第23話 禊(みそぎ)

 日曜の穏やかな日差しがこぼれる裏山に、ギターをかき鳴らす音が響く。鼻歌を歌いながら、時折手を止めてはテーブルに広げた用紙にシャーペンで書き込んでいく。辰也は首を伸ばし、ぐるりと回して凝り固まった筋を伸ばした。なにげなく目線を東屋の入り口にやると、その陰からグレーのカーディガンの肩がわずかに見えている。


「……ユキ?」


 ユキはぎくりと肩を硬直させ、そーっと顔を覗かせた。


「なにしとん、そんなとこで」

「……べつに」

「聴きに来てくれたんなら、ちゃんとベンチに座ったらええのに」

「そんなんじゃないよ」

「あっそう」


 辰也は再びギターを構え、思いつくままに音を奏でだした。気に入ったコード進行を見つけては紙に書き加えていく。その作業をしばらく続けていると、いつの間にかユキがベンチに座っていた。鞄三つぶんくらいの距離をあけて。


 辰也は書き込んだコードを最初からおわりまで弾いてみた。「うん、いいなこれ」とひとりつぶやく。


「作曲、してるの?」ユキがたずねる。

「うん」

「……前、その……できないって言ってたのに」

「うん。もう一生やらんと思ってた。でもできた。やっぱ俺、好きなんやろな」


 指先で弦を適当につまびきながら答える。


「おまえのおかげやで」


 ユキはうつむき、自分の膝頭を見下ろした。


「あの……文化祭の動画、知ってる? 見た?」

「ああ、学校のアカウントでステージの映像アップされてるんやっけ。万璃子が俺に許可もらいに来たで」

「えっと、そっちじゃなくて……まりこちゃん、自分のアカウントであげてるやつ、あるんだけど」


 ユキがポケットからスマホを取り出し、画面を向けてくれた。万璃子のSNSの投稿に動画のサムネイルが載っている。ギターを弾きながら歌う辰也の顔がおもいっきり映っていた。


「黒鉄くんの部分だけ切り取って、ここで流してるんだよ」

「え、何これ? 万璃子が俺に許可もらいにきたのってこれやったんか?」

「たぶん」

「……マジかよ」


 投稿の日付は二週間前。ちょうど文化祭翌日の夜になっている。万璃子はフォロワーも多いようで、動画はすでに二百回ほど再生されていた。


「ほんま、なに勝手なことしとんねんあいつ」

「消すように言おうか……?」

「……」


 辰也はしばし考え、だまって首を振った。


「ほんま勝手やけど、結果的に俺の曲をいろんな人に聞いてもらえてるし……」

「いいんだ」


 ユキは小さく笑ってスマホ画面を見下ろした。


「まりこちゃん、こういうとき結構真面目だしね」

「そうなん」

「うん。大真面目にこういうことするよ。きっとこの歌が気に入ったんだと思う」


 おまえは? という声が喉まで出かかって、寸前で飲み込んだ。彼女はきっと客席にいた。歌は確実に届いているはずだ。


 会話が途切れ、ふたりのあいだに奇妙な空白がただよう。辰也はごまかすようにギターの弦に手をかけた。だが邪念が入り込むせいでまともに旋律が浮かばない。


「……あの」


 珍しいことに、再びユキが口を開いた。


「しおりちゃんと、仲直り……たぶんできたと思う」

「おお」

「だから、あの……ありがとう」

「よかったな」

「うん。ちゃんと伝えられたの。純くんを幸せにしてって。それはしおりちゃんしかできないって」

「おまえ、それ――」辰也はユキの顔をまじまじと見た。「ほんまにあきらめるんやな」

「わたし、最初からあきらめてるんだよ。隣に立つ気も向かいあう気もなくて……ただ後ろから見ていたかっただけ。好きになってもらう努力とか、相手を理解する苦労もぜんぶ放棄して、いいとこ取りしようとしてただけ。ただの好きの押しつけだよ」


 ユキは足をぶらつかせながら自虐気味に笑った。


「ちゃんと〝負け宣言〟できてよかった」

「負け宣言?」

「少女漫画ってね、ヒーローを取り合った結果、負けた方がちゃんと負けを認めるシーンがあるんだよ。まあわたしの場合、取り合うことすら放棄したからちょっと違うけど……でも、ちゃんとヒロインに言うんだ。彼を幸せにできるのはあなたしかいないって」


 辰也は「ふーん」とギターの弦を撫でるようにいじりながらぼそっとつぶやいた。


「でも負けヒロインって、たいがい近くに味方の男おらへん?」

「え?」


 ユキは辰也の言葉を反芻するように二、三度目をまたたき、ほんのり頬を赤くした。


「あ……あの……噛ませ犬ポジション、のこと?」

「はあ? 噛ませ犬?」

「え、あ、そういうことじゃ、ないの?」

「……」


 弦を適当にいじる指は、いつのまにか無意識にきちんと旋律を奏でていた。ゆっくりと、ゆるやかではあるが、あの日文化祭で弾いた歌を、風に乗せるように小さく。


「あ、あの、黒鉄くん」


 ユキが突然立ち上がった。


「お願いが……あるんだけど」

「なに」

「ちょっとだけ付き合ってほしいことがあって……あの、今からここで、髪、切りたいから」

「髪?」


 驚く辰也の目の前で、ユキはポケットからプラスチックのケースを取り出し、蓋を開けた。中にははさみと櫛が入っている。別のポケットからビニール袋を取り出し、はさみで丁寧に切り開いてテーブルに広げた。


「え、なんで……なんで今? ほんまにここでやるんか?」

「うん。えっと……見届けてほしいの。お願いします」


 言われてみれば、初めて会ったときに比べてユキの髪は数センチ伸びているようだった。髪の毛先が肩のラインを超えようとしている。


「ええけど……」

「ありがとう」


 ユキは後ろの髪を片手で束ね、反対の手ではさみを開いた。テーブルに敷いたビニール袋に背を向け、ぐっと腰を逸らした瞬間、ばちん、と小気味のいい音と共に髪の毛先がぱらぱらと落ちていった。

 何度か調節するように、手からはみ出た毛先を小刻みに切り続ける。ひととおり済むと、彼女は髪から手を離した。切りっぱなしのショートヘア――辰也が転校してきた五月末に見た彼女の髪型がそこにあった。


「もしかしておまえ、ずっと自分で切ってたんか?」

「うん」

「どーりで毛先の形がばらばらやと思ったわ……」

「でも、もうこれで最後にしたいと思ってる」


 ユキは切り落とした髪をビニールに包み、厳重に丸めて結んだ。


「これはね、戒めだったの」

「戒め?」

「前に話したこと……中学時代の話、覚えてる? わたしが好きだった幼なじみの男の子は、長い髪が好きだった。だからわたしもずっと伸ばしてたんだ。でもあの事件があってから、浮かれて伸ばしてた自分が嫌になって、すぐに自分で切った」


 ユキは切ったばかりの髪の毛先をいじりながらうつむいた。


「自分のしてしまったことを忘れないようにって戒めのつもりで、わざと美容院に行かずに自分で切り続けてた。鏡を見るたびに思い出すから」

「じゃあおまえ、まだそのときのこと……」

「ううん。今回はちがう。これはしおりちゃんと純くんのこと。もう二度とあんなことしないっていうのと、純くんのことをきっぱりあきらめたっていう決意……かな。だからもう、これっきりにしたいと思ってる」


 言葉の最後、ユキの瞳はまっすぐ前を向いていた。東屋を囲む木漏れ日の光を受けた瞳は、薄黄色の混じった綺麗なガラス玉のようだった。


「ようやく前向きになれたんやな」

「……うん」

「てか、おまえ中学のときロングやったんか。これから伸ばせよ」

「え?」

「ロングええやん。伸ばせ。今からでも」

「な、なんで」ユキはひどく戸惑い、咄嗟に自分の頭をかばった。


 それからなんとなく、互いに黙ってしまった。辰也は気まずそうに咳払いして、ギターを構え直す。ユキは去るに去れないのか、だまってうつむき、辰也の奏でる音に耳をそばだてていた。


「なあ」


 唐突に辰也の手が陽気なストロークを奏で始めた。「この曲、わかる?」

「あ……うん、ギャランナの」

「じゃあ、歌ってや」

「え」

「ええから、歌って。恥ずかしいなら、小さい声でも構わへんから」


 ユキは「で、でも」と口をもごもごさせている。それでも辰也はめげずに手を動かし続けた。やがて曲が終わっても、途切れることなく別の曲に切り替えた。

 ユキは両手で自分の胸のあたりをおさえ、浅い呼吸を繰り返している。緊張しているらしい。


「ユキの声、めっちゃ綺麗やで。透き通っててまっすぐで」辰也は明るい声で告げた。「俺、ビブラートとかあんま好きじゃないから、おまえの声めっちゃ刺さる」

「……」

「おまえへの感情とか抜きに、純粋にそう思ったから」


 ユキはますます顔を赤らめ、「そんなこと……言われても……」と声をくぐもらせる。やがてユキは顔を背け、辰也と反対方向を向いた。

 透明な風が吹き抜ける。そよ風のような小さな歌声が、辰也の耳をかすめていった。それは次第に自信を持ったようにしっかりと根を張り、ギターの音の波をまといながら遠くへとはばたいていく。


 ――やっぱ好きや。


 熱い感情が込み上げてきて、辰也の胸にじわりと広がる。歌が終わり、ギターの最後の余韻が消えても、ユキはこちらを向いてくれなかった。


「ありがとう。歌、聞けてよかった。ごめんな無理言って」

「ううん……」


 切ったばかりの短い髪から覗くユキの耳は、真っ赤に染まっていた。


「さっき……何か言った?」

「え?」

「歌ってるとき……何か言った、よね」


 冬も目前なのに、辰也の全身が汗ばんだ。まずい。また心の声が知らず知らず漏れていたらしい。


「あー……ごめん。マジでごめん。気にせんとって」

「あの、わたし、その、返事は……」

「返事とか、今せんでいいから」


 一分前の、感傷に駆られていた痛い自分を殴りたい。


「前も言うたけど……今すぐ答えなんか出さんでいい。そもそも校則あるし、ほんまはあかんし。だから卒業後まで待つ」

「でも、わたし――」

「ええってもう。俺、これから卒業するまでこの話題は一切出さへんから」


 かっこつけているようで、本当はひどく情けない言葉だ。答えなんて聞かずとも察せられる。今はただ、それを先延ばしにしたいだけ。


 ユキがこちらを振り返る。言葉にならない思いの揺れるその瞳を見つめながら、辰也は告げた。


「でも、忘れんなよ。あの夜、おまえに言うたこと全部、ずっと変わらんから」


『僕は絶対、自分から終わらせる気はないよ』


 夏休みの夜、純が自信満々に言った言葉。あのとき自分は、この言葉の真意を疑った。現実に絶対なんかない。いつ終わるかわからない危うい感情なのに――それなのに、気づけば自分も同じことを口走っている。


 辰也はぐっと唇を閉じ、ユキに向けていた視線を断ち切った。あとはひたすら無言でギターの弦をつまびいていた。

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