第7話

 クッスレアの東側には広大な海が広がっており、そこにある港を管理していたのがトイバー家だ。


 トイバー邸は港と農業区を隔てる丘陵地帯に建っており、周囲は森に囲まれている。


 王国中心部に位置する城下町へ行くには、港とは反対側に森を抜けることになる。それから田園風景の広がる農業区を進み、太い川を渡って都市部に入る。都市部には王宮を中心に石畳の道路が蜘蛛の巣のように張り巡らされており、ひときわ背の高い王宮を目印に進んでいけば城下町だ。


 ああそうそう、魔動車っていうのは、車輪の回転という現象をルーン魔術で再現し走らせる車だ。見た目は馬のいない馬車といったところか。


 そんなわけで、俺はステフと二人、魔動車に揺られることになるわけだが、舗装の行き届いていない田舎道は車体が大きく揺れ、そのたびにステフの大きな胸が揺れる揺れる。向かい合わせに座っているせいで視線が吸い込まれそうになってしまい、俺はそれを必死に上へと持ち上げなければならなかった。


「あの、ライナ様、天井になにか?」

「いや、なにもない」

「でしたらなぜ天井をご覧に?」

「なにもないからだ」


 そう、天井にはなにもない。揺れるおっぱいも、目を合わせるたびに頬を染める、恋する乙女もいない。うっすらと木目が見えるばかりだ。おお、あの木目、おっぱいの形にそっくりだ。っていかあああん!


「ステフ、隣に座ってもいいか?」

「っ!? はい! もちろん!」


 うわずった声を出すステフの隣に座り直そうと立ち上がった俺だったが、そのとき車体が大きく揺れた。


「おわっ!?」


 運動音痴でバランス感覚皆無の俺は当然足をふらつかせ、ステフのほうに倒れ込んでしまう。


「危ねえ!」ステフは叫び、迷わず俺を抱き留めた。


 俺の顔面はすっぽりと谷間に埋まり、これが噂のラッキースケベ、じゃなくって!


「わ、悪い! っておわっ!」


 勢いよく体を離すと、今度は後ろに倒れてしまった。壁で思いきり頭をうつも、大精霊の加護のおかげで痛みはない。


「大丈夫ですかライナ様!」


 ステフが素早く俺の隣に移動し、頭部に神聖魔術を使おうとする。


「治療しなくていいぞ。ほら、エルフェンランドあるから。それより、そっちこそ大丈夫か?」

「私は大丈夫です。その、鍛えているので」


 ああ、そうだった。アマゾネス系女子だった。あのおっぱいの下には分厚い胸筋が眠っているのだろう。巨乳なのはそのせいかもしれない。胸筋のぶん上乗せされているのだ。そうだ、騙されるな。あれは胸筋、あれは胸筋、あれは胸筋……いや、さすがに無理があるな。隣に座っている今でさえ、わっさわっさ揺れているのが視界の端に映る。


 そんなことをしているうちに、早くも城下町に到着した。お目当ての店の前で下ろしてもらい、へこんだ壁についてはあとでライナ騎士団に請求するよう頼んでおいた。


「ここか……」


 店の外装からして高級感が溢れていた。というより、この店だけ外装がやけに近代的だ。たしかこのあたりは、城下町の中でも特に高級な店が建ち並ぶエリアのはずだが、この店だけ面積も異常に広い。


「プ、プレタポルテ……マジできちまった」


 ステフがそう口に出し、ゴクリとつばを飲み込む。まるで今から魔王と戦うかのような面持ちだ。


 その緊張感に釣られ、俺も思わず体をこわばらせてしまう。そもそも俺は服屋に入ったことがないことを今更ながら思い出す。たしか服屋というのは、入店したら最後、特殊な周波数で話す店員に捕まり、一説によればその声は催眠音波らしく、気がつけば衣服を買わされる場所らしい。はたして大精霊の加護それを防いでくれるのか。俺はステフがそうしたように、ごくりとつばを飲み込む。


 どちらも緊張のあまり動けないでいると、店の扉が内側から開いた。中から店員を引き連れた女性が出てくる。黒い布地に金の刺繍をちりばめた高級感溢れるドレスに身を包んだ、絶世の美女だった。驚くほど腰が細く、コルセットで持ち上げた胸がはち切れんばかりにドレスの上部から顔を出している。その美女は、店先で突っ立っていた俺たちに気がつくと、


「あら、これは偶然ね」


 とにこやかに笑った。


 やばい、誰か分からん。横目にステフを見るが、美女に見とれている。


「あ、ああ、えっと、これは偶然。ハハッ」


 なんとか声を出すも、ハリウッドセレブのようなオーラを出す美女に気後れしてしまい、ミッ○ーマウスのような笑い声しか出なかった。それに、誰か分からない。向こうは俺、というかクニツ・ライナを知っているようだし、これはマズい、と困っていると、彼女の後ろで台車を押していた店員らしき男が、大きな声を出してきた。


「すみませんライナ様! ご到着なされていましたか。お出迎えが遅れました。ああ、えっと、ご存じかもしれませんが、こちら、カレン・ザイファルト様でございます」


 カレン・ザイファルト。たしか、このあいだまでザイファルト家の当主代理を務めていたとかいう、アンドレアスの妻だったか。


「紹介は結構よ。幾度か顔を合わせているから」

「さようでしたか。失礼いたしました」


 店員らしき男は深々と頭を下げ、台車をガラガラ運んでいく。


「息子の晴れ舞台なものだから、私もドレスを新調したの。もちろん、息子の服も新しいのをね。今日はそれを受け取りに。普段は屋敷まで送ってもらうのだけれど、待ちきれなくて。ふふっ、子どもみたいで恥ずかしいわ」

 

 大人びた艶やかさに反し、笑顔は子どものように無邪気だ。


「そちらも似たような要件かしら?」

「あ、ああ……似たような要件。ハハッ」


 ダメだ。オーラがすごすぎてオウム返しのような返答しかできん。しかもまたミッ○ーの笑い声が出てしまった。この世界にミッ○ーがいなくてよかった。もしいたら、なんでこの人はいきなりミッ○ーの真似をしているのかしら? と思われてしまう。


「どうしたの、そんなに緊張して、珍しいのね。あら、そちらのお嬢さんは……ああ、もしかしてお忍びだったかしら、それは失礼したわ」


 なにか勘違いしてくれたらしく、カレン・ザイファルトは優雅に手を振ってこの場を去っていった。


「すげえ……」


 ステフが彼女の背中を見つめながらつぶやく。そしてはっとしたあと、弱々しく言う。


「あ、あの、やっぱり私は遠慮しようかと」

「なに言ってんだよ。せっかくここまで来たんだ。ほら、店員も急いでこっち来てるし」


 荷物を運び終えた店員が、カレン・ザイファルトの乗った魔動車を見送り、こちらに小走りで駆けてくる。


「ですが、あのような貴婦人を見てしまうと、その……」


 意外と自信ないんだな。ステフも負けず劣らずの美人なんだが。筋肉のせいだろうか。まあ、確かに俺も初見では引いてしまったが、別に悪いことじゃないんだし。


「大丈夫、ステフも負けてねえよ」

「そ、そんな」


 俺の励ましで女の子が顔を赤くするなんて嬉しいことだったが、もちろんこれは俺がクニツ・ライナだと思われているからだ。


「すみません、お待たせしました。それではご案内いたします」


 店員に深々と頭を下げられ、思わず萎縮しながら、俺とステフはようやく入店を果たした。

 

 高級服といえばオーダーメイド。そんな常識を覆したのが、このプレタポルテというブランドであるらしい。それゆえに、この国で唯一、既製品の高級服を取り扱っている。顧客の要望が一切無い状態で、一流のデザイナーが作りたいものを作りたいように作るという手法は、さながら芸術家がゼロから作品を生み出すかのような自由さを実現させ、多くの者を魅了した。店内に並ぶきらびやかな衣装はすべてアート作品そのものなのだ。


「もちろん、オーダーメイドの製品も取り扱っておりますので、お気に召すものがなければ改めてご要望をお聞きします」


 店員はプレタポルテというブランドの説明を交えながら、店内を案内してくれる。


 もちろん今回は時間が無いので、既製品を買うつもりだ。


 ステフはドレスの値段を確認しては目を回している。


「こ、こんな、せめて、一番安いのを」


 しまいにはそんなことを言い出したので、袋に入った金貨をじゃらじゃらとならして見せつけてやった。


「遠慮せず好きなの選べって」


 ほうら、明るくなっただろう(気持ちが)。


「い、いえ、しかし、そんな」

「よし、じゃあわかった、こうしよう。値段見るの禁止な」

「ええ!?」


 ステフが驚いているあいだに、話を聞いていた店員たちが値札を回収し始める。


 それでもステフは覚悟が決まらないようで、オロオロとドレスの周辺を行ったり来たりする。どのドレスを選ぶか迷っているというよりは、ひたすらに困っている様子の彼女を見かねたのか、若い女性店員が寄っていく。


「採寸はお済みですか?」

「い、いえ、普段はこの修道服以外着ないので……」


 あ、そういえばカンちゃんに採寸してもらうの忘れてた。まあいっか。


「でしたら先に採寸を済ませてしまいましょう。そのほうが選びやすいと思いますので」


 ささっと機敏な動き、かつ自然なスマイルで、若い女性店員はステフを店の奥へと誘導する。


 残された俺のほうには男の店員が話しかけてきた。


「本日はお連れ様のドレスをご購入にいらしたと伺っておりますが、ライナ様はなにかお探しでしょうか?」

「いや、俺は別に」

「さようでございますか。失礼いたしました。なにかありましたらお声がけください」

「あっ、ちょっと待ってくれ」一礼して立ち去ろうとする店員を慌てて呼び止める。「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど、この枚数の金貨で買えないのってある?」

「確認して参ります」


 店員は俺から金貨の入った袋を受け取り、受付で枚数を数え始める。そしてすぐに戻ってくると「あちらのウェディングドレス以外であればお買い求めいただけます」と見るからに高そうな純白のドレスを指し示した。


 流石にあれは選ばないだろう。予算は大丈夫そうだ。


 待っているあいだ暇なので、なんのきなしに店内を見て回っていたところ、店の奥からステフと若い女性店員の会話が聞こえてきた。


「わあ、さらさらのブロンドヘアーですね。肌もお綺麗で。お手入れの方法、お聞きしてもよろしいですか?」

「第二の印がもつ治癒効果はお肌や髪の毛のダメージにも効きますので、修行もかねて、毎晩寝る前に」

「まあ、そうなんですか。どおりで教会勤めのかたは美人ばかりだと思いました。私も聖職者に転職しようかな、なんて」

「ふふっ、よろしければ少しお手入れしましょうか?」

「まあ! いいんですか? 是非お願いします!」

「もちろん。それでは、失礼します」


 いい感じで緊張も解けてるみたいだ。あの店員に感謝しとこう。


「スタイルのほうもなにか秘密があったりします?」

「これは、その、トレーニングを少々……」

「あの、失礼ですが、バストを大きくするトレーニング、なんてあったり?」

「いえ、そのようなものは……」

「ええ!? それでこのバストなんですか!? 私なんて寄せて寄せてこれですよお。あ、寄せてっていうのは、この服、というか下着がですね、今年の新作でして、内側に入ってる薄いコルセットが少し特殊で、背中のほうからお肉をこう、ぎゅっと前に……って、あははっ、お客様には必要ないかもしれませんね。ああでも、上の方に寄せるのは大事ですよ。ドレスの胸元からぷっくりと。これが男心をくすぐるんですって。あと他にもですね――」


 緊張をほぐすためだと思っていたが、もしかするとあの店員がおしゃべり好きなだけかもしれない。声が段々と大きくなってきて、ほかの店員がみんな笑顔を引きつらせている。そのうちの一人、メガネをかけたベテランっぽい女性店員が裏へと駆け込んでいった。途端に話し声がやむ。どうやらたしなめられたらしい。


 それから数分して、ステフが帰ってきた。一緒に出てきた店員は心なしか肌と髪が綺麗になっている気がする。メガネのベテランっぽい店員もだ。ちゃっかり第二の印を使ってもらったらしい。ああ、第二の印っていうのは、怪我を治す神聖魔術だ。仕組みは知らんが、骨折程度なら数秒で治る。異世界すごい。


「お待たせしました」


 ステフはすっかり緊張が解けたのか、自然な笑みを見せてくれた。若い女性店員とはかなり打ち解けたらしく、説明を受けながら楽しそうにドレスを選んでいる。その様子を微笑ましく眺めていると、紳士然とした店員がそばに寄ってきて、こっそり話しかけてきた。


「申し訳ありません。お連れ様に失礼を……」

「いやいや、むしろ助かったよ。どうしようか悩んでたから」

「そう言っていただけると助かります」


 ステフがこちらに向かってきたので、紳士然とした店員は一礼して離れていった。


「ライナ様、その、よろしければ、選ぶのを手伝っていただけますか? なにぶん不慣れで、それに、ライナ様の付き人として恥ずかしくないものを選びたいので」

「いいけど、あんまりセンスとかないぞ?」

「いえ、そんな、私はライナ様に満足いただけたらそれで」


 好きな人を前にした女の子ってなんでこんなに可愛いこと言うの? いや、ステフが好きなのは俺じゃなくてライナなんだけどさ。そんなのどうでもよくなってくるな。


 台詞が恥ずかしかったのか、ステフはやや強引に俺の手をとってドレスのほうへと歩いて行く。待っていた若い女性店員が一着のドレスを勧めてくれる。


「こちらのようなデザインはどうでしょう。Xラインといって、肩から胸にかけてボリュームのあるデザインになっております。私のように胸の小さい女性が着るとそのボリュームに負けて貧しく見えてしまうんですが、ステフ様なら完璧に着こなせるかと! それに先ほど気にしていらした肩の筋肉も隠れますし」

「ごほんっ」とメガネの店員が咳払いで遮った。


 ステフが恥ずかしそうに縮こまる。


「え、ええと、色! 色のおすすめはありますか?」


 空気を変えるように、ステフがぱんと手を叩く。よほど力を込めてしまったらしく、発砲音かと思うくらいの音が鳴った。図らずも筋力をアピールしてしまったステフは顔を真っ赤にし、店員が慌ててドレスの説明を始める。


「は、はい! カラーはですね、ステフ様の美しいブロンドヘアーが映えるよう、シンプルなカラーがよろしいかと。黒寄りですと大人っぽさが出ますし、反対に白寄りはかわいらしい雰囲気が出ます。ステフ様であればどちらもお似合いになると思うので、そこはお好みで」


 確かに、ステフは十九歳にしては大人びた見た目だ。黒を着ればその大人っぽさに磨きがかかり、白を着れば年相応の清廉さが浮き出るというわけか。なかなか面白いな。勉強になる。そしてどっちも見たい。どれ、せっかくだし、俺も店員になったつもりで選んでみるか。男を磨く意味でも重要そうだ。こういう場所でバシッと似合うやつを選べれば、男として一段上にいける気がする。ライナってこういうの得意そうだったし。


 ええっと、ステフは筋肉を隠したがっているから、背中の開いてるやつとかスカートの短いやつはダメだろうな。背筋もふくらはぎも筋骨隆々としていた。そして色は落ち着いたもの。あとは、ステフは胸が大きいからそれに合ったやつを……Xラインとか言ってたか? それなら肩の筋肉も隠れるとかなんとか……。


「ありがとうございます、ライナ様」


 真剣にドレスを品定めしていると、ステフがなんだか嬉しそうに隣に来た。


「だから金は気にすんなって。なかなかこんな嬉しい使い方できないんだから、俺にとってもありがたい機会だ」


 当たり前のことを言ったはずが、ステフはなにが引っかかったのか、嬉しい使い方? と尋ね返してきた。


「ヒロインにプレゼントなんて、男の夢だろ」ライナもこの使い方なら許してくれるはずだ。


「ひろいん、とはなんでしょうか?」


 なんだ、この世界にはヒロインという言葉が無いのか? それともこいつがバカなだけか?


「ヒロインっていうのは、頑張る理由だよ」


 ヒロインを幸せにするためならば無限に頑張れる。それこそ異世界ハーレム主人公。俺のなりたい俺そのもの。憧れ続け、そしてクニツ・ライナという実物を見て確かな形を持った夢。


「では、私にとってのヒロインはライナ様ですね」


 それはなんか違う気が……言おうとした瞬間、俺は阿呆みたいに呆けてしまった。彼女の表情が、あまりに不可思議だったのだ。なにを見て、なにを聞いて、なにを思ったらこんな表情になるのだろう。その表情を言葉に表そうとすると――眩しく影が落ちている――幸せそうな寂しい笑み――どう言い表しても矛盾が生じる。


「ら、ライナ様?」


 無意識のうちに俺はステフの手首を掴んでいた。


「あ、ああ、えっと、こっち! こっちも見てみようぜ!」


 ステフの手首を掴んだまま、手袋などの小物が置いてある棚に移動する。


「ほら、杖も持っていくなら、手袋してたらかかっこいいかと思って。いや、かっこいいっていうか絵になるっていうか」


 さっきの表情を思い出すだけで胸がざわついた。恋に落ちたとかそういう意味じゃなく、なんだかステフが消えてしまうんじゃないかと思った。そんなありえない不安に襲われるほどに、なにか儚いものを見た気がした。


 一通り手袋を見て、それからドレスのコーナーに戻って、あの手袋にはこのドレスが合いそうだとか、そもそもステフはどんなのが好みなのかとか、まるで彼女の存在を確かめるかのようにしゃべりかけ続け、そのたびに反応を伺い、楽しそうにしてくれているのを確認し続けて、ようやく謎の不安感は消えていく。


「ありがとうございますライナ様。ああ、お金のことではなく、熱心に選んでいただいて、ありがとうございますという意味です」

「せっかくだしな。ステフが喜んでくれたら、俺も嬉しいし」


 とはいえ、流石に口を出しすぎたかもしれない。ステフもせっかくなら自分で選びたいだろうし。そう思ったものの、


「ライナ様はどれが良いと思いますか?」


 ステフがそう尋ねてきたものだから、俺は正直に一番良いと思ったドレスを教えた。すると若い女店員がすかさずやってきて「流石ライナ様! 私もこれがステフ様にぴったりだと思います!」と飛び上がるように言う。そしてその勢いのままステフを試着室へと促す。背を押されるようにステフは試着室へと歩き出し、遠ざかる二人の会話が、かすかに俺の耳に届いた。


「ライナ様、噂に違わぬ素敵な方ですね」

「はい。忘れていました。遠慮なんて必要なかったんです。誰かが喜ぶと自分のことのように喜び、誰かが傷つくとその人以上に傷ついてしまう。ライナ様は、そういうお人でした」


 試着室へと向かうステフは、店員が運ぶドレスを幸せそうに見つめていて、その表情にあの儚さが見え隠れし、俺は手を伸ばしそうになる。


「ステフ」小さな声で名前を呼ぶ。それは彼女の耳に届いてしまったようで、こっちを振り向く。


「なんでしょう、ライナ様」

「ああ、いや、いいのか? それで」


 まだ試着の段階だ。買うと決めたわけじゃない。言ってから気づいたが、そもそもそういう意味でこぼした言葉じゃないような気がする。

 ステフはなんの迷いも無く、はい、と答えた。


「ライナ様が選んでくださったのですから。これ以外にありません」


 どこからどう見たって幸せそうな表情なのに、なんだろうか、この寂しさは。起こるはずのない奇跡が起こったのに、でもそれは起こりえないのだから、だったらこれは夢かまぼろしなのだと、そう思い込んでいるような。それでもいいと諦めているような。


 そう感じてしまう理由に、はたと気づく。


 かつて、俺がライナじゃなかったころ、憧れのライナ騎士団に入団できたと喜んでいた彼女。ようやくライナ様の役に立てると言って喜んでいた彼女。あのときの彼女は、それこそ幸せの絶頂だといった様子で、しかしその時と比べると今の表情は、同じような状況であるはずなのに、決定的になにかが違った。


 それはきっと、俺が本物のクニツ・ライナじゃないからに違いなかった。

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