第六章:天使の筆は恋を描けない。②

 片想いをしているのはキイロの方だった。

 俺はただ世話の焼ける後輩を助けてやろうとしただけで、なんてマヌケな言い訳を考えた。


 口にしようとも思わないような言い訳だ。

 勝手に死んだ母の姿を重ねて、自分を必要とさせて、それで満足しようとしたのだ。


 文化祭の準備をがむしゃらにしながら、前の生徒会長の東野のことを思い出す。

 愚かな奴だったと思う。自分に自信がないから肩書きにこだわって、得た肩書きで自分が変わったと思っている。否、思い込もおうとしていた。


 改めて考えると俺も似たような奴である。


『俺は母の生きる理由になれなかった。』


 その事実を誤魔化すために、目立って、知り合いを増やして、俺はこんなに役に立つぞとアピールを繰り返した。


 そして……色んなことを分かっていなさそうな少女に自分を売り込んで、そして、俺ですら理解していなかった俺の企みは看破された。


 言語化出来たわけではないだろうが、けれども絵画には出来るらしい。


 キイロは文化祭の準備で忙しなく動き回る俺のところにきてはいつもの教室に帰って絵を描くということを繰り返して絵画を進めていく。


 青いタコ。黒い複雑な背景。

 写実的な絵が多いキイロの絵の中では珍しいぐらい曖昧で輪郭がハッキリしていない。


 青と黒が混じり合ったそれを見て「ああ、これが俺か」とひとり納得した。

 そして「醜いな」と独り言をこぼす。


 幼い頃の傷口にバンソーコーを雑に貼って、膿んだそれを直視したくないからと上からガーゼを貼って、そのガーゼに染み出た汁を隠すためにまたガーゼを重ねていく。


 そんな自分の姿を絵の中のタコのような生き物に重ねる。

 これは、この醜い生き物は俺だ。


 文化祭は明日始まる。

 やれることはやって、あとは当日走り回るだけだ。


 キイロの絵の前で目を閉じる。もう下校時刻さすぎているだろうが、連日の疲れもあって立ち上がる気にはなれなかった。


「……先輩、先輩。帰らないんですか?」

「あれ、まだ帰ってなかったのか? シロハ」

「最後の日ぐらい一緒に帰ってあげようという優しさはないんですか、意地の悪い先輩ですね」

「最後の日って、大袈裟な」


 目を開けると思っていたよりも近くにいたシロハに驚くと、彼女はジトリとした目で俺を見る。


「大袈裟なんかじゃありませんよ。……先輩の隣にいれる時間は終わります。文化祭の用意のためだけの臨時的な生徒会なんですから」


 別に普通に会えば……なんて、告白しといて一年も連絡せずにいた俺が言えた言葉でもないか。

 彼女は俺が疲れていることを気遣ってか、それとも今という時間を手放したくないからか、下校時刻を過ぎた教室の中で俺と一緒に絵を見ていた。


「これ、俺らしい」

「え、ええ……。て、天才の絵はよく分からないですね」

「やっぱり上手いなと思うよ。九重キイロ」


 むむぅ……と、絵と睨めっこしているシロハの背中に俺は言う。


「この前さ、キイロに同じことをした」

「同じこと?」

「中学のときの卒業式と」


 シロハはすぐに振り返って、上履きで俺の脛を蹴る。痛みは走るが蹴られるのは仕方ないだろう。


「……どんな話をしたんですか。告白というわけではないでしょう」

「絵描き、辞めたらいいって言ったよ」

「貴方は相変わらず、最低です」

「……知ってる」


 時計がチクタクと音を刻む。窓から差し込む光が影を伸ばしていく。シロハは俺を見て、もう一度げしげしと俺を蹴る。


「救いの言葉なんですよ。先輩が、三船文という人が口にするのは、全部が全部」


 シロハのつま先が俺を蹴る。


「……ああ」

「告白。そりゃ、嬉しいです。ずっと好きだった憧れの人。唯一僕を見てくれた人。一生を捧げてもいいと思えた人。……九重キイロさんにとっても同じでしょう。彼女の天才性は他者との隔絶なのですから、それを捨てていいと言われたら」


 夕暮れは終わり、少しずつ暗くなっていく。

 シロハは朝が様子もなく言葉のひとつひとつを確かめるようにゆっくりと話し、ぶらぶらと揺らした足で俺を蹴る。


「俺はさ、ただ、誰かに必要とされたいんだって気がついた。人を助けることでしか、自分を肯定出来ないから」


 シロハは俺を見る。

 黒い瞳がとても綺麗だ。


「俺はさ、死にたかった。ずっと、ずっと、死にたかった。けど、母さんが自殺して泣いてる人がたくさんいて。だから死ぬなんてことは出来ないし、言葉にだって吐けなくて」


 シロハは俺の隣にきて、俺の手を握る。


「死にたいのに周りの人が可哀想で死ねなくて。だからいつか周りみんな嫌いになって」


 夜になっていき、絵の中の俺のように真っ暗闇に溶けていく。


「シロハと会わなくなってから……好きになった人がいたんだ、その人は俺みたいなパチモンじゃなくて、本当に人を救える人で」

「……うん」

「だから変われると思った。今度は失敗しないと思ったけど。俺はあの卒業式の日と同じことを繰り返した」


 シロハの相槌、俺の告白。


「……俺は、人を救うフリをして、自分が救われたかっただけなんだ。もしかしたらキイロは本当に筆を折った方が幸せかもしれない、けれど、俺はあのときキイロじゃなく母の面影を見ていた。そんな奴なんだよ」


 みっともない、後輩の女の子に言うようなことじゃない弱音。吐き出して。

 チクタク、チクタク、チクタク。

 時間が過ぎていく。一番星はとっくに他の星に紛れて窓の外にも教室の中にも何ひとつ特別な景色なんてなくて。


「不思議ですね。貴方はきっとダメな人です。……けど、完璧に見えていたときよりもずっと……愛おしいのです」


 柔らかい感触が俺の唇に押し付けられる。


「貴方は嘘吐きです。好きじゃないのに告白するし、自分のために人を救おうとする。けど……いいんですよ。たぶん、きっと、それで」


 吐息がかかるほど近くにシロハの顔がある。

 逸らさないほど真っ直ぐにその瞳がある。


「……自分勝手な先輩のお母さんの映画に九重さんが感動したみたいに。その人の思いに関係なく救われる人は救われていくものなんです。六の目を出そうとしても、一の目を出そうとしても、サイコロを振った結果はそんなもので」


 ごくり、と、シロハの細い喉が鳴る。


「僕は貴方が好きなんですよ。ずっと、ずっと。そんなの、先輩の気持ちなんて関係なく」


 ただ見つめられて、ただ見つめられて。


「……ずっと死にたかった僕が、明日どうしようなんてことを考えたの、先輩と出会ってからです。……先輩がいてくれて、僕は嬉しいんです」


 涙が落ちた。溢れて落ちた。

 絆創膏とガーゼで隠した傷跡が強引に引っ剥がされて消毒液をかけられたからだろう。


 思っていたよりも、俺はずっと子供だった。


 夜の教室、チクタク時計、紛れきった一番星、拗れた関係の捻くれた後輩。


「……一緒にいてほしい」


 出てきた言葉は子供みたいだった。

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