第18話 純くんノート

 次の日、二年生の朧悠を除く男子たちは学校に来なかった。一日寮謹慎になったと掲示板に貼り出されていた。そういえば、昨日叫んでいた声の中に悠はいなかった気がするなと、ぼんやり思い起こす。


 貼り紙を眺めるユキの肩を、後ろからぽんと叩く手があった。


「まあ自業自得だ。校則の線をまたいでしまったんだから」


 時恵だった。彼女は「副会長もいながら何をやってるんだか」と呆れ顔でため息をつく。


「あの、もしかして時恵さんは、昨日『打ち明け』があるって知ってたんですか……?」

「……偶然だがな。うちの男子たちがひそひそ盛り上がっているのを通りすがりに聞いていたんだ。その場で止められなかった私も同罪だな」


 時恵は再びやるせないため息をこぼした。


「いいかユキ、昨日のことはあまり気にするな。あれは男子たちの悪ふざけ、ストレス発散にすぎない」

「悪ふざけ、ですか」

「あれは全員が強制的に女子の名前を叫ばされるんだ。好きな女子がいない者も無理やり言わされる。それが余計なトラブルを呼ぶので、昨年は無しになって私はほっとしていたんだ」


 ユキは目をまたたかせ、「強制的に?」と聞き返す。


「ああ。まあ今回は……免れた者もいたようだが」と、時恵はちらりと掲示板に目をやる。「とにかく、あんなくだらない愚行で気を病んだりするんじゃないぞ」


 時恵はそう言ってすたすたと廊下を歩いていった。


 強制的に、という言葉が繰り返し頭に浮かぶ。でも「汐里」と叫んだあの声だけは本心だという確信があった。だからそれ以外のことは忘れよう。忘れるべきだ。


 それなのに最後に響いたあの声が、いつまでも頭を離れない。ふとした拍子に思い出しては激しい動揺がよみがえってしまう。


 強制的に、と時恵は言った。そうだとして、どうして彼はわざわざ自分を選んだのだろう。

 辰也は転校初日から女子のあいだで評判がいい。それに、仲の良さで言えば何かと絡む万璃子のほうが咄嗟に名前を言いやすいだろうに。


 ――考えてはだめ。


 ぱん、と頬を叩いて首を振る。


 ――男子寮の悪ふざけのことで、いちいち頭を悩ませてはいけない。忘れなくちゃ。


 それからユキは一心不乱に純の顔を思い浮かべることにした。


 放課後、時恵が生徒会の仕事で調理に行けないというので代わりに厨房に入ることになった。謹慎中の男子たちも調理当番のときだけは解放されるらしいのだが、幸い純も辰也も名簿にない。純の顔だけを思い浮かべて役目を果たそう――そう思って厨房に入る。


「あ、城戸さん、後藤さんの代わり?」三年男子が冷蔵庫に貼ったメニュー表の前から声をかけてくる。

「はい」

「おっけー。じゃあ今日の汁物やってくれる?」彼はメニュー表を指さした。「切りものは玉ねぎとごぼうをお願い。辰也が今行ってるから、一緒にやって」

「――へ」


 喉の奥から妙な声が飛び出し、ユキは慌てて口を覆った。

 男子はちらりとユキを見やり、何事もなかったかのようにメインの肉じゃがの用意を始めてしまう。

 おそるおそる厨房の裏口を覗く。土間の水道に立ち、ごぼうの土をおとしている辰也の姿が見えた。


「よお」


 辰也はこちらを見もせずに、背後のすのこを親指で指した。


「それ、やって」

「……」


 すのこの上に、玉ねぎの入ったボウルが置かれている。ユキはそろりそろりと足を踏み入れ、こわごわとすのこに座り込んだ。


 玉ねぎの皮をむきながら、騒ぐ心を必死に鎮める。純の顔を思い浮かべるのだ。いつものように。スマホに撮りためてある彼の写真を端から順に思い返すルーティンに集中するのだ……と懸命に言い聞せているのに、目の前の辰也の背中が気になって仕方がない。


 ――落ち着いて。悪ふざけだ。悪ふざけで動揺しちゃだめだ!


 奇妙なほど静まり返った空気のなか、盛大なしゃっくりが響き渡った。ユキは玉ねぎを取り落とし、がばっと喉を押さえる。

 落ち着いて深呼吸しようとしたが、再び喉がひっくり返る。息を限界まで吐き出して止めてもしゃっくりは断続的に飛び出してしまう。


「大丈夫か?」


 とうとう辰也がこちらを向いた。


「だだ、だだいっ」舌を思い切り噛んでしまい、目を白黒させる。「だいじょうぶ――ひくっ――気にしないで、あの、なんかしゃっくりが、すぐ止まるから」


 辰也は「そうか」と再び背を向けたが、直後、思い立ったように土間を出て行った。しばらくして足音が戻ってきたと思ったら、辰也はまっすぐにユキの目の前に立った。


「おい」


 眼前に食堂の湯のみが差し出される。


「水飲んで、ちょっと休憩しとけ」


 ユキはおずおずと湯のみを受け取った。ひんやりとしていて、中の水の冷たさが指先から伝わった。


「……あり、がとう」


 辰也はユキの横のボウルから玉ねぎをいくつかを拾い上げ、水道場で皮をむき始めた。


「後藤さんの代わりなん?」

「……うん」

「生徒会やもんな。俺も悠の代わりやねん」

「……そう」


 自分のものじゃないような、機械的な声が喉から出る。いつもの彼なら何か茶化してきそうなものだが、それもないのが余計に胸をざわつかせる。ユキはいてもたってもいられず、とうとう立ち上がった。


「あの。……それ、貸して」

「え?」

「いいから、貸して。もういいから」辰也の手もとから玉ねぎをひったくる。「もう大丈夫だから、次の作業に行って」

「ほんまに大丈夫なん」

「大丈夫だってば!」


 すのこに座り込み、下を向いて玉ねぎの皮をむいていく。その間、決して顔を上げなかった。辰也は少しのあいだその場に立っていたが、やがて厨房に戻っていった。


 時恵の言うとおりだ。『打ち明け』はひどい文化だ。叫んだほうは適当でも、叫ばれたほうはたまったものじゃない。

 女子寮になくてよかった。もし名前を叫べと強要されたら、自分は純の名前を叫べない。苦肉の策として比較的かかわりのある男子の名前を考えるほかない。そしてそれはおそらく……


 その夜、時恵は一緒に勉強するというので、三年生たちと談話室にこもってしまった。ユキは部屋でひとり、机にノートを広げてボールペンを動かしていた。


〈今日は純くんに会えなかった。男子全員が寮謹慎になったから。『打ち明け』をしてしまった罰で、二日間。明日も会えないなんて、魂がもたない。純くんは今ごろどうしてるかな。謹慎にはなったけど、しおりちゃんへの気持ちを口に出せてきっとすがすがしいだろうな。あなたの気持ちは、しおりちゃんに確かに届いたよ。その気持ちがずっと続いたらいいのにな〉


 ――ズットツヅイタライイノニナ。その文字列は頭の中に浮かんだまま、咀嚼されずに吐き出されたものだった。自分の言葉じゃないみたいに浮いて見える。ユキは慌てて頭をぶんぶん振った。


〈わたしの幸せは純くんの幸せ。純くんの恋愛がわたしの恋愛。純くんが好きな人と卒業後もいつまでも結ばれていてくれますように〉


 念じるように書いたせいで、ペン先がじわりと強く滲んだ。――ちがう。視界全体が滲んで揺れている。まばたきすると、大粒の水滴が白いページに落ちてはじけた。

 どうして。どうして泣くことがあるの。とても嬉しいことなのに……


「ゆっきー! 今日寮当番だよ、忘れてない?」


 がらがらと扉が開き、万璃子と汐里が顔を覗かせた。ユキはびくりと肩を飛び上がらせ、反射的にノートを閉じる。


「寮……当番? だっけ?」

「うん。玄関とこ書いてあるじゃん。さては忘れてたな~?」

「ごめん! すぐボイラー消してくる!」


 ユキは慌てて部屋を飛び出した。


「ゆっきー? 打ち上げの写真、机に置いとくわよ?」


 後ろから汐里の声が追いかけてくる。ユキは「うん!」と返事をしつつ、振り返る余裕もなく階段を駆け下りていった。

 ボイラー室は寮の外に回り込まなければ入れない。サンダルをつっかけてボイラー室に急ぎ、スイッチを切ってから来た道を引き返していった。

 ぽつ、と冷たい感触が頭頂部に落ちてきて、ユキは思わず頭を押さえた。


「……雨?」


 そういえば最近降ってなかったなと思い返し、玄関を抜けてスリッパを履く。階段を上がって部屋に向かいながら、ふと自室の扉が半開きになり、電気もつけっぱなしだったことに気がついた。


「時恵さん、すみません、今日寮当番だったので慌てて――」


 部屋に入った瞬間、ユキはぴたりと足を止めた。

 ユキの机の前に、汐里が立っている。こちらに目を向ける彼女の手には赤い表紙のノートが開かれていた。

 全身の血が一瞬で凍りつく。あまりの光景に頭の中が真っ白だ。


「……ねえ」


 押し殺すように震える声。汐里は広げたノートをこちらに向けた。


「これ、なに……?」


 声が、出ない。そうしているあいだにも、彼女はさらに問いかけてくる。今度は赤い表紙をこちらに向けて。


「『純くんノート』って、なに……?」


 さまざまな言い訳が浮かんでは、汐里のひきつった顔の前に霧散していく。


「ねえ、なに? 答えられないの?」

「ああ疲れた! ただいまユキ」


 緊迫した空気を打ち破ったのは、時恵の声だった。彼女は部屋に一歩踏み込み、すぐ目の前に立つユキと、机の前で立ち尽くす汐里とを驚いたように見た。


「なんだ? どうかしたか?」

「いえ、ちょっとノートを借りていたんです」


 汐里はにこやかに言ってノートを机に置いた。


「勉強お疲れ様です。私はこれで失礼しますね」

「ああ、ありがとう。汐里もお疲れ」


 言うや否や、時恵はベッドに倒れこんだ。


「悪い、私はもう寝る。すまないな」

「い、いえ……」


 汐里が目の前を横切り、部屋を出て行く。


「ま、待って」


 ユキも慌てて後を追った。階段の踊り場まで来たところで汐里がくるりと振り返る。


「知らなかったわ。あなたの本心」


 身も凍りつくような冷たい眼差しに射抜かれ、ユキは全身をこわばらせた。


「あの、ちがうの、あれは――」

「どんな言い訳をしてくれるつもりなのか知らないけど、今は何も聞きたくないわ。何かを言いたいのは私のほう。でも、どう言ったらいいかわからないけど」

「ごめんなさい、しおりちゃん。でもわたし、しおりちゃんのことは応援してて――本当に応援してて――」

「嘘! 今まで私のこと、裏でどう思ってたの? 妬んで憎んで取り入って、機会をうかがおうと思ってたの?」

「ちがうよ、ほんとうにちがうの」

「何がちがうっていうの?」


 汐里は振り切るように背を向けた。


「ついてこないで。しばらく顔も見たくない」


 そう吐き捨てるように言い放つと、汐里はすたすたと階段を下りて行った。暗い踊り場に取り残され、ユキはひとり、呆然と立ちつくしていた。



 辰也は歯ブラシとタオルを手に部屋へ戻り、服で散らかっていたベッドを片づけていた。壁の向こうから「やば! 雨ふってる!」と慌てたような声がして、どたどたと足音が響く。


「足立くん、タオルもまだ物干しに残ってますよ!」

「ほんとだ、まずい!」

「こらー! おまえら消灯だぞ、慌てるなら静かに慌てろよな」


 寮当番の声がして、隣の部屋は静かになった。おかげでばらばらと雨の降る音が窓越しにはっきりと聞こえる。廊下と室内の電気が消え、辰也も卓上スタンドの明かりを落とした。タオルケットをめくってベッドの上に膝を載せようとしたところで、はたと動きを止める。


 こわごわとベランダへ近づき、カーテンを開けると、物干しに吊り下げたままの洗濯物が見えた。


 慌てて外に飛び出し、ピンチを抱えて隣のベッドに投げ出す。続いてハンガーをごっそり両手に抱えこもうとしたが、抱えきれなかったハンガーの端がベランダの柵にひっかかり、はずみで外にすべり落ちてしまった。


「あ」


 落ちたのはグレーのロンTだ。あわてて下を覗き込むと、植え込みの上に引っかかっているのが見えた。

 消灯時間に寮の外へ出るのは規則違反だ。見つかれば寮謹慎はまぬがれない。だが落ちたのはよりにもよってお気に入りの一つだ――辰也は意を決し、そろりそろりと部屋を抜け出した。できるだけ足音を立てないようにスニーカーを履いて玄関を抜け、裏手に回る。一階のベランダ前の植え込みに落ちたTシャツを回収し、ほっと肩を撫でおろした。


 Tシャツが濡れないように小さく丸め、さあとっとと帰ろうと顔をあげたとき、ふと、視界の遠くでとぼとぼと動く黒い人影を見つけた。女子寮のほうから裏山に向かってだれかが歩いていく。一瞬、見回り中の教師かと思い全身を硬直させたが、降りしきる雨のなか傘もささずに歩いているのは妙だった。それに、まるで何かに憑りつかれたような足取りで、ふらふらとおぼつかない。辰也はじっと目を凝らした。


 ――まさかな。


 浮かびかけた考えを瞬時に否定する。頭のシルエットが見慣れたショートヘアに見えてしまった。とうとう幻覚まで見るようになってしまったのか?


 部屋に戻ろうと足を寮の玄関へ向ける。だがすぐに立ち止まり、辰也はもう一度振り返った。奇妙な人影は雨に打たれながら、ふらふらと裏山へ向かっている。辰也は丸めたTシャツをぐっと抱え込んだ。しっとりと濡れた砂地の上にそろそろと足を踏み出す。決して我慢強くない自分の性格にほとほと嫌気が差したが、もう止められなかった。


 黒い小さな人影は、危なげな足取りで裏山に入っていった。辰也も急いであとを追う。木立のなかはトンネルみたいに真っ暗だった。


「おい」


 声をかけると、人影はぴたりと立ち止まる。雨にぐっしょりと濡れたその立ち姿で、辰也は改めて確信した。


「ユキ? ユキやんな?」


 人影が、こちらを振り返る。


 びゅう、と強い風が吹き抜け、影のように立っていた木々を大きく揺らす。灰色の雲が枝葉の合間に見え、闇に慣れてきた目に微かな明るさをもたらした。その一瞬のあいだに見えた彼女の顔に、辰也は言葉を失った。


「おまえ――泣いてる?」


 ユキがびくりと肩を震わせる。一、二歩あとずさり、「なんでここに……」と囁くようにつぶやいた。


「それはこっちが聞きたいわ。なんでこんな夜中に――」そう言いかけ、辰也は頭上から降り注ぐ雨の冷たさを思い出した。


「とりあえず、屋根のあるとこ行こ」

「……」

「何しとんねん、はやく」呆然としているユキの手首をつかみ、急いで引っ張った。「風邪ひくやろ」

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