第30話

 大精霊の加護は絶対だ。ライド装置がいまだ調整中であろうと、その防御力だけは変わらない。それゆえに、魔動車がどれだけ激しく横転しようと傷一つ負うことはない。ただし、回転する視界だけはどうしようもなかった。手足を踏ん張ろうとするも、回転する車体の中では意味がなく、洗濯機に入れられた衣類のごとく振り回される。


 最後に大きな衝撃がきて、車体は止まった。その瞬間、俺の声が聞こえた。


「敵襲だ! ここは俺が引き受ける! デイガールは先に行ってくれ!」


 自分の口を手で塞ぐ。違う。俺は何も言っていない。そもそも声は魔動車の外から聞こえた。


「敵の姿が見えん。大丈夫か?」デイガールの声だ。さっきまで彼女が座っていた場所には誰もいない。おそらく日没が間に合ったのだろう。

「説明する暇はない。すぐに追いつくから先に行ってくれ」


 俺の声が勝手にデイガールと会話をしている。


「待ってくれデイガール! 偽物だ!」


 とっさに叫ぶも、返事が返ってこない。


 体を起こし、横転したせいで側面にきている天井部分を叩く。


「デイガール! おいデイガール!」


 やはり返事は返ってこない。なにが起こっているのか分からないが、とにかくやばい。腰からエルフェンランドを抜いて叩きつけるようにふるう。切れ味はすさまじく、俺の腕力でも薄い金属製の天井は難なく切り裂けた。外に飛び出ると、やはりデイガールの姿はなく、代わりに俺と全く同じ姿形をした誰かがいた。それが陽炎のように揺れ、徐々に高さを伸ばし、やがて正体を表す。


「……マスター・ハインツ」


 その名を呼ぶと、マスターは爽やかな笑みを浮かべる。


「ああ、この私だとも」

「あんたもグルだったのか」

「意外だね。気づいていなかったとは。てっきりバレているものだとばかり思っていたんだが。ああ、それともこの私に気を遣っているのかな? そうだね、確かに劇役者たるこの私からすれば、このほうが絵になるだろう」


 マスターは喉の調子を整えるように咳払いをし、両手を大きく広げた。


「そう! 今回の事件は全て、この私とザイファルト家が仕組んだことだったのさ!」


 マスターの通る声が周囲に響き渡る。間を置いて、マスターはきまりが悪そうに周囲を見渡した。


「やはり、観客がいないと気分が乗らないな」


 周囲には人っ子一人見当たらない。ここは裁判所からトイバー邸に罪人を運ぶ魔動車がよく通る道だ。そんな場所に住みたがる人間がいるはずもなく、道沿いの建物はほとんどが商人の所有する倉庫だ。


「どうでもいいんだよ、そんなことは。それよりそこを通してくれ」

「悪いがそうはいかない。せっかくデイガール嬢と君を分断できたんだからね」


 通さないつもりなら、強行突破しかない。ごくりとつばを飲み込み、俺はエルフェンランドを構える。

マスターは丸腰に見える。しかし、魔動車を吹っ飛ばしたのだから、油断はできない。


「峰打ちとか、器用な真似はできねえぞ」


 あわよくば退いてくれないかと、精一杯の強がりで言ってみるも、マスターは余裕たっぷりに笑うだけだった。

俺の剣術なんかが通要するはずはないし、そもそも人を斬る覚悟もない。ここはとにかく、マスターを躱してデイガールを追いかけよう。心の中でそう決め、一歩を踏み込もうとしたときである。横転した魔動車の影から、黒い人影が飛び出し、突然俺に斬りかかってきた。


 それをエルフェンランドで受ける――ことなどこの俺にできるはずもなく、突如として襲いかかってきた黒い刀身が、俺の首にぶつかる。上半身が軽くのけぞるも、大精霊の加護は全てのダメージを吸収する。


 不意打ちの主は飛び跳ねるように移動し、マスターの横に着地する。


「挨拶代わりのはずが、あっさり直撃とは。失礼ですが腕がなまりましたかな? それとも、防御する必要がなかったからですかな?」


 現れたのはディエゴだ。てっきりサンファン邸のほうにいるのかと思っていた。まさかここに現れるとは。


「くそっ、二対一かよ」ますます突破できる気がしねえ。

「安心したまえ、この私は手を出さないとも」


 マスターは言って、一歩後ろに下がる。それとは反対に、ディエゴが前に出てきた。


「お相手はもちろんこのわたくしめが」


 ディエゴの影から黒い霧のようなものが吹き上がる。それはディエゴの体を、足下から徐々に黒く染めていく。黒い羽虫が這い上がるように、足先から黒がのぼっていき、手首で止まる。ディエゴは白い手袋を外して地面に放る。そして赤黒い手でブラックスパイを構え、宣言した。


「聞け、我が剣を向けし汝、クニツ・ライナなる者よ。我が名『怪傑ゾロ』は汝を殺す名なり」


 突然、俺の視線が向けられた切っ先に集中する。まるで視界が狭まったかのように怪・傑・ゾ・ロ・と彼が構える剣しか見えなくなる。戦うしかない、という思考が猛烈な勢いで俺の頭を満たす。


 怖い。それも尋常じゃなく。だというのに、俺の頭には、立ち向かう以外の選択肢が思い浮かばなかった。


「う、うおおおおおお!」


 恐怖は一周回って高揚感に変わり、俺は雄叫びを上げながら、怪傑ゾロに斬りかかる。しかし難なく躱され、さらには足を引っかけられて盛大にすっころぶ。


 一カ所にとどまるな。倒れたならなおさらだ。転がるでもなんでもいい。とにかく体を動かせ。でないと格好の的だ。ライナの教えは体に染みついており、俺は転ばされた勢いのまま地面を転がる。


 敵の姿を視界から外すな。外れたならすぐに見つけろ。これもまたライナの教えだ。怪傑ゾロの姿を視界の端に捉えつつ、俺は急いで立ち上がる。


 怪傑ゾロは追撃の様子を一切見せず、一定の距離を保ったまま、感情の読めない冷たい目で俺を見ている。 


 先ほどよりも幾分か冷静な頭で、もう一度斬りかかる。早くデイガールのところに向かわなければ。こいつを倒して。


 またもや躱される。転ばされることはなかったが、よろけながら、再び怪傑ゾロへと向き直る。勢いよく突進しては駄目だ。簡単にいなされて、そのあとが隙だらけになる。


 大精霊の加護がありながら、しかし俺の動きは恐怖で慎重になっていく。怪傑ゾロは一向に反撃の気配を見せない。どういうつもりなのか、と考え始めたとき、怪傑ゾロの口元を覆う黒いもやが揺れた。


「忌々しい力ですなあ。どこをどう斬ろうと、殺すことはおろか、傷一つつけることも叶わない。とはいえ、それはそちらも同じこと。その程度の腕前では、万に一つもありますまい」


 平行線だ。俺の剣術では怪傑ゾロに傷一つ負わせることはできない。やつもそうだとするならば、この決闘に決着はつかない。


「時間ばかりが過ぎていく。あのときと同じですなあ」


 怪傑ゾロは剣を下ろし、黒いもやの内側から垂れ下がる、長く白い髭をさする。


「あなたは間に合わなかった。そして今回も、間に合わない」


 ライド装置の駆動音が鳴る。音というよりは、大気の振動が直に伝わるような感覚。まっすぐに見据えていた怪傑ゾロの姿が、カメラのピントをずらしたようにぶれ、次の瞬間、俺の体は吹っ飛んでいた。


 魔動車が横転したときと似た浮遊感が体を襲う。何かがぶつかったと知らせるための、体に負担を与えない程度の衝撃だけを、大精霊は俺に伝える。


 吹っ飛ぶ俺の体が止まるよりも先に、怪傑ゾロは二撃目を俺の首にたたき込んだ。真後ろに飛んでいた俺の体は直角に地面に叩きつけられ、石畳の道路が砕け散る。


 黒魔術による身体強化とライド装置の合わせ技。エルフェンランドに搭載された特別仕様のライド装置にも引けを取らない出力。それが地面に後頭部の埋まった俺に向かって、続けざまに襲いかかる。とっさに両腕で頭部をかばうと、それを読んでいたかのように、ブラックスパイは心臓めがけて突き立てられる。じたばたと暴れるようにエルフェンランドをふりまわすが、むなしく宙をきるばかり。


 一方的だった。しかしそれでも、俺の体には傷一つつかない。痛みすら感じない。怪傑ゾロが攻撃をやめるのと、俺が抵抗をやめるのは同時だった。


 ライド装置の駆動音がやみ、怪傑ゾロは息を切らしながら、地面に横たわる俺を見下ろす。


「弱い。弱すぎる」


 落胆するように言って、怪傑ゾロは剣をしまった。


「確かに、あのときわたくしめはライド装置を持っていなかった。今のわたくしめはあのときと比べものにならぬほど強い。だとしても弱すぎる」


 怪傑ゾロは俺から離れ、あろうことか背を向けた。


「それでも殺せないとは。やはり、忌々しいですなあ」


 怪傑ゾロの体を覆っていた黒いもやが、足下の影に吸い込まれていった。


「もはや黒魔術を使う必要もありますまい」


 急に視界が広くなった。割れた道路、退屈そうにしているマスター。さっきまでは怪傑ゾロしか見えていなかった。それが急に色々なものが見えだして、数秒呆ける。


 次いで、決闘に集中していた思考が他のことに回り始めた。


「ディエゴ、なんだよな?」


 当たり前だ。他の誰にも見えない。しかし、俺は無意識のうちにその男を別の人間として認識していた。不思議なことに、怪傑ゾロとディエゴは別人であるように俺には思えた。それが黒魔術の影響であることに遅まきながら気づく。


 様々な疑問が頭の中に渦巻いた。怪傑ゾロは死んだはずではなかったか? どうしてデイガールと俺を分断した? そうだ、デイガール。彼女を追わなければ。


 立ち上がろうとしたところを、マスターに地面に組み伏せられる。


「はなせ!」

「はっはっは! 言われてはなす者がいるかい?」


 ライド装置を起動すれば力任せに突破できるかもしれないが、このあいだのようになっては本末転倒だ。


 結局俺は、子どものようにわめくしかできなかった。


「くそっ! なにがしたいんだよお前ら!」

「それはこの私も聞きたいね。武術のほうはまあ、正直落胆を隠しきれないが、クニツ・ライナのすごさはそこじゃない。その頭脳だ。未来が見えているとさえ言われた天才が、聖剣の加護で身を守っているんだ。これほど恐ろしいことはない。そんな君だ、全て見抜いているんだろう? なのにどうして邪魔をするんだい?」


 悔しさで喉が焼ける。組み伏せられたまま、地面に頭をこすりつけるようにして、うめくように言う。


「知らねえよ。買いかぶりすぎだ。俺はただ、プエルが間違ったことをしようとしてるなら、止めたかっただけだ」


 ディエゴが冷ややかな視線で俺を見下ろす。


「演技でしょうなあ。このようなことを言う人間ではない」

「いいや、演技ではないようだよ。役者であるこの私が言うんだ。間違いない」


 俺の上でマスターが言うと、ディエゴは小馬鹿にするように笑った。


「役者などと、どの口が。まあ、偽ることには長けているようですが」

「はっはっは! ではこう言っておこう。大丈夫、天才だから」


 のんきに会話しやがって。くそっ、惨めだ。こうして押さえつけられることしかできないなんて。


「さて、話を戻そうか。しかしそうか、見抜いていなかったとは。それではこの私らしく、授業の時間といこうじゃないか。知りさえすれば、君も心変わりをしてくれるかもしれないしね。安心したまえ、授業料は取らない。若者を導くのは、マスターたる私の務めだ」


 マスターは手際よく俺の手首をロープで縛ると、立ち上がらせ、近くにある倉庫まで連れて行った。抵抗しても無駄であることはわかりきっていたので、俺は大人しく連れて行かれる。


 倉庫の扉は南京錠で固く閉ざされていた。ディエゴが血のしみこんだような赤黒い手をかざす。黒いもやが南京錠を包み込み、それが消えると南京錠は外れていた。


 倉庫内には中身の詰まった麻袋が大量に積み上げられている。ディエゴはライド装置を起動させ、重そうな麻袋を片手で抜き出し、床の空いているスペースに放る。三つ放ったところでライド装置を切り、麻袋の上に腰を下ろした。マスターも同じように座り、「座りたまえ」と俺にも着席を促す。


 焦る気持ちもあったが、大人しく座る。


「さて、君はプエル君が間違ったことをしてるなら止めたい、と言ったね。それでは単刀直入に訊こう。プエル君がスター・イン・マイ・ハーツとして活動していたのは、間違っていたと思うかい?」

「義賊とはいえ賊は賊だ。そう言ってたのはマスターだろ」

「あれは建前さ。あの場ではああ言うに決まっているだろう? それに、あれは黒か白かという問いだった。黒魔術なのだから、黒に決まっている」

「だったら間違ってるだろ! 黒魔術は犯罪を重ねて魔術に昇華するんだろ!? 間違ってなくてなんだってんだ!?」


 なんなんだ。犯罪を正当化しようとしているのか? それで俺を説得しようとでも? 俺は騙されねえぞ。そもそもこんなやつら信用できるか。俺が今信じるべきはデイガールだ。


「黒魔術は犯罪を魔術に昇華しているんじゃないよ」


 マスターはさも当然のように言う。


「は?」という声が思わず出る。

「殺人、窃盗、強姦、暴力、詐欺、他にも挙げればきりがないが、一般的に悪であるとされる行為を魔術として昇華する。それが黒魔術だ」


 俺の言っていることと何が違うんだ。そんなのぜんぶ犯罪じゃねえか。


「もっとわかりやすく言おうか。ここに居る老紳士が、とんでもない殺人鬼だったとする」


 マスターはそう言ってディエゴを手のひらでさした。


「とんだブラックジョークですなあ」

「善良な一般人を守るため、この殺人鬼を殺したとしよう。それは悪かい?」

「それは……」


 答えに窮する。しかしそれでも、言わなければいけない。


「だとしても、殺すのは悪だ」


 否定されるかと思ったが、マスターは「その通り」とうなずいた。


「殺すのは悪だ。理由など問わない。それが黒魔術の真実なのだとも。たとえ虐げられる民を救うためだろうと、悪徳貴族を殺すのは黒魔術であるし、生きるために仕方が無かったとしても、窃盗も詐称も黒魔術だ」

「なにが言いたいんだよ」


 これでは本当にただの授業だ。それを俺に教えてなんになる。こいつらの目的はなんだ?


「黒魔術のなにがいけない?」

「なにがって……この国じゃ、黒魔術は使うことはおろか、情報すら規制されたんだろ。犯罪を正当化しようとしてるようにしか聞こえねえよ」

「思っていたより堅物なんだね、君は」


 ほんの少し、マスターの口調に苛つきが感じられた。余裕を感じさせるたたずまいしか見たことがなかったせいか、わずかに見えたその感情は俺を驚かせた。


「黒魔術の使用や知識の伝達が禁止されているのは、心が黒く染まり自分を止められなくなるからだ。白魔術はその結果として善人を生み出すが、黒魔術は悪人を生み出してしまう。だから禁止されているのだよ」

「だったらなおさら駄目じゃねえか」

「黒魔術をコントロールできればいい」

「でもそれはできねえって」


 俺の言葉を遮り、マスターは言う。「ここにその成功例がいる」


 勢いよくディエゴを見る。そうだ。こいつが怪傑ゾロだとしたら、黒魔術に心を支配され、自我を失った化物になっているはず。しかし、今日までのディエゴにそんな様子はみられなかった。今でも正気を保っているように見える。


「できるのか?」


 ディエゴは顎髭をさすりながら、


「難しいですが、不可能ではありませんなあ」


 ……いや、だからどうした。プエルが黒魔術をコントロールできたとして、だからどうなる?


「政治的な話をするとね、ハインツ家としても、その方法を知りたいのだよ。この私が彼に協力しているのは、その方法を聞き出すためだ」マスターはディエゴをちらりと見る。「そろそろ教えてくれないかい?」


 視線を受けたディエゴは不敵に微笑み、


「まあ、確かに、そろそろ頃合いですかなあ」


 そう言って、身をかがめ自分の影を手で撫でた。その様子に、俺は違和感を覚える。しかし、違和感の正体はつかめない。


「黒魔術とは、影なのです。闇と言ってもいい。世間に悪と呼ばれる行いは、全て心の闇からくるもの。わたくしめも初めは、民を救うという正義の心から決意をしたと、そう信じ込んでおりました。しかし、今思えばなんと愚かなことか。人を人として扱わぬあの貴族たちへの憎しみ、それこそが我が行いの正体であると、この身が黒魔術に染まった頃、ようやく気づかされた次第で」


 ディエゴは自分の影から手をはなす。しかし、視線だけは影に落としたままだった。


「黒魔術に心を支配されたとき、わたくしめの自我は闇の中におりました。何も見えぬ暗闇ですなあ。自分の姿すらみえない。あとから聞いた話によれば、そのときのわたくしめの姿は、まさしく影の固まりだったと」

「それで、どうやってその状態から抜け出したのかな?」マスターは急かすように訊く。


 ディエゴは倉庫の天井を見上げる。円を描くようにルーン文字が刻まれており、その中心が発光して明かりの役目を担っている。その光に目を細めながら、ディエゴは語る。


「闇を打ち払うのは、光しかありますまい。一人の少女が、暗闇の中にいたわたくしめを照らしたのです。その強烈な輝きは、わたくしめの中にあった闇を、影に押し込めました。以来、わたくしめは黒魔術を使っても、その輝きを思い出すことで意識を保っていられるのです」


 そう語るディエゴの足下を見て、正確には影を見て、俺は数分前に抱いた違和感の正体に気づく。影の向きがおかしいのだ。俺やマスターの影とは明らかに違う方向を向いている。


「おや、気づきましたかな?」ディエゴは影を手でなぞりながら、「わたくしめを照らしているのは、天井の照明にあらず。太陽にあらず。ロリータの発する光のみ。ゆえに、わたくしめの影はいつでもロリータのいる方向と反対に伸びるのです」


 ディエゴは突然立ち上がり、両手を広げる。


「ああ、我が愛しのロリータ! あの無垢な輝きこそ、我が心のしるべ!」


 熱に受けされた様子で声を張り上げたあと、ディエゴは突然俺に剣を突きつけてきた。


「それを貴様は侮辱した! あのときの言葉、ひとときたりとも忘れたことはない!」


 血走った目で睨まれ、鳥肌が立つ。


 まったく心当たりがないので、過去にライナがなにか言ったのだろう。ロリータとやらを侮辱する言葉を。


 ディエゴは俺に顔を近づけ、にっこりと笑う。


「ええ、わかっていますとも。あれはわたくしめを挑発するために言ったのでしょう。わたくしめの冷静さを失わせ、少しでも突破する隙を作り出すために。もちろん分かっております。とはいえ、謝罪が欲しいところですなあ」

「え、ああ……その、あのときは悪か――」


 身に覚えがないせいか、歯切れの悪い謝罪を口にしていると、ディエゴが突然俺の頭を掴んで、力任せに地面へと引きずり倒した。


「その程度の謝罪で許されると思っているのか貴様! 我が愛しのロリータを侮辱したのだぞ!」


 俺の頭で地面を割ろうとしているのか、それとも、地面で俺の頭を割ろうとしているのか、たぶん後者だろう。とにかく、ディエゴは俺の頭を掴んだまま何度も地面に叩きつける。


「否定しろ! 否定しろ! 否定しろ! 売女という言葉を! あのとき貴様が吐いた言葉を一言一句撤回しろ!」


 ひとえに恐ろしかった。ヤクザに恫喝されてるかのような気分だ。いや、大量殺人鬼に恫喝されているのだから、もっと酷い状況かも知れない。


「悪かった! 謝る! 売女じゃない! 素敵な女性だロリータは!」


 ロリータが誰なのか知らないながら、とにかく必死に謝るも、ディエゴの怒りがおさまる様子はない。


「なにを分かったような口を! 貴様もそこらの下賤な輩と一緒なのであろうが! 心の底では淫乱だなんだと思っているのだろうこの下衆が! ロリータは確かに男遊びが好きだがなあ、それは興味を引くものを見つけるとつい駆けていってしまう子どものような純真さからきてるんだよ分かってるのか貴様ァ!」


 怖い怖い怖い! もはやなにを言っているのか分からない。視界が地面とディエゴの恐ろしい顔を行ったり来たりして酔ってきた。なんだこいつ、本当に黒魔術をコントロールできてんのか? 正気じゃないだろぜったい。


 数分後、息を切らしたディエゴと、ぐったりと地面に横たわった俺を交互に見て、マスターは呆れた声を漏らす。


「まったく、過去になにがあったか知らないが、無駄な時間を使わないで欲しいね。だいたい彼女はそんなの気にしないだろう?」


 マスターはロリータを知っているのか、そんなことを言う。ディエゴは何も言わず、息を整えていた。


「とにかく、ディエゴ殿にとってカレン婦人がどれだけ大切なのかはよくわかった。それほどの存在を光として、黒魔術をコントロールするわけだね」


 どうしてカレンの名前が出てくるんだ?


「そしてプエル君にとっての光というのがデイガール君だと、そう思っているわけだね?」


 マスターは確認するようにディエゴを見る。ディエゴがうなずくと、マスターは手をパンと叩き、


「よし、これで全て分かったかなライナ君? プエル君は今まさに、黒魔術によって自我を失いかけている。それを止めるためにはデイガール嬢が必要だ。だから我々は君をここに拘束している。要するに、我々はお邪魔虫というわけだね。我々がいては話せないこともあるだろうし、二人きりにしてあげようではないか」


 こいつらの話が本当なら、ここで大人しくしているのが正解なのかもしれない。しかし本当である確証もない。だからといって、俺が行ったところで何ができる? そもそもたどり着けるのか? 両手の拘束を解き、この二人から逃げ切って、デイガールの元にたどり着けるのか? できるはずがない。


 結局、無力な俺には選択肢などなく、この倉庫の中で大人しくしているしかなかった。


 日が昇るまで――つまりデイガールの力がおさまるまで、俺たちは倉庫の中にいることになった。あれほどの力を見せたディエゴでさえ、夜のデイガールには敵わないのだという。マスターと力を合わせても逃げるのが精一杯らしい。


 暇を持て余した俺は、なにかできることはないかと考えを巡らせる。思いついたのは、話を聞くくらいだった。格好良く言えば情報収集だ。


「プエルはなんで力を求めたんだ? 黒魔術の危険性は知ってたわけだろ?」


 ディエゴがそそのかしたんじゃないかと勘ぐっているのだが、あくまでプエルの意志だとディエゴは言い張った。


「あなたには分かりますまい。トイバー家にはカンの魔女魔術、ハインツ家にはマスターの白魔術、ドン家には破滅の十三の混沌魔術。現在のクッスレアを代表する三つの貴族には、代々受け継がれてきた大きな力が存在する。しかし、ザイファルト家にはそれがないのです。アンドレアス様が一代で興した家ですからなあ。アンドレアス様はそれを悔しく思っておられました。ゆえに黒魔導師であるわたくしめをお抱えになったのです。ザイファルト家が背負った悪名を黒魔術に昇華し、力に変えようとしたわけですなあ。そしてその力をザイファルトの名に込め、継承できるようにと」


 プエルはそれを継承したのか。アンドレアスの企みを知って、自分もそれを利用した。身近に転がっていた力をつい手に取ってしまった。


「プエル坊ちゃまは、当主を継ぐことが決まるまで、アンドレアス様の悪行を一切知りませんでした。たった一代でダイアモンドクラブ入りを果たした偉大な父上だと、尊敬すらしていたのですよ。巷に流れる悪い噂も、全ては嫉妬からくる嘘だと信じておられました」


 しかし、蓋をあければアンドレアスは噂通り、いや、それ以上の悪人だった。噂に流れている悪行など氷山の一角だっただろう。アンドレアスが死に、当主を継ぐためにザイファルト家の一切を知るにつれ、父親のやったことがどんどん明らかになっていった。尊敬していた偉大な父親が、正真正銘の悪徳貴族だったと知ったとき、プエルはどんな気持ちだっただろうか。真面目なあいつがどれほどのショックを受けたのか、俺には想像もつかない。


「坊ちゃまは強いお方です。最後には全てを受け止め、その悪行を背負い、力にすることを決断されました。スター・イン・マイ・ハーツの件は、黒魔術の訓練も兼ねた罪滅ぼし、というところですか」


 犯人も動機も分かった。真相は全て明らかになったと言っていい。だからあとは……。


「もしプエルが黒魔術をコントロールできなかったら、どうすんだよ」


 俺が一番恐れているのはこれだ。あいつが自我を失った悪人になるなんて、許されない。根っからの悪人が黒魔術で自我を失うのとはわけがちがう。あいつは本気でこの国を良くしようとしていた。そんなやつが悪人へと成り下がってしまうなんて、そんな悔しいことがあるかよ。


「できますとも。わたくしめはそう信じております」


 力強い口調で言うディエゴに、しかしマスターは現実的な話をする。


「信じるのは結構だけれど、失敗したときのことは考えておくべきじゃないのかな? この私はてっきり、黒魔術をコントロールする確実な、とまではいかずとも、高い確率で実現可能な方法があると思っていたんだが、話を聞いた限りでは奇跡的な話のように思える。それに、プエル君を止められるのはデイガール嬢しかいないとこの私も確かに思う。しかし、それは過去の話のようにも思うのだよ。プエル君が太陽のような笑顔だと言ったのは、復讐を成す以前の彼女だろう? 今の彼女は、プエル君が憧れた純朴な町娘ではない。夜の女王だ」


 マスターの話を受け、ディエゴは腰に差したブラックスパイに手をかける。一瞬、剣を抜くのではないかとひやりとしたが、柄の部分をゆっくりと撫でながら、


「失敗したときは、わたくしめが責任を持って殺しましょう」


 それがプエルの命令だと、ディエゴは言った。

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