第21話 さよなら、好きな人

 汐里は戸惑い、一度教室を出てドア表示を確認する。ポケットからメモを取り出して首をかしげた。


「場所、間違ってない?」


 汐里に問われ、ユキも不安になってメモを取り出す。


「ううん。わたしも、空き教室2だって……」

「きっとマリちゃんが間違えたのね。彼女が来るまで私、外にいるわ」


 汐里がくるりと踵を返す。ユキはすかさず「待って!」と声を上げた。


「待って……しおりちゃん」


 汐里は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。


「……なに?」

「あの、ごめんなさい。どうしても謝りたくて」

「何を?」

「の、ノート、のこと」発した声が喉の奥でもつれて、思わず咳き込んでしまった。


「ほんとうにごめんなさい。わたし、最低なことしてた……。ショックだった、よね。傷つけたよね。しおりちゃんはずっとわたしを信頼してくれてたのに……」


 汐里はじっとユキを見据えて黙っていた。ややあって、冷たく口を開く。


「それだけ?」

「……」

「ほんとうにそれだけなの?」

「……っしおりちゃんが望むなら、わたし、この学校を出て行きます」

「そうじゃないでしょ!」


 ぴしゃりと声を叩きつけられ、ユキは驚いて目を上げる。汐里がつかつかと歩み寄り、ユキの肩を両手でつかんだ。


「あなたが言ったとおり、ショックだったわ。ものすごいショックだった。それと同時に怖くなったの。今まで私の恋愛相談をどんな気持ちで聞いてたんだろうって。どんな気持ちで二人きりにさせてくれたりしたんだろうって……すごく怖かった」


 肩を掴む汐里の手は小さく震えていた。


「私を内心ひどく憎んでるんじゃないか、あなたを親友だと思っていたのは私だけで、実はものすごく嫌われていて陥れられようとしているんじゃないかとか、そういうひどい予感が噴き上がったの。だってそうでしょう? あんなふうに純のこと、一心に書かれていたら……」

「ちがうの、しおりちゃん」ユキは急いでぶんぶん首を振った。


「しおりちゃんが嫌いとか憎いとか、まして陥れようなんて、そんな気持ちはなくて……本当だよ。わたしはその……訳あって、あんなふうにしか人を好きになれないから」

「どういう……」

「だからって、やっていいことじゃなかったけど……しおりちゃんを応援してたのは本心だよ。純くんを幸せにできるのはしおりちゃんだけだと思ってる」

「なに言ってるのよ。あなたも純が好きなんでしょ? なんでそんな……」肩を掴む汐里の手にぎゅっと力がこもる。「変に遠慮して、うわべだけで仲良くなんて、そっちのほうが無理よ!」

「うわべじゃないよ。純くんのことは好きだけど、隣に並ぶべきはわたしじゃない。純くんが好きになったのはしおりちゃんだよ。わたし、好きな人の幸せを望みたいだけだったの」


 そう、初めは、たったそれだけの気持ちだったのに。


「でも、欲が出て……好きって気持ちが抑えられなくて……純くんをいっぱい盗み見て、あんなふうに発散させてしまった。でもそれはしおりちゃんの信頼を裏切る行為だった。もう二度と……あんなことはしないよ。純くんのことも、あきらめる。――あきらめるって変だな。最初から、隣に並ぶ気なんてないんだから」


 力の抜けた汐里の手首にそっと触れながら、ユキは続けた。


「裏切るようなことしてごめんなさい。傷つけてごめんなさい。あのノートはちゃんと処分します。純くんを盗み見たりしません。……それを、どうしても伝えたかったの」

「何よそれ……あなたの謝罪はわかったけど、それ以外のことはちょっと……理解できないわ」

「わたしの思考が異常だっていうのは、自覚してるよ。でもごめんね、変えられないの」


 汐里の手を優しく離して、ユキはわずかに後ろへ下がった。


「どうしても、好きな人に好かれたくなくて……理解できないと思うけど……全部本心です。仲直りしてくださいとか、これからも仲良くしてくださいとは言えないけど……純くんとは、これからも一緒にいてほしいです。純くんを幸せにしてください!」

「ちょっと、ゆっきー――」


 ユキはがばっと頭を下げ、そのまま目も合わさず走り出した。空き教室の扉を開けると同時に、万璃子の驚き顔とぶつかりかける。


「わわっ! あれっ、もう終わ――じゃなかった、えっと……」

「あ、まりこちゃん。わたしとしおりちゃんの場所、間違えて言ってなかった? わたしはどこに行けばいいかな」


 努めて平静を保とうとしたが、急かすような早口になってしまう。万璃子もたじたじとなっていた。


「えっと、うん、ごめんね間違えて。ゆっきーはもう直接印刷室に行ってくれる?」

「わかった」


 万璃子と別れて印刷室のほうへ走り出すまで、一度も顔を上げられなかった。逃げるようにしか振舞えない自分が恥ずかしくて、情けなくて、ふたりのいない場所に一刻もはやく行きたかった。




 深夜、時計の針が二時を示したころ、ユキは暗い部屋でベッドから静かに起き上がった。向かいのベッドでは時恵がすんすんと平穏な寝息を立てている。耳を澄まし、寮内に静寂が満ちていることを確かめると、ユキはベッドから降りて机の引き出しを開けた。その一番上に置かれた赤い表紙のノートを手に、部屋を出る。


 向かった先は洗面所だった。明かりはつけず、目覚まし時計のライトで手元を照らしながらバケツに水を張った。

 ライトを正面の棚に置き、ノートをバケツの上で持ち上げる。その瞬間、ページのあいだから何かがはらりと落ちてきた。それは一枚の写真だった。マスキングテープがはがれたのだろう、写真はバケツに張った水の上に音もなく落ち、ゆらゆらと浮かんで揺れる。


 それは今年の夏休みの写真だった。純のとびきりの笑顔がアップで写っている。背景は大阪の難波だと一目でわかる雑多な街並みだった。目を細めて笑うその顔に、一昨年前に見た笑顔がぼんやりと重なっていく。

 それは初めて見た、純の笑顔だった。中学三年生の九月末、星牧学園の受験におとずれたユキは、教室に入ると一番乗りだった純に出くわした。彼は初対面のユキに屈託なく笑いかけてくれたのだ。


『はじめまして。えっと……よろしくね。がんばろうね』


 そう照れたようにはにかむ顔はあまりにも眩しかった。ここに来るまでの道中、新幹線の中でうたた寝しては悪夢にうなされ、親友と元恋人の顔を交互に思い出しては吐きそうになっていたのに、その荒れた気分が一瞬で吹き飛ばされてしまったのだ。


 そんな自分に罪悪感を抱いていたが、入学してから純の朗らかさや天真爛漫さに触れるたび、それも少しずつ受け入れられるようになっていった。

 すべては、純のおかげだった。彼に魂をすくわれた。


 ――だから、依存してしまった。


 写真は四隅から水に侵され、やがて暗い水底に沈んでいった。ユキはぎゅっと目をつむり、ノートを頭からバケツの水に突っ込んだ。

 浮き上がってこないように両手でノートを底まで沈める。ノートは端から小さな泡を吐き、抵抗するように浮き上がろうとしていたが、やがておとなしく沈黙した。暗い水の中にインクが溶けだし、硬い紙の塊になっていく。

 ぽた、ぽた、と水滴が落ち、水の上に波紋を広げる。それは雨のようにせわしなくなり、喉から醜い嗚咽が漏れだす。それを必死に飲み込みながら、ユキは冷たい水に両手を沈め、ノートを押さえ続けていた。



 朝、寮掃除のために一階の洗面所へ向かうと、風呂場にいた汐里が振り返る。思わずぎくりと固まるユキに、彼女はぎこちなく微笑んだ。


「おはよう、ゆっきー」

「……お、おはよう」


 ぎくしゃくとした硬い空気が洗面所に満ちる。だがそれをかき分けるように汐里の声が続いた。


「文化祭まで、もう一週間もないのね」

「そう、だね」

「衣装見たわ。すごくよくできててびっくりしちゃった。私、あまり手伝えなかったから……」

「なに言ってるの、しおりちゃんはずっと厨房に缶詰だったでしょ」

「それはそうなんだけど……」


 顔を合わせるまではどうなるだろうと憂いていたのに、意外にもすんなり打ち解けてしまえるものだ。硬かった空気はいつの間にか温かく和らいでいて、掃除を終えると肩が少し軽くなっている気がした。もう後ろめたいことがないという解放感のおかげだろうか。汐里の笑顔が見られた安心感だろうか。


 ――いや、それだけじゃない。まるで心の奥の大事なものまで抜け落ちてしまったような、寂しさと悲しさと虚しさを全部混ぜて真っ二つにしたような、奇妙な軽さだった。


 どうしてこんなに、何もないんだろう。胸の中がちぎれそうにはりつめているんだろう。




 放課後になり、生徒玄関に向かっていると、後ろから「やっばい遅刻する!」という関西弁が聞こえ、辰也が風のように追い越していった。後ろから万璃子がからからと笑いながら追いかけていく。


「しょうがないじゃん、文化祭前なんだからさ!」

「遅刻とか絶対嫌や! 気ぃつかうから!」


 ――そうか、彼は調理当番なのか。


 無意識にがっかりしている自分に気づき、ユキは我に返って首を振った。

 どうかしている。彼のギターが聞きたいなんて。この胸の穴をほかの安心で埋めようとするなんて、なんて卑怯なことを考えてしまうのだろう。


 それでも、寮に帰って寮監室を訪れ、スマホを借りてしまう自分を止められなかった。部屋で動画サイトを開き、イヤホンを耳に挿す。再生履歴から銀城高校文化祭の動画を呼び出した。


『THE・T.K.G.です!』


 辰也が「架」と呼んだ少年が快活に挨拶し、曲が始まる。ギャランナの歌。純が好きだからと一生懸命聞いて覚えた歌の数々がステージ上で奏でられる。ユキはシークバーを右へ動かして、ステージ上で辰也がギターを持ち替えたところで止めた。


「ふたりだけの世界」――ギャランナの中でもコアな曲だ。確か、あるシングルのカップリング曲を終わった後も再生し続けていると流れる歌だった。一分程度の短い歌。そのもの寂しげなギターの旋律は、胸に空いた穴にひどく染みて痛かった。


 瞼が一気に熱を帯び、視界がぶわっとにじんだ瞬間、ユキは慌ててイヤホンを耳から外した。

 天井を向いて目を押さえる。やっぱりだめだ。彼のギターで泣くなんて。彼の好意を利用して自分を慰めるような卑怯なことはしちゃだめだ。


 こぼれそうな涙を手のひらで懸命に押しとどめ、歯を食いしばって振りほどく。泣いたらだめ。苦しんでもだめ。自分にそんな資格はない。涙は綺麗な人しか流しちゃいけない。自分にできることは、ただ前を向いて歩くことだけだ。今度こそだれも傷つけないように生きていくことでしか、つぐなえない。



 十一月十七日、土曜日。早朝から「星牧学園祭」の看板が立てられ、生徒たちは朝ごはんもそこそこに各教室へ駆け込んでいく。


「いよいよだー!」教室に飛び込むや否や叫ぶ万璃子。

「いよいよだね~」ほがらかにテーブルを拭く純。

「あたしのとこ、ママと弟が来るんだけど、マジ緊張する」

「そうなんだ。僕のほうはおばあちゃんだけだよ。親がどっちも仕事でさ」

「えー、残念だね」

「私のところは父親だけだわ。同じく仕事よ」

「しおりんとこ、おばあちゃん来ないの? 残念~」


 そんな何気ないやり取りを耳にしながら、純はふと教室内を見回した。


「あれ、辰也は?」

「黒鉄くんは体育館だよ」万璃子がキッチンスペースをセッティングしながら言った。「ほら、ステージ出演者だから朝から呼ばれてる」

「ああそうか。辰也、オーディション受かったんだよね」

「そうそう。あたしらだってほんとはオーディションなんかしたくないんだけどさ、出演希望者が多すぎて結局ね……」

「そんなに多かったの?」


 汐里が聞き返すと、万璃子は神妙な顔でうなずいた。


「うん。特に三年生がね。学年最後だから思い出を残したいんだろうね。その魔境を黒鉄くんは勝ち上がったってわけ」万璃子は声のトーンを落とした。「ここだけの話、あたしがめっちゃ推しちゃったんだけどね」

「そうなの?」

「うん。なんかすっごい好きだったんだよね、黒鉄くんの歌。ぜひともみんなに聞いてもらいたいなって……ちょっと私情挟みすぎちゃったかな?」

「マリちゃんも審査員の一員じゃない」汐里が当然のように言った。「マリちゃんの意見だって立派な一票でしょ、だいじょうぶよ。私、楽しみにしてるわ」

「僕もすごい楽しみだな~」


 純がきらきらと目を輝かせる。ユキはキッチンスペースの裏に立ちながら会話の終始を耳で拾っていた。自然と視線を体育館へ向けてしまう。


 オーディションになったことも、辰也が出演権を勝ち取ったのも一切知らなかった。彼はいつ練習していたのだろう。どんな曲を披露したんだろう。

 頭の中に動画のなかの辰也のギターが再生される。もしかしたら、「ふたりだけの世界」かもしれないなと、なんの根拠もない期待をしてしまった。


 午前十時、校門が開かれた。ユキはさっそく用意していた耳と尻尾をつけ、キッチンスペースへ回る。


「よお」


 そこにはすでに、背の高い仏頂面のオオカミが立っていた。


「あれ、黒鉄くん、シフト違うんじゃ……」

「悠が緊急出動せなあかんくなって、俺ら男子でシフト表ちょっといじってん」

「そうなんだ」


 辰也が黒毛に灰色の毛が混ざった三角の耳とふさふさのしっぽを大真面目につけている絵面は、想像していたよりもかなりコミカルだった。


「なに見とんねん」

「え、いや。あの……意外と似合ってる、よ」

「はあ? 全然うれしないわ」


 辰也は目元を赤らめてそっぽを向いたが、すぐにちらりとこちらを見下ろした。


「おまえのそれ、柴犬か?」


 ユキは頭につけた耳を思わず押さえた。


「うん……」

「へえ。よーできてんな」

「はいそこ! ふたりともこっち見て!」


 教室の入り口にいつの間にか万璃子が立っている。彼女の手にしたスマホのレンズがきらりと光った。


「え、あ、まりこちゃん」

「笑って、ゆっきー! 黒鉄くんも! 校内記録写真なんだから!」


 ユキは頑張って口角を持ち上げてみた。カシャリとシャッター音が響き、万璃子が右手でグッと親指を立てる。


「いいね~、もふもふ喫茶、悪くないじゃん! オオカミと豆しばとか、なんかこう、グッとくるね」

「豆、しば……?」

「あたしもそろそろ耳つけよっと。ゆっきー、衣装制作ありがと!」


 万璃子はいそいそとこちらへやってきて、段ボールにしまいこんだカチューシャとしっぽを取り出した。黒毛の猫耳だ。ツインテールに黒とピンクのふりふりワンピースを着ているおかげでいつもよりあざとさ全開だ。


「あ、お客様! いらっしゃいませにゃ~ん!」


 教室を覗き込む保護者らしき客に気づき、万璃子が真っ先に飛んでいった。猫の手をつくってかわいらしく客をカウンターまで導く彼女を眺めながら、辰也がぼそっとつぶやいた。


「あれは真似できんな、さすがに……」

「オオカミさん、豆しばちゃん、二名様ご案内にゃ~ん!」

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