第6話
ダイアモンドクラブに向けた勉強を始めて三日が経ったころ、ふと気づいた。このところ、勉強ばかりで体を動かしていない。運動が好きなわけではないが、というより嫌いだが、俺はいちおう騎士という立場なのだし、なにより、日々のトレーニングを怠るな、とライナからきつく言い渡されていた。
そわそわと、なんだか罪悪感のようなものが湧いてくる。カンちゃんのいれてくれた紅茶を飲みながら、座り心地のいいソファで資料を読みふける自分が、決してサボっているわけではないのに、だらしなく思える。
体が落ち着かなくなり、俺は急いで裏庭に出て、準備運動を始めた。夏真っ盛りに向けてウォーミングアップを始めた太陽が、ちょうど良い日差しを浴びせてくる。驚くほどの開放感に、体が震えるようだった。
森でランニングでもするか、模擬刀で素振りでもするか、それとも筋トレか。ライナに教えてもらったトレーニングを色々と思い浮かべる。ライナが居たときは模擬刀での打ち合いもやっていたが、今は相手がいない。ライナ騎士団は騎士団でありながら剣を扱える人間がいないのだ。
いっちに、さんし、と体の至る所を曲げ伸ばししながら、なにをするか考えていると、
「おはようございます、ライナ様」
いつもの修道服を着たステフが現れた。もうすぐ昼の三時だが、ステフはその日に初めて顔を合わせるときは必ず「おはようございます」と言う。俺も合わせて「おはよう」と返すと、ステフはゆっくり歩いてきて、あ、あの、トレーニングですか? おずおずと尋ねてくる。
「おう。勉強ばっかりで、最近サボってたから」
答えながら、ステフの様子が変であることに気づく。怖がる子どものようにぎゅっと杖を抱き込んでいる。そういえば、ステフはトレーニングに励む姿をライナに隠していた。いつも薄暗い早朝にトレーニングを行っているのはそのためだ。もしかすると今日は寝坊でもしてしまって、それで遅れてトレーニングに来たら、俺とバッティングしてしまい、困っているのかもしれない。
「ああ、もしかしてステフも? じゃあ、俺は森でランニングでもしてこようかな。邪魔しちゃ悪いし」
俺なりに気を利かせたつもりだったが、ステフは、いえ、あの、その、と口をもごもごさせる。なにか言いたいことがあるのだろうか。じっとしてるのも気まずいので、屈伸しながらステフの言葉を待つ。
そうしていると、ステフは修道服の頭巾をとり、そのまま勢いよく修道服を脱ぎ捨てた。そしてその下に着ていた、質素な白いワンピースの肌着も脱ぐ。あっという間にスポーツブラとショートパンツ姿になったステフは、顔を真っ赤にして言う。
「わ、わわわ私も、い、ごいっしょに、します!」
「お、おう」
引き気味の返事をしてしまったのは、露出度の高い格好に照れたからじゃない。ただひとえに、あらわになった筋肉のすさまじさゆえだ。腹筋は岩盤のように力強く、肩幅が男のようにがっしりとしている。
「すみませんこのような格好で。トレーニングの時はいつもこの格好でして」
ステフは早口で言い、芝生の上に脱ぎ捨てた服を拾い始める。真っ赤だった彼女の顔から血の気が引いて、真っ青になっている。まるで世界が終わったかのようなその表情に、自分の態度が彼女を傷つけたことに気づく。
「全然! 一緒に走ろうぜ! ていうか凄いな、いや、凄いっていうのは、その」
筋肉のことには触れてはいけない気がして、言い直す。
「修道服しか見たことなかったから、びっくりして。えっと、髪、綺麗だな」
ぱっと思い浮かんだ、口にしても良さそうな褒め言葉がそれだった。筋肉のインパクトが強すぎて見落としていたが、いつも頭巾の下に隠れているステフの金髪は、長くまっすぐに伸びて綺麗だ。清らかな川の流れに思わず手を差し入れたくなるような、そんな感想すら抱いてしまう。
「はい、いえ、ありがとう、ございます」
ステフは、拾い集めた修道服を今度はたたんで芝生に置き、所在なさげに自分の髪を撫でる。サラサラと流れる髪は美しかったが、やはりそれ以上に、腕の筋肉に目がいってしまう。顔は美人だし、胸も大きいし、女性的な魅力に溢れているとは思うが、だからこそ、頑強さが過ぎる肉体は、アンバランスなように思えてしまう。もちろん、肉体美という点では美しいと言えるだろう。しかし、言いたくないし、そう思いたくもないが、正直、気持ち悪い、と思ってしまった。それを自覚し、酷い自己嫌悪に陥る。
「えっと、それじゃあ、行くか」
「……はい」
ずっと隠していた筋肉を披露してきたのは、いったいどういう心境の変化なのか、気になるが尋ねる勇気はない。ただ、距離を詰めようという気持ちはひしひしと感じていた。
逃げるように俺は走り出す。森に繋がる小さな門をくぐる。なにを言うのもはばかられた。ステフも何も言わない。昼下がりの森は、葉の擦れ合う音で満ちていて、その中に規則正しい二人の呼吸音だけが刻まれていく。木の根が突き出、ぼこぼことしている地面の上で、葉の落とす影がざわざわと形を変え続ける。しばらくして振り返ると、ステフはもう悲しそうな顔はしていなかった。そのことに安堵しつつ、そろそろなにか話しかけた方が良いのかと、話題を探す。
できればステフを喜ばせるようなことを言いたい。髪はさっき褒めたし、筋肉は褒めていいのかわからない。聖職者は鍛錬が仕事だ、と話にはきいていたが、まさかここまで鍛えているとは思いもよらなかった。
いつのまにかステフの筋肉について考えていることに気づき、今は忘れたほうがいい、と頭から振り払う。とにかく、さっき傷つけてしまったぶん、なにか喜ぶようなことを言わないと。
考えに考えて、絞り出した結果、俺はこう言った。
「ダイアモンドクラブさ、ステフも行かないか?」
女の子を誘うなんて、俺からすれば一世一代の告白のように緊張してしまうが、ドキドキする暇も無く、後ろから悲鳴のような叫び声が聞こえてきた。
振り返ると、ステフが地面に倒れていた。
「大丈夫か!」
「ええ、ああ、あひ、大丈夫です、今すぐ神聖魔術師を呼んできます」
「いや、神聖魔術師はお前だろ。ホントに大丈夫か? 頭でもうったか?」
慌てて駆け寄ると、ステフは手のひらをこっちに向け、顔を隠し、大丈夫ですと連呼した。それからすりむいた膝を神聖魔術で治し、もの凄い勢いで立ち上がると、大きな胸がぶつかるほど詰め寄ってきた。
「あの、ダイアモンドクラブに私もって、本気ですか!」
「あ、ああ。ステフがよければ、だけど。招待状に同伴者一名って書かれてたから。別に強制じゃないんだけど、でも、ステフはライナ騎士団に入って日が浅いし、今回は顔合わせメインだって話だし、経験というか、なんというか、ちょうどいいと思って」
言う必要の無いことまで言い訳のように口に出てしまい、しかしステフにはそれさえ嬉しいのか、興奮を押さえ込むように体をぶるぶると震わせる。
「嬉しいです! ライナ様のパートナー、夢のように思います!」
こんなに喜ばれるとは思っておらず、思わず頬が緩む。誘ってよかったと心から思った。
再開したランニングは足取り軽く、自然とペースも上がった。後ろをついてくるステフとの距離も近くなったように感じられる。
走り始めてからしばらくして、ステフが話しかけてきた。
「あの、どうして私を?」
「え? あー、えっと」
言葉に詰まる。傷つけてしまった負い目から、喜ばせたい一心でつい誘ってしまった、とは言えない。ステフと行きたかったから、というのが正解な気もするが、団員との関係を進めるようなことはしたくない。これから先、ライナが戻ってきたときに、いったいどうなるのかわからないからだ。俺がライナとして行ってきたことは、みんなのなかでライナの行いとして記憶されるのか、それとも偽りだと知ってしまうのか。どちらにせよ、俺が勝手に関係を進めてしまえばライナは困るだろうし、偽りだと知ればみんなショックだろう。だから、なにか当たり障りのない理由を述べなければいけない。
「ほら、ランランとサンちゃんは行きたがらないだろうし、カンちゃんは屋敷から出ないほうがいいし、クラミーは、えっと、行きたがると思うけど、そう! いざというとき、ステフがいたほうが助かるし!」
言いながら、駄目だ、という気になる。まるで消去法で選んだみたいじゃないか。最後にはクラミーとステフを比べるようなこと言ってるし。いざというときってなんだ。怪我するつもりか俺は。などと思っていたら、なんか後ろから恐ろしい台詞がぶつぶつと聞こえてきた。
「流石は貴族の集まり……陰謀渦巻いてんのか……暗殺者が……なんてことも……一番危ないのは……料理……毒で……常にライナ様のそばに……浮かれてねえで気合い入れねえと……」
都合よく勘違いしているみたいで助かるが、たぶんステフが心配しているようなことはないと思う。そういう危険があるならカンちゃんが教えてくれるだろうし。と思いつつも、ライナ様ならわざわざ忠告しなくても大丈夫、とか思われている可能性もあるのであとで確認しておこう。
俺の体力が限界に近づいてきたので、あとはクールダウンがてら歩いて帰ろう。そう提案するために後ろを振り返れば、ステフは涼やかな顔で走っていた。わかってはいたがへこむ。
「俺はまだ調べなきゃいけないことがあるから、そろそろ切り上げるな」とさもまだ走れるかのような口調で言った。でしたら私も、とステフも切り上げるらしく、屋敷を目指して森を歩く。
ランニング中は後ろをついてきたステフだったが、帰り道は隣に並んできた。横から見ると肩と胸の迫力が半端ない。どちらも詰め物でもしているようにでかい。そしてそのどちらも見てはいけない気がして、俺は極力横を見ずに歩いた。
葉のこすれるざわざわとした音がひっきりなしに鳴っている。少しうるさいほどに。それなのに、俺は静けさを感じた。なんというか、空気というか、空間というか、時間というか、心地の良い静けさ。手の甲ににさらっとした感覚があって、風が撫でたのかと思ったら、ステフの髪が風でそよいで俺の手にちょっかいをかけているみたいだった。
ちらりとステフの横顔を盗み見る。気づいていないようだ。
教えないでおこう。教えるとステフは謝って、距離を取るだろうから。
風が吹くたび、ステフの髪が手の甲にあたる。ステフは一向に気づかない。猫の尻尾は意志とは関係なしに動くという話をふと思いだした。ステフの長い髪が、猫の尻尾のように思えてきて、それが妙にツボに入って、俺はよくわからないままに吹き出していた。
「どうしたのですか?」
「いや、ごめん、実はさっきから、ステフの髪が手の甲にあたってて。こそばゆくて、なんか、可笑しくって」
「すみません、結んでおけばよかったですね」
ステフは恥ずかしそうに言い、長い髪を肩にかけるよう前に持ってくる。ブロンドの髪は質量感たっぷりに胸の上から垂れ下がり、カーテンのように腹筋を隠してしまった。
「いいな、それ」
言ってからすぐ、気持ち悪かったかな、と思ったが、ステフは笑い、今度は髪を横に流して、お腹にぐるっと巻き付ける。「どうでしょうか」ステフは顎を引いて笑う。俺も釣られて笑う。
「すげえ。なんか、ドレスみたい」
二人して吹き出し、馬鹿みたいに笑う。木々のざわめきに負けないくらいの声で笑っていると、その笑い声が、あっ、というステフの声で途切れた。
「どうした?」
「いえ、その……ドレスで思い出したのですが……私、持ってないです」
「あっ」
「えっ?」
「俺も。俺も持ってない」
当然ドレスの話じゃなくて、紳士向けの礼服だ。そういう場に着て行くような服は持っていない。というより、服自体、ライナのお下がりしか持っていない。
「ダイアモンドクラブって、いつでしたっけ?」
「えっと、三日後、だったかな――急いで準備しねえと!」
クールダウンがてら歩いて帰るつもりが、二人して走った。礼服となると、クッスレアの中心に位置する城下町まで行かなくちゃならない。トイバー邸は農業区の外れにあるので、魔動車で三時間はかかる。店は十七時過ぎには閉まるので、今日はもう間に合わないだろう。
途中、今急いでも意味が無いことに気づき、足を止める。
「今日はもう間に合いませんね。カンちゃんに採寸だけしてもらって、明日にでも買いに出かけましょう。それでも間に合うか分かりませんが……私は修道服でも結構ですので。ああ、いえ、クラミー様がドレスを持っているようでしたら、そちらをお誘いした方が……」
「まあ、なんとか間に合うだろ」
服を買うだけだし。よくよく考えればそう慌てるようなことでもない。
そう思っていたのだが、食堂でカンちゃんに水をもらいながら、採寸なんかのお願いをしていると、
「間に合いませんね」
至極冷静にそう言われた。
俺には意味が分からなかったのだが、ステフは「そうですよね」と諦めるように言った。
説明を求めると、カンちゃん曰く、トイバー家の代理として出席する以上、それなりの高級品を身につけなければならないと言われた。それなりの高級品というのはつまり、オーダーメイドだ。高級ブランド店に注文し、有名デザイナーと職人が手がけた一点もの。二日やそこらでできあがる代物じゃない。
いや、なにもそこまでしなくても、と俺は思うのだが、この世界では『高級品といえばオーダーメイド』というのが常識らしかった。じゃあ俺の礼服はどうすんだよ、という悔し紛れの台詞に対しては、以前ライナ様が使っていたものがあるので、とぴしゃりと言われた。
「ぐぬぬ」
ステフを連れていってやりたい。だって、あんなに喜んでくれたのだ。夢みたいだと言ってくれたのだ。文字通り夢みたいだっただけなんて、あまりにも可哀想じゃないか。現実にしてやりたい。なにより、金髪美女を侍らせて貴族の会合に行きたい!
もういいですから、お心だけでも充分ですので、とステフは言うが、落ち込んでいるのは俺にも分かる。既製品でもいいじゃないかと食い下がるも、カンちゃんは頑として譲らない。
仕方ない、この手は使いたくなかったが。
俺は食堂の床にあぐらをかいて座り込む。
「どういうおつもりですか?」
「カンちゃんがいいと言うまで、俺はここを動かん」
滅多に感情を表情に出さないカンちゃんが、眉間にしわを寄せる。
クニツ・ライナにはこんな逸話がある。帰らぬ主人を待ち続け、頑として誰も屋敷に入れなかったカンちゃんを、いかにしてライナが交渉の場まで引きずり出したのか。それがまさにこの方法だ。ライナはトイバー邸の敷地の前で、何日も飲まず食わずで座り続けた。カンちゃんが見かねて外に出てくるまで、仲間が止めるのも聞かず、話を聞いてもらうために待ち続けたのだ。カンちゃんは根負けし、死にかけのライナを屋敷に通して介抱したという。つまり、カンちゃんは押しに弱い。言い方は悪いが、良心につけこませてもらう。
「それはつまり、ダイアモンドクラブにも出席しない、ということでしょうか?」
俺を見下ろすカンちゃんの目は、およそご主人様を見る目ではない。まあ、カンちゃんにとって本当のご主人様はトイバー家の人間なのだから、当然なのだが。それにしたって凍てつくような視線だった。
「ライナ様、お忘れかもしれませんが、トイバー家の代理として看過できない行いをした場合、容赦なくこの屋敷を追い出す、そういう契約でしたよね」
脅しには脅しをってわけかい。いいぜ、その勝負、乗ってやるよ。格好よさげに心の中で言ってみたが、半ばやけくそである。こうでもしないとカンちゃんの冷たい視線に負けそうだ。
「あ、あの、ライナ様、本当に私は構わないので、ライナ騎士団の名を汚すようなことはしたくないですし……」
「いいや、俺は折れん」
退かぬ、媚びぬ、顧みぬ。英雄に迷走はないのだ! この状況がまさに迷走しているという事実が脳裏をよぎったが、そんなもの、指先一つでダウンさ。
「でしたら出ていってもらいましょうか」
ユーアー、ショック!
なんということだ。愛のために戦った結果がこれか。俺は愛故に苦しみ、愛故に悲しみ、そして愛とともに滅びるしかないというのかッ!
諦めかけたときである。
いつのまにかどこかに消えていたステフが、大急ぎで食堂に戻ってきた。手には一冊の雑誌を持っている。「あ、あの、これでしたらどうでしょう!」と本の見開きをカンちゃんに見せつける。
俺を見下ろしていた冷たい視線のまま、カンちゃんは雑誌の見開きをじっと見つめる。緊張感が場を満たし、やがてカンちゃんは目をつぶり、ため息をついた。
「わかりました。今回はそれで構いません」
ステフがほっと息をつく。
「最近はああいうのがあるのですね、屋敷から出ないとどうしても世間の流行が……」
カンちゃんはそんなことをつぶやきながら姿を消した。
「勝った、のか?」
体から力が抜ける。恐ろしいメイドだった。流石はトイバー家の魔女。魔女魔術の源流、カンの名を継ぐ者。このまま屋敷を追い出され、野垂れ死ぬかと思った。
「しかしステフ、いったいどんな手を使ったんだ?」
床にへなへなと崩れ落ちる俺に、ステフは雑誌の見開きを見せてくる。
「プレタポルテという高級ブランドが、最近、既製品の取り扱いを始めたんです」
「そのブランドならオッケーってことか?」
確認するように言うと、ステフが答える前に、カンちゃんがどこからともなく帰ってきて、
「なんでも、というわけではありませんが」
と言った。
俺は猫のように俊敏に立ち上がる。
「ライナ様が着ていたものです。お選びください」
俺がまばたきをするあいだに、横長のテーブルの上に紳士用の礼服が並べられた。
思ったよりも現代的で少々驚く。見た目はタキシードに近く、色も白と黒のシンプルなものばかりだ。
「よろしければドレスも見ますか?」
「い、いいんですか?」
「はい。見るだけでしたら、ヤーミン様もクラリス様もお許しになるかと」
ヤーミン様とクラリス様とは、カンちゃんがもともと仕えていたトイバー家の人たちだ。ベン・トイバーを当主として、妻のヤーミン、娘のクラリス。カンちゃんは認めていないが、世間では戦死したとされている。
「じゃ、じゃあ……お願い、します」
緊張した様子でステフが言うと、一瞬のうちに、木製のトルソーに着せられたパーティードレスが食堂に並んだ。ステフは息をのみ、ゆっくりと首を動かしてドレスを眺める。
「こ、こんな……すげえ……」
「ここからここまでがヤーミン様のドレスです。ステフ様はヤーミン様に似てスタイルがいいので、デザインは参考になるかと。問題は色ですね。ヤーミン様は黒髪でしたから、ブロンドの髪色には合わないかもしれません。肌もヤーミン様のほうが浅黒かったですし。ここから先はクラリス様のものになります。年齢的にはこちらが近いかと思いますが、クラリス様はバストのほうが……その、グラマラスなステフ様とは違い、ボーイッシュなお方でしたので……いえ、そんなところも素敵だったんですよ? 一度戯れで紳士向けの礼服をお召しになった時なんて、ハインツ歌劇団で主役を張れるほどに格好良く……ああ、いえ、すみません。それではどうぞ、気の済むまでご覧ください」
カンちゃんは気を取り直すように咳払いをし、部屋の隅に寄った。
ステフは初めて洋服屋に入った少女のように、恐る恐る、しかしどこか興奮した様子でドレスを見て回る。
さて、俺も選ばなければ。といっても、服のセンスないしな。まあ、ライナが使ってたものならどれも正解だろうけど。
「ちなみにこれって一着いくらくらいすんの?」
「ここにあるもので最も安いものが……たしか、教会製のダカット金貨で六枚ほどでしょうか。高いもので二十枚といったところです」
「へえあ!?」と素っ頓狂な声がステフから聞こえてきた。
「そんなに高いのか?」
尋ねると、カンちゃんはステフに聞こえないよう耳打ちしてくれた。
「ライナ様の今月のお給金は、金貨五枚の予定です」
「一着も買えねえじゃん……」
どんだけ高いんだよ。いや、俺の給料が低いのか? いまいち金貨の価値がつかめない。そのままステフに聞こえないよう、ひそひそと尋ねてみる。
「あのう、俺のお給料って、世間一般的に、その、どれくらいのレベル?」
騎士団長だし、英雄だし、けっこうもらっていると思うんだが……。
「平均的な騎士のお給金より、ちょっと低いくらいですかね」
「え……」
ライナ騎士団は形式上、トイバー家に雇われているという形を取っており、お金の管理をしているのはカンちゃんだ。俺の給料を決めているのもカンちゃんである。天引きしてるんじゃないだろうな、と思ったが、よくよく考えると俺はまだなんの利益もだしていないし、もらえるだけありがたいのかもしれない。
「あのさ、ステフ、あっ、いや、大司教って、月にどれくらい稼いでるもんなの?」
うわあ、と軽蔑するような目でカンちゃんに見られた。それでもいちおう、世間的な常識として教えるべきだと思ったのか、こっそり教えてくれる。
「教会から月に金貨二十枚。専属の契約を結んでいれば、契約先から月に金貨十枚と少し、というのが相場です」
俺の六倍以上稼いでんじゃん。
「俺の貯金っていくら?」
俺のっていうか、ライナのだけど。
「終戦の功績を称えた報奨金や特別任務の報酬など、諸々込みで金貨五千枚はあったかと」
流石はライナ! よっ! クッスレアの英雄!
というのは冗談で、ライナの金を勝手に使うのは流石にマズい。勝手に団員との関係を進めるのと同じように、これは越えちゃいけないラインだ。いつかライナが戻ってきたとき、金も人間関係も、あったものはそのまま返せるようにしておきたい。かといってまだ給料をもらったことのない俺は無一文だし、しょうがないからステフには自腹でドレスを買ってもらおう。結構な高給取りっぽいし大丈夫だろう。
「あ、あのう」
ドレスを眺めていたステフが、おずおずとカンちゃんに話しかけてきた。勝手に給料を聞いたやましさから、俺はさっと離れる。
「これらのドレスは、一着でおいくらほどするものなんでしょうか?」
金持ちのくせに、極貧時代の感覚が抜けきらないのか、不安そうに尋ねている。
「紳士服と比べてドレスのほうはもっと値が張ります。最低でも金貨二十枚はしたかと。ここにはありませんが、ヤーミン様のウェディングドレスは、それはもうお綺麗でして、金貨千枚の価値が――大丈夫ですかステフ様!?」
「あばばばばばば」
ああ、ステフが泡吹いて倒れそうになってる。
しかしすごいな。流石はクッスレアで一番古い歴史を持つという大貴族。
ステフは完全にまいってしまったようで、倒れるように椅子に座り込んでしまった。カンちゃんがすかさず紅茶を用意する。そういえばあの紅茶、一杯で銀貨一枚くらいするって言ってたな。銀貨は金貨の十分の一くらいの価値だっけ。そのときは金貨の価値も銀貨の価値も知らなかったから「ふーん」くらいにしか思わなかったけど、今思うとなにげに高いな。一日一杯飲むだけで俺の給料ほとんど無くなるんだもんな。ステフに教えたら紅茶を吹き出しそうだ。
「……その紅茶、一杯で銀貨一枚するらしいぞ」
「ぶふぉ!?」
ほら、やっぱり噴き出した。
「ライナ様!?」カンちゃんが勢いよく俺を見る。
「すまん、つい……」
「礼服にかかったらどうするんですか!」
カンちゃんを怒らせてしまい、十分ほどお説教をくらってしまった。
俺がカンちゃんから説教を受けているあいだにステフは復活したらしく、肩をがっくりと落として言った。
「申し訳ありません。今はドレスを買うお金がなく……やはり今回の話はなかったことに」
え? 月に金貨三〇枚以上稼いでんじゃないの? そりゃあ、一着で月収の半分以上だけど、貯蓄もあるだろうし、出せない金額じゃないだろう。普段からお金使うタイプじゃないだろうし。
カンちゃんも一瞬、意外そうな顔をした。しかし、深く尋ねるのははばかられる。
「申し訳ありません、せっかくお誘いいただいたのに」
なんだか諦めムードが漂い始めた。おいおい、冗談じゃないぞ。ステフにキレイなドレスを着て欲しいし、そんな金髪美女を連れて貴族の会合とやらに行ってみたい。くそっ、かくなる上は……。
「ドレス代は俺が出すよ。ステフの入団祝いって事で」
「ああ!?」濁点の混じった野太い声がステフの口から飛び出した。
びっくりしたあ。ヤンキーに威嚇されたのかと思った。
「い、いや、そんなわけには! 流石に申し訳ね、ないです!」
ステフはあたふたと両手を振り回す。握られていた杖が俺の向こう臑にぶつかる。大精霊の加護のおかげで平気だったが、結構な勢いだった。あの杖、なにげに危ねえな。金属製だし先端もやたら尖ってるし、馬鹿でかい金属製の爪楊枝みたいだ。
ステフはよほど取り乱しているのか、杖が俺にぶつかったことにも気づいていないようだった。
「落ち着けって。これから着る機会も増えてくるだろうし、言うなれば仕事に必要な道具だ。経費で落としたくらいの感覚でさ、一着買っとこうぜ」
「ライナ様、そういう物言いは少々失礼かと」
「えっ、そういうもんなのか、ごめん」
「それとステフ様、殿方からの贈り物は快く受け取るのがマナーです。ステフ様でしたらこういった機会は今後も増えていくでしょうし、そのたびに遠慮していては、嫌味にとられます」
「うっ、そういうものですか。申し訳ありません」
「えっと、じゃあ、言い直すぞ。ステフ、なんていうか、俺がプレゼントしたいんだ。受け取ってもらえるか?」
「は、はい。喜んで、ありがたく、ちょうだいいたします」
なぜかお互いかしこまり、一世一代の告白をしたような雰囲気に、照れくささを感じた。
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