届かない場所にあった。


 それ以上に気になるのは、歩未を失った佐壇だった。

 しかも結果は、加害者に罰らしい罰も与えられなかったのだ。印布に様子を聞いてみたかったが、それは彼の無念と酷い傷に触れる、無遠慮な行為のような気がした。

 印布も佐壇の様子を輝美に話さなかった。


 歩未そのものが禁忌になった。彼女を忘れる事は出来ないが、思い出にするのも辛かった。

 長い時間が必要だ、そう思っていた矢先だった。

 佐壇が結婚式の招待状を持って、閉店後の通用口に現れたのは。


「……何ですかこれ」


 佐壇に渡された白い封筒に記された、佐壇の名と浅海真子の名前に輝美は指が震えた。

 目の奥に歩未がよぎる。

 葬儀の風景がよぎり、叔父一家の慟哭が押し寄せた。

 新婦の浅海真子の名前は、輝美にとって歩未を殺した人殺しであり、佐壇にとってはそれ以上の相手のはずだ。


 その二人の名前が新郎新婦として、真っ白い封筒に、幸せそうに並んでいる。

 気が狂ったのかと、本気で思った。歩未の仇と結婚するなんて、何を考えているのか、それとも考える事そのものを放棄したか。


 披露宴に来て欲しい、と佐壇が言った。


「印布と一緒に」


 通用口の周囲には、初めて佐壇を見た日と打って変わって人がいなかった。

 そしてあの日、バラの花束を片手に生真面目な顔で、歩未に結婚を申し込んだ男は、今は目鼻の位置だけが同じ別人になっていた。

 輝美は問うた。


「愛しているんですか?」


 歩未と真子のどちらのことだと、佐壇は聞き返さなかった。

 輝美も口に出せない名前だった。

 その代わり、佐壇を見た。

 無表情の下に隠しているものを探るために。


 何もない。

 佐壇の表情全体を覆っているのは冷たい氷の膜だった。

 憎しみすらもない空洞の目の、更にその奥を覗き込み、見つけたものに輝美の背中が一気に粟だつ。


「私のために、来て欲しい」


 佐壇を見つめた。今動かせるのは眼球だけだ。


「何か、見えたか?」


 薄く佐壇が笑う。

 その笑いも、あの日のレストランで見せた笑いではなかった。


「やめて」


 空気が冷たくなり、見えない針になって肌を刺す。

 唐突に輝美は、葬儀の日の印布の言葉を思い出した。


『今に分かります』


 浅海真子の目論見、歩未を殺したメリットがこの結婚だとすれば、どうしてその道がついたのか分からない。

 佐壇は浅野真子の策略に乗せられたのか。

 だが話は単純とは思えなかった。


「憎しみがあれば、まだ安心出来る。でも、佐壇さんにはそれすら見えないのが怖い。だから……止めて下さい」


 ほう、と佐壇が嘆いた。


「何が起きるか、その目で見えたのか。職業柄とはいえ、大した眼力だ」


 この人は、誰だ。輝美は冷たいもので縛られた。

 佐壇に違いない。

 だが、知っている相手ではない。

 本能そのものが怯えていた。目の前から逃げ出したいが、背後を見せるのが怖い。

 

 身体中が委縮して動けない。

 

「披露宴には来てくれ、約束したよ」


 佐壇が遠ざかる。

 完全に姿が見えなくなっても、まだ震えが止まらない。

 輝美は何とか自分自身をなだめようと、両の手で自分を抱きしめる。

 佐壇には感情が無かった。見えたのは冷酷、それだけだった。



 全身が映る鏡の中に、シルクのウェディングドレスを着た女がいる。

 美しい女だと真子は思った。

 愛する男の心を手に入れた勝利の幸福に、そして酷薄さが薄いベールとなって美を覆っている。


「まあ何て素敵な花嫁様。今までお世話してきた中で、最高のお美しさですわ」


 結婚式場の世話係が、ため息をつく。


「ご新郎様もとっても素敵……お2人が並んだら、まるで映画みたいな、いえそれ以上ですよ。本当にお羨ましい限りです」


 真子の母親が複雑な笑いを浮かべた。

 真子はその様子を鼻で笑い、再び鏡の中の自分に見惚れる。

 全て自分の目論見が上手くいった。その幸運にも震えんばかりだ。

 娘の過失運転致死に、父は計算通りに駆け回ってくれた。


 選挙前なのも幸いし、最高の弁護士と政治的圧力、多額の慰謝料で歩未の遺族を抑えつけてくれた。これで真子は事実上の無罪放免となった。

 真子は、婚約者を失った男を待った。

 やはり佐壇は、真子の元を訪れた。


 婚約者を殺し、のうのうと生きている真子の事を無視出来るはずがない。

 そこで真子は佐壇に結婚を持ち掛けたのだ。

 娘が、交通事故を起こした相手の元婚約者と結婚すると言った時、両親は怒り狂うより前に真子の精神状態を案じた。


 贖罪意識で狂ったと思われたのだろう。

 だが両親は思い直した。執行猶予とはいえ、前科が付いた娘は家の汚点だった。

 大学はとうに退学している。元々ほとぼりが冷めるまで外国にやってしまうつもりだったのだ。


 家から遠ざけるのなら、結婚も同じだ。

 流石に内情が内情だけに、派手な式は出来ない。

 かといって世間体もあるので、内輪だけで式を挙げることになった。

 それでも真子にとっては十分だった。


「新郎側の招待客は、結局2人だけですって」


 母親が尖った声で嘆いた。


「……周囲からなんて思われるか。事情が事情だし、無理もないと言えばそうだけど、お父さんもご不満でね」


 どうでも良かった。両親の小心を真子は無視した。


「花嫁様、新郎様がいらっしゃいましたよ」


 担当者の華やいだ声がした。まあステキとため息が聞こえた。

 鏡越しに佐壇が現れる。

 黒いタキシードだった。

 なんて黒が映える男だろうと真子は佐壇を見つめ、そして対となる自分の白いドレス姿にまた酔いしれる。


「2人きりにして」


 真子は母親と案内係に命令し、佐壇に声をかけた。


「こっちに来て」


 佐壇が来る。その顔を真子はうっとりと見上げ、囁いた。


「どう? 私が憎いでしょう?」


 これ見よがしにドレスをつまみ、見せつけた。

 婚約者を奪われた男へ向けて。

 部屋に差し込む日差しは禍々しいほど白く、そしてドレスの光沢を跳ね返す。


「そうだな。凄まじいほど憎い。炎で焼き尽くしてやりたいほどだ」

「それで良いのよ」


 そして真子は無言で佐壇へ語りかける。

 それでいいの。だって、私に関心を持ってくれたのだから。

 これで私は、貴方にとって虫ではなくなった。殺したいほど憎い憎悪の対象だ。


「これで私の人生は貴方のものよ。私の人生を縛って、好きな時に殺せる」


 真子は佐壇に微笑んで見せた。


 ――あなたの心を憎悪で縛り付けた。これ以上の感情を、もう他の女には抱けないでしょう。その目に入るのも、憎い私以外にない。死者への愛より、生者への憎悪の方が強いの。

 

 憎悪で結ばれた新郎新婦は、見つめ合う。

 時が流れた。


「お2人とも時間です。ご移動をお願いいたします」


 案内係に先導され、式場の扉の前で真子は佐壇に腕を絡ませた。

 扉が開く。目の前に高い天井とシャンデリア、飾り花で埋め尽くされた会場と招待客の、華やかな色彩が飛び込んだ。

 事情が事情なので派手な式は出来ないとは言われたが、それでも義理や父の仕事の関係上もあって、親類も合わせて100人は招待したという話だった。


 司会が叫んだ。


『新郎新婦の入場です』


 メンデルスゾーンの結婚行進曲が鳴り響く。

 真子の全てが絶頂に達した。

 招待客たちの感性があふれる中真子の心は舞い上がり、佐壇の腕を強く捕まえる。


 ……今のうちに、言っておく。


 歓声の中、佐壇のつぶやきが耳に入った。

 真子は佐壇の顔を見上げた。

 目と目が合った。


「私は君を憎んではいない」

「……え?」

「私が憎んでいるのは、彼女を救えなかった私自身だ」


 思わず腕が緩んだ。

 真子は佐壇の目を見る。

 人々の祝福が降り注ぐ中を、二人の足は歩み出した。

 佐壇の囁きは続く。


「君に関心はない。だが、腹いせに虫を殺すのは良くある話だろう。だけど殺せば君は地獄行きだ。君とは会いたくない」


 冷たい声が多幸感を凍結する。

 佐壇が突然立ち止まり、ぐるりと周囲を見回した。テーブルの一つに目を止めると、招待客2人に向けて微かな微笑を投げる。


「虫は巣ごと、群れごと焼き払うのが一番いい」


 感情の無い、冷たい声が真子を包む。

 獰猛な炎と熱がドレスに襲い掛かった。

 


 一瞬にして紅蓮の炎に包まれた花嫁の姿に、招待客はあっけにとられた。

 余興の一種だと思った。だが花嫁が暴れながら床を転がり、のたうつ姿と炎の熱、煙の臭気が意識を引っ叩いた。悲鳴が上がり、次々とテーブルから立ち上がる。


「火を消せ!」


 消火器を持ったサービスマンたちが駆け付けた。安全栓を引き抜き、燃える花嫁に向けて一斉にレバーを引く。

 消火の薬剤が吹きつけられるはずだった。


「わああああっ」


 それぞれが手にした消火器のホースから出たのは、薬剤ではなく炎だった。

 花嫁は更なる炎に包まれる。信じられない光景に悲鳴が上がる。

 炎が絨毯を這い、煙と熱が爆発するように拡散した。

 電気系統が火花を上げて、会場の隅から新たな炎が燃え上がり、壁から天上へと燃え上がる。


 招待客たちが頭を抱えながら、そして転倒した人間を踏みつけながら、我先に会場出口に殺到した。


「ドアが開かない!」


 恐怖に満ちた叫びが、更なるパニックを呼ぶ。

 係員たちの呼びかけに従う客はなく、炎に追われ、煙に巻き込まれながら次々と倒れていく。炎の熱気が逃げ惑う人々の眼球を焼き、呼吸を妨げて器官を焼いた。

 作動したスプリンクラーの水に、地獄の悲鳴が上がった。


 熱湯だった。熱湯が頭に、身体に降り注ぎ、水と炎の責めが新たに始まった。


「――テル姉ちゃん、大丈夫ですか」


 輝美はテーブルの下で放心していた。

 天板からすでにクロスは落ちて、下はむき出しになっている。

 潜り込んだテーブルの下から、逃げ惑う足や動かない体が見えた。

 悲鳴や泣き叫ぶ声が渦巻き、絨毯の上は炎が雑草のようにめらめらと生えている。


 あれは、何? 輝美は印布へ口を動かした。

 佐壇と真子が、二人で腕を組んで会場中央を歩く。

 そして招待客へ向けて2人は立ち止まった。その時佐壇と目が合った。

 次の瞬間、黒いタキシードの背中から、黒く巨大な2本の羽根が大きく広がった。


 同時に新婦のドレスが燃え上がった。

 馬鹿な、と輝美は驚愕した。あのドレスは天然のシルクだった。

 あのように燃え上がるはずがない。

 黒い羽根が大きく羽ばたき、ドレスの炎が渦巻いた。

 そして会場に広がったのだ。


「……佐壇さん……」


 目の前の地獄に、輝美はようやく佐壇の目的を理解した。

 自分たちのテーブル周りだけ燃えていない。

 しかも熱どころか煙すら来ない。呼吸も普通にできる。


「出ますよ」


 印布が言った。

 その日の夜、ホテル火災がニュースで大きく報道された。

 超一流ホテルの披露宴の最中に出火があり、招待客の多数が死亡、行方不明者も出て、新婦が重体だった。

 何故か、現場にいたホテルの従業員は全員無事だった。


 火事の検証が進むにつれ、数人の目撃情報や他のホテルの客、従業員たちに事情を聞くにつれて、おかしな点がいくつも浮かび上がった。

 会場となった『真珠の間』で招待客たちは会場から一歩も出ないまま、蒸し焼き状態での焼死、酸欠による死亡。


 だが会場の出入り口は閉め切られておらず、数か所の非常用出口からでも、避難は十分可能でいつでも逃げ出せた。

 そして、当時は真珠の間だけではなく、他の宴会場にも客は大勢いた。

 それにも関わらず、誰一人真珠の間の火災に気が付かなかった。


 隣のエメラルドの間にいた50人以上の客と従業員ですら、誰一人気が付いていなかった。

 ドアから漏れる煙や熱、それだけではなく、隣から悲鳴も上がっていたはずだ。

 スプリンクラーは正常に作動していた。

 しかし、故障していなかったにもかかわらず、火災報知器は作動していなかった。


 この火事で新婦側の両親である浅海代議士と妻、親類縁者は全て死亡した。


 仕事が終わり、輝美は通用口を出た。

 鞄の中には週刊誌が入っている。

 先日起きたホテル火災の事件は、黒い噂が漂っていた大物代議士の娘の結婚披露宴の最中で起きて、娘を除く一族全てが焼死したことから、怨念だの祟りだのと書き立てられていた。


 目の前に、佐壇が立っていた。


「やあ」


 何も言えず、輝美は口元を笑いの形に作った。


「色々とあったが、もう戻ることにした」

「……そう、ですか」


 1つだけ、どうしても聞きたいことがあった。


「歩未さんを、愛していたんですか?」


 式場でのあれは憎しみの復讐じゃない。

 冷酷な虐殺だ。

 浅海真子は生きている。

 だが火傷で焼け爛れ、四肢はマヒした。


 人間の姿を残しておらず、そして視覚と味覚を失った。

 彼女の今後は人の生ではない、生き地獄だ。


「君の思う通り、あれは復讐じゃない」


 やっぱり。


「そして、歩未を愛している。今でも、これからも」


 佐壇の目に涙が浮かび、零れ落ちた。


「だけど、また会えない。彼女はもう天国の住人だ。だが私は……もう分かっているだろう?」


 佐壇……サタンか。

 恐ろしい冷酷無比の魔王だ。それなのに人を愛し、美しい涙を流すのか。


「私と彼女は、それぞれ住む世界は違う。天国と地獄の行き来は出来ない。地獄の住人であるこの私が彼女に会えるのは、彼女が肉体を持って人として生きる、この世界でのみだった」


 あの式場を地獄に変えた恐ろしい悪魔だと分かっているのに、葬式の時に見たあの空っぽな顔を思い出し、彼の喪失を前にして胸が痛くなる。


「また、彼女が転生するのをお待ちになれば良いじゃないですか」


 突然、印布が隣にいた。


「今回はこうなったけど、彼女と何度か人として添い遂げたこともあるでしょ」

「え?」


 輝美は思わず聞いた。


「転生って……?」

「突然命を奪われたことも考慮して、きっと歩未嬢の次の転生サイクルは短いですよ。その時にまた休暇をお取りになって、生まれ変わった彼女を探し出して、会いに行けばいいじゃないですか」


 え? 休暇? また?


「そうだな」


 佐壇は淡い笑いを口元に浮かべ、面を上げた。


「歩未がいない今、ここにいる理由はない。元の世界に帰るとする。それからテルミ」

「は、はい」

「歩未を愛してくれた君たちや、彼女の家族に感謝する」


 滑らかな動作で輝美の手を取り、手の甲にキスをした。

 そして頭が瞬間沸騰した輝美と印布に笑顔を向ける。


「さようなら」


 佐壇の背中から、黒い翼が広がった。そしてふわりと浮き上がり、飛翔する。

 空へ向けて上がっていくにつれて、佐壇の姿の輪郭がぼやけた粒子となった。

 そしてそのまま風に乗り、粒子が胡散霧消する。

 輝美は口を開けたまま突っ立っていた。

 我に返ると、隣で印布が空へ向けて、バイバイと手を振っている。


「……印布」

「何です」

「休暇って……転生って」


「聞いた通りです。彼、今から523年前のイタリアの修道女に一目惚れして、それ以来彼女の魂がこの世に転生する度に休暇を取って、口説き落としに行くんですよ。今回は早めに切り上げになっちゃいましたけど」

「……」


 何だか頭がシュールなもので占領されたが、しかし輝美は思わず笑う。

 そうか、歩未さんは生まれ変わるのか。

 そしてまた、サタンは人間の姿になり、生まれ変わった彼女に会いに行く。

 何度もそうやって恋を繰り返してきた恋人たちなのだ。


 しかし、まだ疑問は続く。


「佐壇さんはサタンだけど、あんたの派遣元の会社の上司じゃないの? だって取締役でしょ? あの肩書はいったい何よ」

「何ってテル姉ちゃん。私だって『株式会社グリモワール』の営業販売部員という立派な肩書ついていますよ」


 印布がポケットから社員証を取り出して、目の前で振って見せる。

 輝美は天を見上げた。


「……印布」

「はい?」

「もしかして、あんたの仲間が他にもいるってことよね」

「やだなあ、テル姉ちゃん。この世界は貴方たちだけのものじゃないですよ。もしかして、戸籍やマイナンバーの登録とか、パスポートさえあれば人間であること間違いなしって思っています?」


「……」

「だって人間社会って、ネットだの科学は発達していますが、それ以外のシステムは抜け道多いもん。ちなみに私が今ここにいるのは、ワーキングホリデーです」

「……」


 輝美は、佐壇が飛び去った空をもう一度見上げた。

 丸い月が輝美を見下ろしている。

 その黄色い光を浴びていたら、子供の頃、信じていたものを思い出した。


「お月さまにはウサギがいる」

「お星さまには宇宙人がいる」とそう思っていたことを。

 ……しかしどうやら、世界は子供の空想以上に混沌としているらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

禍の詰合せ 洞見多琴果 @horamita-kotoka

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ