第一章:恋の苦味と天使の絵筆①

 パタパタと人が動く音が聞こえてソファの上で目を覚ます。

 カレーの温まる音を聞きながら身体を起こすと、キッチンの方から「おはよー、何か飲む?」と城戸の声が聞こえる。


「……お茶で」

「はいよー。カレーはどれぐらい食べる?」

「そこまでの量は余ってないだろ。城戸の食う分の残りでいい」

「じゃあ残りの半分こね」


 制服の上にエプロンを纏った城戸は手際よくカレーを並べる。


「それで、我が参謀よ。今日はいかにしようか」

「キャプテンは職員室に行って部活動の設立の書類をもらってきて、書き方を聞いてきてくれ。書き方を聞くんだぞ」

「もらうだけじゃダメなの?」

「結局、部活を設立するのは教師の胸先三寸だからな。やり方を教えたら、よほどじゃなければ反対しにくいだろ」

「そんなものかな?」

「案外、だいたいの人って義理堅いからな。ダメでも損がある話でもないから軽くでもやり方を聞いといてくれ」


 キャプテンは軽く頷く。


「あと、山田辺りを連れて保健室に顔出しといてくれ」

「保健室?」

「龍滝、一時、保健室登校してたろ。たぶん、保健の先生も心配してるかもしれないから報告を兼ねて。俺が行くとなんか演技くさいだろ」

「まぁ、変な計画をいつも立ててる厄介な生徒だもんねー、参謀は」

「誰のせいだ。誰の」


 カレーを食べて、昨日の夜と同じように洗い物をする。

 城戸は手伝うこともなく、俺の方を見てニヨニヨとした笑みを浮かべた。


「どうかしたか?」

「いや、こういうのなんかいいよねって」


 制服エプロンはいいよなって話だろうか。……いや、違うっぽいな。


 適当に身支度を整えてから学校に向かう。

 クラスが違うので教室の前で分かれて、それから教室で話している山田と田村に軽く手を挙げて挨拶をする。


 授業がつまらないな思うが、怪異研の立ち上げに問題が出るので真面目に受ける。


 茶髪だったりネイルを付けていたりする山田も案外ちゃんとノートを取っているのを見ると尚更だ。


 昼休みになり、山田に飯を誘われる前に逃げるように教室から出て、食堂でおにぎりを買って外に出る。


 鬱屈して湿った息を吐き出して、それから人のいない校舎の影に行くと、見覚えのある顔を見つける。


 「九重」と声をかけようとしたところで、九重の歳の割りに小さな身体がパタパタと動いてひなたぼっこをしている猫の前にしゃがみ込む。


「にゃー、にゃんすけー」


 ……微妙に恥ずかしい瞬間を目にしてしまって話しかけるタイミングを失ったな。


 スケッチブックと色鉛筆を持っているようだし猫の絵でも描くのかと思っていると、九重はしゃがみ込んだままにゃんすけ(仮)のわきに手を入れてひょいっと持ち上げる。


 ああ、可愛がるパターンか。猫も九重も可愛いから絵になるな。

 と見ていると九重は猫を横に退かしてポスリと座る。


 こ、こいつ……猫の日向ぼっこの場所を力によって奪いやがった。

 猫の方もいつものことなのか気にした様子もなく横に寝転んだままクシクシと頭を掻く。


「何か描いてるんだ?」

「あ……え、えーっと、ひとすけ?」

「三船な。にゃんすけの名前が混ざってるぞ」

「……見てたんですか。悪趣味です」

「覗いてたわけじゃねえよ。それで、何を……」


 スケッチブックを見ると、食パンに付いているアレが描かれてた。


「何を描いてたんだ? いや、マジでコレなんだっけ」

「バッグクロージャーです」

「何故バッグクロージャーを……?」

「あと他にはコレもさっき描きました。切れかけた蛍光灯です」

「ああ……上手いな。というか凄いな、なんかチカチカしてるのが伝わってくる。……けど、なんで外に出てきてコレを描いてるんだ。にゃんすけを描けよ」


 ため息を吐きながら、にゃんすけを挟んで隣に座る。


「……にゃんすけ、三毛猫だからたぶんメスだよな」

「えっそうなんですか?」

「ああ。三毛猫はほぼ確実にメスだ。それよりも、こんな絵を描いてたならまだ飯食ってないだろ」

「あ……いえ、食欲ないので」

「猫に話しかける元気あるなら食えるだろ。どっちがいい?」

「……お節介な人です」


 九重におにぎりを押し付けると、九重は少し戸惑った様子を見せてからパクリと食べる。


「……勧誘、熱心ですね」

「いや、別に勧誘しにきたわけじゃない。俺も時々ここに来てるからたまたまだ。そもそも九重に入ってもらわないと困るってわけでもないしな」


 九重は疑わしそうにジトリと俺を見る。


「邪魔だったか?」

「…………。正直なところ、助かっているのが悔しいです」

「なら良かった」

「でも、三船先輩じゃない方の先輩は苦手かもです」

「ん? いや、九重の勧誘は俺に一任されているはずだが……どんな奴だ? 偉そうな女子? ギャル? やれやれ言ってる男?」

「えっと……暗黒武術を極めしものだそうです」

「ごめんそれウチのじゃない」


 怪異研にそんな狂人はいない。まぁ、色々と目立つところにいるので、別のところから勧誘されることぐらいあるだろう。


 おにぎりを食べ終えてからにゃんすけの背中を軽く撫でる。


 隣を見ると集中して絵を描く九重の姿があった。

 切り替えが早い。人並み外れた集中力、こういうのを天才と呼ぶのだろうか。


 人の目を惹き寄せる。

 感情を揺さぶる。

 見ているだけで思考が変わる。


 ……俺が九重キイロのような天才であったのなら、母は死ななかったのだろうか。

 生きる意味になれたのだろうか。


 吐いたため息に合わせるように、俺はゆっくりと立ち上がる。


「九重、そろそろ教室に戻らないと送れるぞ。九重? 聞こえてるか」

「……あ、は、はい」


 二度呼びかけてやっと返事があり、彼女が身を整える前に俺は歩いて自分の教室に戻った。


 いつも通りに授業を受けて、放課後少し怪異研で集まったあと、飲み物をふたつ買って九重のいる教室に向かう。


 昨日よりも早くに来たせいか一年生の生徒が何人か残っていて、九重は退屈そうに宿題らしき物をやって時間を潰していた。


「九重、勉強分かるか?」

「あ……こ、こんにちは」


 ペコリと頭を下げた九重の前にお茶とコーヒーを置き、どちらか飲むことを勧めると首を横に振られる。


「いいですよ。そんなにしてもらわなくて……。その、部活には入るつもりがないですから」

「恩を売るつもりじゃないけど。……こうして学校に残るなら部室とか落ち着ける場所があって損はないんじゃないか?」

「……部活、他にも何人もいるんだったら落ち着かないです」


 ……それなら、一人で美術部を作れば……いや、まぁ教師が構いに来そうではあるが。


 しばらくして他の生徒がいなくなった辺りで九重は使い込んだ色鉛筆と真新しいスケッチブックを取り出して、絵を描き始める。


 昨日は水彩絵の具で、今日は色鉛筆。おそらく油絵の具も使っているのだろうし、画材にはこだわりがないらしい。


 俺も宿題をやりながら横目でその様子を見ていると、九重の手が俺が渡したものではないペットボトルに伸びる。


 ペットボトルのキャップが外れて、飲み口に九重の唇が付く。こくこくと飲んでいく九重を見ながら宿題をしていると違和感を覚える。


 なんとなく……麦茶とかのお茶の色には見えない。それに飲み口のところに何か付いて……。


 キャップを締めようとした九重の手を止めて、その内側を見ると水彩絵の具のようなものが付いていることに気がつく。


「……これなんだ?」

「えっ、お茶ですけど、家から持ってきた……」


 匂いも変だと感じてそのペットボトルを持って自分の口に運ぶ。


「あ、どわどうしたんですか? か、間接キスに……」


 と慌てている九重を他所にそれを少し口に含み、気色の悪い味を感じてゲホッと吐き出す。


「ッ……早く、俺の持ってきたお茶を飲んで吐いてこい!」

「へ……? え、ええ、な、なんでですか?」

「これ、絵の具の溶けた水だ。いいから早く」


 俺が持ってきたペットボトルの蓋を開けて九重に押し付けると、彼女は混乱しながらも俺に従ってコクコクとお茶を飲む。


「間違えて飲むとかどうなってるんだよ。味おかしいだろ……」

「……吐かないとダメですか? 吐くの苦手なんですけど」

「いいから吐いてこい」


 九重を無理矢理立たせて引っ張っていき、女子トイレに押し込んでから教室に戻る。

 九重の机の横に掛かっている画材入れに目を向けてそれを開けると、几帳面そうな九重らしくなく少し水彩絵の具のチューブが散らかっていた。


「…………イタズラか?」


 先程飲んだ絵の具のペットボトルを見ると、やはり飲み口に絵の具が残っていた。

 それを指先ですくって自分のノートの端に押し付けたあと、散らばっていた絵の具の色合いが似てそうな物を同じようにノートの端につけて、それが同じであることを確かめる。


 それからその絵の具の製品名をスマホで調べて、誤飲しても大して問題ないことを確認して一息吐き出す。


「……イジメか? いや、そんな感じには……まぁ、反感を買ったりはしそうだが」


 友達のいない天才少女で変なやつ……となると、嫌う人間のひとりやふたりぐらい出そうな物だが……。


 だとしても、こんな明らかに変な味のものをごくごくと飲んでいた説明にはならない。


「……九重、変人だから絵の具を溶かして飲んでてもおかしくない気がしてきた」

「そんなことしません」


 そう言いながら戻ってきた九重は、先程俺が渡したお茶を飲んで席に着いて色鉛筆を手に取る。


「……いじめられてるのか?」

「自覚はないですけど、こういうイタズラがあったということはそうなのかもです。でも、ちょっとした冗談の可能性もあるので」

「冗談でこんなことはしないだろ」

「……普通なら、口に入れた瞬間に気がつくんでしょう」


 まぁ、そりゃそうかもしれないけど、友達のいない九重にそんな悪質なことをするのはどう考えてもイジメか、あるいは嫌がらせだろう。


「……友達同士が悪ふざけでアホなことをやるのにしても度を越してると思うが、友達ではないなら尚更だろ。……大事にはしたくないか」

「……よく分かりません」

「……俺としては普通に教師に言うべきだと思うが、九重は親が面倒くさいんだったな」


 まぁ、嫌がらせを受けたと自覚してすぐに判断は出来ないか。

 それよりも気になるのは……こんなおかしな味の物を、九重は普通に飲んでいたことだ。


「味覚ないのか? ……無理に答えなくてもいいが」


 九重は躊躇った様子を見せる。

 知り合ったばかりの男に教えることじゃないのだろうが、隠せるような状況でもないからかコクリと頷いた。


「小学生のときから……。ストレス性のものだそうです」

「味覚障害って色々あるけど、まぁその調子だと全然分からないのか。……もし、またされた時に困るな」


 九重が俯きながら色鉛筆を握っているのを見る。


 ……親にはバレたくないという様子が伝わってくるが……。教師に言えば伝わる可能性は高く、学校には頼りにくい。


「……九重が親に伝わるのが嫌というのが分かった上で、まぁ学校に相談するべきだと思う」

「……それは」

「味が分からないのに、相手は何か食い物にイタズラを仕掛けてるんだろ。水彩絵の具程度ならマシだが、もっと妙なものなら命に関わるぞ」


 九重は言葉を返すことなく俯く。

 ……本人の意向を無視してでも学校に伝えるべきだ。


 実際、俺が気が付かずにいたら全部飲んで体調を崩して病気になっていたかもしれない。

 学年も違って放課後ぐらいしか一緒にいられないのだからちゃんと教師に任せるべきで……と、考えて、それからガリガリと頭を掻く。


「……これも、役割……か」

「……?」

「犯人、見つけてやる。それなら安全だし、親にもバレずにいられるだろ」

「……いいんですか?」

「面倒事に巻き込みやがってぐらいは思ってるからな」

「す、すみません……」

「代わりに頼みがある」


 俺がそう言うと、九重は不思議そうに顔をあげる。

 それから俺はゆっくりと頼みを口にして、九重は驚いたように目を開いた。

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