第16話 体育祭
始業式が過ぎ、星牧学園は通常の姿に戻っていく。最初の授業が始まる前、万璃子は夏休みに泊まった汐里の祖母の家について熱く語っていた。
「しおりんのおばあちゃんちってめっちゃでっかいんだよ。古き良き日本家屋の豪華版って感じで、大正時代のお金持ちって感じで――」
「建物だけよ。昔、旅館を経営してたらしいから、その名残ってだけ。変なこと大声で言わないで」
汐里が恥ずかしそうに万璃子の口をふさぐ。「え、旅館? すごいね~」と楽しげに相槌を打つ純を斜め後ろの席から愛おしそうに見つめるユキ……を視界に入れながら、辰也はぼんやりと黒板の辺りを眺めていた。
「あっ! ってか、思い出した! 黒鉄くん、見たよ文化祭の動画!」
突如、万璃子に名を呼ばれ、辰也は顔を上げる。
「文化祭……?」
「うん。なんだっけ……銀なんとかって高校の。前いたとこだよね? 動画上がってるの偶然見つけちゃったんだ」
辰也は浅く唾をのんだ。
「マジで? どうやって? ……ほんまに偶然?」
「偶然偶然。あんなギター上手なんだね、学校で弾かないの? あ、文化祭は? うちの文化祭でなんかやってよ!」
「そういえば、もう職員室前にステージ募集の箱があったね」純も無邪気な笑顔をこちらに向ける。「ぜひ出してみてよ」
「もう募集しとん? はやいな。まだ実行委員も決まってへんのに」
「いろいろ予算とか設備の兼ね合いで、毎年ステージ募集ははやいんだ」
「へえ。……まあ、考えとくわ」
文化祭に出る気まんまんだったことも、ユキに断られてその気持ちがしぼんでしまったことも、前の学校でいろいろあったことも、何もかもを飲み込んで、辰也は曖昧に誤魔化した。
放課後、辰也は寮監室を訪れスマホを持ち出し、部屋でひとり、ベッドに座ってイヤホンを耳に挿した。万璃子の言っていた動画はすぐに見つかった。銀城高校文化祭――「THE・T.K.G.」とは、相沢架が考えたバンド名だ。中学の頃、辰也も架も卵かけご飯に無性にハマっていて、どんな味付けが一番かと考案しあっていた時期があったのだ。
二度と見たくない、思い出したくもないと思っていたのに、怖いもの見たさのような気持ちで動画を再生した。揺れ動く色とりどりのペンライト、まばゆいスポットライトに照らされて笑う架……そして、左側に立つ自分。全身を揺らして楽しげにギターをかき鳴らすその姿を見ていると、それはまぎれもなく自分自身なのに、自分そっくりの別の存在のように見えた。
動画の最後の曲になり、辰也が椅子に座ってアコースティックギターを構える。架も隣に座り、静かな声で客席に告げる。
『聞いてください、「ふたりだけの世界」』
静まり返った館内に、深い呼吸のようなアルペジオが流れる。
くすんだ青と白が覆う町のなかで
突然降り出した雨に打たれながら
空っぽの君を抱いて泣く
願いが、ぜんぶ叶ったと
喜びの咆哮を上げて泣くんだ
それは、辰也がギャランナの曲のなかで唯一好きだと思える歌だった。架からアルバムを渡されたとき、タイトルを見て真っ先に聴いた。そして好きになったのだ。
言葉にしがたい、突き上げるような何かが胸底から湧き上がる。背中からベッドに倒れこみ、腕で目もとを覆う。瞼の裏の暗闇に、見知らぬ町のくすんだ背景と、目を閉じてユキを抱く自分の姿がぼんやりと浮かび上がった。
滝のように降り注ぐ拍手の音が耳をつんざき、一瞬で飛び起きた。慌ててイヤホンを耳から引き抜き、頭をぶんぶん横に振る。
――なに恥ずかしい想像してんねん。あほらし。
その晩、夕飯が終わってすぐに職員室前に向かった。「星牧学園祭ステージ出演者募集」の張り紙と共に、カラーの画用紙が切り貼りされた小箱が横長のロッカー上にぽつんと置かれている。その横に積まれた応募用紙とペンを取り、学年と名前をさらさらと記入していった。
〈部門……音楽 人数……一人 時間……五分以内 演目名、または演奏曲名……『ふたりだけの世界』〉
***
辰也の心は今から文化祭一色になりつつあったが、そこへたどり着く前に学校のスケジュールは目白押しだった。一番大きいのは体育祭だろう。普通の高校と違い、ここの体育祭は委員会主催のスポーツゲーム大会のようなもので、学年縦割りチームに分かれ、個人個人の戦績がチームの点数になるという仕組みだった。生徒数が少ないゆえの工夫である。
当日配られたプログラムを見下ろし、辰也は首をひねった。
「リレーと棒倒しはわかるけど、パン食い競争と借り物競争って、小学生じゃあるまいし……」
「辰也、敵チームだね。僕負けないからね!」
純がきらきらした声を上げて、白い鉢巻を巻きながら同じ色の鉢巻きの集団へ向かって走っていった。辰也は赤だ。ユキは……青。
「黒鉄くん! こっちこっち!」グラウンドの隅で万璃子が手を振っている。赤い鉢巻をツインテールの結び目でリボンにしていてなんともあざとい。「種目に出る人決めよ~!」
「お、来たな期待の新星」赤チームにはなんと後藤時恵もいた。「期待してるぞバスケマン」
「……もうツッコむ気力もないんすけど」
「そんな君はぜひ障害物競争に出てくれ。機転と反射神経がいいから活躍できるはずだ。毎年、コースにバスケのドリブルもあるからな」
「いやだからバスケは――」
「時恵さん、めっちゃ足速いんだよ」万璃子が尊敬の眼差しを時恵に注ぐ。「色対抗リレー、よく見てて。すごいから」
「ただの陸上経験者ってだけだ。それじゃあみんな、頑張ろう!」
グラウンドは普通の高校の半分程度の広さしかないが、二十人にも満たない生徒数を考えればじゅうぶんすぎる広さだった。赤チームの座席に座り、ちらりと青チームのほうを見やる。ユキが足立に何か言われ、必死に首を横にぶんぶん振っているのが見えた。嫌な競技を強要されてしまったのだろう。泣きそうな顔でうなだれている。
――ユキと争うのは嫌やな。……
そんな思いを抱いているうちに、体育祭ならぬスポーツ大会は始まった。
辰也の出る障害物競争に、ユキは出なかった。青チームからは悠が立った。
「どうして僕がこんな泥臭い競技に……」
長い前髪の下でぶつぶつと呪詛のようにつぶやいていて不気味である。気の毒だが、悠に対しては余裕だなとほっとする。白チームも一年生だ。これは勝ちが確定したなとスタートラインについた。
ところが、ピストルが高らかな音を立てた瞬間、左端から黒い影が凄まじいスピードで飛び出していった。それは最初の跳び箱を弾丸のように跳ねて飛び越え、
「ああああ手が! 手が!! 汚すぎるうううう!」
と叫びながらさらに勢いを増してマットを転がり、「消毒……っ! 消毒ーーーー!」と火がついたように叫びながら椅子の上の風船を力任せに割っていった。
客席の一年生と辰也はあまりの光景にぽかんとしているが、二、三年生たちはげらげら笑っている。「いよっ、障害物競争の破壊神!」「すげーぞ悠!」などと応援なのか野次なのかわからない声が飛び交い、客席は大盛り上がりだ。当の本人には気の毒極まりないのだが。
結局、悠が堂々の一着であり(その後、しばらく気を失って倒れていたが)、辰也は二位に収まってしまった。負けて悔しい気持ちより、ただただ悠が気の毒だった。
客席に戻る途中、ユキとすれ違った。彼女の顔を見た瞬間、やっぱりちょっと悔しいかもしれないという気持ちが湧いた。彼女の前で少しかっこつけたい気持ちはあったのだ。
だがすぐに現実を思い出す。彼女は純しか見ていない。辰也の出ている競技なんて視界にも入っていないだろう。
借り物競争が始まり、赤チームからは一年生が、白チームからはユキが、青チームからは汐里が出た。ピストルの合図で三人同時に走り出す。コースは三分割されており、それぞれに設置されたお題のものを持って次のコースへ走るというルールだった。
赤チームを応援したい気持ちもあったが、辰也の視線は自然とユキを追っていた。彼女が不器用そうに走る姿を固唾をのんで見つめてしまう。
ユキは普段、人前では極端なほどシャイで声も小さい。貸してください、とちゃんと言えるのかすらはなはだ疑問だったが、走る三人の距離にほとんど差はない。一つ目のコースで客席の一年生女子からピンクのタオルをもらって二つ目に急ぎ、そこで何やら真っ赤になりながらまごまごと呼びかけて、教師陣から青い笛をもらって三つ目にやってきた。
三つ目のコースは青チームの客席の真ん前だった。委員会が設置したお題箱に手を突っ込み、彼女はおそるおそる紙を開く。そしてあっと目を見開き、一瞬で顔が真っ赤に染まった。
「あ、あの……黒ぶち眼鏡の人――」
「四月生まれの人!」
ユキの小さな声は、後から来た汐里の呼びかけにかき消された。純が照れたように「僕です」と笑って立ち上がる。辰也は思わず周囲を見渡した。純のほかに黒ぶち眼鏡の者はいない。ユキの見開かれた眼が、やってくる純を凝視する。縋るような、絶望したような、うるんだ瞳を見た瞬間、最前列にいた辰也は反射的に立ち上がっていた。
「純、眼鏡貸して」
振り返った純に向かって手を伸ばす。純はきょとんとしつつも「いいよ!」と眼鏡をはずして渡してくれた。
「ありがとう、すぐ返すわ。――ユキ!」辰也は呆然と動かないユキへ向かって手を振った。「こっちや、ほら!」
ユキの瞳に、手を振る辰也の姿が大きく映る。純の黒ぶち眼鏡をかけたその顔に、言葉を失い立ちつくす。
「俺を連れていけ!」
うまく状況が飲み込めないのか、ユキはまだ動かない。辰也は客席を飛び出し、ユキの手をつかんで走り出した。
「あいつら抜かすぞ」
辰也は眼前を走る純と汐里の背中を見据え、短く告げた。
「思いっきり走れよ」
ユキの手を引いたまま、めいっぱい加速する。意外なことに、ユキは辰也の足にぴたりとついてきていた。前を行く二人の背中が少しずつ迫り、ゴールも目前――あと二、三メートルまで迫ったところで、ふたりは純たちを追い越した。
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