第15話 玉砕

 二年生関西プチ旅行はこうして幕を閉じ、残りの八月はまばたきする間に過ぎ去っていったが、ユキは学校に行くのがたまらなく嫌だった。


 二学期の始業式は九月二日に行われる。その前日、九月一日に生徒たちは星牧学園へ帰るのだ。ユキはスマホで新幹線や高速バスの便を一生懸命調べ上げ、始発に乗り込みスーツケースを引きずりながら可能な限り一番早い乗り継ぎをこなして、星牧最寄りの駅についた。あとはタクシーを拾って山を登れば登校完了だ。現在の時刻は――午前十時。生徒たちが到着し始めるのは正午を超えたあたりからなので、ずいぶん早い到着を実現できたのだ。


 ほっと胸を撫でおろしつつも、まだ油断ならないと大慌てで改札を出る。痩せた平屋のようなこの駅は無人改札で人の気配というものがなく、遠くでちゅんちゅんと陽気な鳥の鳴き声がするだけだった。外は快晴で、蒸し暑い。日差しに目を細めながら辺りを見回すと、狭いロータリーに一台、暇そうに客を待つタクシーが停まっているのが見えた。


「すみません」


 声をかけると運転手はすぐに気づいて車を寄せてくれた。扉が自動で開き、運転手が降りてくる。


「星牧の生徒さん?」

「はい」

「ずいぶんはやいね。荷物はこのスーツケースだけ?」

「はい」


 そのときだった。


「すいません! 俺も乗せてください」


 運転手が荷台を開けた瞬間、聞き慣れた声が後ろから響き、ユキの全身がぎくりと硬直した。

 まさか、まさかと思いながら首を振り向けると、辰也が駅から走ってやってくる。スーツケースを引きずり、背中には黒々と大きなギターケースを背負って。


「俺も星牧です。いいですか?」

「ちょ、ちょっと待って――」

「よおユキ。割り勘のほうが安なるし、乗せてや」


 ユキは抗議の声を上げかけたが、辰也の視線とぶつかった瞬間に言葉を飲み込んでしまった。

 星牧の学生は麓からタクシーに乗り込むとき、できるだけ大勢で乗って割り勘にするのが暗黙の了解になっていた。ユキはそれも承知で、お金がかかっても構わないから辰也と顔を合わせたくなかったのだ。……それなのに。


 辰也はスーツケースとギターを預け、「先乗れよ」とうながしてくる。ユキはおずおずと従い、車内の奥にぴたりと身を寄せた。タクシーが動き出してからも、決して彼のほうを見なかった。


「久しぶりやな――っていう感じでもないか。会うたもんな」


 辰也が独り言のように言う。ユキは死んだような顔で窓のほうを向いていた。


「課題終わった?」


 仕方がないので無言でうなずく。辰也は「やろなあ。俺はちょっとだけ残ってて……今夜中にせなあかんわ」とぼやいた。それきり、車内で会話はなかった。

 タクシーは無事に校門前に到着し、二人でお金を払ってタクシーから降りた。ユキは運転手から荷物を受け取ると、逃げるように駆けだした。


「ユキ?」


 後ろから辰也の声が聞こえるが、無視して寮までまっすぐ急ぐ。だがその後ろから、ざくざくと芝生を踏みしめる足音が急速に近づいてきた。女子寮へ続く小道に入る一歩手前で、後ろから腕を掴まれた。


「ちょっと待てって。なんなん。俺、なんかした?」

「……どうも、しない」

「嘘つけ。じゃあなんで変な逃げ方すんねん」


 蒸し暑かった空気がふいに動き出し、なまぬるい風が吹き抜ける。そばの植木がざわざわと風に揺れた。


「嘘、ついたの、そっちが先でしょ」


 かろうじて出た声は、喉で絡まってひどく重たかった。


「はあ? 何が?」


 ユキはゆっくりと右手を上げた。人差し指の先で、辰也の背中にあるギターケースを指す。


「わたしのこと、笑ってたんでしょ……」


 みっともなく震える自分の声を耳にした瞬間、唇の端も震えて、瞼の裏に涙がこみ上げる。


「ずっと笑ってたんでしょ……!」


 せき止めようとする間もなく、目頭が決壊した。涙が次々にあふれて、頬をつたって落ちていく。


「うわ、え? ――何?」辰也は慌てて周囲を見渡し、ポケットをごそごそと探った。「あかん、今タオル持ってへん」とつぶやき、意を決したようにユキの腕を引いた。


「ちょっとこっち来い」


 二人は荷物を引きずりながら校庭を引き返し、畑の広がるほうへ歩いていった。かつて、辰也がユキのストーキングを発見した飼育小屋の物置の裏に出ると、辰也はようやく立ち止まり、ユキの腕を離した。何事か言いたげに口を開いたが、すっとつぐんでしまう。しばらくのあいだ、ユキの鼻をすする音だけが静かな空気に響いていた。


 辰也はおもむろに腰をかがめ、スーツケースのファスナーを中ほどまで開けて手をつっこみ、奥からタオルを引っ張り出した。それをユキの眼前にそっと差し出す。


「これで拭けよ」


 ユキは無言で首を振ったが、彼はむりやりタオルをユキの頬に押しあてる。


「はい、もう涙ついたわ。使えよ」


 ユキはおずおずとタオルを受け取り、遠慮がちに目元を覆う。それを確認してから、辰也は低いため息をこぼした。


「おまえが言いたいのって、もしかしてギターのことか? 俺の音を純のと勘違いしてたこと?」

「……」

「だとしても、俺は嘘なんかついてへんで。名乗らんかったんは悪いんかもしれんけど、もともと一人で弾いてたのに、おまえが来たからってわざわざ降りていって『俺やで』とは言えへんやん」

「……でも、あのとき、カフェで……言えたはずだよ。『それは俺のギターだ』って」


 今度は辰也が押し黙る。それから気まずそうに頭の後ろを掻いた。


「そんなん、言えるわけないやん。あんなに幸せそうな顔されたら」


 辰也は言いにくそうに、少し間を空けた。


「もしあのタイミングで俺が明かしたら、おまえどんな反応した? 絶対死ぬほど悲しむやん。あんな綺麗な声で歌ってくれてたのに、おまえのなかで全部なかったことにされるやん」


 ユキは思わず顔を上げた。涙で少し腫れたまぶたをぱちりと動かす。


「どういう意味?」

「あーもう、だから……」


 辰也は息が詰まったような顔をして、目線を落とした。


「好きやねん」

「……へ?」

「好きやねん、おまえの歌が」辰也がまっすぐ目を上げて、語気も強く繰り返す。「俺の過去の話、覚えてるやろ。いろいろあって死んでた俺の音が、おまえの声で生き返った。だからおまえの歌が聞きたくて、わざわざ裏山に行ってた」


 声も出ないユキに、辰也はやけくそになって続ける。


「俺にとって、あの時間は……その……めっちゃ大事やった。欠かせへんかった。ほんまに特別な時間やと思ってる。でもおまえにとってはただの絶望やん。そういう顔を目の前にするのが嫌やっただけ」


 ギターケースを背負いなおし、辰也は少しのあいだ、目を閉じた。すうっと息を吸い込んで、意を決したように目を開ける。


「おまえのおかげで、二か月後の文化祭のステージに立ちたいって思えてる。それで……夏休み明けたらおまえを誘おうと思ってた。一緒に歌ってくれへんかなって」


 辰也の視線が、ユキの瞳をまっすぐに射抜く。


「なあ、俺のギターで歌ってくれへん? 文化祭のステージで」


 


 夏休み明けの前日、辰也は自室のクローゼットを開けてスーツケースに荷物を詰め込んでいた。そのすべてが完了すると、床に敷いたカーペットの上に座り込んで、なんとはなしにスマホを開いてしまう。

 指先は自然と写真アプリに吸い寄せられていった。開かれた写真の数々――そのなかに、青々とした海の写真がある。その右端に映るユキの顔をじっと見つめた。


 万璃子にカメラを向けられ、恥ずかしそうにはにかむユキ。その顔の下に、夏休みに見た茶色いチェック柄のワンピースがぼんやりと浮かぶ。あれは汐里が貸したと言っていた。もう二度と着ないのだろうか。


 二本の指で写真をズームしてユキの顔を近づける。風に揺れる切りっぱなしのショートヘア。顔まわりのおくれ毛だけ少し長い。よく見ると毛先の長さがばらけていて、素人が不器用に切ったような形になっている。

 もしかして、自分で切っているのだろうか。美容院にはいかないのだろうか。


 いろいろな疑問や思いが頭に浮かんでは胸の底に落ちていく。ぼうっと座り込んでいると、半開きの扉の外から「辰也、荷物は詰めたんか?」と父の声がした。


「ああ、うん」

「そーか? あっちの和室の押し入れも見たか?」

「和室? なんで?」

「あっちにもおまえの私物あったで。一応見ときや」


 そんなものあっただろうかと首をひねる。父はそのまま部屋の前を素通りし、玄関口へ向かった。


「どこいくん」

「煙草買いに。ついでに夜食も買ってくるから、おまえは先寝ときや」

「うん」


 父が玄関から出て行く。鍵の閉まる音がしてから辰也はのろのろと立ち上がり、和室へ向かった。「なんか入れてたっけな……」とひとりごちて押し入れの襖を開ける。痩せた布団が詰められた上段から、プラスチックのカラーボックスがちぐはぐに押し込まれている下段に目線を落とし、一番手前、足もとに近いところに横倒しにされたギターケースに気がついた。


 それは、辰也が中学生のころから愛用していたギターだった。黒いソフトケースは端のほうが少しほつれてきている。辰也はその場でゆっくりとしゃがみこみ、ケースに手をかけた。


 これは、あの事件があってからずっと、この押し入れの奥に封印していたはずだった。わざわざカラーボックスの後ろに置いて目に入らないようにしたのだから、よく覚えている。それがこんな手前に移動させられているのは、間違いなく父のせいだろう。

 言葉にしない父の言いたいことを察して、辰也は思わず苦笑いを浮かべた。


「そういうことかよ」


 その場でケースを開けて、中からギターを取り出す。ボディの端に真っ黒なサメのステッカーが貼られたそれを膝の上に構えて、上から下まで弦を鳴らした。ピッチの狂ったひどい不協和音が響き、放置していた長い時間を思い起こさせた。


 弦をひとつひとつはじきながらペグを回す。緩みきっていた低い音が徐々に正しい音を取り戻していく。

 何か弾こうと指先を構えて、もう夜も遅いことを思い出す。少し寂しい思いでギターを片づけ、ケースのファスナーを閉じると、そのまま部屋まで持って帰った。

 ベッドに入り、仰向けになって目をとじたとき、手のひらに愛用のギターの感触がよみがえった。


 ――ユキの歌が聴きたい。


 このギターで、ユキの歌声をもっと近くで聴けたら。

 すぐ隣に座って、自分の奏でるギターの音に心地よさそうに体を揺らしながら歌ってくれたら。


 次の瞬間、辰也はぱちりと目を開けた。思いついたのだ。その願いを実現する方法を。

 




 その願いを口にするのは、勇気がいった。だが辰也は勢いにまかせて彼女に告げた。


「なあ、俺のギターで歌ってくれへん? 文化祭のステージで」


 いつにもまして真剣に言ったつもりだった。その思いはユキにもきっと届いただろう。彼女は信じられないというように目を見開き、すぐに首をぶんぶん振った。


「無理です」


 願いは一瞬で砕け散った。

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