第31話

 倉庫の窓からはまだ陽が射さない。時計がないから正確な時間は分からないが、二、三時間は経っているような気がする。


「ディエゴは、怪傑ゾロなのか?」


 時間を浪費していることに罪悪感を覚え、少しでも情報を集めておこうと尋ねてみた。


「なにを今更、知っているでしょうに」


 数秒の間を置き、俺は理解する。なるほど、ライナは知っていたのか。


「怪傑ゾロは死んだって聞いてたからな。まだ疑わしくて」


 記憶喪失のことを悟られまいと、てきとうな台詞で誤魔化す。


「死の偽装など、わたくしめの黒魔術にかかれば造作もなきこと」


 その会話を最後に、馬を沈黙が満たす。


 ディエゴはやや疲れの見える表情で麻袋の上に座り込んでいる。ライド装置と黒魔術を併用しての戦闘が、老体に堪えているのだろう。マスターはやけにぴりついた表情でじっとしている。床に視線を落とし、先ほどから身じろぎ一つしない。


 俺はそんな二人を観察しながら、じりじりと焦りを感じていた。これまでの流れは全て二人の思惑通りだ。俺の意志は介入していない。それが不安なのだろう。自分の焦りをそう分析しながら、しかし意志を通すだけの力などないので、焦りだけが積もる。


 石像のように動かなかったマスターの視線が、わずかに動く。俺の足を見ている。いつのまにか膝を揺らしていることに気がついた。感情がそのまま態度に表れている。みっともなく思い、貧乏揺すりを抑えた。


 その瞬間である。マスターが突然立ち上がり、大きく舌打ちをした。


「なぜバレた」


 マスターは言い、マントを翻して走り出す。


 ディエゴが遅れて立ち上がり、後を追おうとした瞬間、倉庫の扉が吹っ飛んだ。中に誰かが飛び込んでくる。その影を目で追うと、ほんの一瞬、赤い瞳と目が合った。


「デイガール!」


 デイガールは俺の隣まで来ると、逃げ出そうとするディエゴを視認し、空気を掴むかのように手のひらをぎゅっと握りしめた。それと同時にディエゴの体が宙に浮く。ディエゴは手足をばたつかせながら、うめき声を上げている。息が苦しいのか、両手で首元を押さえ、かすれた息を吐き出している。


「ディエゴ・ベガ、あれはなんだ!」


 ディエゴに詰め寄るデイガールは、鬼のような形相をしていた。


 ディエゴの首元には、くっきりと手形がついていた。デイガールが念動力で首を絞めているのだろう。


「おい、デイガール、それじゃ答えられないだろ」


 取りなすように言ったあと、息をのむ。今更気づいたことだが、デイガールは血だらけだった。


「大丈夫かデイガール!?」

「全部返り血だ」デイガールは俺に一瞥もくれず言ったあと、目の前のディエゴに叫ぶ。「あれはなんだ! 説明しろディエゴ・ベガ!」


 首の締め付けが緩んだのか、ディエゴがかすれた声を出した。


「はて、なんのことやら……うぐっ」


 ディエゴの首が手の形にくぼむ。圧迫された血管が浮き出、見ているだけで俺まで息が苦しくなる。


「落ち着けデイガール! まずは話を!」


 デイガールがようやく俺のほうを見る。相変わらず怒りに満ちた表情だった。あまりの剣幕に、思わず言葉を詰まらせる。


「夜明けまで時間が無い。急いでこいつをトイバー邸に連れて行く。プエルは取り逃がした。詳しい説明はあとだ」


 デイガールが俺に向けて言った途端、ディエゴのうめき声がやんだ。不意の静けさに思わず目を向けると、ディエゴは開いた瞳孔でデイガールを見ていた。そして、宙ぶらりんになっていた手がブラックスパイを握る。


「危ねえ!」


 デイガールとディエゴのあいだに割って入ろうとした俺だったが、それよりも早くディエゴの腕がねじ曲がった。ばきり、と太い木の折れるような音が三回連続で鳴り、デイエゴの腕が肘を中心に三角形に折れ曲がる。潰れている気道から痛みに耐えかねた叫び声が漏れ、そのまま白目をむいて失神した。


 宙を掴んでいたデイガールが力を抜くと、ディエゴの体が地面に力なく落下する。デイガールはそれをいまだ怒りのこもった目で見たあと、俺の両手を縛る縄に視線をうつした。金色の瞳の中にある瞳孔が、縄を中心に捉えたまま収縮する。それにあわせるよう、縄はぶちぶちと音を立ててねじ切れた。


「いくぞ。通り沿いに車を呼んである」


 デイガールは念動力で失神したディエゴを運ぶ。


 倉庫を出る。明かりの灯っていた倉庫内とは違い、薄暗い。デイガールが返り血だと言っていた赤黒い染みは、薄暗さで目立たなくなる。しかし、それでも一度目に入った以上、気になってしまう。


「返り血って言ってたけど、プエルと戦ったのか?」

「違う。順を追って説明する」


 デイガールは魔動車の停めてあるところまで早足で進む。夜の静寂のせいか、足音が大きく聞こえる。それがデイガールの怒りを表しているような気がして、話しかけるのがためらわれた。


 魔動車につく。デイガールは開きっぱなしの扉にディエゴを投げ込んだ。すると、中から悲鳴のような声が聞こえた。


「じーにあす!?」


 クラミーの声だった。そもそもこんなふざけた悲鳴はクラミー以外ありえない。


 デイガールの後に続いて中に乗り込むと、必死にディエゴの体を座席へ引き上げているクラミーと目が合った。ビン底メガネで目は隠れているので、目が合ったとわかったのは、クラミーが大きく顔をそらしたからだ。


 デイガールが御者に向かって「出せ」と短く命じる。サルの仮面を被った御者は無言で頷くと、魔動車を走らせ始めた。


「さて」デイガールは座席に着き、俺とクラミーのあいだに流れる気まずい空気など無視をして、話を始める。

「サンファン邸についてすぐ、私は邸内の捜索を始めた。すると本棚に偽装された隠し扉が開けっぱなしで放置されていた。罠かとも思ったが……というより実際罠だったんだが、とにかく隠し扉は地下に繋がっていて、私は中に入った。その地下施設がなんなのかは、ある程度察しはついているが、こいつの口から語らせる」デイガールは隣で気絶しているディエゴを肘で小突き、「プエルはそこに居た。話もした。しかし、話している内にやつの様子が急変した。黒い影のようなものに覆われた姿を見て、黒魔術の発動だと判断した私は、念動力で手足をへし折ってやろうと思ったんだが、突然何人もの黒魔術師に襲われた」

「何人も?」

「ああ。あの地下施設には何人もの人間が幽閉されていた。そいつらを閉じ込めていた牢屋の扉が開いて、襲いかかってきたんだ。程度はバラバラだったが、いずれも黒い影をまとっていた。黒魔術師、しかも様子を見るに、すでに自我を失っている者ばかりだ」

「返り血ってのは、そのときについたのか。そいつらはどうしたんだ?」

「手加減できる状態じゃなかった。それに、外に逃がすわけにもいかん。悪いが、全員殺した」


 鼓動が大きくなる。デイガールの服についている返り血が、やけに鮮明に俺の目に映った。ライナが犯した失敗を、俺はその何倍もの規模でやってしまったのではないか。


「私が黒魔術師たちと戦っている隙にプエルは姿を消した。それから私は来た道を辿り、お前と別れた地点に戻ったが、お前の姿はなかった。居場所を突き止める手段はないか、トイバー邸に戻ってカン・ハファーカイに尋ねていたところで」デイガールはクラミーを顎でさし、「こいつが居場所なら分かると言ってきた」


 俺はクラミーに視線を向ける。どうして俺の居場所が分かったのか、おずおずと尋ねるも、


「天才なので」


 といういつも通りの返答が、いつもよりぶっきらぼうに返ってきた。


 まあ、このさいクラミーがどうして俺の居場所を特定できたのかはおいておこう。それよりも、デイガールがどうしてあれほど怒っていたのかが気になる。理由はやはり、サンファン邸にあったという地下施設だろうか。


「なあデイガール、サンファン邸になにがあったんだ? あとでって話だったけど、分かる範囲でいいから教えてくれ。地下施設ってのはいったい――」


 黒い影が、デイガールのすぐ横でうごめいた。部屋の中で、視界の隅をゴキブリが横切ったときのような怖気が走る。次の瞬間、車内に血しぶきが舞う。デイガールの脇腹に、ブラックスパイが突き刺さっていた。


「クソが!」叫ぶデイガールの口から血が飛び散り、念動力ではなく、自らの手で直接ディエゴの首を掴んだ。



「ライナ!」デイガールは俺の名を叫んだが、視線はクラミーに向けられていた。その意味を察し、俺は揺れる車内でクラミーに覆い被さる。


 デイガールの脇腹に刺さっていたブラックスパイが、彼女の体を切り裂くように真横へふるわれる。傷口から大量の血が噴出し、それを目くらましにするかのごとく、ブラックスパイの黒い刀身がクラミーに襲いかかる。間一髪のところで俺が盾になり、大精霊の加護とブラックスパイのぶつかる音が、試合開始のゴングのように響き渡る。


 デイガールの視線がすぐさまディエゴの左腕に向けられ、右手と同じようにねじ曲げた。骨の折れる不快な音が鳴り響き、ディエゴは苦悶の表情で歯を食いしばる。ライド装置の駆動音が空気を揺らし、ディエゴは渾身の力で座席を蹴って、壁を破壊しながら外に飛び出た。


 デイガールは壁に空いた大穴から顔を出す。後方を見て、大きく舌打ちしたあと、前を向き「止めろ!」と叫ぶ。魔動車が急停止する。デイガールが外に飛び出す。


 俺はクラミーをかばった体勢のまま、呆然としていた。車内はデイガールの血が飛び散っている。錆びた鉄のような匂いが鼻腔を満たす。我に返った瞬間、吐き気に襲われた。


 これほど大量の血を見るのは初めてだ。口元を抑えて、這い出るように外に出る。外の空気を大きく吸う。しかし、血の匂いが消えない。それもそのはずで、俺の体は血だらけだった。


 今度はこらえきれなかった。舗装された石畳の道路に向かって、盛大に吐いた。限界まで我慢していた小便を出したときのように、体がぶるりと震え、それが恐怖による継続的な震えへと変わっていく。


「ライナ殿!」


 いつのまにかクラミーがそばに居て、背中に手を置いていた。


「大丈夫ですか?」


 強がろうにも、声が震えて、意味をなさない。


「ライナ殿……まさか、これほどとは」


 クラミーの言葉が、落胆した、と言っているように聞こえ、俺は自分でも分からないうちに「違う!」と叫んでいた。「大丈夫、大丈夫だから」言った途端、切り裂かれた瞬間に見えたデイガールの内臓がフラッシュバックする。新鮮な血を帯びた、ピンク色の肉。もう一度盛大に吐き、よだれに混じって涙が一滴地面に落ちた。


「申し訳ありませんでした」


 どうしてかクラミーの謝罪が聞こえた。


「記憶だけでなく、知識も経験も失われている。そう頭では分かっていたつもりでしたが、その深刻さを理解できていませんでした。天才らしからぬ失態です。申し訳ありません、ライナ殿」


 クラミーは俺の肩を抱きながら、ぶかぶかのローブで俺の口元を拭う。俺はそれを払いのけ、「平気だって言ってんだろ」言ったあとに、猛烈な後悔の念に襲われ、「ごめん」と謝る。



 無かったことにするように、あるいは逃げるように、なけなしのプライドで立ち上がる。


「それより、デイガールは? 無事なのか?」


 ディエゴを追いかけていったように見えたが、あの傷で? いや、追いかけるときにはもう傷口が塞がっていたような気もする。一瞬だったし、混乱していたから確かなことは言えないが。


「デイガール殿なら大丈夫でしょう。日が沈んでいるうちはほとんど不死身なのです」


 クラミーは先ほどの俺の態度をまったく気にした様子もなく言った。あまりに平然としているものだから、むしろ隠しているのだろうと思った。それと同時に、本気で気にしていないのかもしれないとも希望的に思う。


「トイバー邸に戻りましょう。ここに来るとき、デイガール殿と話し合ったのです。また別れるようなことがあれば、トイバー邸を集合場所にと。なにより、あそこが一番安全なのです」


 優しい声だった。いたわるような声だった。そうさせていることが、無性に許せなかった。


 悔しさや惨めさとは違う、猛烈な恐怖が襲いかかる。崖っぷちに立たされているような感覚。あと一歩で転げ落ちる。二度と這い上がれないところまで。


「このまま終われるかよ」


 俺もディエゴを追いかけなければ。いや、プエルを探すべきか。とにかく、なにかしなければ。だって俺はまだなにも成していない。捕まっていただけだ。吐いただけだ。そんなのクニツ・ライナじゃない。異世界ハーレム主人公なんかじゃない。届かないのはわかっている。けれど、少しでも手を伸ばさなければ。


 焦燥感から、ほぼ無意識に足は動いた。ただ、後ろから腕を掴まれて、止まった。振り返る。クラミーが俺を見ている。


「はなしてくれ。俺も行かなきゃ」

「トイバー邸に戻りましょう」


 くちびるをかみしめる。押し寄せる感情が止められない。やめろ、お前は今冷静じゃない。わずかに残った理性が告げる。しかし、俺はそれを無視してしまう。


「なんでだよ」


 理由を言ってくれ。俺が行ってはならない理由を。お前はいつもそうだよな、ライナは天才だからといって、行間を飛ばす。理解してくれるだろうと勝手に判断する。エルフェンランドがあれば安全なんだろ? だったら、好きにあがかせてくれよ。集合場所だって、俺の居場所が分かるんなら、どこだっていいじゃねえか。


「……わからないのですか?」

「わかんねえよ!」


 思わず怒鳴っていた。クラミーの言いようにかちんと来たわけじゃない。クラミーの声がひどく悲しそうに聞こえたからだ。ようやくわかった。こいつは俺が突然天才じゃなくなって悲しいのだ。天才同士、良き理解者を失ったことを嘆いているのだ。


 怒鳴り声に驚いたのか、俺の腕を掴んでいたクラミーの手がゆるむ。その手をふり払い、クラミーに背を向けて走り出そうとする。


「待ってください!」


 今度は後ろから抱きつかれ、体ががくんと止まる。


「はなしてくれ。大丈夫だから。そりゃ、昔みたいに上手くはいかないだろうけど、役に立ってみせるから。だから、行かせてくれ。少しでも失望されないように頑張るから」


 懇願だった。シャツについた染みを焦って拭き取ろうとして、むしろ染みを広げるような愚かさを自分に感じる。だけど、俺はハンカチで乱暴に拭うしか方法を知らない。


 クラミーの腕は緩まず、むしろ、一層きつくなる。


「でしたら余計に行かせられないのです!」

「だからなんでだよ! 教えてくれよ! わかんねえんだよ、俺は……」


 天才じゃないから。すんでのところでその言葉を飲み込む。これだけは言っちゃ駄目だ。クラミーの前でだけは、絶対に。


 クラミーの腕を力尽くで引き剥がそうとするが、いったいなにがそうさせるのか、クラミーは決して俺をはなさない。クラミーが背中越しに叫ぶ。


「私の知るライナ殿は! このような状況で仲間を置いていったりしないのです!」


 がらりと、足下がぜんぶ崩れ落ちたかのような感覚に襲われる。


 クラミーの言うとおりだ。こんな状況で仲間を放って、ましてやデイガールにあれほど心配されていたクラミーを放って、俺は一人でどこに行く気だ?


 俺の今すべきことは、クラミーを安全にトイバー邸まで送り返すこと以外にない。


「帰りましょう、ライナ殿」


 でも、と言っている自分がいる。でも、の続きは、なにも思い浮かばない。


 クラミーは俺の背中に顔を押しつけ、くぐもった声を出す。


「ここに来る途中、デイガール殿に言われたのです。今のライナ殿は、私たちがかつて頼り切っていたライナ殿ではないと。そんなはずはない、知識や経験が失われようと、その天才性だけは変わらない、私はそう反論しました。しかし、正しかったのはデイガール殿だったのです。今のライナ殿は、私の知らないライナ殿なのですね」


 クラミーが体を離す。恐る恐る振り返ると、クラミーは凜とした表情で俺を見ていた。


「ようやくわかったのです」


 いいや、こいつにはわからない。心の中で、そう反論する自分がいる。こいつは俺を記憶喪失のライナだと思っている。だけど本当はそうじゃなくて、俺はライナとは全くの別人で、それどころかなに一つ勝っている要素のない凡人だ。クラミーはそれを知らない。だから、わかりようがないのだ。そのはずなのに。


「ライナ殿は、ずっと苦しんでいたのですね」


 俺の事情なんてなにも知らないはずのクラミーは、どうしようもなく俺の気持ちを見抜いていた。


 そうだ。苦しかったんだ。ライナとは一週間だけの付き合いだったけど、生まれて初めてできた友達だった。その名前を汚したくない。いつかあいつが帰ってきたとき、綺麗なままで返したい。なにより、俺をライナと呼び慕う仲間を失望させたくない。この思いは間違っていないはずだ。俺が頑張るための、正しい理由のはずだ。だけど、それと同時に、俺を苦しめてもいた。


「どうして、わかるんだよ」


 天才ですので。頭に浮かんだクラミーの答えが現実で重なる。


「ゆっくりでいいのです。焦らずとも、誰もライナ殿を見捨てたりしません。思い出が消えてしまっても、いえ、思い出が消えてしまったというのに、ライナ殿は私たちを大切に思ってくれている。それだけで私たちは、救われているのですから」

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