六話 ウチと兄貴と河川敷
「夕暮れの暫くのち、洛陽の刻になると、この川の底から化け鯨が現れるからさ」
男は落ち着いた表情でちょび髭をひっぱりながら言った。
それは巨大な鯨だった。勿論普通の河川敷に居よう筈もない。タンカーのようなサイズの化け鯨は時折潮を吹きながらべちんべちんと鰭で水面を叩いている。川に飛び込んだ化け物たちは続々と鯨の体をよじ登っていた。
兄貴とウチはあんぐりと口を開けたまま、また固まった。
今日見た中でも一等信じられない光景だった。
「さてワシも行くかね」と男は立ち上がる。「明日からは気軽に声を掛けてくれると嬉しい」と小声で言い残すとそそくさと川へと向かっていく。
「わかりました」と兄貴が答えると、男は振り返ってぶんぶんと嬉しそうに杖を振った。
化け鯨はちょび髭の男を乗せるとまた大きく潮を吹いた。尾を振るたびに川の水が氾濫しそうになっている。
どうなるんだとハラハラしながら眺めていると、ついに鯨が泳ぎ始めた。暫く川を下るように水面を泳いでいたが、すこしずつ鯨の上体が水から出てきて、ついには「ふわり」と宙に浮かび上がった。まるで夜空の中を泳いでいるかのような化け鯨は少しずつ遠ざかり小さくなってゆく。
あとにはウチと兄貴だけが残された。先ほどとは打って変って河川敷は静寂に包まれた。なんだか寂しい感じがした。
「なんだか凄いものを見ちゃったね」
「ウチは頭がフットーしそう」
「話してみると意外といい人?たちだったね」
「う~ん、まぁ、次からは挨拶ぐらいはしてあげようかな」
「お化けと顔見知りの小学生なんてきっと僕らぐらいだ」と兄貴は喜んだ。
「そうやってウチを安心させて最後は食べるつもりかも」
「そうなったら僕が助けてあげる」
兄貴はそう言って立ち上がると、お尻についた草を掃ってこちらに手を差し伸べた。ウチは暫く兄貴の顔をしげしげと眺める。
不意にある疑問が浮かんだのだ。
「ねぇ、おにいちゃんはなんでそんなにウチの役に立とうとするの?」
ウチはそのまま疑問をぶつけた。兄貴が優しいのは普段からだが、こと化け物関連になると兄貴は一層張り切っている感じがしたのだ。そこにはちょっとした違和感があった。
すると兄貴は顎に手をやって考えこんだ後に「・・・僕が救われたから、恩返しがしたいんだ」と言った。
「なにもしてないけど?」思い返してみても特に心当たりはなかった。むしろウチが兄貴に助けられていることならいくらでも出てくるのだが。
「説明するのは難しいなぁ」
兄貴は濁すようにそう言い淀むと、「あ!もう帰らないとさすがにマズいぞ。母さんが心配する」とあからさまに話を変えた。
兄貴が何かを胡麻化していることは明らかだったが、帰らないとヤバイというのも真実だったので追及するのはやめてしまった。すっかり日は沈み、辺りは真っ暗だ。
「うん、帰ろ。おにいちゃん」
ウチは兄貴と手をつないで家に向かった。
頭の中では今日あったことを何度も反芻していた。きっと兄貴もそうだった。
帰りが遅くて母に叱られている時も、ごはんを頬張っている時も、布団に入って天井を眺めている時も、頭の中は化け物たちでいっぱいだった。
その日こそ、ウチの人生のターニングポイントであったといえるだろう。
次の日から帰りは河川敷で化け物たちと話すのが習慣となった。兄貴はもとより妖に興味津々だったし、ウチもやぶさかでなかったのでよく着いていった。
妖たちも人と話すのが珍しいのかウチと兄貴が訪れるのを心待ちにしていた。
特に牛の骨を被った仁左衛門とちょび髭洋服姿の男妖怪は大袈裟だった。それを隠そうとする素振りはしているものの、喜んでいるのがバレバレで、見えないしっぽをぶんぶんと振っているようにも見えた。
それはウチが中学生になっても変わらなかった。
その頃には妖たちにもウチの顔が知れ渡っていて、町を歩くと「おや、お嬢。お帰りで」とよく声を掛けられた。
「お嬢」という呼び名は気に食わなかったが、なんど訂正しても「いえ、坊ちゃんにはお世話になっておりますから」と頑なにそう呼ぶため、諦めていた。
高校生になった兄貴は「坊ちゃん」と妖たちに慕われていた。頼み事を断れない兄貴は、止せばいいのに妖たちの頼みを聞き入れ、なんなら自分から厄介事に首を突っ込むものだから、妖共からの株をグングン上げていた。まさにストップ高。日本の株価にも見習っていただきたいぐらい。
兄貴が歩けばその後ろに彼を慕う妖怪たちが並び、毎日の登下校が百鬼夜行の様相を呈していたほどだからとんでもない。兄貴がこける度に妖怪たちは慌てふためいて、わらわらと駆け寄ったものだ。どうせ兄貴は毎日躓くのだから、いい加減慣れればいいのに。
傍目で視ると人が化けものに襲われているようにしか見えなくて心臓に悪いから辞めてほしい。
「おい、お前の兄は妖の王にでもなろうとしてるのか」
とそれを見ていた仁左衛門が呆れていたので、スマホをつつきながら「兄貴はそういうの興味ないでしょ」と答えると、「まぁ確かに」と納得していた。
「ぬらりひょんとかいう、食い逃げ常習犯よりはよっぽど総大将らしいがなぁ」
「それは水木しげる先生に言いなさいよ」
そんな兄貴が大学生になると、「妖を食う」という噂が流布して妖怪共から恐れられているのだから、時間の流れとは恐ろしいものである。
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