第19話 真夜中の校則違反

 ユキを連れ、暗い小道を昼間の記憶と手さぐりで進む。坂道をのぼり、東屋のなかに飛び込んだ。大きな屋根のおかげで雨はさえぎられ、下のベンチは無事だった。

 辰也はいつもの癖で、ギターを弾いているときと同じ場所に座った。その隣にユキが座る。鞄ひとつくらいの微妙な距離を空けて。


「どうしよう」ユキがかぼそい声でつぶやいた。

「なにが」

「わたし……すごい校則違反してる」

「今さら?」

「こんなところ見られたら、おしまいかも……」

「見られへんやろ。知らんけど。先生の見回りってこんなとこまで来るもんなん?」

「わからない……」


 ユキはベンチの上で小さく足を折りたたみ、膝をぎゅっとかかえてうつむいた。上下がグレーのスウェット姿だ。こんな恰好で普段すごしているのかと、関係のないことを考えてしまう。


「ううん。もう……おしまいでもいいのかも」

「なんかあったん?」


 ユキはしばしのあいだ黙り込んだ。雨粒が屋根を叩く音だけがこんこんと響いている。


「純くんのこと、ばれちゃった。汐里ちゃんに」

「……え、そうなん? どのへんまで?」

「純くんノートの存在まで」

「何ノートって?」


 思わず聞き返すと、ユキは上ずったような声でもう一度言った。


「純くんノート。毎日、その日の純くんのことを記録してるノート」

「……」

「引いた?」

「そら、引くわ。初めて本気で引いた」

「嘘。わたしが純くんのあとをつけてるときから引いてたくせに」

「確かにそのときも一瞬引いたけど、それ自体はまあ、別に……でも観察日記はやりすぎやろ。そんなもん汐里に見られたんか?」

「うん」


 辰也はユキの横顔をまじまじと見つめた。暗がりであまり表情が見えないせいで、彼女がどういう感情で隣に座っているのかわからない。


「そら……汐里は怒ったやろな」

「うん。すごく怒ってた……もう、顔も見たくないって」

「そうやろな。だっておまえ、汐里のこと応援してたんやろ? ぶっちゃけ恋愛相談とか自分から乗ってたんちゃうん?」

「うん。応援するからなんでも言ってって……」

「そこまでしてくれてた親友が実は自分の好きな男のことが好きで、観察ノートまでこそこそ書いてるストーカーやったって知ったらマジで人間不信になるわ」

「……そうだよね」


 ユキが両手で目を覆い、ぐしぐしと乱暴に拭った。


「なんでノートなんか書いてたん? もし見つかったら最悪の結末になるのは目に見えてるやん」

「好きだから」ユキは鼻をすすりながら答えた。「好きだから……気持ちを抑えたくて」

「よーわからん。前からずっと謎やったけど……なんでそんな汐里に義理立てせなあかんの?」

「義理立てじゃないよ。そんなんじゃなくて……」


 ユキは小さく首を振った。


「ただわたしが恋愛したくないだけだから。恋愛したら、必ずだれかが傷つくでしょ。だからわたし、最初からそこに入らないようにしたくて」

「……ちょっと待ってな、俺あほやから理解に時間がかかるけど」辰也はこめかみを押さえて呻いた。


「つまり、だれも傷つけたくないから、人を好きになっても告るとか付き合うとか行動に移さんようにしてる、ってことか?」

「そう」ユキはうなずいた。


「わたしが好きになった人は、別のだれかの好きな人。もし、仮に、万が一……わたしが選ばれてしまったら、選ばれなかった人を傷つける。その可能性がゼロじゃない限り、わたしはだれとも付き合いたくない」

「いや、そんなこと言い出したら、おまえ一生だれとも生きられへんやん」

「そうだね。でも、それでいいよ。だれかが自分のせいで傷つくよりずっといい……」


 語るうちに、ユキの声はみるみる潤んで震え出した。


「なのに、汐里ちゃんを傷つけちゃった……」

「それはおまえがストーカーノートなんか書いてたせいやろ」

「でも、書いてなくちゃ抑えられそうになかったの。ほんとうに好きで……好きすぎて……隣に行きたくなったり、同じ班になりたくなったり、同じ作業をしてたくなっちゃうから。だから純くんに一目ぼれした日から決めたんだ。自分の心はノートにこっそり書いて発散するんだって。それで満足するんだって。そのうちきっと純くんは別のだれかに恋をして、その人と結ばれて、幸せになってくれるから」


 闇に慣れた辰也の目に、ユキの頬の涙が映る。その目は暗い影に覆われていて、ぽかりと穴が空いているみたいに真っ暗だった。


「わたしの幸せは純くんの幸せ。わたしの恋の成就は純くんの恋の成就。だから汐里ちゃんの気持ちを知ったとき、嬉しかったんだ。汐里ちゃんなら純くんを幸せにしてくれるって」

「だれも傷つけたくないって言ってるくせに、汐里以外に純のことを好きなやつがいる可能性は考えへんのな」


 ユキは目を真ん丸にして辰也を見上げる。


「おまえのその、傷つけたくないって気持ちは優しいけど、絶対叶わんで。不可能や。純と汐里は救えても、おまえの知らんとこで純に恋する第三者は救えへんから」

「ああ、ほんとだ」ユキは力ない声でつぶやいた。「どうして気づかなかったんだろう……」

「おまえそこそこ頭いいはずやのに、そんな簡単なことにも気づかんかったんか?」

「気づかなかった。ああ、どうしよう。どうしたらいいの? 絶対だれかが不幸になる……」


 ユキは膝に顔をうずめ、両手で髪を鷲づかむ。


「俺もどうしたらええんかわからんわ。普通はそんなこと考えへんもん」


 ユキの心の中身が思ったよりも複雑でぶっとんでいて、辰也も思考停止しそうになっていた。自分はカウンセラーじゃない。彼女の心をすくい上げるような気の利いた発言はできそうにない。


「なあ、そのおまえのよーわからん思考って、夏に聞きそびれたおまえの秘密と関係ある?」

「……そう、だね」

「じゃあそれ、教えろよ。おまえに何があって……どういう事情があって、そんなわけわからん思考になってるんか」


 ユキは顔を伏せたまま黙りこくっている。屋根を叩く雨粒の音だけが耳にうるさい。

 やがてユキは、膝に顔を半分ほどうずめたまま小さく口を開いた。


「中学のとき、人を……少なくとも二人、いやもっとかな……不幸にした」

「不幸……?」

「わたしには、とても大切な親友の女の子と、男の子がいた。三人とも同じマンションに住んでて、幼なじみだった。主に不幸になったのはその二人。原因は恋愛。ここまで言ったら、ある程度察しがつくんじゃないかな」

「その男子をふたりで取り合ったんか?」

「ちょっとちがう。女の子は、小学生のときから男の子のことが好きだったんだ。でも、なぜかそれを隠してて……わたし、ずっと一緒にいたのにちっとも気づかなかった。気づかないまま中学生になって、男の子のこと、好きになってしまった。だれかを好きになったとき、頭がふわふわして、感覚が変になるでしょ? それで舞い上がって、調子に乗って、恋した自分に酔って、その爆発しそうな感情を親友に話してた。毎日毎日、『相談』という名の自己満足を彼女にぶつけてしまった。優しい彼女はわたしの話を毎日ちゃんと聞いてくれた。わたしはそのまま男の子に告白して……彼も、わたしのことを好きだと言ってくれた。小学生のときから好きだったって。わたしね、それだけで運命だと思ったの。思ったその日に親友に電話した。そしたら次の日……彼女は学校に来なかった」


「……まさか」


「通話もSNSもメッセージもぜんぶできなくて、何日も学校に来なくて、おかしいと思ったわたしと彼は、ある日彼女の家を直接たずねた。お母さんがインターホンに出たんだけど、わたしたちの名前を聞いた瞬間、『帰って』『二度と来るな』って門前払いされて……何度も何度も通いつづけて、ようやく教えてもらえた。親友は、病院に入院してた。家族がいないあいだにひとりで……死のうとしてたんだって」


 自殺未遂の方法をユキがわざとぼかしたのが、余計に辰也の胸を暗くする。


「命はたすかったの。でも後遺症と記憶の欠落があって、学校に来れなくなってしまった。彼女のお母さんはスマホからSNSの裏垢を見つけてね、そこに書いてあったことを全部読んで、わたしに対する彼女の憎悪と嫉妬を知ったんだって」

「でも、それは……おまえが悪いんじゃない、やろ」

「それ、彼女のお母さんも言ってくれた。『あなたたちが悪いんじゃないのはわかってるけど、今後一切かかわらないでほしい、顔も見せないでほしい』って。そのあとすぐに引っ越してしまった。わたしが悪くないならだれが悪いの? 彼女は勝手に苦しんでたの? わたしがいなかったら、わたしが彼に恋しなければ、彼と付き合わなければ、彼女が人生を棒に振ることはなかったのに」


 ユキが一度話を切る。雨足はいっそう激しくなり、ぬるく湿った風がふたりの髪を揺らした。


「だから、だれとも恋愛せえへんって?」辰也はかすれた声でたずねる。

「そんなん……無理やん」

「無理じゃない。好きになる気持ちはどうしても消せないけど……だれにも言わなければいい。自分のなかに留めておけばいい」

「留められへんからノート書いてたんやろ? しかも見つかってるやん」

「……」

「もし、仮にノートがずっと見つからんまま卒業できたとしても、だれも不幸にならんってのは不可能やで」

「どうして?」

「おまえが不幸やもん」


 ユキは戸惑うように目をまたたかせた。


「なんて?」

「恋はするけど恋愛に不参加って、その時点でおまえの不幸が確定してるやん」

「……わたしはいいの。わたし以外の人が傷つかなければ」

「おまえが傷つくことで、傷つく人間がいたら?」


 ユキはいっそう目をしばたたいた。


「どういうこと?」


 辰也は反射的にそっぽを向いた。


「例えばやで。おまえに惚れてるやつがいたら、そいつはおまえの不幸を悲しむやろ。自分から傷つこうとしてるおまえを見て傷つくやん」

「そんな人いない」

「なんでそう言い切れんねん。実際、幼なじみに好かれてたんやろ? おまえはおまえが思ってるより人から好かれんねんって」

「……」

「おまえが恋愛不参加って決心したら、おまえに惚れてるやつはどうしたらええねん。そいつの不幸まで確定してまうやんか」

「……それは」

「おまえの後悔も反省も優しさも、気持ちは否定せえへんけど、全体的にツッコミどころ満載やねん。破綻しとる。だれも傷つかんなんかぜったい無理やから」


「……わかってるよ」ユキは膝をかかえたままうなだれた。「むちゃくちゃなこと言ってるって、自分でもわかってる……」

「なら――」

「でも、いやなの。もういやだ。だれかに好かれるのも、そういう関係になるのも、もう……でも好き。好きになってしまうんだよ。どうすればいいのかわからない」


 ユキは再び膝に顔をうずめてしまった。肩が小刻みに震えていて、泣く声を必死にのみこもうとしているのがわかった。

 辰也は静かに天井を見上げた。重たい雨音の響く暗がりを見つめ、それからゆっくりと隣のユキを見下ろした。


「なあ。約束、覚えてる?」

「……やく、そく?」

「前、洗い当番のときにしたやろ。おまえの気持ちを純に黙っとく代わりに、言うこと一つきくって」

「した、けど……」

「それ、今使わして」


 ユキは困惑顔で辰也を見上げた。


「……今?」

「うん。今」


 辰也は意を決して身を乗り出した。膝をかかえる彼女の華奢な肩を、両腕で抱きしめる。


「――っ!」


 激しく身じろぎするユキに、「ちょっとのあいだ、俺を許して」とささやく。ユキは肩をこわばらせながらも静かになった。


「お願いはもうこれきりや。これきりやから言わして」


 彼女の微かな息遣いを耳もとで聞きながら、辰也は告げた。


「好きや」


 耳もとで響いていた呼吸が一瞬、止まった。


「おまえが好きや」

「……な、え――」

「純なんかやめて、俺にしろよ」

「待って、なんで……なんでわたし……」

「なんでとか無い。好きなもんは好きやねん」


 辰也の腕のなかで、ユキは震えるように首を振る。


「も、もしかして、あの、『打ち明け』って――」

「ああ、やっぱり聞こえてたんや。だからおまえ今日、態度おかしかったんやな」

「ばかなの? ほんとにわたしの話、聞いてた? わたしは好きな人を付け回して観察日記をつけるような非常識な人間なんだよ。しかもその結果、大事な友達を傷つけるような最低な人間なんだよ!」

「うん、死ぬほど非常識やしドン引きしたけど、なんでか気持ちは変わらんかった。俺もたいがい狂ってるんやろな」


 絶句するユキの肩をさらに強く抱きしめてから、優しく腕を離した。すっかり放心したユキの顔に、息苦しいほどの愛しさを覚えながら。


「でも、人を好きになったらだれでも頭おかしなるやん。おまえだけじゃない。まーおまえはこじらせすぎやけど」

「で、でも、わたし――」


 そのときだった。東屋の下の小道から枯葉を踏みしめる足音が響き、ふたりは同時に息をのんだ。おそるおそる下を覗き込むと、懐中電灯らしき細い光が揺れている。辰也は咄嗟にユキの手を引き、足音を忍ばせて木のテーブルの陰に身を潜めた。ふたりでぴったりと肩を寄せ合い、息を殺す。

 足音は東屋の入り口にまで近づいてきた。光の筋があちこちを照らしだす。心臓の高鳴りが最高潮に達しかけたとき、足音はゆっくりと遠ざかっていった。


「……見回り、こんなとこまで来んねんな」

「うん……」

「俺らもはよ戻ったほうがええな。俺が先出よか? 特攻でさ」

「黒鉄くん」


 ユキは抱えた膝を見下ろしながらつぶやいた。


「あの、わたし、その……気持ちには、答えられない」

「……え、今? もう?」

「純くんのことを抜きにしても、黒鉄くんを好きなほかの人を傷つけたくないから」

「そんな奴知らんし。俺が付き合いたいのはおまえや。……でもまあ、ええよ。校則あるし、どのみちあと一年半はなんもできんから。卒業式にでもちゃんとした答え教えて」


 辰也は立ち上がって入り口を向いたが、すぐに思い出したようにもう一度ユキの眼前にしゃがみこんだ。


「なあ。頼むから、自分から不幸になろうとすんなよ。俺とは最悪付き合ってくれんでも構わへんから、前向きに生きてほしい」

「……」

「俺はおまえの味方やで。それだけは、なにがあっても忘れんな」


 それだけ言うと、今度こそ辰也は立ち上がって東屋から去っていった。あとに残されたユキがしばらくその場にとどまり、ひとりで涙を流し続けているのを見ることは、なかった。

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