第20話 殻をやぶる日
それから二日が経った朝、望月先生が教壇に立ち、「いい加減、文化祭のクラスの出し物決めちゃわない?」と言い出した。万璃子が「はーい」と立ち上がり、「ほら朧くん、仕事仕事」と悠の手を引っ張り上げる。文化祭は生徒会主催だが、その下で働く実行委員に万璃子が選ばれている。自ら手を上げて立候補したのだ。
「前までの話し合いだとー、コスプレ喫茶しようってことになって、コンセプトがもふもふかアイドルかで決まんなかったんだよね」
「僕はもふもふがいいです」
純がすかさず手を上げる。席替えをしたので今は辰也の右隣だ。くじ引きしたにもかかわらず、なぜか辰也は前と同じ座席を引いてしまった。
「私ももふもふがいいかなあ」と、これは汐里の声だ。辰也の目の前の席にいる。
「もふもふってなんやねん……」
「あら? じゃあ黒鉄くんはアイドルがいいの?」
「どっちも嫌やからどっちでもええ」
「あたしは断然アイドルがいいです! ゆっきーもそう言ってます!」
「い、言ってない!」
ユキは汐里の右隣、つまり辰也から見て右斜め前だ。今までユキが純を見つめていた構図がそのまま辰也とユキになったのだ。
「もう多数決にすればいい」
悠がぼそっとつぶやく。万璃子は最後まで抵抗していたが、結局は多勢に無勢、もふもふ喫茶に決定した。とにかくもふもふした動物に扮してウェイターをするという、恥ずかしすぎて辰也にとっては地獄のような内容だ。でもアイドルなんかもっと恥ずかしいし、自分が提案した「無難に普通のカフェにしようや」という声は初日にみんなから無言で却下されてしまったので、もうどうにでもなれである。
その後は必要な準備や役割が決められ、それぞれなんの動物に扮するか考えてきてください、と言われて話し合いは終了した。
「辰也は絶対オオカミだよね!」横から純が無邪気に言う。
「そういうおまえは秋田犬やろ。黒の」
「え、僕あんなかわいくないよ!」
純は照れたように両手を振るが、ユキが何度も小刻みにうなずいているのを辰也はしっかりと視界に捉えていた。
席替えのおかげでよくわかる。汐里とユキは隣り合っているが、まったく会話がない。いつもならちょっとした休み時間のたびに前と後ろで楽しそうにおしゃべりしていたのに、目を合わせることすらなかった。何も知らない万璃子がふたりのあいだに突撃するときだけ、何事もなかったかのように会話が始まるのだった。
放課後、辰也はギターを持って裏山にのぼった。あれから連日雨が続いたせいか、土はしっとりと湿って靴底にくっつき、東屋のベンチの背も濡れた跡が色濃く残っている。
辰也はベンチに腰掛け、ギターを構えた。弦を上から下に軽く鳴らしてから、一本一本をつまびいていく。文化祭のステージに応募した曲――「ふたりだけの世界」を。
これはあのいけ好かないギャランナの曲で、嫌な記憶も色濃い歌だ。なのに、弾いていると必ずユキの顔が浮かぶ。灰色の雨に打たれながら目を閉じるユキと、彼女を腕に抱く自分の姿――呆れるほど恥ずかしい妄想だと、自分でもわかっている。わかっているのに、思い浮かべるのをやめられない。
だがそのイメージにはどこか違和感があった。何がどうおかしいのかわからないまま、目を閉じれば浮かぶユキの顔を見つめ続けていた。
「――そうか」
突如、ぴたりと辰也の手が止まる。目を開け、さきほどまで弾いていた自分の手をつくづくと見下ろした。
自分は、ユキのために歌いたいのだ。
文化祭のステージは午後に開かれ、ステージ終了とともに文化祭も終了する。そのあいだは各クラスの催しものもすべて閉じられ、みんなで体育館に集まって鑑賞するのだ。つまり、必ずユキに歌を聞かせることができるようになる。
彼女を抱く自分なんてただのくだらない感傷だ。そんなイメージはいらない。歌うなら、彼女のことを歌いたい。彼女に想いを伝えたい。
この歌は好きだが、ユキを想えば浮かぶありとあらゆる感情を表現するには言葉が足りなすぎる。今からぴったりの曲を見つけることができるだろうか? この膨大なあふれんばかりの気持ちを代弁してくれる歌が、そう都合よくこの世に存在するだろうか?
夕食後、辰也はまだ明かりのついている職員室をたずねた。出てきた望月先生に開口一番「文化祭のことなんですけど」と告げる。
「文化祭?」
「俺、ステージの応募してたんですけど、
「ああ……まあ、大幅な時間の変更とか使う道具の変更がないなら大丈夫かな。今みんなの応募票をもとにタイムを組んでて、どうしてもあぶれちゃったらオーディションになるからいろいろ検討してるとこなのよ」
「マジすか」
辰也は言いづらそうに頭を掻いた。
「変更はいつまできいてもらえますか?」
「なるべく早く。少なくとも今週中にはお願いしたいかな」
辰也は急いで寮に帰り、風呂に飛び込んだ。髪を乾かすのもそこそこに歯を磨き、自室に戻る。「重要作業中につき立入厳禁」と赤マーカーで書いた札を扉にばんと貼りつけ、ぴたりと閉める。
椅子に座り、机の上に真新しいルーズリーフを置く。そしておもむろにペンを握った。
『やめとけって、おまえに作曲の才能なんかない』
『おまえは耳コピだけしとけばええねん』
冷たく刺々しい言葉がよみがえり、耳の奥をぐさぐさと突き刺してくる。
「うっさい――知るか――だまれよ」
歯の隙間から息を吐き、頭を振って嫌な記憶を振り払う。夏休みのあの日、情けない過去の話をユキは最後まで聞いてくれた。笑いとばすどころか、真剣な顔で怒ってくれた。自分を嗤う者たちの声より、彼女の言葉を信じたかった。
目を閉じ、息を吸い込んで吐く。隣に座って泣くユキの顔、夏休みに恥ずかしそうにスカートの裾をひっぱっていたユキの顔、純を見つめる彼女のだらしないうっとり顔を思い出す。
飾った言葉も、複雑な心境もいらない。ただ、彼女を想いたい。
白い紙の上にゆっくりとペンを走らせていく。夜空が暁に少しずつ溶け出しはじめたころには、辰也はすっかり力尽きて眠っていた。頬の下に、ペンで真っ黒になったルーズリーフを敷いたまま。
***
文化祭の出し物が決まり、三学年それぞれが準備のために忙しく奔走し始めた。教師陣も授業の進行に余裕があるときは、なるべく準備の時間をあてがってくれている。
悠と万璃子は生徒会と実行委員の仕事のためたびたび教室を空けるので、基本的には残りの四人で作業を進めることになる。ユキは純と汐里がなるべく一緒の作業に集中できるように、衣装制作(動物耳と尻尾づくり)など一人でできる作業を積極的に買って出ていた。辰也はなぜか看板製作など力仕事ばかりを引き受ける羽目になっていて、今も教室の隅で苦戦している。
ユキは作業の合間に教室を抜け出し、厨房へ赴いていた。メニューの試作をしている汐里の様子を覗き見る。どうにかして彼女に話しかける隙がないものかとうかがっているのだが、なかなかそんなチャンスは来ない。寮でもあからさまに避けられていて、視線を合わせるのすら困難だった。
――当然だよね。ほんとうに。
純と一緒にパンケーキの生地を混ぜ合わせている汐里の笑顔にほっとしつつも、このままではいけないという焦りに駆られて心臓が冷たくなる。
厨房の窓に張りつくユキの姿を、遠く背後から盗み見ている者がいた。彼女はユキの不安そうな横顔と、その視線の先にいる汐里とを見て、ふう、と重たい吐息をもらした。
汐里に話しかけられないまま、時間だけが過ぎていく。寮で顔を合わせるたびに、汐里の静かな怒りと冷たい視線を感じて胸が痛かった。学校はどんどん文化祭一色に染まっていくのに、こちらはなんの進展もない。むしろ日に日に悪化しているように思えた。
「しおりちゃん」
ある朝ユキは早起きして、起床当番の汐里を待ち伏せてみた。汐里は玄関前で驚いたようにこちらを振り返ったが、すぐにすっと目を細め、そっぽを向く。
「なに」
「あの……今、いいかな。話したいことがあって」
「私、当番だから忙しいの。あとにして」
汐里はぴしゃりと言い放ち、廊下の向こうへ歩き出す。ユキは慌ててそのあとを追った。
「ごめんね。でも、どうしても謝りたくて……どこか都合がいいときに話を――」
「しつこいわ、忙しいって言ってるでしょ!」
汐里は我に返ったように口をつぐんだ。ユキの真っ青な顔を見、咄嗟に口を開けたが、肝心の言葉が出てこない。
そのときだった。すぐそばの扉ががらりと開き、小さく開いた隙間から寝ぼけまなこの万璃子が顔を出す。
「あ、ふたりともおそろいで。ちょうどよかった、ちょっと頼みがあるんだけど」
「た、のみ……?」汐里が緊張気味にたずねる。
「うん。あたし実行委員じゃん、仕事が多くてマジで困っててー。ふたりとも、今日は調理当番ないでしょ? しおりんは届いた備品の配達と、ゆっきーはプログラムの製本手伝ってくれない?」
このとおり、と両手を合わせて頭を下げる。汐里もユキも、奇しくも同時にうなずいていた。
「いいわよ」
「うん……」
「ほんっとありがと! 持つべきは友だね! じゃ、学校で仕事の詳細説明するね!」
そう言うや否や、万璃子は部屋に引っ込んでしまった。
汐里はすぐさませわしなくカーテンを開け始め、そのきびきびした背中は「話しかけないで」と無言で訴えているようで、ユキは結局、何も言えなかった。
放課後、ユキは下駄箱で万璃子からのメモを受け取っていた。
〈ごめーん! ちょっとバタついてて……仕事の手伝い、十七時半集合でお願いしマス! 場所は本校舎の空き教室2ね _( _´ω`)_ペショ〉
校舎内の時計を見る。集合時刻まであと一時間ある。先に行って待つには時間がありすぎるし、かといって一度片づけた工作道具を引っ張り出す気にもなれなかった。
そうだ、汐里を捜そう、と思い立ったが、今朝の汐里の冷たい目を思い出して足がすくんだ。
――彼女はもう、謝罪の言葉さえも聞きたくないのかもしれない。
どうにか話しかけようと躍起になること自体が彼女を苛つかせているのだとしたら? 同じ空気を吸っているだけで嫌気が差しているのだとしたら?
考えれば考えるほど、胸が詰まって息が苦しい。自分のしてしまったことがどれほど彼女を傷つけてしまったのか、悔やんでも悔やみきれなかった。
「ユキさん?」
後ろから優しい声がして、心臓が嫌な音をたてた。振り返らずともわかる……下駄箱のそばに純が立っている。
「どうしたの? こんなところでぼうっとして――」純は真正面に回り込み、たちまち目を丸くした。「あれ、ユキさん……泣いてる?」
「えっ」
ユキは慌てて目元をぬぐった。だが、手の甲は少しも濡れていない。
「ううん……ちがう、泣いてないよ」
「ごめんね、見間違えたみたい。でも……なんか、つらそうだなって」
「そ、そんなことは」
「ちがう?」
純がこちらに歩み寄り、顔を覗き込んでくる。不意に近づかれて、ユキは咄嗟に距離を置いた。
「だめ、近寄らないで!」
「えっ」
「あっ……」ユキは慌てて両手を振った。「ちがうの、ごめんなさい……えと、その……そんなひどい顔、してるって言うから……」
「うん。僕目が悪いから、ほんとに泣いてると思っちゃったくらい」
純は時計をちらりと見上げ、にっこり笑って廊下の向こうの中庭を指さした。
「よかったら、話きくよ」
「だ、だめだよ」
「どうして?」
ユキは慌てて周囲を見回した。こんなところを汐里に見られてしまっては、ますます関係が悪化してしまう。
「あの……その……純くんの時間を割いてもらうわけには」
「あはは、僕は全然。教室の準備もおおかた片づいてるしね」
「そうだけど、でも、いいの、ほんとうに!」
そう言うや否や、ユキは靴を玄関に放り出し、足をつっこんで脱兎のごとく走り出した。
「あ、ユキさ――」
純の声はあっというまに遠ざかってしまう。それでよかった。だれもいない静かな場所に逃げ出したかった。
靴底に柔らかな土の感触を感じてから、ユキは立ち止まって荒い呼吸を繰り返した。頭上でさわさわと梢が揺れる。ようやく顔を上げ、無意識に裏山まで来てしまったことに気づいた。
その場に立ち止まって、耳を澄ませる。だが、人の気配は感じない。いつも聞こえていたギターの音も。
そっと小道を進み、坂を上がって東屋を覗き込む。中はからっぽだった。
――彼は、調理当番だっただろうか。
そこまで考えて、首を横にぶんぶん振った。どうして辰也がここにいると当たり前のように考えてしまったのだろう。それでも、どこかひどく落胆している自分がいた。
そろそろとベンチに腰かける。あの夜、雨に打たれながら逃げ込んだときと同じ位置。隣に辰也がいた。
『好きや』
その一言が耳にはっきりとよみがえって、思わず自分の胸を抱きしめた。ぞくぞくと何か温かいものが胸の中を駆け上がってくる。その感覚が怖くて、ユキは激しく首を振った。
「ちがう。だめだ。甘えたらだめだ」目を閉じ、辰也の声を追い払おうとする。「人の好意に甘えてる場合じゃない……」
ぜんぶ自業自得だ。何もかも自分で解決しなくちゃいけないのに。こんなふうに思い出して感傷に浸っている場合じゃないのに。
『俺はおまえの味方やで。それだけは、なにがあっても忘れんな』
真正面からこちらを見下ろす瞳。初めは怖かったあの鋭い三白眼が、ひどく優しい光を宿して見えた。
胸にこみ上げていた温かいものがはちきれそうになって、ユキは反射的に天井を見上げた。視界がうるんで揺れる。――でも、泣いてる場合じゃないのだ。泣きたい人はほかにいる。自分が傷つけてしまった友達を放って泣くなんてできない。
上を向いたまま両手で目をぎゅっと押さえ、波が通り過ぎるのを待った。
それから少し経って、ユキは東屋を出て裏山を下り、万璃子に指示された空き教室に向かった。明かりはまだついていない。人の気配もなかった。ユキはそっと中に踏み入り、電気をつけた。
なんとなく外を眺めようと窓辺に寄る。その直後、「遅くなりました」と声がして、教室に踏み込む足音がした。
振り返って、ユキは目を見開いた。入ってきたのは汐里だったのだ。
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