第8話
さて、できる限りの準備はした。ドレスコードに沿った服も用意したし、カンちゃんから注意事項も聞いた。ザイファルト家の知識、マナー、頭の中に詰め込めるだけ詰め込んだ。準備は万端だ。
これから俺は、異世界に来てから初めての大仕事に向かう。時刻は昼過ぎ。ダイアモンドクラブは日が沈む頃に開始だ。俺は準備を終え、貴族の会合ということで前回より高級感溢れる魔動車の前でステフが来るのを待っているのだが、なぜか隣にパーティードレスを着たクラミーがいて、
「なにを隠そう、この魔動車のルーンを設計したのは私なのです」
という自慢話をされている。
こいつは俺がここに来る前からいた。魔女の格好をしていないのは初めてで、一目見ただけでは誰だか分からなかった。目つきの悪さでかろうじて分かったが、それにしてもずいぶんな変わり様だ。短い癖っ毛を綺麗にまとめ、化粧はカンちゃんにしてもらったのか、そばかすが見えなくなっており、くちびるもつややかになっている。悔しいことに、少し見とれてしまった。
しかしそんなクラミーも、遅れてきた金髪美女のまぶしさにはかすんでしまう。俺があのとき選んだ黒のドレスを着て、ステフが小走りで駆けてくる。肩はバラのように膨らんだフリルですっぽりと覆われ、レース生地が二の腕まで伸びた長い手袋が太い腕を見えづらくし、腰からゆるりと広がるスカートが太ももとふくらはぎを隠している。完全に、とまではいかないまでも、ステフが気にしていた筋肉はほとんど隠れていると言っていいだろう。なにより、シンプルな黒い生地の上でゴージャスに輝くブロンドヘアーと、主張の強い胸元の装飾に負けない豊満なバスト。いつだったか、ランランが彼女を女神と称したことを思い出す。
「すみません、初めてのドレスで時間がかかってしまい」
ステフは言いながら、クラミーがいることに気づき、急に顔を青ざめさせた。
「あ、あの、どうしてクラミー様が? もしかして、私が遅かったので、代わりに?」
俺は慌てて否定する。
「違う違う、こいつが勝手にドレス着てるだけだ」
「おおステフ殿、これは麗しい! このような美女を連れての出席、ライナ殿も鼻が高いでしょう。いえ、鼻の下を伸ばすの間違いでしたかな? あっはっは」
クラミーのやつ、嫌味の一つでも言いに来たんじゃないかと危惧していたが、素直に褒めている様子だ。いらんジョークも挟みやがったが。
「そ、そうでしょうか、ありがとうございます」
ステフも素直に受け取り、照れるように笑う。
「そういえば、修道服以外の姿を見るのは初めてですね。あの服は綺麗な髪が隠れるのでもったいないと思っていたのです。所属先での衣服は自由だったはずですが、これを機におしゃれしてみては?」
「そんな、私はまだ修行中の身ですので。それにお金の事情もありますし」
「ご冗談を。大司教ともなればそれなりの額をもらっているでしょう」
そうそう、俺も気になってたんだよね。
「いえ、その……」
ステフが口ごもると、クラミーは目に見えて驚いた顔をする。今日はビン底メガネをかけていないので表情がわかりやすい。
「なんと、あの噂は本当でしたか」
「噂って?」
俺が口を挟むと、ステフが両手を振って慌てだす。
「すみませんクラミー様、そのお話はまた今度に」
なんだなんだ、俺に言えない話か? ステフは一番謎が多いんだよな。父親が借金まみれだったことは知ってるが、それをどうやって返したのかとか、父親との関係は今どうなっているのかとか、聖職者になる前は何をしていたのかとか、なにも知らない。
「ライナ様、そろそろ参りましょう。早めに会場に入って緊張もほぐしたいことですし」
「そうですね。まあ、天才は緊張などしないのですが。それでは、行きましょうか」
「おいちょっと待て、なんでクラミーもついてくる流れなんだ?」
「……え? そのジョークは天才でも笑えないのですが」
「え? ジョークじゃないよ? 誘ってないじゃん、俺」
「いや、ですが、天才を連れて行かないというのは、ありえない選択肢だと思いまして、伝え忘れているものだとばかり……」
いつもの軽いノリで喋っていたのが、クラミーの顔を見た瞬間、背筋が凍った。くちびるを噛み、眉間にしわをよせ、涙袋に溝のような影ができている。なんというか、破裂寸前の風船みたいな様子だった。
「いや、ごめん、そんなに行きたがってるとは思わなくて、その、招待状にも、同伴者は一人までって書いてあって」
しどろもどろで言い訳すると、クラミーは下を向いてしまう。思いつく限りの言葉をかけるが、クラミーは一向に顔をあげず、もうダイアモンドどころじゃないと思っていた矢先である。くつくつと笑い声が聞こえ、肩が小刻みに震えだしたかと思えば、クラミーは勢いよく顔をあげ、笑い出した。
「あっはっはっは! すみません、からかい過ぎました。知っていたのですよ。当然でしょう、天才なのですから」
体中から力が抜ける。正直、生きた心地がしなかった。
「お、おどかすなよ」
「はっはっは、天才は演技も天才なのです。ライナ殿はよくこうして騙されていたのですよ。こうしてまた騙せば、なにか思い出すかと思いまして」
「焦っただけでなんも思い出してねえよ」
良かった。本気で傷ついてたらどうしようかと思った。
「せっかくパーティードレスまで着たというのに、効果なしですか。残念なのです。それではお二人とも、楽しんできてください。やはりいつもの格好でないと落ち着かないので、私はさっさと着替えてくるのです」
クラミーはいつもより早口で言って、俺たちの言葉も待たず急ぎ足で去っていった。
演技だったとはいえ、本当にああなっていた可能性もあるんだし、今度からは気をつけよう。そう心に決めて、俺はステフと魔動車に乗り込んだ。
滑るように魔動車は走り出し、森の中に切り開かれた舗装道路を走っていく。魔動車はぐんぐんとスピードをあげ、小さくなっていく屋敷を、ステフは後ろの窓からじっと眺めている。
やがて農業区に入り屋敷が見えなくなると、後ろを眺めていたステフは座り直し、そして正面の俺に目を合わせた途端、はっとした顔つきになる。そして次の瞬間、彼女はものすごい勢いで顔を伏せた。
「お、おい! どうした!?」
今、泣いてなかったか?
「いえ……その、なにか、あまりにも唐突に、こみ上げてきたものですから」
「えっと、これ! ハンカチ!」
慌ててハンカチを差し出す。ステフは顔をあげないまま、片手をさまよわせてハンカチを受け取った。ありがとうございます、と絞り出すように言って、ずっと泣き顔を隠している。なんとなく、気まずい沈黙が車内を満たす。
泣いているステフを見てはいけない気がして、窓の外に目をやる。遠くの空に夕日が見える。とても朝日と同じとは思えない、燃えるような色をした太陽。すすり泣く声すら聞いてはいけない気がして、他の音を見つけようとするも、クラミーがルーンを設計したというこの魔動車は揺れが少なく、音もほとんどしない。
「すみません、こんなことで。でも、夢みたいで。大げさ、ですよね」
「……大げさじゃない」
これは現実で、ステフが自分でつかみ取ったものなんだと、そう言いたかったのだが、それが伝わったのか、それとも伝わらなかったのか、すすり泣く声はより大きくなる。
「そうですね、大げさでもなんでもなく、大きい」
歯を食いしばるような声で、ステフは言う。
「幸せって、大きいんですね。わたし、潰れてしまいそうです」
そらしていた視線をステフに戻すと、これまで密かに抱いていた疑問が、鯨が海面に浮上するような迫力で顔を出した。ステフはなぜこんなにもライナを慕っているのだろう? 過去にライナとなにがあったのだろう? いったいどんなことがあれば、人はこれほど慕われるのだろう?
俺には分からない。きっとライナもわからないんじゃないだろうか。彼女は色んなことを隠しているようだし。でも俺は、それすら聞いてあげられないのだ。彼女の想いを俺は分かってあげられないし、共有できないし、受け取ることも突っぱねることもできない。全ての資格が俺にはない。だって俺はライナじゃないのだから。そのたった一つの違いが全てであり、なにより致命的だ。
それでも俺はなにかを言ってあげたくて、声をかけた。
「父親の借金、返してたんだってな。それだけしか知らないけど、でも、頑張ってたんだろうなってのは、想像つくよ。ステフは父親のために頑張ってた。それだけ知ってれば、それでいいんだって思ってる。だからさ、ステフは頑張ったんだから、どんなに幸せでも、いいんじゃねえかな。それに、ステフが幸せなほうが、俺は嬉しいし」
頑張って言葉を紡ぐと、ステフはハンカチを顔に押し当て、余計に顔を伏せて、背中ごと丸まった。
「ライナ様、いけません。そのように、優しいお言葉は……」
ついには嗚咽を漏らし、ひくひくと痙攣する彼女の背中を見つめて、俺は思う。俺の言葉は間違ってなくて、きっと彼女に必要な言葉だった。
でも、クニツ・ライナじゃない俺が言っていいことだったのだろうか。
泣きじゃくる彼女の背を見つめる。さすってあげたほうがいいのだろうか。もっと慰めの言葉が必要だろうか。思いつく全てを、俺はライナじゃないのだから、という言葉が否定する。結局、俺はその背中を、見つめることしかできないでいた。
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