五話 ウチと兄貴と河川敷
先ほどまで眩しいぐらいに輝いていた夕日は、もうほとんど山の影に隠れていた。薄暗くなり始めた河川敷は、街灯の明かりが目立ち始めている。
本来ならとっくに家についている頃だろう。ランドセルを玄関に投げ捨ててリビングで寝っ転がりながら、台所から漂う香りから夕食を思い浮かべてうつらうつらとしている筈だった。ウチはあの時間が一日で一番好きだ。その日やるべきことが全て終わって、余裕のある時間をだらだらと無為に過ごすのがたまらなく心地良い。
だというのに。
「さぁて、何から話したもんかの」
土手に座り込んだウチと兄貴に、ちょび髭の男は首に絞めたネクタイを緩めながら言った。その姿があまりに自然だったことに兄貴が驚くと「こういう人間の動作を真似るのが好きなのさ」と照れていた。
ウチはそんな風に盛り上がる二人を尻目に河川敷を見下ろす。
人気の少なくなった河川敷はまさに人外魔境である。化け物たちは数刻前までは質問攻めに夢中だったが、今は勝手に兄貴のランドセルから教科書を手に取って、何が面白いのか熱心に読み込んでいる。
「見ろよ、夏目漱石先生が載ってるぜ」
「おぉ、ほんとだ。先生は御立派な方だったからな」
「お前あったことあんのかい」
「たまに猫に化けて先生の集会に紛れ込んでたんだよ」
めちゃくちゃな光景だ。早く家に帰りたい。
「まぁワシらは見ての通り妖。平安の御代より現れる人ならざる化け物なり」
「見ての通りと言われても」ウチはぶちぶちと足元の草をちぎりながら文句を言う。
ちょび髭の男はどこからどう見ても人間そのものである。
「ワシは人に化けとるだけよ」
「そもそも人目につかない癖にそんな手間が必要なんですか」
「酷いこというな坊主。これはワシにとって化粧と一緒さね。人目に付くか否かではなく、外に出るなら必須のもの。坊主が大きくなって彼女が出来た時に同じセリフを言ってみろ。どつかれるぞ」
「気を付けます」
兄貴が真面目な顔でそう答えるので、「坊ちゃんは不思議な方だな」と男は苦笑した。
「それにしても何時からワシらに気が付いていたんだ?何度かこの河川敷でお前さんらを見かけたことはあったが、まるで無視してたじゃないか」
「妹は最近です」
兄貴の言葉に小さく頷く。
一週間前だったろうか。手頃な枝を拾ってぶんぶん振り回して河川敷を歩いていると、前方から「人影」が歩いてきたのだ。比喩ではない。人の形をした闇そのものだった。
顔を真っ青にしてその場に固まるウチにはまるで気が付かない「人影」はそのまま横を通り過ぎて行った。
恐る恐る後ろを振り返るとそこには誰もいなかった。ウチは弾かれたように走った。息苦しくなっても、脇腹が痛み始めても怖くて足を止めることが出来なかった。
やっとの思いで家の前に着くと、ちょうど玄関から兄貴が出てきた所だった。
「ど、どしたの。そんな血相抱えて」
ひゅうひゅうと苦しい呼吸が止まらない性で返事をしようとしても声にならない。戸惑う兄貴の顔を見ると、なんだか力が抜けてきた。ぽろぽろと涙が出てくる。
「えっちょ、どどどうしたの、何があったの」
兄貴は急に泣き始めたウチを見て半ばパニックを起こしながらも手を取って家に入れた。水を飲みながらリビングに座っているとやっと涙も落ち着いてきたので、ウチは兄貴に話した。家に帰る途中に変なナニカを河川敷で見たこと。それが怖くて走って逃げたこと。
兄貴は黙って話を聞いていたが「僕だけじゃなかったんだ」とぽつりと呟くと、急に立ち上がって「今後は一緒に帰ろう」と言った。
ウチの目にはそれが不思議に映った。何故かは分からないが、兄貴はどこか嬉しそうに見えたのだ。
妹に頼られるのが嬉しいのかと当時は思っていたのが、真相はまるで違っていた。
結局真実を知ることになるのは、何年も後になってのことだった。
「それじゃ、さぞ混乱しただろう。ワシらも別に怖がらせるつもりはないんだ。許してくれ」
頭を下げるちょび髭の男に、「別にいいよ」とウチが返すと、隣に座る兄貴が「それで、なんでこの河川敷に妖は集まっているんですか」とずっと気になっていたであろう疑問を投げかけた。
「おう、それはな・・・」
と男が言いかけた瞬間、ブシュウウ、と河川に水柱が上がった。それをみた化け物たちは「やっとか!」と歓声を上げて次々と川の中へと飛び込んでいく。
水柱はまるで噴水のように、不定期に水を打ち上げている。
「なんだなんだ」と思わず立ち上がって薄暗い闇の中に目を凝らしてみると、川の中から大きな動物の頭が見えた。デカい化け物が川から出てきた、と肝を抜かれていると、ざぱん、と音を立ててクジラの尾が水中から飛び出した。
男は落ち着いた表情でちょび髭をひっぱりながら言った。
「夕暮れの暫くのち、洛陽の刻になると、この川の底から化け鯨が現れるからさ」
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