二話 ウチと兄貴と河川敷

「今日もいるのかな、あいつら」

「まぁいるだろうね」

「嘘でもいいから、今日はいないかもって言ってよ。おにいちゃん」

「だって毎日見かけるもの」

「あ~あ、やだなぁ」


 校門を出たウチと兄貴は並んで帰路に着いていた。

 横に並んで歩く兄貴の横顔ごしに電柱の奥から、夕焼けを眺めてみると、カラスが二羽、飛んでいるのに気が付いた。かぁかぁと鳴きながら夕日に向かうカラス達は、終いには小さな黒点のようになってゆく。

 遠ざかるカラスを横目に歩いていると、どしゃっと何かが倒れる音がした。首をひねるとまた兄貴が転んでいる。


「おにいちゃん。またこけたの」と呆れていると、兄貴は困った顔をしながら「カラス見てたら転んじゃった」と慣れた手つきで膝についた砂を掃う。

 そんな様子を見て、はぁとため息を吐いてしまう。


 昔から兄貴はよく転ぶ。「犬も歩けば棒に当たる」ということわざを知った時、瞬時に「兄貴歩けば膝を擦りむく」と浮かんだぐらい兄貴はよく転ぶ。

 注意力散漫という文字に足が生えているのが彼である。


 中学生の時、友人と道を歩いていると、不意に兄貴が角から現れたことがあった。

 兄貴は当時高校生になっていた。家では毎日顔を合わせるが、外で出会う兄貴はなんだか別人のようで、学ランの似合う大人びた男の人のように見えたので驚いた。

 兄貴はウチに気が付かないまま、そのまま前を歩き始めた。友人もいるし、なんとなく声を掛け辛いなぁと思いながら兄貴の背中を眺めていると、てててと黒猫が兄貴の前を横切った。


 兄貴は無類の猫好きである。そのくせ猫アレルギーをもっており、軽く撫でるだけで目を真っ赤にして鼻水を垂らし始める不憫な男である。

 思いがけない遭遇に頬を緩めて微笑む兄貴は、ぷりぷりお尻を振って歩く黒猫に熱視線を送り続け、案の定転んだ。

 正直、猫が現れた時点で「あぁ、転ぶな」と推測していたから特に驚きはしなかったが、立ち上がって数歩で電柱に激突した時は、驚きと呆れで顎が外れるかと思った。


 友人はというと隣で笑いを堪えている。というかほぼ我慢できていない。押し殺した笑い声がまるで隙間風のように響いていたし、肩をガタガタと震わせていた。

 しばらく蹲って痛みに耐えていた兄貴は、そんな友人と私には気が付かないまま、額を抑えてふらふらと歩きだした。結局声を掛けることはできないまま、遠ざかる背中を見送ったのだった。


「あ~笑った。笑いすぎて涙が出ちゃった。ねぇ、今の人すごかったね」

「・・・うん」

あれ、兄です。とは流石に言えなかった。

「黒猫が横切ると不幸が訪れるって本当なんだね」感心する彼女に、

「猫には全く責任ないよ。普通にあの人が注意力ないだけだって」と見ず知らずの黒猫をかばってしまう。

「え~。そうかなぁ。じゃあドジっ子なんだ。横顔しか見えなかったけど、カッコよかったしクールドジってやつだね。手を差し伸べれば連絡先聞けたかも~」

 そう言いながら悔しがる友人を見て複雑な気分になる。

 

 そうなのだ。なんだかよく分からないが兄貴は女にモテる。運動はできないし、口下手だし、ファッションに無頓着でブカブカのスウェットばかり着ている癖に何故か兄貴に惚れる人が後を絶たない。

 確かに目鼻立ちはウチに似て整っているが、学校で目立つほどではない。

 おそらく兄貴の不意に優しさを感じさせる行動や、壊滅的な危機感の無さが母性を擽るのだろう。

「あの子の魅力に気付いているのは、私だけなんだから」と思い込んだ兄貴の後輩、同級生、先輩、私の友人がひしめき合った学園はまさしく魔境と化しているはずだ。

 その癖本人は全く気が付いていないのだからタチが悪い。いつか包丁で刺される日がくるんじゃないかと半ば本気で心配している。いや、むしろいっぺん刺されて反省すべきですらあると思ったものだ。


 

「どうしたの?そんな僕の顔じっと見て」

「・・・なんでもない」

 尻もちをついている兄貴に右手を差し伸べると、「ありがと」と砂だらけの手で握り返して立ち上がった。ランドセルにつけた鈴がちりんと揺れる。

 そのまま握った手を離さないようにしていると、兄貴は不思議そうに首をかしげていたが、「そろそろ河川敷だから・・・」とぽつりと呟くと、「そっか」と兄貴も理解したのか手を握り返してくれた。


「よし、行こうか」

兄貴がウチを引っ張って歩く。それにつられて、ウチはぽてぽてと小さな足取りで河川敷へと足を踏み入れた。


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