彼らのはなし

1 彼は侮り、初めての恋に落ちる






 白粉の匂いが嫌いだった。


 王家と繋がりの深い公爵家の娘であった母は、事あるごとに私と父を比較しては、あのような男になるなと繰り返し言っていた。

 政略結婚で元より愛情で繋がった関係ではなかったが、それを踏まえてもなお夫婦の間は冷え切っていた。


 別邸に愛人を住まわせ、そこに入り浸っていた父は必要最低限しか屋敷に戻ってくることはなかった。父は自分よりも爵位が上の家から来た気位の高い母を、心底煙たがっていたからだ。

 一方母は、何人もの愛人に子供を作らせ自分を一向に顧みない父をひどく嫌っており、あんな男になるなと、お前は公爵家の血を引いているのだと、父を見返すべく私に熱心な教育を施した。

 しかしそんな母もまた、父の寄りつかない家に何人もの男を引き込んでいることを私は知っており、父の女遊びを咎めながらも自身の不貞には目を瞑る母を、自分は酷く冷めた目で見ていた。


 公爵家を継いだ母の兄であるところの叔父は、かなりの変わり者だった。爵位を継いだ後も独身を貫いており、その周囲に女性の姿はなかった。

 若くして亡くなった恋人のことが忘れられないのだと、頑なに周囲の結婚の勧めを拒んでいて、公爵家は甥である自分が継げばいいと公言していた。

 両親の子供は自分ひとりだけだったが、いまだ公爵家の一員としての自負の強い母はそれを歓迎し、愛人の子に自分の家を継がせたかった父も反対はしなかった。

 そんな理由もあり、自分はいつしか叔父の元に入り浸るようになった。もともと両親よりも叔父の方が気心が知れていた事も、それを助長した。



「恋人が忘れられないなんて、本当は嘘なんでしょう?」


 ある日、叔父にそう聞いてみた。夜に書斎で晩酌を楽しむ趣味のある叔父は、ワイングラスを手に驚いたように目を瞬かせた。


「何でそう思うんだ?」


 にやりと笑って自分にもグラスを差し出す叔父に、自分はそれを受け取りながら眉をひそめる。


「恋愛なんて無意味だからだよ。見栄えが良かったり地位が高かったりする相手を恋人にすることで周囲に自慢が出来たり、立身出世に役に立ったり、性欲を発散できたりする。それくらいの役にしかたたないだろ」

「なるほど」


 叔父はにやにやと笑いながら、続きを促す。その表情に、少しだけ腹が立った。


「結婚だって同じだよ。家同士の繋がりを作ったり、跡継ぎを作ったりするのが婚姻関係を結ぶ理由。それだけのことなのに、無理やり相手に縛られて我慢したり、いらぬ苦労を背負わなきゃいけない」


 だから、と叔父に言う。


「しなくて済むなら、自分だって結婚なんて面倒なことはしたくない。叔父上は賢いと思うよ」


 初めから結婚なんてしなければ、自分の両親のような互いに互いを嫌悪しながら共にいるという、馬鹿げた人生を送らなくて済む。

 素直にそう賞賛すると、叔父はとうとう我慢できなくなったように腹を抱えて笑い出した。


「そうかそうか。お前、実は女が嫌いだろう?」


 叔父に対して声を荒らげようとしていた自分は、図星を突かれて言葉を飲み込む。


 白粉の匂いが嫌いだった。

 きつい香水の匂いも好きじゃない。

 捻媚びた目でしな垂れかかりながら、赤く塗った爪で触れてくる手。

 社交界に顔を出すようになってすぐ自分は何人もの女に取り囲まれるようになったが、年若い自分に彼女らが媚態を示すのは、整った顔が見せびらかすのに都合がよく、次期公爵という立場がゆくゆくは利用できると考えているからだろうと気づいていた。


 黙り込んだことで肯定と取られ、叔父は潔癖だなと目を細める。


「だがな、ルーク。俺の結婚しない理由は、別に嘘でも何でもないぞ」

「嘘だよ」

「勝手に人を嘘つき呼ばわりしないでくれ。俺はアリシアを愛していたから、アリシア以外と結婚したいとは思わない。それが真実だよ」


 笑いながら知らない女の名前を口にした時、いつも皮肉な色を湛えていた叔父の目が柔らかくなる。それに気付いて、酷く驚いた。


「お前の気持ちも分からなくはないがな、頑なにならずに色んな女を見てみるといい。そのうち思いがけず、恋に落ちるかもしれないぞ」


 幾人もの相手と派手に浮名を流していながら、ある時からぴたりと女遊びを止めてしまった叔父は、そう言ってにやりと笑った。

 



 助言に従った訳ではないけれど、いつしか自分も昔の叔父と同じように、何人もの女の間を渡り歩くようになっていた。

 自分の顔や物腰は随分と女の気を引くようで、少し笑って声を掛ければすぐに擦り寄り秋波を送ってくる。手を取り甘い言葉を掛ければ、科を作って媚を売ってくる。

 中にはまだマシな相手もいて、割り切った関係を楽しむこともあったけれど、失望をすることの方が多かった。

 どの女も同じだと、艶を含んだ笑みを浮かべながらも、胸の内はいつも醒めきっていた。


 そんなある日、一人の奇妙な女と出会った。


 彼女は白粉と香水の匂いではなく、太陽と草の匂いがした。

 裏表のない表情を惜しげもなく浮かべ、声を上げて開けっ広げに笑う。

 自分がどれだけ甘い言葉を囁きかけても動揺せず、艶めいた表情で笑いかけても靡きもしない。

 いつ嫁いでもおかしくない年齢なのに、まるで幼子のように無邪気で、純粋だった。

 気が付けば、彼女に惚れさせようと必死になって誘惑していた。彼女を陥落させようと、むきになっていた。

 だけど彼女はそれに気付くことすらせず、まるで柳の枝のようにさらりとかわされてしまう。

 止めてくれと思った。どうせ裏切るのだから、期待をさせないでくれと腹を立てた。

 そして、自分がとっくに恋に落ちていたことに気が付いた。

 若く、頑なだったころに叔父に言われた言葉を思い出して苦笑する。

 恋愛は無意味だと、その感じる気持ちは今でも残っている。それでも自分は彼女を求めてやまないし、彼女に気持ちを向けて欲しい。

 なるほど、これが恋なのかとすとんに胸に落ちた。


 やがて自分の幼馴染であり、将来仕えることになる第二王子のヴィルも彼女に恋をした。お蔭で積極的に彼女に誘惑することが難しくなってしまったが、隙あらば奪ってやるという気持ちは今でも充分持っている。



 そして最近もう一人、興味を持てる女ができた。

 先日、愛しい彼女が誘拐された時、脳裏に浮かんだのは叔父の事だった。叔父が今でも独身を貫いているのは、最愛の女性を失ったから。自分もまた彼女を失うことを思うと、まったく冷静ではいられなかった。

 取り得る限りの最大の手を使い、彼女を無事に取り返すことができた時には、正直なところへたり込みそうになるほど安堵した。そして同時に犯人に対する激しい怒りが湧き上がった。

 それは自分以外の幼馴染たちも同様で、主犯であるハリステッド・ジャベリンは私的な制裁を受けることはなくても、一分の容赦もなく罪を問われることになるだろう。

 そして犯人を捕らえてもなお余りある怒りは、その共犯者と目される相手にも向けられた。

 シャーリン・グイシェント。その女は彼女の一番の親友だった。


 これまで大した興味は覚えていなかった。

 彼女が気に入り、良く連れてくるその女は、だいぶ小柄で愛らしいと言えなくもない顔立ちをしていたが、全体的には地味な印象だった。

 口数も少なく、ちょっと笑いかけてやれば真っ赤になって俯いた。

 そして王子であるヴィルヘルムに時折向けていた媚びたような眼差しに、あっという間に関心を失った。この女も、他の幾多の女たちと同じ人種だなと。


 だからこそシャーリン・グイシェントが、犯人と組んで親友であるはずの彼女を害そうとしていたと知った時には、余計に怒りが抑えられなかった。

 いくつかの証言証拠が見つかるとすぐに、幼馴染たちと寮の自室まで押しかけた。声を荒らげ糾弾すると、シャーリン・グイシェントはまるで小動物のように身を震わせ、泣き出した。

 もっとも哀れっぽく声を上げ、泣き出す女はこれまでいくらでも見て来た。女慣れしていないもう一人の幼馴染でもあるまいし、今さら女の涙に動揺するような純粋さは持ち合わせていない。

 ますます冷めた気持ちでシャーリン・グイシェントを見ていると、やがて彼女と幼馴染の最後の一人が飛び込んできた。そしてシャーリン・グイシェントに罪はないと庇いだす。

 ヴィルヘルム王子に恋していたシャーリンは、ハリステッド・ジャベリンにその恋心を利用されたに過ぎないと言うのだ。


 それでもやったことは変わらないと思うが、当の本人が許すと言ってしまえばこちらが勝手に糾弾する訳にもいかない。

 八つ当たりとも嫌がらせともつかない気持ちで釘を差し、手の甲に唇を落とす。これで都合よく自分に惚れでもすれば、彼女に対して何かする余裕もなくなるだろうと軽い気持ちだった。

 案の定顔を真っ赤にして手を取り返したシャーリン・グイシェントだったが、俯いたその顔を覗き見ていささか意外な気持ちが浮かび上がる。

 羞恥の中にあったのは情欲の浮かんだ媚びではなく、びくびくと怯えたような警戒心だったのだ。


 これはこれで、なかなか面白いかも知れない。思わずにんまりと笑みが零れた。

 これまで少し良い顔をするとすぐに色目を使ってくるような相手ばかりだったので、ここまであからさまに怯えられ警戒されると面白い。

 思い返せば、自分たちに責め立てられ怯えて震えていた時の泣き顔は、なかなか可愛らしかった。


 こちらの勘違いで押しかけた負い目もあるので、彼女の後になら少しくらい構って上げてもいいだろう。

 そう思い、次にシャーリンが彼女に連れられてやってきた時に遊んでやったら、泣かれた。

 しかも、彼女や幼馴染たちからしこたま怒られた。理不尽だ。震えながら涙目になっていた姿は、想像通り愉快だったけれど。

 仕方がないので、次からはもう少し加減して可愛がってあげようと思う。

 これは自分に恋を教えてくれた、愛しい彼女に向ける気持ちとはまるで違うけれど、雨の匂いのするこの女もまた、興味深いことには違いなかった。


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