第一章:恋の苦味と天使の絵筆⑤


「もう一度描いてもいいですか? 教室から絵の具を持ってくるので」


 俺の返答を聞く前に九重は俺に鍵を押し付けてパタパタと走っていく。


「いや、空き部屋の場所知らないだろ……。仕方ないな」


 九重についていき、不思議そうな顔をしている彼女から水彩絵の具などが入った鞄を取る。


「あ、えっと……ありがとうございます」

「……もうちょっと落ち着け。……もうあんまり時間ないから月曜にしないか?」

「む……いや、でも……」

「……仕方ないな。怒られたときは九重も謝れよ?」


 ぶらりと手提げ鞄を持って部室棟の方に歩く。

 夕日の赤色を見ながら、ゆっくりと歩く。


 九重は楽しそうな、けれども少し寂しげにも見える表情で歩いていた。


「関谷……まぁ悪い奴だとは思う」

「そ、そういうのは普通悪い奴じゃないって言うものかと……」

「普通のやつは魔が差してもそんなことしないし、そもそも麦茶を捨てて水を汲んで、絵の具を入れて色を調整……って、結構手間がかかってるし魔が差したとかじゃないだろ」

「……それは、その」

「けど、それはそれとして仲良く出来ないってほどの悪人ってわけじゃなくて、普通に性格がめちゃくちゃ悪い奴ってレベルで、まぁ取り繕うことは多少出来るみたいだし、仲良くは出来なくもないと思うぞ」

「……三船先輩が何を言いたいのか、分からないです」

「アホほど面の皮厚そうだから、普通に友達やれると思うぞ、と。落ち込むぐらいならな」


 九重は俺の方をジッと見つめる。それから、ゆっくりと口を開く。


「……時々、話しかけてきてくれる子でした」

「ああ」

「友達というほどの関係ではなかったのだと思います。……もしかしたら、友達という関係を拒否したのが私の方からで、だから最近はあまり話してなかったのかもしれません」

「そんなもんだ」

「私は、上手く人と付き合えません。関谷さんがこういうことをしてしまったのは、私が何も分からずにいたからです」

「……いや、普通にアイツの性格が悪いからだぞ。明るくていい奴そうな雰囲気の悪い奴なんていくらでもいるしな。まぁ、過去の話じゃなくて、これからどうするって話な」


 俺がそう言い捨てると、九重は寂しそうに顔を伏せる。


「……私は絵を描くことしか出来ません。私は天才なんかじゃないんです。小さい時から、勉強も苦手で運動も苦手で、人と話すことも出来なくて……ずっと、ずっと、絵に逃げ続けてきたんです。他の人がちゃんと人生を歩んでる中、私はひとりでぼうっとしていたんです」

「……遊んでるやつは怠けていると言われるし、勉強してるやつは何も考えずに大人の言いなりと言われるし、スポーツとかも同様だ。何してても何かしら文句は付けられるもんだろ」


 九重は俺の方を見て、俯いたのか頷いたのか分からない様子で小さく呟く。


「……今は、絵を描きたいです」

「おう。……了解」


 まあ、そんな急いでしなければって話でもない。

 二人で空いている部室の前に立ち、鍵を開ける。


 部屋の中は案外片付いているが、少しだけ人のいた形跡が見える。


「あれ、なんかロッカーに入ってるな。湯沸かし器か。前にいた奴らが置いて行ったのかもな」


 昼にカップ麺とか食いにこれるな。と思いながら机に九重の荷物を置いて椅子に座ると九重は手際良く絵を描く準備をしていく。


 今度は色鉛筆ではなく水彩絵の具で描くらしい。

 本当に絵ならなんでも出来るんだな。キャンバスがどうとか言っていたし、油絵の具も使っているのだろうし、本当に絵に関しては多彩だ。


「では、まず絵の具を……」

「初手で青」


 俺をチラチラと見ながら描いていくが、今は外も夕暮れで、近くに青いものなどほとんどない。


 俺を見るたびに筆の先が震えて、ぷるぷると描いていく絵は明らかに失敗だ。


 しきりに九重は首を傾げ、それから完成した絵を見て「うーん」と悩ましげな声を出す。


「これを見てどう思いますか?」

「エイリアンVSエイリアン」

「……なるほどですね」

「なるほどじゃねえんだよ。なんでまた青から入るんだよ。しかもなんで今回は増えてるんだよ」

「いえ……ほら、人というものは多面的な存在なので。色々な方向から見てみようと思ったんです」

「エイリアンが増えただけだな」

「ふむ……やっぱり油絵の具を持ってきましょうかね。いや、何度も書き直すことを考えたらパソコンとペンタブでしょうか」

「このサバトを何度も行うのか……?」


 俺は時計を見て、新しく絵を描こうとしている九重の手を止める。

 不思議そうに俺を見る九重はハッと気がついたように俺へと笑いかける。


「あっ……もう時間ですね。片付けて帰りましょうか」

「手伝おうか?」

「いえ、手入れしないとダメなので」


 九重が片付けているのを見ながらスマホを取り出すと、九重は俺を見て口を開く。


「あ、そういえば電話番号とか聞いてもいいですか?」

「ああ、そういや交換してた方が便利か。……まぁ、他にもやりたいことがあるからしばらくはそんなに話さないと思うが」

「へ? ……そ、そうなんですか?」

「暗い中、一人で帰らせるのは心配だし、帰る時間は合わせてけどな」


 おおよその問題は解決したので怪異研は立ち上げられるが、それでもいくつかの課題はあるし、それを人任せにしていたら示しがつかないだろう。


 片付けをしていた九重は手を止めて、俺の方をジッと見つめる。


「私は三船先輩と一緒にいたいです」

「…………告白みたいなことを言うのやめてくれよ。断りにくい」


 まあ、じゃあ仕方ないかと頷く。


「田村に働いてもらうか……」

「あのオシャレさんですか?」

「オシャレ? ああ山田か。いや別人」


 俺が了承したことで安心したのか、九重は画材を片付けていく。


「明日……じゃなくて月曜日に色々持ってくるんだったら家まで迎えに行こうか?」

「ん、でもお母さんが……」

「この前と同じところで待ってればいいんじゃないか?」

「……しばらくは、油絵の具を使わない方がいいかもしれないのでそんなに嵩張りは……いえ、でも、お願いしていいですか? あ、先輩の家の前までいくので住所を教えてください」


 いや……荷物持ちをするのに、登校するまでに俺の家まで寄り道してたら本末転倒だろ……とは思うがやる気らしいので水を差すのもなと考えて頷く。


「あ、先輩も徒歩通学なんだったらそこそこ近いですよね」

「まぁ、結構近いところにあるな」

「あ、先輩のご自宅分かったかもしれません。あれですよね、夕方になるとカラスが集結して鳴いてる家」

「何でそこだと思った? ……あー、まぁちょっと寄り道にはなるけど帰りに見て行くか? 5分もかからないぐらいの場所だし」

「あ、じゃあそうします」


 片付け終えた九重と二人で学校を出て歩いて帰る。


 もう日はすっかり暮れていて、夜の匂いとでも言えばいいのか民家から夕食の匂いが漂っていた。


 隣を歩くと九重は小さく細い。

 初めて会った時は大して気にしていなかったが、味覚を失っているということを知ったせいか、そのせいで食欲がないのかもしれないと考えてしまう。


「ん、どうかしましたか?」

「……いや、そういや、お茶を渡した時のコーヒーが余ってたからやる。味が分からないなら苦手とかないだろ」

「それはそうですけど……ありがとうございます」


 ペコリと頭を下げた九重はぽーっと俺を見ていた。


「ここだな」

「あ、通ったことのある道です。もしかしたら今まですれ違ったことがあるかもです」

「いや……九重は目立つ容姿だし見たことがあったら覚えてると思う」

「んぅ? そんな変な格好はしてないと思いますけど」


 いや……普通に顔が整っていてかわいいので見ていたら印象に残るだろう。

 俺がジッと見ていると気恥ずかしそうに九重はコーヒーの缶を開けて、誤魔化すようにそれを飲む。


 そんな話をしていると、後ろからトコトコとキャプテン城戸が歩いてきて俺たちの前を通り、玄関先にスーパーの袋を置いて俺の家の鍵を開ける。


「あ、文くんおかえりー。今日のご飯はムギちゃん特製のコロッケだよ」

「……連日来るのはやめてくれよ」

「あ」? その子ってもしかして……」


 城戸が扉を開けようとした手を止めて九重に近づこうとして、九重は城戸の姿を見て驚いたように目を開く。


 知り合いか? と一瞬考えたが、城戸の様子からして違うのは明らかだ。


 なら何故、九重は驚いているのだろうか。

 それを理解するよりも前に九重の表情は戸惑いとショックを混ぜたような表情に変わっていく。


「あ……かのじょ……さん?」


 それから九重は目を落として、自分の手にある砂糖のたくさん入った缶コーヒーを見つめて、困惑した表情で口を開く。


「……苦い?」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る