第22話 負け犬の遠吠え
各クラス六人前後しかいないせいで、クラスの催しに従事するシフトはせわしなく変わっていく。常に三人体制を維持しなければならないので入れ替えが忙しい。だが三学年三クラスしかない上に、有志の模擬店や出し物も本校舎内にいくつか点在しているだけなので、全部回るのは簡単だった。
ユキは空いた時間に校内を回りながら、ついでに自分のクラスも覗いてみた。悠と汐里と純がカウンターに並んでいる。悠のハムスター耳は万璃子が強引に決めたものだ。そしてウサギ耳の汐里と、黒い犬耳の純……
「あなたが朧くんね? それから、汐里ちゃん。純からいろいろ話を聞いてるの、このあいだなんか、電話でね――」
「ちょっとおばあちゃん! 今そんな話いいでしょ!」
腰を少し曲げた優しそうな老婆と、顔を真っ赤にした純がカウンター越しに話しているのが見えて、ユキは思わずほっと口元をゆるめた。その隣でくすくす笑う汐里も楽しそうで、ユキは静かにその場を去った。
――よかった。ほんとうによかった。
全部、あるべき姿になったのだ。
「ユキ!」
後ろからがばりと羽交い絞めにされ、ユキはぎゃっと悲鳴を上げてしまった。
「と、時恵さん」
「文化祭だというのに、ひどい顔だな。もう疲れているのか? 休日に寝太郎を決め込んでるせいだぞ。三年のクラスには来たか?」
「え、えっと、はい、さっき……」
「そうか。でもたった今シフトが変わったんだ。もう一度来い、雰囲気ががらっと変わっているはずだからな」
言うや否や、時恵はぐいぐいとユキの腕をひきずっていく。三年生はホラーショップを開いており、喫茶あり雑貨ありの模擬店を開いているのだが、ゾンビメイクや貞子メイクが思いのほかリアルでユキは早々に退散したのだった。
「足立の流血地縛霊コスがなかなか際立っていてな、私の自信作なんだが、ぜひ見てくれ」
「待ってください、待って――」
あれよあれよという間にユキは三年生の教室まで連行されてしまい、阿鼻叫喚の悲鳴を上げるはめになったのだった。
*
時恵に校舎中を連れまわされ、万璃子に緊急の手伝いをお願いされ、地域のお年寄りに道案内を頼まれているうちに時間はあっという間に過ぎてしまう。いつしか時計の針は午後一時を回っていた。もうすぐ二時――体育館でステージ発表が始まってしまう。
校内をうろついていた客や生徒たちがぽつぽつと体育館へ向かっていくなか、ユキは教室内に残ってごみをまとめていた。あらかた片づけて、自分も教室を出ようと立ち上がる。
そして何気なく振り返ったとき、ふとキッチン裏の作業台に目が留まった。
急いで取り外したのだろう、衣装の耳と尻尾がばらばらに置かれている。ハムスター、秋田犬、オオカミ……最後は男子たちだけのシフトだったようだ。うちのクラスは女性陣に人気だと途中で万璃子が教えてくれた。作業台に近づき、そっと手を伸ばす。一番下に置かれたオオカミの耳を拾い上げた。
最初は嫌がっていたのに、試着すらしてくれなかったのに、本番になるとちゃんとつけて接客してくれた。ちょっと無愛想でぶっきらぼうだったけど、それが妙に好評で、麓の高校から来た女子生徒からしつこく連絡先を聞かれ続けていたのを見てしまった。目つきは悪いが背は高いし、この学校の中では一番都会的な雰囲気がある。前の高校でバンドをやっていたときなどは、それなりにモテていたんじゃないだろうか。星牧の他学年の女子たちも、「ケモ耳のおかげで髪おろしてる!」と喜んでいたくらいだ。
そんな人が、どうして自分なんかを? それが未だにわからない。あの夜のことは夢だったんじゃないかとすら思える。いや、実際夢だったんだろう。夢だったほうがいい。だれかに好かれる資格なんてないのだから。
オオカミの耳をその場に置き直し、ユキは教室を出て行った。時計はまもなく二時を指し示そうとしていた。
体育館は去年よりも混雑していた。地域から人を呼んでいるというのもあるが、今年の三年生が豪勢に自分の親族たちを呼び寄せているためでもある。実行委員はそれもしっかり把握していたようで、座席は多めに用意されていた。ぎりぎりに入ったユキも、戸口付近ではあったが空席を確保できた。周囲に顔見知りはいない。みんなだれかの家族か地域の人々だろう。
ふと、目の前の座席の群れの中に純らしき頭が見えた。横にいるのは汐里だろうか。後頭部だけで見つけることができるなんて、我ながら気持ち悪いなと思う。「普通じゃない」――そう、自分は頭がおかしいのだ。過去のトラウマをこじらせ続けた結果、非常識で気持ち悪い人間になってしまった。……
心が冷風に当てられたように冷えていき、胸の奥に空いた穴の存在を思い出した。その穴はじわじわと広がり、今や胸の内側の大部分を侵食していた。やがてステージ上で司会者が挨拶を始めても、プログラム一番目の三年男子のコントが始まっても、会場内にどっと笑い声が湧いても、この重たげな寒さは消えなかった。
ステージは即席バンドや寸劇、有志の合唱やハンドベルなど、多種多様なものが次々に披露された。みんないつどこで練習をしていたのだろう。だが、どんなに熱のこもった演目が目の前で繰り広げられても、スポットライトにまぶしく照らし出されても、ユキの視界はひどくくすんで、モノクロテレビのように荒れていた。万璃子が歌って踊っているのに、時恵がハンドベルを懸命に鳴らしているのに、足立や三年男子たちがギターを振り回してパフォーマンスしているのに――ぜんぶ、心の穴を素通りしていく。
自分はなんて嫌な人間なんだろう。気分が落ち込んでいるからって人の努力を真面目に見ることができないなんて。自分は異常者で、自分勝手で、これ以上ないほどエゴの塊なのだと、今になって嫌と言うほど思い知らされる。
――舞台がまぶしい。
――いますぐ、この場から消えてしまいたい。
喉の奥に重たい吐き気がこみ上げてきて、ユキはとうとう腰を上げた。会場内が暗くなり、ステージ上で人の入れ替わる気配がする。やがて、スポットライトがカッと光を放ち、舞台を照らし出した。
辰也がギターを構えて座っている。その姿を見た瞬間、ユキは慌てて座席の隙間を縫って歩いた。こんなひどい気持ちで彼のギターを聞きたくない。
「えー、今からやるやつ、俺が作ったんですけど」
辰也の声がすぐ後ろのスピーカーから飛び出し、ユキはびくりと肩を飛び上がらせた。
「もともと俺、作曲とかできなかったんです。こう、魂が拒否っていうか苦手っていうか。でも、どうしても歌いたい曲って、どんだけ苦手でも拒否してても浮かんでしまうもんなんです。だから、作りました。聞いてください」
マイクを通して、ごとりとギターを構える音が響く。
「『負け犬の遠吠え』」
一呼吸空けて、彼がギターをつまびき始める。体育館の扉を開ける寸前、辰也の息を吸う音がはっきりと耳に届いた。それはドアノブを握るユキの手を、優しく強く引き止める。
海風と まばゆい水面を撮りたくて
シャッター切ったら 君がいた
偶然、偶然だよ
でも、消せてないんだ、ごめん
〝幸せになりたくない〟
あの日君がようやく泣いた
〝ふさわしくない〟〝こわい〟
君の望みは何? なんでも言って
その代わり、一つだけ願いをきいてもらうから
君が〝死にたい〟と叫ぶたび
そばにいることをゆるしてほしい
君が〝助けて〟って叫ぶまで
何度でも歌わせてほしい
君がちゃんと笑うまで
幸せだ、と笑うまで
弦からこぼれる音のひとつひとつが、耳から入って胸の底へ落ちてくる。ぽかりと開いた大穴に雨のように降りそそぐ。
虚無と寒さで麻痺していた胸が、しだいにしんしんと痛みはじめた。息が苦しい。こんな優しい歌、聴きたくない。聴くべきじゃない。今すぐ扉を開けて出て行きたい。
それなのに、体がぴくりとも動かない。心が、魂が、彼の歌を欲している。
思えば、彼はいつも突然だった。
突然学校にやってきて、突然あとをつけてきた。純を見守る自分に冷たい飲み物をくれた。歌声を好きだと言ってくれた。純の眼鏡を借りてまで手を取って走ってくれた。「ユキ」と名前を叫んでくれた。雨の中、裏山で慰めてくれた。厳しい叱咤もしてくれた。絶望と混乱に泣く自分を抱きしめてくれた。彼は一度も、この気持ちを否定しなかった。
くすんで荒れていた視界が急速に色づいていく。心の穴から光と音があふれ出し、ユキは反射的に両手で顔を覆った。どんなに抑えてもこらえてもせきとめられなくて、指の隙間から熱い涙がこぼれ落ちていく。
気づけば膝から崩れ落ち、扉にすがって泣いていた。泣いちゃだめなのに――泣く資格はないのに……
わたしはこんなに汚いのに。頭がおかしい、気持ちの悪い人間なのに。
こんなわたしの幸せを、あなたは望むというの。
胸の内側を覆っていた灰色の雲が晴れていく。視界がまぶしくて、痛い。でも、心地のいい痛みだった。全身にまとわりついていた黒くて澱んだもののすべてが洗い流されていくようだった。
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