プロローグ:天使の筆は空を描く③

 とてとて、とてとて。

 隣を歩く少女の足取りは遅く、可能な限り家に帰るのを避けるように見える。


「……もうそこなので、いいですよ」

「もうそこなら最後までいくぞ」

「……嫌な想いをさせそうなので」


 俺は九重の言ってる言葉の意味が分からずにいると、九重は顔を俯かせて首を横に振る。


「母は、少し過保護で」

「あー、彼氏かと勘違いされて面倒ってことか」


 まぁ高校生ぐらいならそういう親もいるよなと頷くと、九重は家に帰るのを抵抗するように足を止める。


「……母は、私の絵を褒めるんです」


 ポツリと、九重は溢す。


「私が何かで賞をもらったらすごくよろこんで……でも、学校にも行けと言うんです。成績が悪いと、すごく怒って」

「……まぁ、普通だろ」

「…………そうかもしれないです。でも、絵をたくさん描いて、学校にも通って、はしんどいのです」


 ……案外、天才のわりに素朴な悩み。

 いや、違うか、才能があるゆえの悩みということだろう。


 人よりも才能があるのならばそれを伸ばしてやりたいが、同時に世間ズレしているのも怖いというところか。


 まぁ、親の考えも、それを辛く感じる九重の考えも分かる。


「……まぁ、明日もここまで送るよ。明後日も……いや、土曜か」


 なんとなく危うく思えるのは、世間からの評価と目の前にいる少女の印象が噛み合わないからか、それとも年のわりに幼気な雰囲気のせいか。


 ……大丈夫か、と、心配に思う。


 ペコリと頭を下げて重そうな足取りで歩いていく背中を見送る。

 家に入ったのを見届けてから踵を返す。


 キャプテンの笑顔を思い出して、ボリボリと頭を掻く。


「……周囲から浮いてるギャルに、人間不信の不登校に、暴力沙汰で捕まったことのあるやれやれ系。加えて……危なっかしい天才画家か」


 キャプテンは問題を抱えた変人をコレクションする趣味でもあるのだろうか。

 そんなことを考えながら家に帰ると、誰もいるはずがない俺の家から灯りが漏れていた。


 俺が鍵を開けて中に入ると、部屋の方からひょっこりと見慣れた少女が顔を覗かせる。


「あ、フミくん、おかえりー」

「……キャプテン。いや、城戸……人の家に勝手に入るなよ」

「んー、ご飯作っててあげたから許してよ」


 いつもならこれ見よがしにため息を吐いて見せるところだが……先程の考えのせいでそれも躊躇われる。


 ……問題のあるやつばかりを集めている。というのは俺にも当てはまっているのかもしれない。


 こうして図々しく家に押しかけてきているのも……甲斐甲斐しく面倒を見ているという方が正しいのだろうか。


「んー、どうしたの?」

「……いや、カレーの匂いがする」

「好きでしょ? カレー」

「……そんな話、したことないと思うけど」


 城戸はいつもの堂々とした振る舞いからほんの少しズレた、普通の女の子のように「んふふー」と笑う。


 まるで俺よりも俺を知っていると自慢するようで、その強引さにどこか心地の良さを感じる。


 城戸の座っているソファにどさりと座り込むと、彼女はくんくんと鼻を鳴らして楽しそうに笑う。


「絵の具の匂いがする。やっぱり私の右腕、参謀は優秀だ」

「はいはいキャプテン。……どこまで分かってだんだ?」

「んー?

「……まぁ、何でもいいけどな」


 昼にも感じた洗剤のいい匂い。

 俺と肩が触れ合っているのに城戸は気にした様子もなくテレビのリモコンをポチポチと弄る。


「文くんもパソコンとか買ったら? 映画とか動画とか見れるよ」

「あんまり居心地よくしすぎるとキャプテンが居座りそうでな……」

「部屋多いんだからいいじゃんかー。あと、今はオフだからキャプテンモードじゃなくてムギちゃんモードです」

「ムギちゃん……?」

「ボスのフルネームぐらいちゃんと覚えたまえよ」


 ああ、そう言えばそんな名前だったっけ。だらけた様子の城戸はバラエティ番組で少しリモコンを止めて、それからお気に召さなかったのかニュース番組に切り替えてリモコンを机に置く。


「九重キイロ。確かに絵が上手かったな」

「あー、何でも天才なんだって? 今日知ったよ」

「ドヤ顔で言うことじゃないんだよな……。技術的なことじゃなく、人の心を揺さぶるような色合いがあるというか。…………まぁ、どう考えても怪異研の挿絵とか描く要員にするには手に余るな」

「引き入れるのは反対?」

「……友達とかは作った方がいいけど、怪異研はなぁ」

「私の作った部活に何か文句あるのかね」


 あるだろ、そりゃあ。

 城戸はこてりと俺の肩に頭をもたれさせて、ぼーっとテレビのニュースを見つめる。


 横目で城戸の横顔を見ていると、城戸は俺の視線に気がついたのか悪戯な表情を浮かべる。


「んー、なに? かわいくて見惚れちゃった? 照れちゃうぜ」

「……そろそろカレー食べたい」

「ん、お皿並べるの手伝って」


 いつのまにか増えている皿にカレーライスをよそい、付け合わせのサラダと飲み物をリビングの机に運ぶ。


「いただきます」

「どうぞー。あ、多めに作ったからおかわり大丈夫だよ」

「ああ、ありがとう」


 お茶をコップに注いでからカレーを食べる。

 ……美味いな。


 俺が食べ進めていると、城戸はスプーンを止めてじっと俺を見ていた。


「どうかしたか?」

「ん、自分の作ったご飯を美味しそうに食べてもらうの、見てて楽しいから」

「……食いづらいからやめてくれ」


 ニマニマと笑っている城戸にシッシッと手で払う。


「朝ごはんのリクエストはある?」

「泊まっていく気かよ。……カレー残るだろ、カレーでいい」

「ん、了解」


 俺はそんなに面倒を見なければダメな奴に見えるのだろうか。一人暮らしとは言えどある程度ちゃんとしているつもりなのだが。


 カレーを食べる手を止めてニュースを見ながら城戸に話しかける。


「……他の男にはこういうことするなよ。流石に勘違いされるぞ」

「分かってるよ。あ、寝るのにベッド借りるね」

「こいつ……勝手に上がり込んできたくせに俺のベッドの方を占領するのか。まぁいいけども」


 カレーを食べ終えて、城戸がシャワーを浴びている間に洗い物を済ませておく。


 シャワーから出てきた城戸は、いつのまにか俺の家に置いていたパジャマを着て、コンタクトからメガネに変わった姿でご機嫌そうにドライヤーで髪を乾かしていく。


 本当に……いくら親しい仲とは言えど、俺が異性であるということを理解しているのだろうか。


 ドライヤーの風に揺らされる細い髪を見ながら部屋の片付けをしてから俺も風呂に入る。


 諸々のことを済ませているうちに城戸は俺の部屋に行き、まさか一緒に寝るわけにもいかないので俺はそのままリビングのソファに寝転がる。


 テレビのリモコンを取って少し古くなってきたDVDプレイヤーを付ける。


 もう既に何度も何度も繰り返し観た映画を小さな音量で流しながら、半分眠るように意識を遠ざける。


 映画の内容はしっかりと見るまでもなく分かっている。

 つまらない抑揚のない話。ベタな演出。手垢のついたテーマ。


 そんな面白くも何ともない映画をただ流していると、扉が開いて城戸がひょこりと顔を見せる。


「あ、またその映画観てるんだ。マザコンだー」

「……そういうんじゃねえよ」

「まぁ、きれーな人だもんね。フミくんが夢中になってるのも分かるってものだよ」

「変な言い方をするな」


 城戸は画面の中にいるヒロインを見て俺の隣にぺたりと座る。

 それから画面に合わせるように口を開く。


「『自分が思うようにすればいいんだ。人の物語を演じる必要はない。貴方は、貴方なんだから』……って、セリフまで全部覚えちゃったよ」


 母は女優だった。いや、女優というよりかはタレントとかの方が正確かもしれない。


 容姿に恵まれていたことや時の運のおかげか人気者で、結婚をして俺を産んだあともそういう仕事を熱心にこなしていた。


 誰もが褒めている母のことはもちろん俺も好きだった。あまり構ってもらえず、話すことも少ないし、誕生日もクリスマスも一緒に過ごせた試しはないが、それでもよかった。


「……」

「……」


 このつまらない映画を、母は絶賛していた。

 撮りはじめるまえからずっと褒めっぱなし。撮り終えて、公開されてふたりで映画を観にいった。


 幼い俺には映画の内容は分からなかったが、映画館で横目に見る母がとても嬉しそうだったから俺もとても楽しかったのを、脳に焼きつくほど鮮明に覚えている。


 スタッフロールが流れ終えて、観終わって映画館から出ていく観客の表情を見つめて嬉しそうにしていた母は、座りっぱなしで凝った体を伸ばしながら太陽に手を伸ばす。


「あー、やりたいこと終わっちゃったし、理由がなくなっちゃったなー」


 そんな何でもない日のあと、母は自殺した。

 慌ただしく大人達があっちに行ったりこっちに行ったりするのが何ヶ月も続き、やっと落ち着いた頃になって母の言葉の意味を理解する。


 世間は芸能界の闇だとか、父との離婚が原因だとか色々と語っていたが、そのどれもが間違っていた。


 母はやりたいことをやり終えて、生きる理由がなくなって死んだのだ。


 華やかな世界でいけるところまでいって、撮りたい映画を撮り終えて、遊んだゲームのスイッチを切るかのように自分の命を終わらせた。





 俺は母が生きる理由にはならなかった。






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