第六章:天使の筆は恋を描けない。①
「……フミ先輩が、描けないのです」
久しぶりに会えた九重キイロは、絵の具まみれの顔でそう口にした。
「ダメなのか? 描かないと。普通に、辞めてもいいんじゃないか」
「……フミ先輩は、変なことを言います。他の誰も、そんなことは言わないのに」
まぁ……そりゃ、誰もが知る学校の有名人。
分かりやすいほど天才の九重キイロに、その筆を折れというやつは多くないだろう。
多くが心配し、助けてやりたいと願うだろう。
けれども天才ではなく、ただのアホな後輩であることを知っていたら……絵描きではなく九重キイロのことを知っていたなら、まぁ、それなりに思うことだろうと思う。
「それはキイロに友達がいないからだろ。普通、ストレスで味覚がおかしくなってるって聞いたら辞めればってなるもんだ」
「……そういうものですか?」
「そういうものだ」
「……でも、少し前の先輩は、もう少し遠慮がちな雰囲気でした」
「少し……考えが変わった。……まぁ、無理にとまでは言わないけど、仲がいい人間として、それなりに思うところはあるんだよ。……画家なんて儲からないし、儲かるやつもそれなりにコミュニケーション能力が必要らしい。画家はキイロには向いてない」
パチリパチリ、くりくりとした目が瞬いて、俺を見つめる。
「……初めて言われました。そんなこと」
「仕事にもならない。楽しくもないなら趣味としても微妙。……まぁ画家じゃなくてイラストレーターとしてなら引っ張りだこかもしらないけど、それを望んでもないんだろ」
……そう言って、久しぶりに会えたのにこんな小言を口にしている自分が嫌になる。
偉そうに、たかだか友達でしかないくせにそんなことを言って。親にでもなったつもりか。
キイロに聞こえないように息を吐くと、キイロはぽつりと言葉をこぼす。
「……やめるには、少し、これに時間を使いすぎました。これ以外に何も出来ないから、これをしたいのです。……学校と両立が難しいから舌もおかしくなっているのだから」
「部活ばっかやってるやつも、普通に大学行ったり就職したりしてるよ。天才って持て囃されてるやつも、そんな感じで。無駄にしたくないなら、イラストとかそこらへんでも」
「……先輩は、私のことを考えてくれているんですね」
「…………。どうかな、八つ当たりかも」
キイロは不思議そうに首を傾げる。
「キイロも言っていたけど、母さんは天才ってやつだったのかもしれないけど、まぁいい親じゃなくて。同じ天才のキイロに八つ当たりしてるだけかも」
「それはないです」
俺の独白にキイロはブンブンと首を横に振る。
「…………本当に、心の底から全力でキイロの助けになりたいなら、俺のことを好きでいてくれてるんだし、結婚でもなんでもしてこれから養うとか言えばいい」
「……突飛です」
「キイロにそれを言われるとは……。いや、でも、そうだろ。人の人生にずけずけと口出しして十数年の努力を捨てろなんて、それぐらいの覚悟がないと、誠実じゃない」
「……してくれるんですか?」
歳の割に幼い表情。
あどけなさを感じるのは決してその頬につく絵の具のせいだけではないだろう。
「……。しばらく、会ってなかった男によくそう言えるな」
「でも、会いにきてくれてたんですよね。たまたま会えなかったですけど。椅子の位置が変わってました。先輩が、いつも座る位置です」
「……探偵みたいだ」
「んぅ?」
先日のシロハの言葉が蘇ってきて、だらりと項垂れる。
「……先輩は描かない方がいいと、思うんですか? 責任とか、偉そうとか、そういうの、全部抜きで」
「…………」
ジッと、ただ純粋に何の悪意もなく俺を見つめている。
その目が、ただ、ただ、怖かった。
瞬きのない「天才」その目。
かつて見た……映画を見終えたその日の夕方。パタパタ階段を降りて「お母さん」そう呼んだ。
ただ静かだった。
てるてる坊主みたいに脚は浮いて、ジッとその瞳が俺を見つめていた。
母の趣味でよく映画や演劇を見ていた俺は、それが首吊り自殺であると知っていて、けれども実感はなくて、あるはずもなくて。
少しずつ、少しずつ、歳を経るごとに実感していく。
俺は母の生きる理由にはならなかった。
そのときの目に……今のキイロの目が重なって見えた。
数秒、数分、どれだけの時間見つめあっていたのかすら皆目見当もつかないぐらいだ。
息も辛く、心臓が早いような、遅いような、酸素が足りないような、過呼吸のような、寒いのに汗が吹き出て、ぐちゃぐちゃで、めちゃくちゃだ。
きっと俺は、絵に描くのも無惨な表情をしていることだろう。
思ったのだ、思い出して、思ったのだ。
……「あ、折れる」と。
キイロの筆を折ることが出来る。適切な言葉を選べば、誰の目からも明らかな天才の筆と志をへし折って、ただの凡俗に堕とせるのだと、思ってしまった。
おかしいと自分でも分かっている。けれど、あの日の母とキイロが重なってしまうのだ。
「っ……ぁ……あ……」
声が出ない。けれど、無理矢理引き絞る。
「え、絵がなくとも、それでも、俺が……キイロの、生きる理由には……なれないか?」
ぱちり、ぱちくり。
キイロからすれば、きっと意味が分からない葛藤だろう。
急にこんな重いことを口にされて、理解出来ないだろうし、気持ち悪いだろうし、無責任だと思うだろう。
口にした俺ですらそう思うのだ。
城戸が好きなくせに、シロハを放っておけないくせに、そのくせこの天才を相手に「俺を生きがいにしてその筆を折れ」だなんて……控えめに、頭がおかしいやつだ。
キイロはその指を動かして「あっ」と、そう口にした。
「そっか。背景が、黒いんだ。だから、描けなかったんだ」
母のことを、黒名絵奈の死をキイロに重ねていた俺を見て、少女は謎が全て解けたようにそれを口にした。
「三船文が、描ける」
謎が解けて、糸が解けて、俺とキイロの中にあった縁が消えていくのを感じる。
唯一、キイロが描けないという不思議な生き物である俺が……キイロの中で他のものと同じく描ける存在であると、ただの凡俗へと落ちていく。
「先輩、描きたいです。モデルになってください」
かつて聞いたような言葉。
俺とキイロの縁を紡いだその言葉が、俺とキイロの縁を断ち切ったのを感じる。
俺は……九重キイロの筆を折ることが出来なかった。
天使の筆は恋を描けない。〜学校一かわいい美少女絵描きにヌードモデルを頼まれた件〜 ウサギ様 @bokukkozuki
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