プロローグ:天使の筆は空を描く②
人は役割を演じなければならない。と思って生きてきた。
だから参謀と呼ばれれば纏め役をするし、学生だから学校に通う。
どうするべき、そう考えた結果……とりあえずバケツと雑巾を持ってくる。
「……せっかく描いたのに」
「いや、学校の窓に描くな。消されたくないならキャンバスとかに描けよ」
何故部活の勧誘をしにきたのに汚した本人に文句を言われながら掃除をしているのだろうか。
人手がほしいので田村辺りを呼ぼうかと考えていると、問題の天才少女の九重キイロは絵の具で汚れた長い髪を揺らす。
「窓に描く必要があったんです」
「いや、ないだろ……」
「この学校からの景色はとてもつまらないです」
「この街って結構、緑がなんちゃらとか自然がどうとかで有名だけど」
「でも、貴方は私の絵を見て感動していたじゃないですか。雑踏の夕焼けを描いた絵を」
それが証拠だ、とばかりに九重キイロは唇を尖らせる。
「……そんなに不満なもんかね。この景色」
水に溶けた絵の先に見える外の景色は客観的に綺麗なものだと思う。
ある程度統制の取れた街並みに寂しさを紛らわす街路樹。……多分、いいものなのだろう。
「人の顔にだってお化粧をぺたぺた塗るんだから、街にだって、紅のひとつぐらいしてもいいじゃないですか」
「ウチの学校はお化粧禁止だ。まぁ二年とか三年になったらしてるやつ多いけど」
まだ消していない絵をよく見てみると元の街の景色を完全に覆い隠したわけではなく、ある程度、街の景色が透けて見えることが分かる。
消すのは……もう少しゆっくり見てからでもよかったかもしれない。
街に化粧をしてもいいじゃないですか、と語った彼女を見ると、その言葉に反して彼女自身には化粧っけのひとつもない。
それどころか、絵を描くときに絵の具のついた手で顔を拭ったのか、まるで子供みたいに顔に絵の具が付いていた。
「どうかしましたか?」
と、こてりと首を傾げながら尋ねる九重キイロを改めて見ると、歳の割にも幼く見える。
……というか、天才少女という話を聞いていたけど背も低くて仕草も子供っぽい。
「……頬に絵の具付いてるぞ」
「ん……絵を消してたらどうせまた付くから良いです」
こんな絵を描いたところで、俺が消さなくとも窓ガラスの結露ですぐにぐちゃぐちゃになるだろう。
それも分かっているだろうに、なんで九重キイロはこんなところに水彩絵の具で絵を描いたのだろうか。
そんなことを考えていると、彼女は雑巾を手に取って俺を見る。
「……そう言えば、何か用があったんです?」
「あー、そうだったな」
雑巾を絞りながら改めて九重の方を見る。天才という前評判と、窓ガラスに描かれた絵の方に目が向いていたが……珍しく映るぐらい長い黒髪や整った顔立ち。
綺麗さと可愛さが共にあるという……。おそらくこういう子のことを美少女と呼ぶのだろう。
「どうかしましたか?」
「可愛いなと思って」
「へ、へあっ!? な、なんですか!? く、口説きにきたんです!?」
「いや、そういうわけじゃ……ああ、いや、まぁそうか」
「そ、そうなんですか!?」
ワタワタと慌てている九重を見ながら、絞った雑巾でまたガラスを拭く。
「部活の立ち上げをするんだけど、その勧誘に」
「あ、ああ……く、口説くとか言わないでくださいよ。……美術部ですか? ……申し訳ありませんが、私はそういうのは……」
いやそうな表情を浮かべる少女の言葉を俺は否定する。
「ああ、美術部じゃなくて怪異研究会って部活。学校の七不思議とか調べたりする」
「なんで怪異研究会に私を……?」
「話の流れで。というか、九重さんが美術部の立ち上げを先生に頼まれてることに関連していて、俺達も部活を立ち上げたいんだけど空いてる部活棟の部屋が一つしかないみたいでな」
「……つまり、美術部が出来ると都合が悪い……と」
正直に話しすぎて気を悪くしたかと思ったが、不機嫌そうな様子はない。
「あれ、あんまり嫌そうな顔をしないんだな」
「嫌になることありましたか?」
「……まぁ、人によっては「利用してるつもりか」と怒るやつもいると思う」
九重は不思議そうな表情を浮かべたあと、得心がいったようにクスリと笑い、俺の頬に指を触れる。
「窓ガラスを拭いてるとき、跳ねてほっぺに絵の具がついてました」
「……それがどうかしたのか?」
「絵の具が跳ねたとき、私が話をしてました。だから、ほっぺに付いても気がつかないぐらいちゃんと聞いているのかと」
「……そんな真面目なやつじゃねえよ」
変なところを見ているやつだと思っていると、九重は首を横に張って言葉を続ける。
「加えて、制服を今は少し着崩していますが、ちゃんと着ていたシワの跡があります。おそらく、ちゃんと着ていたものを放課後になって少し崩したのでしょう。基本的に真面目だけどある程度は周りに合わせるといったように見えます」
「……そうかよ。それで」
「勧誘を断られることが前提なのに、こうして落書きを消すのを手伝う程度にはお人好し……と見ました」
つまり、悪い人じゃなさそうだ……と言いたいのだろう。
まぁ悪人のつもりはないけれど。
「まぁ、放課後になったから少し楽にしてるのは事実だけど、最後のはハズレだ」
「最後の?」
「勧誘はちゃんと成功させるつもりだぞ」
「……お断りしますよ? 放課後まで学校に残るつもりはありません。絵を描かないとダメですし」
「描かないとダメなのか?」
九重は俺の方を見て呆気に取られた表情をする。
「……どうかしたか?」
「いえ、そう言われると思ってなかったので」
「絵を描くのが好きなら別にいいけど、特別そうって風には見えなかったしな」
「……なんでですか」
「なんとなく。あー、そろそろバケツの水を変えるか」
俺がそう言いながらバケツを持とうとするとバケツに入った絵の具の溶けた水に白い指が浸かり、その指が掃除途中の窓ガラスをなぞるように薄い絵を描いていく。
「……絵を描くのは、好きです」
「じゃあ俺の勘違いか」
「人に絵を評価されることが嫌いです。いい評価にせよ、悪い評価にせよ。嫌な気持ちになります」
「……褒められるなら良くないか」
「褒めるというのは「もっとそのような絵を描くべき」という意思表示で、貶すのは「そのような絵を描くべきではない」という意味です。どちらにせよ、私の絵に干渉してきて、嫌です」
そんなものか。
それからふたりして絵の具を落としていくうちに絵の中の夕焼けとは違う、つまらないありきたりな夕焼け空になっていく。
「……結構時間かかったな」
「あ、すみません。……あの、お礼というわけじゃないですけど、先生にはハッキリと部活動はしないと伝えておきます。そうしたら、部室の取り合いにはならないですから」
「それはそれで助かるけど、まぁ勧誘は続けるぞ」
「……なんでですか?」
「なんか、しんどそうだし」
九重が持とうとしたバケツを俺が持つと、九重は少し驚いた表情を浮かべる。
「もう帰っていいぞ。片付ける場所とかは分かる。俺も去年、この教室だったからな」
「……最後まで片付けますよ」
「夕方だし、早く帰った方がいい」
俺がそう言うと九重は少し躊躇った様子を見せる。
「……帰る気がなかったのか? ……家に帰りたくないのか」
部活動はする気がない。
学校にはきたくなかった。
なのに家に帰るのも嫌そう……か。
俺は息を吐いてバケツをその場に置いて近くの椅子に座る。
「あ、あの……急いでるんじゃないんですか? その、たびたび時計の方を見てましたし……」
「帰り道に買い物に寄るつもりだったけど諦めた。下校時刻には帰るぞ。あと、今日は家まで送っていくけど、ひとりのときは遅くまで残るなよ」
九重は不思議そうに俺を見つめる。
「……変な人」
放課後の教室の中、絵の具の匂い、頬には絵の具がついた少女と、チクタクと針を動かす時計。
少女から伸びる影が長くなっていき、次第に教室が暗くなっていく。
そろそろバケツを片付けてくるかと立ち上がったところで、九重が俺に問いかける。
「あの、お名前、聞いてもいいですか?」
「あー、三船。三船 文」
「……三船先輩。えっと、その、私は九重キイロです。喜ぶ色と書いてキイロです」
「まぁ有名だから知ってるけど」
「キイロです」
なんか少し会話のテンポが変わっているな。……やっぱり少し、変な子だ。
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