あすのうみに彩を

rionette

あすのうみに彩を


 チクリ、と。


 胸が痛むことがある。

 それはきっと、いつかの初恋で。

 そして、失恋の痛みだ。


 そんな時は海を眺めたくなる。


 夕焼けに沈む寂れた造船所にひとり。

 放置されたビールケースに腰かけて。

 凪の海をぼんやりと見つめる。


 記憶がひとつひとつ。

 浮き上がっては、水面にほどけて消える。


 波の音だけが、世界を支配している。

 紅く煌めく海が、少しずつ黒く染まっていく。


 ドボン。


 それは、この世界にとって明らかな異物で。

 この世界にとって明らかな異音で。


 振り返った先には、真新しいローファーがひとつだけ転がっていた。

 海面には波紋が広がり、白い泡がぽつぽつと浮かんでいる。


「まさかっ!?」


 気が付けば海へ飛び込んでいた。

 幸い泳ぎには自信があった。


 四月の冷たい海水は容赦なく体温を奪う。日が落ちたせいで視界も悪い。

 それでも何故か、恐怖はなかった。

 身体は放たれた矢のように夜の海を貫いていく。


 そして、ついに。

 私の手は沈み往く誰かに届いた。

 それを抱え、必死に海面を目指す。


「……っ!!!!」


 月が出ていた。

 夕焼けは過ぎ去り、夜が訪れていた。

 身体中が酸素を欲して、荒い呼吸音が鼓膜を揺らす。


「ねぇ」


 その音はすっと耳に滑り込んできた。


「ねぇ」


 視線を空から目の前に戻す。

 至近距離に、琥珀色の月が二つ浮かんでいた。


「ねぇ」


 それが月でもなんでもなく、誰かの瞳だと気づいた。

 慌てて距離を取って視線を逸らす。

 心臓が嫌に跳ねていた。


「あなた、大丈夫? 怪我とかしてない? 気分が悪いようだったら救急車を――」


「――ねぇ」


 私の言葉を遮るように、それは差し込まれた。

 月明かりが二人を照らす。

 海水に濡れて張り付く黒い髪の隙間から、まっすぐと私を見つめていた。




「泣いてるの」




 その声で私は頬を伝う何かに気が付いた。






 *****






 朝の教室は少し騒がしかった。

 入学から一月が経過した頃。

 幾つかのグループが形成され落ち着いていたはずの教室が、何故か浮ついていた。


 そんな空気を感じながら、初めての席替えで手にした窓際の最後列へ歩く。

 席へ着く前に、ふと見慣れないものが目についた。それは昨日までなかったはずの机。

 ぽつんと一つだけはみ出していたはずの机の隣に空っぽの机が並べられていた。

 疑問符を浮かべながらも授業に備えて鞄から筆記用具や教科書を机へ移し替える。


「おはよう!」


 そう声をかけてきたのは前の席に座る幼馴染兼親友。長らく想っていた相手とついに結ばれた、少しだけ羨ましく感じる少女だった。


「おはよう、これ何か知ってる?」


 私は主不在の机を指さした。


「あぁ、それね。転校生が来るらしいよ」


「こんな時期に?」


「ホント、微妙な時期だよねー。この学校、地元では進学校で通ってるけど、そこまでレベルが高くはないし」


「親の急な転勤とか、かな?」


「そうかもね」


 二人で頭を悩ませるも答えは出ない。

 それ以上発展しない話題は早々に打ち切られ、彼女は恋愛相談という名目で惚気始める。それを七割程度聞き流しながら今日〆切の課題を確認する。


 ペラペラとプリントを捲っているうちに本鈴が鳴り、ようやく見慣れてきた担任が教室に姿を見せた。

 日直の号令に合わせて挨拶し、担任は連絡事項を淡々と語る。


「最後に、今日からこのクラスの一員となる生徒の紹介をします」


 凪いでいた教室が瞬時に時化へと変わった。

 口々に質問を投げる生徒に呆れ顔の担任が注目するよう手を鳴らす。


「はい、早めにホームルームを切り上げるから、質問その他は一時間目の前にお願いします」


 入ってきて、と担任の声に合わせてガラガラと戸が開く。

 そこから姿をみせた人物に、私は思わず声を上げそうになった。


「はい、自己紹介をして下さい」


 彼はぼーっと教室を見渡して、最後に窓際の私と視線があった。


「もしかして緊張していますか?」


 担任の言葉に彼は首を横に振った。そして、息を吸って。


「新橋夜」


 と一言だけ放った後、また視線をこちらに向けた。


「新橋くんはこちらに引っ越したばかりで、いろいろ大変だと思います。困っているようなら皆さんがサポートしてあげてください。新橋くんの席は一番後ろの空いている席です。それでは」


 それ以上がないと判断した担任が困った顔をして締める。

 彼は担任の言葉に従って私の隣の席に腰を降ろした。


「えっと……よろしく?」


「よろしく」


 なんとなく私から声をかければ、定型文めいた答えが返ってくる。

 そのあと、彼は濡れ羽色の髪の隙間からこちらを伺ってぽつりと言った。


「今日は大丈夫みたいだね」







「みんな単純だよね」


 そういう親友の視線は私の隣の席を向いていた。

 各々が弁当を広げる昼休み。

 彼はまだ人だかりの中にいた。


「仕方ないよ。結構有名な人みたいだし」


 これはあの味気ない自己紹介の後に発覚したことだが、彼は高校生にして個展を開けるほどの実力を持った絵描きらしく、テレビにも出演していたらしい。


「それだけじゃないよ。女子は特にわかりやすい」


 その言葉に私は曖昧に笑うことしかできなかった。

 彼は顔立ちも整っている。無表情で菓子パンを頬張る彼を囲む人垣の男女比は女子に大きく傾いていた。


「なんか、住んでる世界が違うみたい」


「そうかな?」


「そうだよ、きっと」


 卵焼きを頬張る。少し塩味の強い卵焼きが私は好きだ。

 騒がしい隣の席とは対照的に、私たちのスペースは凪いだ海のように穏やかだった。

 ただ淡々と弁当を口に運び、咀嚼し、嚥下する。


「ねぇ、気になるの?」


 空になった弁当箱を片づける私に、親友はそう問いかけた。


「どうして、そう思うの?」


「なんとなく、そう思ったから」


 それに、と彼女は隣の彼を視線で示す。


「アイツ、よく見てるよね」


 そういわれてハッとする自分がいた。


「私って、目線に敏感だから。特に、誰が、誰を見ているかとか、ね」


 懐かしむように目を細める親友が、何故かとても遠くにいるみたいだった。

 ずっと先を進んでいるような気がした。


「何かあったら相談には乗るから、頑張ってね」


 そういって親友はくるりと前を向き、こちらを振り返ることはなかった。


 私が、彼を見ている。


 指摘された事実だが、実感は持てなかった。

 私は人見知りで交友関係は広くない。良く言えば、狭く深い関係性を構築している。それに満足していて、それ以外に関心を持つことはほとんどなかった。


 そんな私が、彼を見ている。


 どうしてか。

 わからない。


 ぼんやりと辺りを見渡す。

 親友の背中。

 放課後の過ごし方について話す男子の集団。

 最近のファッションについて話す女子の集団。

 彼に群がる集団。


 そして、彼と目が合った。


 彼は数度瞬きをして、そのあと小さく首を傾げた。

 表情は変わらないが、それはとても不思議そうな雰囲気だった。


 私が、彼を見ている。


 彼が、私を見ている。


 分からない。






 繰り返す自問自答も、いつしか気にしなくなっていた。

 事務的な会話以外、彼から話しかけられることもなく、私から話しかけることもない。

 ただのクラスメート。

 ただのお隣さん。

 言語化してみれば薄っぺらく思える関係が、正しく私と彼の関係性を表している。

 ふとした瞬間に目で追ってしまうこともあるが、それは私以外の女子にも言えることだ。


 今週も特筆すべきことはなく、金曜日の放課後を迎えた。


「部活めんどくさいなぁ」


「今からカラオケ行こうよ!」


「週末はなにしようか?」


 そんな声が教室に溢れている。


「ねぇ、早く帰ろう」


 騒がしい空気に耐えかねて、私は親友へと声をかけた。

 振り向いた親友は、申し訳なさそうに手を合わせる。


「ごめん! 今日は用事があるから、先に帰ってて!」


 親友の唇はほんのりピンク色に染まっていた。

 校則では禁止されているはずの色つきリップクリーム。


 あぁ、そっか。


「わかった。頑張ってね」


「……ありがと」


 彼女は、今から好きな人に会いに行くんだ。


 照れくさそうに笑う彼女は、なんだか私の知っている親友とは別人に思えた。

 チクリと、胸が痛む。

 それを隠すように、気づかれないように、私は手早く荷物をまとめる。


「それじゃあ、バイバイ」


 何故か目を合わせられなくて、彼女から逃げるように私は席を立った。


「あのさ!」


 背中に投げられた声に足を止める。

 振り向きはせず、続きを促した。


「きっと、いい人見つかるよ」


 その言葉は、すっと胸に入ってきて。


「……そうだといいね」


 何かに深く突き刺さった。

 いつもよりも少し歩幅を大きくして。廊下を抜けて、昇降口を抜けて、学校から少し離れた所まで来て。


 私は大きなため息を漏らし、その場に蹲った。


「私って、最低だ」


 親友の幸せそうな顔を見て、心から祝福できなかった。

 なんでアナタだけ。そう思ってしまう自分がいた。

 ため息が漏れる。自己嫌悪は止まらない。


「……スーパーに行かなきゃ」


 負のスパイラルに飲まれる中で。ふと、登校する前にお使いを頼まれたことを思い出した。

 屈んでいたため僅かに痺れた足を無理やり動かし歩き出す。

 味噌に豆腐に、卵に葱。足りないものを指折り数えて気を紛らわす。

 お肉はまだあるが、安かったら買って冷凍しておこうか。魚でもいいかもしれない。この時期はイサキが美味しい。


 そんなことに気を取られていたからだろう。


「おい! 引っ付くなって!」


 その声に、その声の持ち主に気が付くのが遅れたのは。


 困ったような、照れたような顔。それが向けられるのは私以外のだれかで。

 きっと、これからも私に向くことはないんだろう。


 そう確信できるほどに、目の前の二人は幸せそうに笑っていた。


 ずきずきと、胸が痛む。

 失恋の痛みは乗り越えたはずだった。


 いっぱい、いっぱい。

 泣いて、泣いて。

 乗り越えたつもりになっていた。


 それでも、現実として目の前に広がる光景は容易く私の心を砕いた。


 走り出していた。

 転んでもすぐに立ち上がって、がむしゃらに走っていた。

 走って、走って。

 足がパンパンに張って、動けなくなるまで走って。


 気が付けば錆び付いた造船所にいた。


「……馬鹿、みたい」


 呼吸が整わず、ぺたりと地面に座り込んだ。


 結局私は、過去に縋り付いている。

 その場所を見渡せば、甘くて温かくて、そして痛い思い出次々と溢れだした。


 初恋は忘れられず。

 失恋は乗り越えられず。

 親友の恋は祝福できず。


 今もこうして一人ぼっち。


 海面は夕日を乱反射させる。時化の海。

 荒々しい波の音が何度も何度も鼓膜を揺さぶる。


 心に刺さった棘は傷口を広げ、出血が止まらない。

 それは目からあふれ出しコンクリートに染みを作った。


「ねぇ」


 その音を聞いた時、私は少なからず期待した。


「泣いてるの」


 そして、すぐにその期待を否定した。

 その声は私の期待した音ではなくて。

 少し冷たく、それでいて何故か心地の良い音だった。


 振り向けば、いつか見た二つの月があった。

 少し跳ねた黒い髪から覗く、黄金の瞳。

 その色は私の憧れとは異なる色。


「――あなたには関係ない!」


 拒絶の言葉を投げても彼は止まらなくて、一歩一歩距離が縮んでいく。

 彼と距離を取ろうとしても、私の意思に反して足はピクリとも動かなかった。


「……そっか」


「そうだから、ほっといて!」


 彼の顔に表情はない。ただ少し悲しそうに見えた気がした。

 少しだけ、痛そうに見えた。


 それでも彼は歩みを止めず。

 膝をついて、私に目線を合わせた。


「でも、ほっとけないよ」


 彼は少しの躊躇いもなく私の涙を拭う。

 後から後から、とめどなく溢れるそれはいくら拭いたって意味がないのに。


「ほっといて」


「ほっとかない」


 駄々をこねる子供のように。何度も、何度も。彼の胸を叩いて、声を上げて泣いた。

 泣いて泣いて、また泣いて。

 彼はそれをただ見守っていた。


「……痛いよ」


「そっか」


「……苦しいよ」


「そっか」


「……寂しいよ」


「そっか」


「……なんで私だけ」


「……そっか」


 私の独白に彼はただ相槌を返す。

 たったそれだけの事が、何故か無性に嬉しかった。

 嬉しくて、放したくなくて、思わず縋りついてしまった。


「どくどくしてる」


「生きてるから」


 彼の心臓は一定のリズムで脈動している。

 おおよそ一秒に一回。一分間に六十回のペース。


「あったかい」


「生きてるから」


 冷え切った私よりも少し高いくらいの温度が触れたところから染み込んでくる。

 それは私が失った分を補うようだった。


「もっと気の利いたこと、言ってよ」


「……ごめん」


 見上げれば眉が僅かに下がっていた。

 いつもの仮面が剥がれ、気まずそうに頭を掻くただの男の子がそこにはいた。


「ねぇ、お願いがあるんだけど」


 そのとき、私は心に沸き上がった感情にしたがって言葉を紡いだ。




「今日は帰りたくない」




 後から思い返してみれば、とんでもない言葉を紡いでいた。






 ウミウシのキーホルダーが付いた鍵を差し込み、捻る。

 僅かな抵抗と金属が擦れる音。何の問題もなく鍵が開いた。


「お邪魔します」


 そういって、扉を開く。

 奥から少しだけ物音がして、寝癖のついた黒髪が顔を覗かせた。


「おかえり」


「……ただいま」


 その言葉はくすぐったくて、少しだけ体温が上がった気がした。


 たくさん泣いたあの日、私は彼の家を初めて訪れた。

 私の涙やら鼻水やらで汚れた制服を洗濯してもらい、お風呂を借りた。

 電話で両親に連絡した時にはたくさん心配されたし、たくさん怒られた。

 それでも結局帰ることはせず、彼と二人で食卓を囲んだ。


 意外なことに、彼は一人暮らしだった。転校してきた理由を聞くと彼は少し恥ずかしそうに、一人で生活してみたかったから、と答えた。

 一人暮らし自体は問題なかったが家事は苦手らしく、特に料理が苦手なようで、その日食べたものも私が入浴している間に取った出前だった。

 冷蔵庫には水とゼリー飲料、それに少ない調味料しか入っておらず、そのがらんとした様子に少し笑ってしまった。こんなんじゃすぐ体調崩しちゃうよ、といえば彼は得意げにサプリメントを取り出してきて、また笑った。


 そんなやり取りが新鮮で、温かくて。つい、彼の食事の面倒を見ると言ってしまった。始めは彼も渋っていたが、好きな時にこの家を出入りする権利を要求すれば、鍵をポンと渡してくれた。


「それ、持つよ」


「ありがと、お肉と野菜は冷蔵庫に入れておいて。お菓子は食後に食べる用ね」


 スーパーのロゴが印刷されたビニール袋を渡す。そこまで重くはないが、その気遣いが嬉しかった。

 お気に入りのブーツを脱いでリビングに入れば、彼は珈琲を入れて待ってくれていた。私のカップの横にはスティックシュガーとミルクも置いてある。


「今日はカレー?」


「そう、多めに作って小分けにしとけば平日の朝ごはんになるかなって」


「いつもありがと」


 砂糖とミルクを注ぎ、マドラーでかき混ぜる。火傷しないように少しだけ口に含むと苦みの少ない柑橘系のフレーバーが広がった。彼曰く、初心者でも飲みやすい銘柄のものらしい。


「ねぇ、今日時間ある?」


「夕飯作るまでは特に用事はないけど、どうしたの?」


「画材が少なくなったから買い足したくて。街を案内して欲しい」


「画材って、絵の具のこと?」


「それもあるけど、油とかキャンバスも。このあたりにはなかった」


 彼のアトリエに入ることは禁止されており美術品に触れる機会もなかったため忘れていたが、夕食の献立に一喜一憂する彼は名の売れた画家だった。

 港町であるこの町にそんな人種はいなかったため、もちろん画材を扱う店なんてない。あったとしても、学校の美術で使うアクリル絵具程度だ。


「そういうことなら早く行こう。電車、多分もうすぐだし」


 時計と脳内の時刻表を見比べる。一時間に平均一本しかない田舎の電車事情を鑑みると、あまり余裕はなかった。


「すぐ準備する」


 彼はそういうと珈琲を飲み切りカップを流しへもって行き、すぐに寝室へと消えていった。

 私は珈琲を少しずつ口に運ぶ。そこでふと思ってしまった。


「これって、もしかして――」


 デートではないか。

 心臓が跳ねた。

 いつの間にかカップは空になっていた。






 電車に揺られ、降り立った駅のホームで背伸びする。

 関節はぽきぽきと小気味よい音を立てる。

 肺いっぱいに空気を吸い込む。慣れ親しんだ潮の香りがせず、遠くに来たことを実感させた。


「少し休む?」


 突如視界に広がった顔に驚いて、思わず悲鳴を上げそうになった。

 気遣わしげな表情の彼に、私は首を横に振る。


「大丈夫、早くいこ」


 少しだけ朱くなった顔に気付かれないように前を歩く。

 彼はすぐ右横に並んだ。


「お店知らないけど、当てはあるの?」


「一番大きいデパートにあるらしい」


「わかった、たぶん案内できると思う」


 何度か訪れたことのある目的地に胸を撫でおろす。問題なく役目を全うできそうだ。

 そこは駅から距離もなく、歩いて数分で到着した。

 案内板を二人で眺めて目当ての店を探し、特に迷うことなく買い物を遂行する。

 大きいものやそれなりに嵩張るものがあるらしく、彼は郵送してもらえるように店員と掛け合っていた。

 手持無沙汰な私は、使用用途の分からない道具を幾つか持ち上げ弄んでいる。


「欲しいの?」


「ううん、どうやって使うのか気になっただけだから」


「そっか」


 諸々の手続きが終わった彼が戻ってきて、私の手にあるナイフを見ていた。


「今は無理だけど、もう少ししたら使い方を教える」


「私が絵を描くってこと?」


「それでもいいし、俺が描くのを眺めてていい」


 それは、彼に更に入り込んでもいいと告げられているようで。


「……楽しみにしてるから」


 心拍が一段と早くなった。


「俺の用事は終わったけど、まだ時間あるよね?」


「電車はすぐには来ないし、日が落ちるまで余裕はあるね」


「じゃあ、少しだけ回ろうか」


「――っ!?」


 手を握られた。

 それはかつての記憶とダブって見えて、思わず足がすくんでしまう。


「どうしたの?」


 彼はすぐに私の異変に気づいて足を止める。少し屈んで、心配そうにこちらの様子を伺っている。

 それを見て、私は止まっていた呼吸を再開した。


 だって、あまりにも違うから。

 光を吸い込むような黒い髪が。優しく照らしてくれるような琥珀の瞳が。

 そして何より、同じ高さの視線が。

 記憶との差を明確にしていく。


「何でもないよ」


 そういえば、すっと気が楽になった。

 引っかかっていたものが取れた気がした。


「ただね」


 筆だこができた細い手をもっと感じていたかった。


「やっぱ、何でもない」


 なんて言えるはずもなく、言葉を濁す。

 彼の瞳に映る私は、恥ずかしそうに笑っていた。


「……そっか」


 彼も少しだけ表情を崩した。

 歩き始める彼を追いかけて、今度は私からその手を握った。


「私、服が見たいな」


「夏服?」


「そうだけど、違うかな」


「……どういうこと?」


「あなたの服を選びたい」


「……いらない」


「いらなくないでしょ? 私服、ほとんど持ってないんだから」


「……いらない」


「いーりーまーすー! 今度出かけるときにそんな恰好だったら怒るからね!」


 めんどくさそうな彼の表情が私を楽しませる。

 一人は痛くて、苦しくて、寂しかった。


「これ、着ないとダメ?」


「せっかく選んだんだからちゃんと着て!」


 哀愁漂う背中で試着室に消えた彼を見て、思わず笑みが零れる。

 二人は温かくて、楽しくて、満ち足りている。


「凄く似合ってる! こっちも着てみて!」


「マジか……」


 呆然とした表情に耐えられず、声を上げて笑った。

 こんな時間が、ずっと続けばいいな。




 そう思った。






 *****






「好きです。ボクと付き合ってください」


 それは青天の霹靂だった。

 静まり返った教室で、それまで交流のなかった男子生徒が顔を朱くして私の前に立っていた。

 その視線は私と交わることなく、ただせわしく宙を舞っている。


 どうして、私なんだろう。

 どうして、この子なんだろう。


 彼だったら、良かったのにな。


「ごめんなさい。あなたの気持ちには答えられません」


 平坦な声で、私はそう答えていた。

 男子生徒は目を見開いている。


 私は何事もなかったかのように席に戻り、弁当を開いた。


「とんだ災難だったね」


 教室はいつもの喧噪を取り戻していた。

 席替えで離れてしまった親友は誰かから借りた椅子を寄せて、同様に弁当を広げる。


「別に。でも急でびっくりした」


「ほんとにねー」


 それは紛れもない本心で、それ以上の感想はなかった。

 親友も相槌を打ちながらウインナーを口に運んでいる。

 視界の端で彼を捉える。目の前で起こったことに興味を引かれるわけでもなく、淡々とパンを頬張っている。夕食は野菜多めにしよう。牛乳をすする彼を見て、そう思った。


「罰ゲームとかかな?」


「そうだったらガキだよね。みんなが見てる前で公開告白なんて」


「私は嫌だな。するのも、されるのも」


「大半の人がそうだと思うよ」


 告白なんて軽々しくするものではないと思う。他人に強制されてするものでは断じてない。

 告白する勇気はないが、されるなら二人っきりで、それなりの雰囲気を作って欲しいと思ってしまうのが思春期乙女の本心だった。


「そういえば、どうするの?」


「どうするって、何を?」


 脈絡も覚えもない言葉に首を傾げる。

 親友は呆れたような表情で一枚のポスターを指さした。


「夏祭り、するらしいよ。花火もあげるんだって」


 確認してみれば、開催日は二週間後。丁度終業式の日だった。


「良かったら、私たちと一緒に回らない?」


 遠慮がちに親友が言う。それに対して、私は首を横に振った。


「大丈夫、彼氏と回るんでしょ?」


「でも……」


「邪魔しちゃ悪いし、私は弟と行こうかな」


 本当は一人頭に過ったけれど、それを口にすることはなかった。

 学校での彼との関係は未だにただのクラスメイトのまま。

 目の前の親友にも彼のことは話していない。


「ごめんね」


「気にしないで、楽しんでね」


 その言葉を抵抗なく言うことができた。


「ありがとう」


「どういたしまして」


 笑って、心から言うことができた。


「なんかさ」


 親友はこちらを見て不思議そうに口を開いた。


「いいことあった?」


 その言葉への回答はハッキリしているけれど。


「ううん、なにも」


 今はまだ、私と彼だけの秘密にしておきたかった。






 数日後。

 私が教室に入ると、妙に視線を集めているような気がした。

 そのことを不思議に思いつつも指定された席に着き、教科書を机へと移し替える。


「おはよう」


「おはよう」


 登校した私に気が付いた親友が近づいてくる。

 挨拶を返すも、その表情は何故か曇っていた。


「ねぇ、あの噂ほんとなの?」


「噂って、何の?」


 心当たりがない話題だったため、詳細を問う。

 親友は私の耳に顔を寄せ、小さく言った。


「新橋の家に出入りしてるって、本当?」


 思考が、白く染まった。






「あれ、本当だったらしいよ」


「マジ? 俺ひそかに狙ってたんだけどなぁ~」


「両親がいないからって入り浸ってるんでしょう?」


「ちょっと顔がいいからって調子に乗ってるよね」


「どうせお金目当てでしょ? 新橋の年収、軽く八桁行くらしいし」


「身体で誑し込んだって」


「最低、軽蔑するわ」






 真実に悪意の尾ひれがついて。私たちの関係はすぐに広まっていった。

 廊下ですれ違う人からは見世物や汚物として扱われる。

 私の周りには誰も寄り付かなくなっていた。


 私がどれだけ訂正しようと当事者の言葉を聞き入れる人はいなかった。

 むしろ逆効果で加速度的に根も葉もない悪評が広まっていく。


 そのような状況で、彼だけは淡々と授業を受けている。

 噂なんて気にする様子はなく、周囲の評価は関係ないみたいに。


 やっぱり、住む世界が違うのかな。


 そんな思考が脳裏を過った。

 急激に身体が冷えていく気がした。




 その日から、私は彼に会うことを辞めた。






 *****







「おーい」


 心配するような声に私は我に返った。

 ピンぼけの視界が像を結び、心配そうにこちらを覗き込む親友を捉える。


「大丈夫?」


 なんで彼女はそんなに苦しそうな顔をするのか。

 苦しいのは私のはずなのに。


「うん、大丈夫」


 そう答えて視線を彷徨わす。

 誰も私を見ていない。まるで世界に取り残されたみたいだ。

 それでも誰かを探すように、私は視線を動かし続ける。

 いつかのように主のいない空席を見つけて、更に気分が落ち込んだ。

 彼が学校に来なくなってから、もう一週間になる。担任曰く、全く連絡が取れないらしい。


 私は今日も一人ぼっちだ。


「この後はどうするの?」


「特に、何も」


「……やっぱりさ、一緒にお祭り行こうよ」


 彼女が気を使ってくれているのは分かるが、その提案に私は魅力を感じなかった。


「行かない。そんな気分じゃない」


「そういわずにさ。気分転換は大事だって」


「行かないって、言ってるの」


 語気が荒くなってしまう。

 なぜここまで、構うのか。

 分からない、分からない。


 本鈴が鳴り、彼女は黙って席に戻った。

 その時見えた横顔に少しだけ罪悪感を覚える。

 でも、どうしようもない。彼女と私はあまりにも違っているから。


 担任が教室に入ってくる。

 その手には課題という名の紙束が積みあがっており、配布を頼まれた学級委員や調子のよい男子からブーイングが上がった。


 今日は終業式。明日からは夏休みだ。

 担任のありがたいお話を聞き流し、時計の針が揺れる様子を眺める。


 人の噂も七十五日という。

 日数はそれに満たないが、顔を合わせることがなければ自ずと収束しているだろう。

 その時、全てが元通りとなっているかは分からないけれども。


「最後に、新橋くんに届け物をしてくれる人はいませんか? 大事なものもあるので、できれば今日中に届けることができる人が望ましいです」


 身体が僅かに痙攣する。その名前に、無意識のうちに反応してしまった。


「せんせーが行けばいいじゃないですか?」


「先生は午後も会議があるので……」


「お祭りで忙しいので無理でーす!」


「疲れたから動きたくありませーん!」


「そういわずに、先生を助けると思って」


 浮ついた声が教室のあちこちから上がる。

 担任は困ったように呼びかけている。


「先生」


 その時に、一人の女生徒が手を挙げた。

 先生はそれを見て安堵した様子だった。


「ありがとう。住所はあとで――」


 担任の言葉を遮るように、女生徒はゆっくりと私を指さした。


「彼女が適任だと思います」


 こちらを見据える瞳は、酷く淀んでいた。


「確かに! いつも通ってるならついでに届けてもらえばいいじゃん!」


「けってーい! 帰ろ帰ろ」


「届けに行ったままお泊りしちゃったり?」


 便乗するような声が教室のあちこちから上がる。

 誰もが嘲る様な笑みを浮かべていた。


「やめなよ! 嫌がってるじゃん!」


 親友がそう声を張り上げるも誰も取り合わない。

 担任もどうすればよいか分からないみたいだ。


「行きます」


 他人を嗤うその姿が、貶めるためのその言葉が。

 私にはとても幼稚に見えた。私にはとても幼稚に見えた。


「私が、行きます」


 私の心は凪いでいた。

 教室は静まり返った。なんだ、大人しくできるじゃないか。


「本当にお願いしても大丈夫ですか? 最悪、私が後で届けても……」


「大丈夫です。問題ありません」


 彼宛ての茶封筒を受け取る。

 それを眺めていると、表面の一部がぽつぽつと変色した。

 不思議に思ってそれをなぞると、変色部分が散って大きくなってしまう。


「そ、それでは、今日はこれで終わります。夏休みだからといって羽目を外しすぎないように。以上、号令」


 日直の声に合わせて挨拶をすれば、あっという間に教室はがらんどうになった。

 封筒の変色は一向に収まらなくて、何度擦っても元には戻らなかった。


「……大丈夫?」


「うん、大丈夫」


 親友の言葉に間を置かず答える。

 変色はまだ止まらない。


「大丈夫なわけないじゃん!」


 親友の大音声に驚いて視線を上げる。

 何故か彼女は泣いていた。


「……どうしたの?」


 そう聞けば、彼女の瞳から更に涙が溢れる。

 それは頬を伝って、顎に溜まり、ぽつりと落ちて、封筒を変色させた。


「どうかしたのはあんただよ!」


 肩を掴まれて強引に立たされる。

 封筒は私の手からひらりと落ちていった。


「嫌ならいやって言いなよ!」


 顔を真っ赤にして、親友は吠える。


「辛いならつらいって言いなよ!」


 鼻水をたらして、ぐちゃぐちゃになった親友は更に吠える。


「何も言わずに泣いたって、何もわからないじゃん!」


 揺れる彼女の瞳に映った私は泣いていた。


「相談してよ……親友でしょ……」


 私の胸に縋り付いて泣く彼女をそっと撫でる。


「ごめんね」


「ちゃんと言ってくれれば、私はちゃんと応援したよ。でも、何も言ってくれなきゃ分からないよ」


「ごめんね」


 ぐしゃぐしゃになった彼女の顔がとても綺麗に見えた。

 だって彼女は、私と違ってこんなにも私のことを考えてくれているから。

 あぁ、敵わないな。そう思った。


「聞かせてくれるよね、あいつとのこと」


 その問いに、私はゆっくりと頷いた。


 ぽつりぽつりと、彼のことを話していく。


 泣いてるところを見られたこと。

 何も言わずに寄り添ってくれたこと。

 一緒に食卓を囲んだこと。

 ご飯を作ってあげたこと。

 私のご飯を食べて美味しいと言ってくれたこと。

 二人で街に行ったこと。


 そして、彼と初めて会った時のこと。


 話しているうちに、自分の中で複雑に絡まっていた糸が解けていく気がした。

 悩んでいたことが、実は単純だったことに気づいた。


「あいつのこと、好きなの?」


 親友の直球な質問。

 それに私は迷うことなく答える。


「うん、きっと」


 一人は痛くて、苦しくて、寂しかった。

 親友と二人では、温かくて、楽しいけれど何かが足りない。


 でも、彼と二人なら。


「私、いってくるね」


 そういえば、彼女は笑った。

 目元は腫れて、酷い顔だった。

 それなのに、とても魅力的に見えた。


「うん、いってらっしゃい」


 鞄と封筒を掴んで走り出す。

 ぐちゃぐちゃになってしまった書類は、誠心誠意謝ろう。

 ついでに、デートの予定が狂ってしまった、親友の彼氏にも。


 夕日を背に、少しだけ懐かしい道を走る。

 その足取りは軽やかで、跳ねているようだった。


 彼の家はいつもと変わらずそこにあって、鞄の奥にしまっておいたウミウシを引っ張れば、出番を待っていたかのように鍵が飛び出す。

 それを鍵穴に差し込んで捻れば、ガチャリと音を立てて鍵は開いた。


 大きく息を吸って、吐いて。乱れた呼吸を整える。

 そして、もう一度息を吸って。


「お邪魔します」


 と、扉を開けた。


 日はいつの間にか落ちていて、暗闇が広がっている。

 その中に浮かぶ、二つの月。


「待ってた」


 青白い光が差した。

 浮かび上がる影は、前に見た時よりも明らかにやつれていた。


「あのね――」


 伝えたい言葉はたくさんあるのに、そのあとが続かなかった。

 感情が上手く言語化できずに、息が詰まって苦しくなる。


「ねぇ」


 それを見かねたのか彼はいつもの調子で声をかける。


「来て」


 そういって、彼はある部屋に消える。

 そこは今まで一度も入ったことがない場所で。


「いいの?」


「うん、キミに見て欲しいものがあるから」


 彼の仕事場。絵を描く場所。アトリエ。

 その場所に私は初めて足を踏み入れた。


 そこはまるで違う世界だった。

 絵具特有の香りが漂い、色彩の残滓があちこちに刻まれている。

 イーゼルが不規則に並び、そのひとつひとつに様々な世界が閉じ込められている。

 無数の世界を内包した鮮やかな世界。

 これが、彼の世界。


「すごい」


 その言葉は無意識のうちに零れていた。

 彼はそれを聞いて嬉しそうに頬を緩める。


「見て欲しいのは、これ」


 彼が示すのはアトリエの中央に鎮座しているひと際大きなキャンバス。それには布が被せられていて、どんな世界が広がっているのか分からない。

 目線で問うと、彼は穏やかに頷いた。


 布の端を掴み、そっと引っ張る。パサリ、と軽い音を立てて世界を遮る膜が取り払われる。

 そして私は息を飲んだ。


 それは、この世界にある明らかな違和感で、異物で、ありえないものだった。


「たくさんの物を見てきた。綺麗なもの。美しいもの。激しいもの。穏やかなもの」


 目を細めて、見たことのないような優しい目で彼は語る。


「たくさんのものを描いてきた。けど、なんだか虚しかった。他人が綺麗だと思うそれを、俺は心から綺麗だと思えなかった」


 愛おしいものに触れるように、彼はキャンバスの縁をなぞる。


「絵を褒める人が理解できなくなって。描くことが詰まらなくなって。なんで生きているのか分からなくなって。どこか遠くで消えてなくなってしまいたくなって」


 彼はその目を、その手を私へと向ける。


「そんな時に、キミに出会った」


 夜の海。水面に揺れる月。それを背景に手を伸ばす少女。

 流れる黒い髪。蒼のグラデーションを持った瞳。


「『美海』」


 告げられた名は私のもので。

 この世界にはきっと存在しないと思っていたもので。


「俺はきっと、これを描くためにここに来た」


 涙が溢れた。

 なんだか最近、私は泣いてばかりだ。


「泣いてるの」


 それはいつか聞いた言葉で、答えはわかりきっていて。


「あなたのせいだよ」


 そう言えば、彼はバツが悪そうに頭を搔いた。


「そっか、ごめん」


 我慢できずに、彼に縋りついた。

 そこは温かくて、心地よくて、いつまでも浸っていたくなるような世界だった。


「どくどくしてる」


「君がいるから」


 彼の心臓は少し早足で。

 ドクンドクンと、大体一分間に百十回のペース。


「あったかい」


「君を温めていたいから」


 火照った私より更に高い、安心できる温度。


「恥ずかしくないの?」


「……少し。いや、かなり」


 見上げれば暗くても分かるほど朱くなった彼の顔があった。

 こっちまで朱くなってしまいそうだ。


「ねぇ、お願いがあるんだけど」


 それがなんだか嬉しくて、私はまたとんでもないことを口走る。




「好きって、言って」




 答えを聞くのが少しだけ怖くて、目を瞑ってしまった。

 彼の心臓が跳ねている。共鳴するように、私の心臓も跳ねている。

 血潮が巡る音が広がる。荒々しい時化の海みたいだった。




「美海が、好きだ」




 彼の言葉は確かに届いた。心の深く深くに届いた。

 唇には少しパサついた熱が降ってくる。


 遠くで何かが弾けるような音がした。

 何かが花咲くような音がした。


 永遠に思える時間が過ぎて。

 永遠に続いてほしいと思える時間が過ぎて。

 離れる唇を名残惜しく思いながら、私は愛おしい夜空を見上げて言った。






「私も、夜が好き」






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あすのうみに彩を rionette @rionette

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