第17話
西暦20××年8月××日
見事に同じ病室に即日返り咲きという、謎の離れ業を先月かました俺は、入院したままの時を過ごしている。
身体の回復は順調で、実のところ、俺の判断ではもう日常生活に戻れるレベルだ。
けれども、俺の主治医が、「完治するまで病院で面倒を見る」として、母さんに話を付けてしまった。
治療費はタクシー会社が全面負担してくれるそうで、費用の心配はない。
ま、言ってはなんだが、「乗客の俺の身体能力が1%ノートで強化されていなければ、死んでた可能性まである大事故だった」のだから、会社の出費はマシなほうなのかもしれない。
あ、いや、実際にお金を払うのは保険会社なのかもしれないけど。
それらの事情はさておき、今が夏休みというのが実は最大の問題だったりする。
不思議なことに、男は誰も見舞いに来ない。
まぁ、学校内以外で一緒に遊ぶ男友達が居ないから、ある意味当然なのかもしれないけど。
もちろん、義務的に挨拶に来た大人の男性は別枠カウントだけどね。
問題の本質はそこじゃなく、雅が頻繁に顔を出すことなのだ。
期末試験の一件で借りがある気分の俺としては、彼女のことを無下にはできない。
そもそも、前の入院の案件でも初動で的確に対処したのは彼女なのである。
つまるところ、結構な恩が積み上がっている状態。
だからと言って、「どう対応していいモノなのか?」を悩んでしまうのも事実なわけで。
俺の彼女への好意が、綺麗さっぱりと完全に消えたわけでもないしね。
雅の好意が俺に向けられているのは間違いない。
その点は、もう確実過ぎて疑う余地はない。
それがたとえ、病んでる方向性だとしてもだ。
てか、最初から彼女が意地を張らなければ、ここまで拗れることはなかったように思うんだけどね。
こういうのは「後知恵」って言うんだろうけどさ。
「今日も来たのか」
俺は、今日も今日とて俺の居る病室に顔を出した雅に声を掛けた。
言葉はきつめかもしれんけど、黙ったままのほうが感じ悪いからね。
「うん。一郎君の夏休みの宿題があと少しで終わりそうだし。でも、休んでいた分の提出課題多すぎだよね。そっちはまだたくさん残ってるでしょう?」
「それはそうだけど。でも綾瀬さんが」
「その呼び方やめて! 『雅』って呼んでよ」
「ああ、ごめん。たださ、雅の両親は『俺を含めて、俺の家の人間に係わることを良しとしないんじゃないか?』と思ってさ」
俺の言葉の何が不味かったのか?
僅かな沈黙の時間が過ぎた後、雅の目から一筋の涙がこぼれた。
その状態で、彼女はポツリと言った。
「そんな心配は必要ないよ。だって私、今家に独りだもん」
「はぁ? どういうことだよ?」
雅の言葉にも、泣き顔にも、俺は理解が追いつかない。
だからこそ直接的に尋ねるしかなかった。
自分で考えて答えが導き出せなくとも、本人が答えてくれればそれで良しなのだ。
「お父さんは元々経営者だったから、再就職先で他人の下で働くのが上手く行ってなかったみたい。麗華の一件で大金を手にしたから、居なくなっちゃったよ。連絡もつかない。パスポートも家から消えてたから、海外へでも行ったのかもね。離婚届が記入済みで家に置いてあったし」
「それは。また、なんとも言い辛いな。でも母親が居るだろ?」
想定外の重い話に衝撃を受ける。
なんとか思い付きの言葉を絞り出したものの、俺が内心で考えていたのは雅の父親のことだった。
環境の変化が雅の父親を変えたのか?
それとも、元々そうだったのが環境が変わったことで表面化しただけなのか?
過去に会って話をしたこともあるが、そうおかしなところがあるようには思えなかった。
少なくとも、麗華関連のゴタゴタが発生する前までは。
あの事案の発生を境に、俺の持っていた雅の両親に対する印象がかなり変わったのは事実だ。
綾瀬家で麗華を虐待していたのは母親だけど、それを知っていて止めなかった父親もおかしいのである。
雅が自分の母親による麗華への虐待を知らなかったのには驚いたが。
まぁ、長期間続いた事柄じゃないから、母親が上手く隠せば、そういうこともあり得るのだろうけど。
そんなことをつらつらと考えている間にも、雅の言葉は俺の耳に届き続ける。
「お母さんね。お父さんとの離婚手続きをしてから、パート先で仲良くなった男の人の家に行っちゃったよ。そっちは一応電話が繋がるけど、男の人とお付き合いするのに、私のことは邪魔みたい」
「え。じゃあ家のこととかは?」
「お金だけはあるから。家政婦さんが週に三回来る。私だけでも家事くらいできるんだけどね。お母さんにも体裁ってのがあるみたいよ?」
雅は母親に対して思うところがあるのだろうね。
発言にそれがにじみ出ている気がするよ。
「そんなことになっていたのか。なんかごめん」
綾瀬家の父親も母親も、最低に成り下がっているようだ。
一度は札束ビンタで雅の窮地を救い、二度目のビンタで麗華を救ったつもりだったが、今の綾瀬家の崩壊は俺のせいなのだろうか?
いや、そんなことはないな。
俺が手出しをしなければ、雅は即、住み込みの奴隷状態と化し、ゆくゆくは三十過ぎの子供部屋おじさんと結婚させられていたはず。
残された雅の親は借金なしで再スタートしても、彼女の話からすると当人たちのやらかしは、おそらく現状とそう変わらずに起こるだろう。
うん。俺は悪くないな!
雅にしろ、麗華にしろ、俺が手出ししなければ、たぶんだが今より悲惨な状況になっていた可能性は極めて高い。
「ううん。一郎君が悪いんじゃないよ。私が失敗しちゃったって今ならわかる。なんで先に気づけなかったんだろう。一郎君はちゃんと私に教えてくれてたのにね。『大金は人の悪意を呼び寄せる』って。麗華にも悪いことしちゃった。私、本当にダメな姉だよね。あ、もう私はあの子の姉って言ったらいけないんだった」
雅の失敗はその通りなんだが、もし、「俺の立ち回りが完璧だったか?」と問われたならば、おそらくそれも違う。
たぶん、もっと良いやり方があったに違いない。
「一郎君、前に私に言ってくれたよね。『綾瀬家の生活の立て直しが済んだあと、もしも雅に俺への気持ちがまだ残っていたなら、もう一度俺に告ってくれないか?』って。あの時の言葉はまだ有効なのかな?」
当時と現在では、状況が変わり過ぎた。
俺の雅への気持ちも、まだ好きではあるが変化はしている。
だがしかし。
縋るような眼の雅を、今の雅を、ここで突き放せるほど俺は人間辞めてない。
だから、誰がなんと言おうとも、俺がこの状況で言うセリフは決まっているのだ。
「もちろん、有効だよ」
「立て直しどころか、綾瀬家はバラバラになっちゃったけど、済んだよ。だから言うね。私は、綾籐一郎君が好きです。なのでもう一度、私とお付き合いしてくれませんか?」
真剣な面持ちの雅。
緊張からか、涙は引いていて、手先や足が心なしか少し震えているように見える。
俺としては、雅自体に問題はない。
でも、麗華が俺の義妹になった過程のアレコレは消えない。
その時に激しくやり合った雅の親と良好な関係が、将来的には姻族も含めた良好な関係が、はたして築けるのか?
その点が大問題であったのだ。
けれども、雅に対する親権や監護権を離婚後に取得していると思われる実母が、それを実質放棄している今の状況を聞く限りでは、向こうから係わって来ることはなさ気であり、「問題点はクリアされた」と言って良いだろう。
それでも、俺の母さんは良い顔はしないかもしれない。
いや、まず間違いなく反対するね。
しかし、そこは俺が説得するべき案件。
もっとも、母さんも以前は雅を実の娘扱いしていたくらいなので、状況を知ればすんなり受け入れてくれる可能性も十分にある。
なので、とりあえずここは雅の気持ちをほぐしておくのが良い。
どう言って見ても、雅本人は俺にとって優良物件であることに変わりはないのだ。
「お付き合いするだけで良いの? そこは『婚約者にして!』じゃないの?」
「バカ! わかってるくせに! 言い直す。私を一郎君の婚約者にして!」
うん。やっぱり雅は笑っている顔が素敵だと思うよ。
「(俺の嫁取り計画は大復活じゃ~)」
雅が帰ったのちに、心の中だけで俺は叫んだ。
もう「俺の部屋」と言っても過言ではない気がするほどに馴染んだ病室は、それでも俺の聖域ではないが故に、大声で叫ぶことは許されない。
いや、叫ぶこと自体は可能だが、いろいろな事情で実質的には不可能であるのだ。
だが、そんな日々ももうじき終わる。
俺だけの聖域へ帰還した暁には、腹の底から叫ばせて貰おう。
そう決めた。
おそらく、俺の母さんや麗華も、そろそろ聞こえない振りをしたくなっているに違いない。
長らく家を空けて、待たせてしまって悪かったね。
とある一日。
入院したままであり、宝くじを購入することが叶わない俺は、夏のジャンボなのを七月から毎日母さんと麗華の二人に、連番で三枚ずつ買って貰っている。
1%ノートへの書き込みは完璧ではないが、それでも当たる確率はあるのだ。
その結果が出た日の翌日、俺が退院するための身支度をしているところへ、母さんが興奮気味な様子で麗華を連れてやって来た。
その様子だけで、どちらか、あるいは両方が当選したのだと察することができる。
海外には、日本の宝くじなど目じゃない、超高額当選金が支払われるくじが存在している。
近い将来、それの購入目的で海外旅行とかも良いのかもしれない。
住み慣れた病室を去る日、俺はそんなことを考えていたのだった。
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