第五章:思い出の旨味と青い空③

 腹の上からシロハが退いて、彼女の手が俺の方に差し伸べられる。


「ありがとう。いや……ありがとうというのはおかしいか」


 シロハの手がパッパと俺の背中を軽くはたいて埃を落とし、俺は椅子に座って机に項垂れる。


「……あー、なんかクラスの空気がヤバくて逃げてきたら、もっとやばいやつに襲われて婚約約約させられた」


 ……冷静に考えたら、婚約約約というのは婚約と何ら変わらないのでは……?

 という考えが鎌首をもたげたが、あまり冷静に考えずに適当に流すようにして深く息を吐く。


「……シロハ、見た目おとなしそうなのに結構暴力的なんだよ」

「そんなに暴力振るったことありましたっけ?」

「今日、この前に再会したとき、卒業式」

「……結構多いですね」

「まぁ俺も悪いけども……卒業式のときに叩かれたのは納得出来ねえ……」


 俺がそう文句を言うと、シロハはムッと表情を変えて俺を見る。


「アレは先輩が悪いです。好きでもない癖に告白なんかして……」


 シロハは思い出しながらそう口にする。


 中学生の頃、卒業式の日……俺はシロハに「好きだ。付き合ってほしい」と口にした。


 結果は……泣きながらぶん殴られてフラれた。


「……思い出すと、卒業式の日にフラれて一人でトボトボ帰ったってすごい惨めだったな。親父も仕事で来なかったし」

「私の方が惨めです。好きな人に同情されて、助けるために心にもないことを言われるなんて」


 ……ちゃんと好きだった。と、口にしたら「そんなことはない」とシロハに自己否定の言葉を口にさせてしまうだろう。


「傷つけたか。悪い」

「……結局、それでもいいと思ったから、こうして押し倒したわけですけどね」


 シロハは落ち込むようにそう口にして、拗ねるように俺から目を逸らす。


「愛されていなくても、それでも構わないと、結局は思ったんです。先輩を振り回しただけでした」

「……。いや、違うだろ。それならこのタイミング……俺が忙しくなった瞬間、フラれやすいタイミングにするのはおかしいだろ」

「……モテはじめたから焦りが出たんです」

「……モテるとかが本当なら、人からの好意を断れない俺のために彼女がいるって言い訳を用意してくれたんだろ」


 シロハは好意を隠すことはしていなかったが、こんな無理矢理押してくることはなかった。


 急な心変わりをする理由があるとしたら……まぁ、そういうことだろう。


「……本当に先輩のためなら、もっと色々出来ましたよ。例えばリコールは私から言い出したことにして、先輩は手伝ってるって形にしたら、仮の生徒会長は私ということになります。負担を減らすならそれでも良かったのに、それをしませんでした」

「……いや」

「それに、日曜日に先輩の家に押しかけて、今日みたいに押し倒したら止めれたかもしれません。…………きっと、弱っているところを狙っただけなんです」


 シロハの口から溢れた言葉を救うように、下から彼女の頬に手を当てた。

 小さな頬はふにふにと柔らかく、シロハは俺の行動に驚いたように目を開く。


「今さ「きっと」って言ったな」

「えっと、言いましたけど」

「少なくとも確信してるときに出る言葉じゃないだろ。……そんなつもりはなかったんだろ」

「……分からないです」

「それにさ、別にそれでも構わないよ。そりゃ、他の人を傷つけたくないからと色々考えはするけど」


 シロハは表情を殺すように、淡々と口を動かす。わざと表情をなくすような態度は、むしろそれをしなければならないほど冷静ではいられていないという証拠のようだった。


「……城戸先輩と結ばれなくていいんですか」

「いいんだよ。……家族のことがある。だから、ずっと諦めるつもりだった」

「……傍目で、両想いと分かりました」

「いいんだよ、それでも。……俺もバッタに成れてたらよかったんだけどな、そうじゃないんだ」

「……九重さんも、先輩のことが好きです」


 シロハはグッと制服のスカートを握り込む。


「シロハは、俺から嫌われたいのか?」


 俺の問いに、彼女の表情が崩れる。

 泣きそうなものにも、怒っているようにも、喜んでいるようにも見えた。


 俺はシロハの頬に当てていた手をずらして頭を撫でる。


「……たぶん、全部、俺が悪い。そりゃ、普通は心の底から自分に夢中になってほしいものだ。恋愛なんて普通はそうなのに。……俺はいつも自分や家族や相手の都合を優先してる」

「……先輩は悪くないです」


 何かを堪えるようにそういうシロハを見て、心の底から申し訳なさが溢れてくる。


 結ばれるつもりもないのに城戸を好いて、責任も取れないのにキイロに手を差し伸ばして……シロハにこんな表情をさせる。


 ふらふら、ふらふら、ハッキリした態度を取らなかったせいだ。


「シロハ」

「……はい」

「キイロとも話していいか? ……俺が変な態度を取った責任は取らないとダメだから」

「……はい。九重さん、いつももう少ししたら来るので、話しましょう」


 時計の秒針の音をふたりで聞く。

 非常に気まずい空気を堪えながら、小さな声がシロハから漏れる。


「……先輩と始めて会ったころも、こんな感じでした。昼間なのに、夜に騒がないようにするみたいにふたりして静かな声で」


 シロハはきゅっと自分の手を握りながら話す。


「あの頃か……シロハ、今よりもっとトゲトゲしかったよな」

「……すみません」

「けど、その静かな中、少し外の風が強い瞬間、その風で音が消えないように少しだけ声が大きくなったの、なんか好きだったな」

「……変なことばっかり」

「今日は台風みたいな日だから、シロハがいつもよりも声が大きくしてくれた。と思ってるよ、さっきのことは」


 シロハは俺の方を見る。それから何かを言おうとして……扉の開く音に掻き消される。


「あ、フミ先輩と矢野さん、こんにちは」

「……あ、えっと、はい。すみません」

「……何かありました?」

「ああいや……まぁ少し」


 シロハの様子がおかしいことに気がついたらしいキイロはスケッチブックを机に置きながら俺の隣に座る。


「お顔、どうしたんですか?」

「ああ、まぁキイロにはバレるよな。ちょっと転けて」

「大丈夫です?」

「ああ」


 シロハから言わせるべきではないだろう。緊張で乾く喉を潤わせてから話したいけれど、シロハが話すよりも早く、と急ぐようにカラカラの喉で言葉を絞り出す。


「……さっき、シロハから告白された」


 そんな風に急いでいたから……キイロの手に、俺が時々渡しているものと同じ、甘ったるい缶コーヒーが握られていたことに気がつくのが遅れる。


 置き終える前にキイロの手から離れた缶コーヒーは机の上をカラコロと転がって床に落ちる。


 ……味なんて分からないのに、キイロが落としたのは、少し遠い自販機でしか売ってないやつだ。


 何度か床を跳ねたそれは俺の足元に転がった。


「あ、す、すみません。それ、先輩が好きだからって……べ、別の、買ってきます」

「……いや、ありがとう。キイロは自分のあるのか?」


 キイロは水筒を俺に見せる。


「すみません。矢野さんが来ると思ってなかったので買ってなかったです。……お茶飲みますか?」

「いえ……大丈夫です」


 キイロが拾った缶コーヒーを受け取ると、底の方がへしゃげてちゃんと立たなくなってしまっていた。


 転がってまた落としては良くないので手に持ったまま、もう一度キイロの方を見つめる。

 キイロはどうしたらいいのか分からないみたいに小さく口を開いた。


「……わた、私は、その。…………先輩は、どうするんですか?」


 どうするかを決めるために話したいけど……当然、キイロも俺がどうしたいかが気になっているようだ。


 嫌な空気が流れて、それでも俺から話すべきだと考えて口を開く。


「……なんかいい感じの落とし所……ないか?」


 シロハに頭をはたかれた。

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