2 彼は悩み、自ずから道を見つける
ふっと心が軽くなったような気がした。
護国将軍として名高い父を持ち、その後を追って騎士になることを選んだ兄二人を見て育った自分は、やはり当然のように武の道に進んだ。
父は厳しいが男としても組織の長としても尊敬できる人間であり、兄たちもまた一族の誉れとなる立派な人間だった。
だから自分も、ヨゼフの名を汚さないように精進に努めなければならない。
そのことは常に念頭にありはしたが、別段気負っているつもりはなかった。ただそれを、当たり前だと考えていただけのことだった。
兄二人は、騎士の鑑とも言える人間だった。
二番目の兄は明るく、誠実で、忠誠心に厚い。
仕事にも熱心であったけれど、末の弟である自分に対してはどこか甘く、それを父に窘められることもしばしばあった。
「なあ、テオ。別に嫌なら他の道を探したっていいんだぜ?」
穏やかな笑みを浮かべながらも、困ったように眉尻を下げてそう言ったのは、その二番目の兄である。
「親父の跡は、俺か兄貴が継ぐ。もしお前に他にやりたい事があるなら、親父を説得してやってもいいんだぞ」
頼もしい口ぶりでそう言われたが、こちらとしては困惑するばかりだった。
人当たりも良く、闊達で、なんでも器用に熟すこの兄とは違い、自分は愚直に剣を振るうしか能がない。やりたい事と言われても、思いつくものは何もなかった。
素直にそう言って首を振ると、兄は苦笑して頭を撫でてきた。
もう子供ではないのだから、と思ったがそれでもされるがままになっていた。兄の心遣いは嬉しかった。
上の兄は、寡黙な男だった。
兄弟の中では一番父に似ており、部下を率いていくにふさわしい決断力と統率力を持ち合わせていた。
戦いの中においては常に冷静沈着であったが、普段は情に厚く、多くの部下に慕われていた。
「悩み事があるならば、相談に乗るぞ」
ある夜、自室に呼び出されてそう言われ、まず訝しく思った末にああとようやく理解した。
この兄もまた、末弟である自分に甘かった。
「いいえ、特にはありません。ですが、問題にぶつかった時には相談をさせて頂くかもしれません」
「そうか」
兄は静かにひとつ頷いた。
しかし深々と下げた頭の影に浮かんだ自分の表情は、もしかすると泣き出しそうに歪んでいたかもしれない。
二番目の兄に言われ、一番上の兄に声を掛けられ。
そして、父に呼び出された時が最後通牒となるのだろう。
恐らく、自分は騎士には向いていないのだ。
自分はやれるだけのことを、愚直にこなしてきたつもりだった。
騎士になることを疑いもせず、父と兄らの背中を見て、そのあとをただ付いて行くものだとばかり思っていた。
しかし、父や兄から見れば、自分は騎士として必要なものを欠いている。
それゆえに、兄らは傷つく前に自分に別の道を歩ませようと、口々にあのようなことを言ってきたのだ。
足りない物が果たしてなんなのか、自分にはまるで分からない。
愚かで無能な自分に理解できたのは、分からないままの自分では形だけの騎士にしかなれないということだけだった。
ひどく気落ちしていた自分を心配して、幼馴染たちは何かと元気づけようとしてくれた。
理由を問い詰めるようなことは一切せず、ただ気晴らしに飲みに連れ出してくれたり、家に伝わる宝剣を見せてくれたりと、さりげなく気遣いを見せてくれた。
「お前は真面目だからな」
そう言って笑ったのは、自分の幼馴染であり、かつ将来仕えることになる主だった。
「それはお前の利点だけれど、少し肩の力を抜いてみろ。考え過ぎはあまり良くないぞ」
言葉を掛けて貰えたのはとても嬉しかったが、こればっかりはどうしようもない。
このままでは、貴方に仕える事もできないのです。そんな言葉を、ぐっと呑み込む。
ただ、焦燥だけが募っていった。
彼女に出会ったのは、そんな思いに押し潰されそうになっていた頃のことだった。
彼女はとても自由な人だった。
自分と同じように、貴族や家という枷に嵌められているにも関わらず、それを物ともしない奔放さがあった。
明るい笑顔に、曇りのない眼差し。自分よりも立場が上の人間に対しても、物怖じなく言葉を紡ぐ口。
無謀とも言える言動には冷や冷やさせられる事も多かったけれど、それでも、何ものにも囚われない彼女の姿勢には驚嘆するばかりだった。
最初は自分の二番目の兄に似ているように思ったけれど、すぐにそうではない事に気がついた。
常に自分を律して闊達な自分の姿を作り上げている兄とは違い、彼女は自然体でそうなのだ。
まるで子供のように無邪気で、純粋無垢。
そんな彼女がひどく眩しく、憧憬を抱いた。
もし、自分が彼女のような人間だったら今頃どうなっていただろう。こんな悩みや苦しみからも無縁だったのだろうか。そんな埒もない想いに耽ったりもした。
それがいつしか、彼女のように自由な人間になりたいという願いに変わるまで、そう時間はかからなかった。
自分はまるで幼子のように、彼女の後ろをついて歩いた。
仲間たちにはさながら鳥の雛のようだと笑われもしたが、それでも構わなかった。自分にはそうすることでしか、彼女のようになる方法が思い浮かばなかったのだ。
彼女と行動を共にして、同じ物を見て、同じ驚きを共有し、共に笑い、共に喜び、時に悔しがり。
そして気付けば、ふっと心が軽くなっている事に気付いた。
ああ、と理解した。
自分は、立派な父や兄、家に竦んでいたのだ。
それに相応しい行いをしなければならないのだと、気付かないうちに自分を縛り上げていた。
そしてそれが、ひどく息苦しかったのだと思い至った。
もちろん家や立場を捨てたい訳じゃない。
自分がそれらに、誇りを抱いているのだって紛れもない真実だ。
だけど、それに囚われるのは、もうやめようと思った。
それは自分を縛る枷なのではなく、ただ自分を構成している要素の一つなのだと思えるようになった。
そして、もう一つ。
自分にとって大きな転換となる出来事があった。
尊敬にも近い憧憬を向けていた彼女が、誘拐されたのだ。
犯人はハリステッド・ジャベリンという同じ学園に通う貴族であり、彼女に対して歪んだ恋心を抱いていたと後から聞いた。
また彼は、自分では想像もつかないような搦め手を用いる卑劣な男だった。
直ちに彼女を救い出したいと思ったが、自分は自分が考えていた以上に無力だった。
どれだけ剣の腕を磨いても、一人強さを追い求めても、敵が目の前にいなければ何の役にも立たない。
彼女を見つけ出すために必要なものは、個人の強さなんかではないのだと、痛いくらいに実感し絶望した。
それでも、自分は守りたかった。
彼女の純粋な心を。無垢な魂を。
卑劣な男の手から救い出し、庇ってやりたかった。
だから、自分は兄に頭を下げた。
時期は折しも建国記念祭の最中で、護衛や警備の総責任者である父とはもう一月以上顔を合わせていなかった。
兄たちもそれぞれ自身の任務で非常に忙しいことは承知していたが、それでも父に比べれば居場所には予想が付き、自分は恥も外聞もかなぐり捨てて助けを求めた。
無力な自分が彼女を救う為にできることは、それしかなかった。
兄らはそれぞれ驚いたような顔をしたが、それでも自分の頼みを無碍にしないでくれた。
可能な限りの情報を渡してくれたし、向こうも人手が足りないにも拘らず部下や同僚に頼み込んで、人員を回してくれさえした。
彼らや自分の幼馴染たちの奮闘のお蔭で、どうにか彼女を救い出すことに成功した時、自分は心底安堵した。そして、同時に情けなくなった。
突入の際、剣に物を言わす場面もあったが、自分が役に立ったのはその程度。後は、幼馴染や兄やその仲間の騎士たちの手柄だった。
力が欲しいと思った。
二度とこんなことが起こらないように、万が一の時にはすぐさま彼女を救い出せるように。
平和を維持するための力を。悪を打ち滅ぼすための力を。
彼女を、守るための力が。
そう考えた時に、脳裏に浮かんだのは、やはり父と兄たちの姿だった。
そしてようやく理解した。
いったいどれだけ遠回りをしていたのだろう、と苦笑する。自分は本当に、何も分かっていなかったのだ。
これまで、漠然と父や兄らの後を追うことばかりを考えていた。
何の為に騎士になりたいのか。騎士になって何をなしたいのか。そんな根本的な事すら、考えたこともなかった。
それではいけないのだ。
護りたいという強い意志を持っていて初めて、騎士は騎士たりえるのだ。
ただ強いだけの力は無力であり、危険でもある。それは自分やハリステッドの事を考えればすぐわかる。
自分は彼女を守れる騎士になりたい。
強く、強くそう思った。
後日、建国記念祭に関わる業務も落ち着いた頃、自分は兄たちの元へ礼をしに赴いた。
彼女を無事に取り戻せたこと。主犯を捕えられたことを告げ、兄たちの協力あってこそのことだと深く感謝を述べた。
二番目の兄は興味深そうな表情で報告を聞いていたが、最後には楽しげに笑って頭を乱暴に撫でてきた。
初めてのお使いでも褒めるような仕種に、子供ではないのだといつかのように思ったが、兄の本当に嬉しそうな笑顔に何も言えなくなった。
一番目の兄は何も言わずに報告を聞いてくれており、最後にひと言「良い顔をするようになったな」と目を細めた。
まだまだ、足りないことばかりであるのは自覚している。
それでも、兄にこうやって認めて貰えたことが何よりも嬉しかった。
兄たちは、本当に自分を案じてくれていたのだと、胸に暖かいものが灯るのを感じた。
それだけなら良い話で終わるのだが、これら一連の事件には最後に一つ非常に情けない補足が付いた。
彼女の親友である、シャーリン・グイシェント嬢についてだ。
事件の主犯であるハリステッド・ジャベリンの目論んだ大小様々な企てを追っていくうちに、共犯者と思しき人間に行き当たった。
それがグイシェント嬢である。
彼女の親友でありながら自分たちや彼女に対して余所余所しい態度を取っているように感じていたが、実際にはハリステッド・ジャベリンと共謀して彼女を陥れようと企んでいた。
そんな筋書きに気付いた時、自分の中で憧れの彼女を護りたいという思いが暴走した。
仲の良い友人のような顔をして、彼女を裏切り、傷付けようとするなんてハリステッドに劣らぬ悪辣さだ。
そんな少女を到底許すことができず、共に企てを暴いた幼馴染と共にグイシェント嬢の寮の自室まで押しかけた。
そしてその行いを非難したわけだが、グイシェント嬢は可哀想なくらいに怯え、その場で泣き崩れたのだ。
自分はそれに酷く動揺した。
涙に濡れた目は困惑に揺れ、片手で簡単に捻じ伏せてしまえるほど小柄な体が恐怖に震えている。
正しいことを成す為にここに来たのに、これではまるで自分の方が悪人ではないか。
そんな予想は、情けないことに的中した。
彼女は恋情をハリステッド・ジャベリンに利用され、言葉巧みに操られてしまっていたのだ。
すぐに彼女ともう一人の幼馴染が部屋に飛び込み、そうグイシェント嬢の弁護をする。
それを知った瞬間、自分は目の前が真っ暗になるほど深い後悔に陥った。
彼女を守る事しか頭になく、他のことがまったく目に入っていなかったことを理解する。
情けない。
あまりに情けない。
絶望のあまり舌を噛み切りたくなったが、それよりも先に自分はしなければならないことがあった。
大急ぎでグイシェント嬢の前に跪き、謝罪をする。
よくよく考えれば、一人の無実の少女を男三人で追い詰め責め立てるなんて、騎士どころか男として最低ではないか。
仮に父や兄が知れば、殴られるだけでは済まないだろう。自分に甘い兄たちではあるが、そういう部分については一切容赦しないことも知っている。
どんな罰も喜んで受けるつもりで頭を下げたが、か細い声が顔を上げるよう告げた。
自分が無体を働き傷付けてしまった少女は、いじましい表情で自身の罪を口にし、謝罪されたことに礼すら言ったのだ。
思わず顔が赤く染まった。
もちろん羞恥のせいである。
彼女のようなか弱く稚い少女ですら、自身の罪を認め、他人を許す術を知っている。
それに比べ、鬼の首でも取ったように罪を責め立て、集団で一人を非難する自分のなんと醜く浅ましいことか。
自分はまだまだ騎士には程遠い。
そう痛感するとともに、憧れの彼女だけではなく、グイシェント嬢のように小さく弱い存在もまた、守ることのできる人間になろうと決意を新たにした。
もっとも後日、その決意がまずグイシェント嬢を泣かした幼馴染に向けられたのは、なんとも遺憾な話である。
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