第14話 THE・T.K.G.

 四人で家に戻ったのは、夜の八時ごろだった。運転代行の男性にお礼を言い、日本酒をあけまくってべろんべろんになった父の肩を三人でかついでエレベーターに乗りこむ。そして家に入るとリビングの潰れたソファにどさりと寝かせて、ふうと息をついた。


「ごめんな、親父いっつもこうなんねん。見栄っ張りやからアホほど飲んで――」

「あはは、大丈夫だよ。辰也のお父さん、楽しい人だね」

「まあノリはええけどな」


 三人で順番に風呂に入り、歯を磨いて和室へ案内する。六畳の室内にぎりぎり並んだ三つの布団の上に三人同時にダイブした。


「なんか、修学旅行みたいだね」純がつぶやく。辰也は「そうやな」とうなずき、顔を上げた。純を真ん中に、悠が反対側の布団に寝転んでいる。


「悠、今日、どうやった? 万璃子と一緒に日本橋おったんやろ」


 悠はこちらも見ずに「ああ……」とうなるように返した。


「万璃子に連れていかれたんか? それとも自分の意思で?」

「僕の意思なわけないだろう。僕はもっと別の店に興味があったのに、宮川さんに突然腕を引っ張られて、あれよあれよという間に駅前だ。彼女は意地の悪い顔で『ついてこないなら、ここに置いていこっと』とか言うんだぞ。ついていかざるを得ないだろう」

「万璃子がそんなことを? で、結局あいつの目的は?」

「聞いて驚け、荷物持ちだ」


 悠はそれきり、一言も声を発さなかった。布団を頭からかぶりこみ、すんすんと寝息を立てていた。


「……めっちゃ疲れとんやな」


 辰也は仰向けになり、「豆電にするわ」と電気のリモコンを操作した。薄暗くなった室内で、純としばらく無言のまま、天井を見上げていた。


「辰也」


 純の声が、暗闇のなかに波紋を広げる。


「うん?」

「あのさ、今日……どうしてはぐれたの?」

「どうしてって……そら、不注意って言うか、人ごみのせいやろ」

「でも、辰也ならすぐに追いかけられたんじゃない?」


 辰也は思わず首を動かして隣を見た。闇に慣れた目が、純のシルエットをぼんやりと浮かび上がらせる。豆電球の光を映した子犬のような黒い眼がはっきりと見てとれたとき、純はゆっくりと息を吸い込んだ。


「もしかして――間違ってたら恥ずかしいけど……その、ほんとうにありえないと思うけど……僕の気持ち、バレてたりする?」

「汐里のこと? やったら、うん、バレてる」


 はっと息をのむ声。続いてぽりぽりと頭を掻く音がした。


「あの、もしかして、結構前からバレてたりする?」

「うん」


 闇の中に、長い長い吐息が広がっていった。


「だから、わざとはぐれたの?」

「そうかもな」

「そんな……絶対バレてないって思ってたのに」

「いやいや。おまえらバレバレやから。飼育小屋だけやったらまだしも、普通にあちこちでいちゃついてるやん。まあ普通に考えて、あんな校則無理難題やと思うし、いちゃつくくらいやったらええんちゃう」

「……ありがとう」


 純はまた静かになった。今度は辰也が口を開いた。


「汐里とは、はっきり両想いなん」

「ううん。告白しあったわけじゃないよ。でも、なんとなくこう、両想いなんだろうなってわかる……だから、約束も何もないけど一緒にいられるんだ。この学校での恋愛って、全部そういう感じだよ」

「へえ」

「二人きりになって、お互いの家の話とか、行きたい進路の話とか……そういう具体的な話をしあって、なんとなくそこに自分をいれてくれているっていうのがわかると、それはもう……そういう関係だって、思っていいんだと思う」


 その途端、辰也は思わず吹き出してしまい、純ががばっとこちらを向いた。


「なんで笑うの?」

「いや、ごめん……なんていうか……ピュアやなって」

「ピュア? いやだって、そうならざるを得ないでしょ。校則があるんだし」

「校則ってさ、そんな律儀に守るもんやないやん。女子はスカートの丈ぜんぜん守ってへんし、男子は平気で掃除もサボるし。でも恋愛に関してはそうやってクソ真面目に規律を守るんやな」

「それはまあ、確かにちょっとおかしいね」純がくすくす笑う。「でも、そういうの、なんかいいよね」


 二人はまた静かになり、だまって天井の闇に浮かぶ小さなオレンジ色の光を見つめていた。やがて、純がそっとため息をついた。


「でも、この恋愛にはひとつだけ、どうしようもない欠点があるんだよ」

「欠点?」

「これは、足立さんから聞いたんだけどね……そうやって両想いになれても、ある日突然、なんの予告もなしに一方的に終わることもあるんだ。そりゃそうだよね、結局きちんと結ばれたわけじゃないから……口約束すら禁じられた僕たちには、ただ毎日祈るように相手の目を盗み見て、同じ視線が返ってくるのを待つしかないんだよ」


 純は一度口を閉じ、しばらくしてもう一度口を開いた。


「初めに惹かれあった関係が卒業後まで続いたのは、学校設立から数えるほどしかないんだって」

「なんでそんなこと、足立さんが知っとんねん」

「さあ。でも、そう言われてる」

「ふーん」


 辰也は枕の下に両手を差し入れ、しばらく考え込んだ。


「おまえもそうなるのが怖いん?」

「そりゃそうでしょ。僕も毎日ガクブルだよ」

「じゃあ逆に、おまえのことを好きなほかの女子が現れたら?」


 純は言葉を返すまでに、ほんの少しだけ間を空けた。


「そんな人が現れるとも思えないけど……」

「仮にや。告白されたらどうする?」

「それは、うん、申し訳ないけど、断るかな」

「ほんまに? ちょっとは揺れへんの? めっちゃドタイプのかわいい奴やったら?」

「すごく動揺はするね。うわああ、って舞い上がっちゃうかも。でもその人のこと、僕はそれだけしかわからないし。僕が好きなのは、あの汐里さんだから」


 純はごろりと寝返りを打ち、辰也のほうを向いて微笑んだ。


「僕は絶対、自分から終わらせる気はないよ」


 やがて純が寝静まるまで、辰也は一言も言葉を発しなかった。純のすぴすぴとかすかな寝息が聞こえてから、自分も目を閉じる。


 絶対、と純は言った。自身満々に、迷いなく。漫画やドラマならただただ感心するところだろうが、辰也はもやもやと小さな疑心を覚えた。

 現実に、絶対なんかあるはずない。どんなに夢中になれる絆でも、いつ終わるかわからない崖っぷちを歩いているようなものなのに。何を根拠にそう言い切れるのか、まったく理解できなかった。


 ――偽善なんか、ほんまに純粋なんかわからんな。


 後者であることを祈りたかった。


***


 時間は少しだけ遡り、汐里の祖母の家の客間では、三つ敷いた布団に三人の女子が仲良く寝そべっていた。右からユキ、汐里、万璃子の順で並んでいる。


「え、じゃあマリちゃん、朧くんを連れていったのは本当に荷物持ちだけのためだったの?」


 汐里が目を丸くし、万璃子は「そだよ」とうなずく。なんの悪びれもなく。


「言ってくれたら私たちも一緒に日本橋まで行ったのに」

「いいよいいよ、せっかくみんなで観光してるのにさ、あたしの私利私欲に付き合ってもらうの申し訳ないじゃん?」


 合流した万璃子の両手には、アニメの絵がプリントされたショップバックがいくつも握られていたが、それ以上に悠の両手にも山のような荷物があったのだ。すべて万璃子の買い物らしいと知ったとき、みんなで同情の目を向けたのだった。


「それ、朧くんの都合はいいの……?」


 ユキの正当なつっこみはスルーして、万璃子は「おっ」と声を上げたきり、イヤホンを耳に挿してスマホにかじりつきはじめた。


「……好きな配信者か誰かの配信かしらね」


 汐里がため息まじりにつぶやき、小さく首を振る。


「朧くん、気の毒にね」

「うん……」

「でも、朧くんも朧くんよね。いくらマリちゃんに置いて行かれたって、グルチャもあるんだし、わざわざついていかなくたっていいのに」

「たしかに、そういえばそうだね」

「まさかと思うけど……」


 汐里は何か言いたそうに口を開いたが、すぐに思い直して首を振った。


「そうだわ、ゆっきー」


 汐里はユキのほうへ顔を近づけ、ひっそりと声をひそめた。


「今日は、ありがとう」

「ううん。作戦どおりにいってよかったね」ユキは嬉しそうにはにかんだ。「二年生で関西に行くって決まってから、二人でデートさせるチャンスだって真っ先に考えてたから」

「私もよ。私も……純と一緒に回れたらって思ったから……ほんとうにうれしかったわ。夢みたいだった。なんだか一緒に旅行してるみたいで」

「よかった。うまくいって」

「でも、ごめんね……ゆっきーはちゃんと楽しめたの?」

「え?」

「黒鉄くんとずっと一緒だったんでしょう? ゆっきー、彼のこと怖がってたじゃない」


 ユキは一瞬、きょとんと目をまたたき、無意識に目線を枕元に落とした。


「まあ……うん」

「大丈夫だったの?」

「うん。あの……なんていうか……思ってたより悪い人じゃない、よ」


 今度は汐里が目を見開く番だった。


「ゆっきー、もしかしてだけど……黒鉄くんのこと……」

「な、ないない! やめてよ! ぜっっっったいないから!」

「ほんとう? なんだか怪しいわ」

「ほんとうだってば! だってわたしには――」


 ユキははっと息をのみ、口をつぐんだ。だがすでに遅い。


「わたしには、……何?」

「……」

「もしかしてゆっきー、好きな人、いるの?」

「……」

「どうして言ってくれなかったの? だれ? 私の知ってる人? 星牧の人かしら。もしそうだったら私にも何か協力させて」

「いい、いいから! そういうんじゃないから!」

「でも私ばっかり助けてもらって心苦しいもの。ゆっきーさえよかったら、それこそ二人きりにさせるとか、できる限り頑張るわよ」

「いいの。ほんとに……ほんとにいいから」


 ユキは汐里の両手を取り、必死に抑えつけるようにして首を振った。


「お願い。今のはきかなかったことにして。わたし何も言ってない。望んでない」

「……」


 汐里は呆気にとられ、ぽかんと口を開いていたが、ややあって「そう?」と困ったような顔になった。


「そこまで言うなら、もう聞かないけど……でも、忘れないで。私、いつでもあなたの味方になるから」

「……ありがとう」

「あー!」


 ずっと押し黙っていた万璃子が突如声を上げ、二人の肩は同時にびくんと跳ねた。


「な、なに、どうしたの」


 万璃子は耳からイヤホンをぶちっと引き抜き、スマホを手に二人のほうへ這いよった。


「お宝映像、見つけちゃったかも……」

「お宝映像?」


 万璃子はスマホの画面を二人に見せた。動画サイトの再生画面をとんとんと指先でタップして画面を横長に拡大する。画面は暗いが、どこかの学校の体育館のステージのようだ。動画のタイトルは――


銀城ぎんじょう高校文化祭? ――THE・T.K.G.?」汐里が眉をひそめる。「卵かけごはん……?」

「バンド名なんだって。再生するから見て」


 静止していた映像が動き出し、スポットライトがステージ上を照らし出す。盛り上がる客席の黄色い声と揺れ動くペンライトの光の向こうに、五人の男子生徒の姿が浮かび上がった。一人がマイクスタンドを握り、「T.K.G.でーす!」と叫ぶ。その男子と、その隣――いや、わずかに斜め後ろに立つギターを持った男子の姿を見た瞬間、ユキは驚きのあまり声を失った。


「これ! ここ見て!」万璃子が映像を止め、画面を指した。「このギター持ってる人、黒鉄くんじゃない?」


 黒いヘアバンド。サイズのゆるい黒パーカー。スポットライトに照らされて、黒鉄辰也は照れたような笑みを浮かべてそこにいた。


「ほんとうだわ」汐里も目を見張り、動画を再生させる。「ほんとうに黒鉄くんだわ……前の学校の映像よね。こんなのどうやって見つけたの?」

「あはは、そんなのいいじゃん」


 二人のやり取りの横で、ユキは言葉を失っていた。昼間、一緒に過ごした辰也の姿を思い出す。横断歩道で突然立ち止まり、魂が抜けたような顔で立ち尽くしていた辰也と、その向こう岸からやってきた、ギターを背負った男子……


『中学のときに仲良かった奴がいて――相沢かけるっていうねんけど――ギターを教えてやるうちに一緒にバンド組むことになって』


 辰也は昼間、彼に会ってしまったのだ。つらい記憶の元凶に出くわして、あんな迷子みたいな顔色になって……


「なんだか激しい曲ばかりね」汐里は目を白黒させている。「全然知らない曲だわ」

「あたしも曲は知らないけど、確か元のバンドがなんかのアニメのエンディングやってたんだよね」


 ユキは、彼らの演奏する曲のすべてに聞きおぼえがあった。全部ギャランナだ。画面の向こうの辰也の立ち姿は真剣そのもので、時折顔を上げては楽しそうに笑っていた。


『作曲なんて大層なものじゃないけど、オリジナルを作ってこそ音楽やと思ってた。だから、できあがるたびに架に持ってっては、バンドでやりたいって言うたんやけど……』


 動画の日付は十月十一日。辰也が転校してくる六か月前だ。このころにはすでに、彼の苦しみが始まっていたとしたら……?


『次で最後の曲になります』


 動画の中で、相沢架がマイク越しに言った。


『俺らすげー好きで、めちゃめちゃ切ない曲なんで、聞いてください。「ふたりだけの世界」』


 後ろにいたドラムとキーボードが静かになり、辰也が一歩前に出る。アコースティックギターに持ち替え、架の隣で椅子に座った。暗いステージの上で、二人の姿だけがスポットライトの光の下でくっきりと白く照らし出される。

 辰也の指が、ギターの弦を弾く。優しくて柔らかいアルペジオが、アンプを通してスピーカーから流れ出てきた。


「なにこれ……なんか、切ない、ヤバい」


 万璃子がしんみりとつぶやき、汐里もだまってうなずく。ユキも無意識に全力で耳をかたむけていた。歌に、というよりは、聞こえてくるギターの音色に。


 優しくて、柔らかくて、心地のいい、でもどこか寂しい音色……優しい波にたゆたううちに、気づけばさらわれてしまいそうになる不思議な音色……その音は、どこかで聞いたことがあるような気がした。だがどこで? 直近で耳にしたギターの音なんて、放課後に裏山で弾く純の音しかない。


 ――いや、あれは本当に純の音なのだろうか?

 

『俺もちょっとずつリハビリできてる。いろいろあって……ギターを触れるようになった』


 頭のなかで何かがいっせいにがらがらと崩れ落ちていく。喉の奥からしゃっくりのような音が飛び出した。


「どうしたの?」


 汐里と万璃子が心配そうな目を向けてくる。ユキは慌てて咳き込み、「ちょっとむせて」とごまかした。


「確か、純くんもギター練習してるよね」


 なんの脈略もないが、ユキは縋るように言った。


「ええ、確か、去年の終わりごろに始めたって聞いてるわ」

「てことは、純くんもこれくらい弾けるんだよね?」

「ええ? そんなことないと思うけど」汐里はおかしそうに笑った。「楽器ってそんな短期間でこんなふうにはなれないわよ。黒鉄くんはずーっと昔から弾き続けてるんだと思うわ」


 ユキの頭の後ろがさあっと冷たくなっていく。辰也の顔、純の顔、何も知らずに裏山で歌って浮かれていた自分の姿が脳内をぐるぐる駆け巡って、ただただ死にたくなった。

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