第13話 それ、俺なんやけど
二人はすぐ近くにあったチェーンのカフェに入った。辰也はメニュー表もろくに見ないまま炭酸ジュースを注文した。運ばれてすぐ、勢いよくごくごくと喉に流し込んだ。
喉の奥で炭酸がはじける感覚を味わい続け、ようやく頭のなかがクリアになる。グラスをテーブルに置いたとき、向かいに座るユキの目を初めて真正面に捉えることができた。
「大丈夫なの?」
「……ああ、うん。ごめんな。熱中症にでもなりかけとったかもしれん。助かったわ」
そう曖昧に笑って、もう一度グラスに口をつける。
「これ飲んだら、すぐ外出るか。あいつら捜さななあ」
「いや、ちゃんと休んだほうがいいと思う」
辰也は二、三度まばたきした。
「おまえ、俺に気ぃつかう余裕あるんやな。さっきまで純を見失って絶望してたくせに」
「それは、まあ、そうだけど」
ユキは顔をほんのり染めてぷいと目を逸らす。
「でも、黒鉄くんが回復しないとどのみち外を歩けないし、わたしだけじゃ土地勘がないから置いていけないし……」
「置いていくってなんなん。発想がひどない?」
「ひどくて結構です」
辰也の喉から自然と笑い声が漏れる。
「ユキってさ、女子寮でもそんな感じなん?」
「え?」
「ほら、学校やと死ぬほどシャイで、ろくにしゃべらんと気配殺して生きてるやん。でも今は、なんかすごい自然にしゃべってるから」
「そ、そんなことは……」
「最近思っててん。わざと気配殺してるんかなって」
ユキの肩がぴくりとこわばるのが目に見えた。
「図星やった?」
「……」
「あれやろ、純と汐里の邪魔をしたくないからとか、純のこと陰からこっそり見守りたいからとか、そういう理由やろ」
「……」
「あー、全部合ってそう。顔色でわかるわ。信号みたいやな」
「もういいでしょ!」
ユキは噛みつきそうな勢いで声を上げ、アイスコーヒーをぐいぐい飲む。そんな彼女を、辰也は目を細めて見守っていた。
「なあ、いつから純が好きなん」
「なんでそんなこと聞くの」
「ええから教えてや。俺ら同志やろ」
ユキは少しためらったあと、アイスコーヒーのグラスに目を落とした。
「……入学試験のときから」
「へえ。――え、ってことは初対面から?」
「うん。試験は星牧の空き教室だったんだけど、純くんは一番乗りに到着して、わたしはその次だった。わたしが教室の扉を開けたとき、純くんがこっちを見上げてにっこり笑ってくれたの。そのとき、心臓にがーんって殴られたような衝撃が走って、それからずっと全身がしびれてた。純くんが挨拶したり、周囲のみんなと世間話する声が聞こえるたびに、しびれが走って心地よくて……」
ユキはあらぬ方向をうっとりと見つめながらストローでかき混ぜる。
「それ以来、寝ても覚めても純くんのことが頭から離れなくて……」
「そ、そうなんや。すごいな。一目ぼれやな」
情けないほど語彙が出てこない。
「俺、そういう経験ないわ。……いや、待てよ」
無意識につぶやき、脳裏で記憶をたどる。初めてユキと出会った日、斜め後ろから純を見つめる彼女のだらしない顔を見た瞬間の、あの奇妙な熱い悪寒を思い出し、唐突にすべてが腑に落ちた。
「そうか……あれが……」
「なんの話?」
「いや、別に。一目ぼれでそんな強烈に好かれるとか、純が羨ましいわ」
「そうなの? 純くんからしたら、こんな感情、きっと迷惑だと思うけどな」
「なんで? 人に好かれて迷惑とかあるんか?」
「あるよ」ユキは静かにつぶやいた。「あるんだよ」
その声は、まるで淡雪のかけらのように空気のなかに溶けていった。辰也はごくりと唾をのむ。
「なんで純と付き合いたくないん」
「え?」
「前もちょっと聞いたけど、逃げられたしな」
「なんでって言われても……」
ユキは困ったように目を伏せる。
「付き合うだけがゴールじゃない、でしょ」
「なにそれ。じゃあおまえのゴールってどこ?」
「純くんが幸せになったら」
ユキは驚くほど澄んだ目で辰也を見上げた。
「純くんが好きな人と結ばれて、幸せになったらゴールだよ」
「それで、ほんまにおまえはゴールに行けるんか?」
「うん」
「ゴールってのは、おまえの幸せのことやぞ」
「わたしは少女漫画で言うところの脇役。当て馬とか噛ませ犬とか、負け犬ポジだよ。主役の二人が結ばれるためにいるようなものだから」
辰也のこめかみがうっすら痛み始めた。
「初めて
「……」
「なんでなん? なんでそんな自分のことテキトーでおれんの? 昔なんかあったとか……?」
「わたしからいろいろ聞き出したいなら、そっちの秘密も教えてよ」
辰也はきょとんと目をしばたたいた。
「秘密? 俺の?」
「どうして星牧に転校してきたのか、とか」
「ああ……」
辰也は苦い笑いを浮かべてグラスの縁をいじった。
「まあ秘密ってほどでもないけど……死ぬほど情けない理由やしなあ……」
「言ってくれないなら、わたしももう何も言わない」
「おまえ、なんか我が強なってない? ……まあいいか」
辰也は一口炭酸を飲み込み、小さく息を吐いた。
「一言で言うたら、逃げてきたんよな」
「逃げて……?」
「うん。言っとくけどマジでめちゃくちゃ情けない話やから、笑うなよ。いや笑い飛ばしてくれたほうがまだええか。……俺な、元いたバンドから追い出されて逃げてきてん」
もう一度炭酸を飲もうとしたが、溶けた氷水が底に溜まっているだけだった。
「俺、中学のときに仲良かった奴がいて――相沢
「曲起こし?」
「あいつ、ギャランナが好きで、バンドやろうってなったのもギャランナをコピーしたいからやってん」
「ギャランナ? THE・Galaxy Madonna?」ユキの目がきらりと輝いた。「あの、純くんの好きな……」
「そうそう。架も純並みに猛烈なファンやって、CD山ほど持ってきては俺に楽譜を書けって言ってきた。言うて俺は書き方とかよーわからんからただコードにするだけで、それでもあいつは気に入って、バンドやるときはずっとギャランナやった。俺はギャランナの良さは正直わからんかったけど、一緒に音楽やるだけで楽しかったから不満はなかった。――最初のころはな」
語るうち、あの頃の記憶の映像が次々とよみがえる。胸のうちに暗くて重いものがゆっくりと沈んでいくようで、自分でも表情がこわばるのを感じた。
「俺、もともとギターが好きで、自分の思いつくままに弾いて、曲にするのが好きやった。作曲なんて大層なもんじゃないけど、オリジナルを作ってこそ音楽やと思ってた。だから、できあがるたびに架に持ってっては、バンドでやりたいって言うたんやけど……うん。まあ、相手にされへんかった。一回『歌ってみろ』って言われて披露したら笑い飛ばされた。センスないとか、才能ないとか、おまえは耳があるんやから作曲なんかせんでもええとか、なんかいろいろ……言われたな」
気づけばユキは両手で口元を覆って目を見開いていた。辰也は力なく笑う。
「なんでそんな顔しとん」
「いや……だって、その、ひどいから」
「まあ、俺の意見だけ聞いたらそう思って当然かもな。でもあいつらからしてみれば、俺はただの邪魔者やったんやと思う。ギャランナと架で満たされてた空気の和をぶち壊すって言うか……だれからも求められてないのに押しつけようとしてたっていうか」
「でも、黒鉄くんだってメンバーの一員なんだから、やりたいことをやりたいっていうのは押しつけなんかじゃないと思う」
「……優しいな」
「違う。慰めとかじゃなくて……プロでお金をもらってるわけでもないのに、言っちゃえば趣味の集まりでしかないのに、一曲くらいやらせてくれたらいいのにって思っただけだよ」
辰也はグラスの底に溜まった氷を見下ろして笑った。
「……ありがとう。まあ結局、一曲もやらせてもらう機会はなかった。あるとき、俺がいつもどおり練習室に行ったら誰もおらんかった。月三回の予約が全部取り消されてた。グループチャットも消えてて、冷や汗をかきながら架に連絡したけど既読もつかん。学校では別のクラスやったし、避けようと思えば一度も顔を合わさんこともできる。それでも躍起になって追いかけて、とうとう昼休みに架を捕まえて問いただした。あいつは『バンドは解散した』って言った。なんで急に、とかいろいろ問い詰めようとしたけど、そのとき全然知らん遠いクラスの男子が来てな、架にノートを渡してん。架は俺の目の前でそれを開いて、『すげえ、ちゃんとスコアになってる、ありがとう』って言った」
「スコア?」
「ギターだけじゃなくて、ドラムもベースもボーカルも、全部載ってる譜面や。俺がコードだけ拾って書いたやつとはレベルが違う。ちゃんとした楽譜を書いてくれる奴を架は見つけて、そいつを入れて新しいバンドを結成してた」
ユキは再び両手で口を覆って息をのんだ。こちらにまっすぐ注がれる彼女の視線とその息遣いで、なぜか心が少しだけ軽くなった。
「そしたら次の日、俺、起きれんくなってた。金縛りみたいに動かんくて、無理に動かそうとしたら吐きそうになって。親父が来て、『今日は休め』って言うまで、俺は布団の中でじたばたもがいてるだけやった。――な? 情けない話やろ。笑ってくれてかまわんで」
「笑えないよ」
「……まあ、あいつらが俺を切ったんは正しいし、間違ってないんやと思う。切り方はもうちょっとどーにかならんかったんかって思うけどな。そういうわけで、俺は星牧に逃げることにした。都会におったらあちこちからバンドの音楽とか聞こえてくるし、楽器を持ってうろうろしてる奴とか目につくし、あのときの俺にはほんまに苦痛やったから」
「でも、星牧も嫌じゃないの? ギター弾いてるひと、あちこちにいるよ」
「おるな。純とかめっちゃ寮で弾いてるし。でも、そのおかげっていうか……俺もちょっとずつリハビリできてる。いろいろあって……ギターを触れるようになった」
「そうなの」
「そうやで」
おまえのおかげで、とは、まだ言えない。裏山でユキの声に浄化されたくて弾いてしまうなんて言ったら、きっと本気で嫌がれてしまうから。
「……ごめんな、暗い空気にして」
「別に」ユキは顔を少しうつむけて、半分になったグラスのコーヒーを見つめていた。「質問したのはわたしだよ」
「そうやけど……なんか思ったよりスラスラぺらぺら話せたから自分でもびっくりやわ」
辰也は頬杖をつき、窓の外を眺めた。ハンディファンを手にした若い女性たちが過ぎ去っていくのをぼんやりと見つめながら、こぼれた吐息に載せて、言葉にならない声を落とした。
――ユキやからかな。
「それにしても純くん、すごいな。人のトラウマを癒せるほど上手だなんて」
辰也は視線を真正面に戻した。
「純が? 何を?」
「ギター。上手でしょ? わたし、実は……一学期のあいだ、ほとんど毎日裏山で純くんのギターを聴いてたんだ」
ユキは顎の下で指先を組み、うっとりと窓の外に目をやった。
「ほんとうに上手なんだ……弾くの、全部ギャランナだし、もう出回ってないシングルの隠し曲も弾いてたから、すぐに純くんだってわかっちゃった。去年の終わりから少しずつ練習してたのは知ってたけど、あんなに上手になってたなんて知らなくて……わたしもまだまだ純くんのこと、知らないんだなって……知らないこともあるんだって嬉しくなっちゃった」
ぽっと薄桃色に頬を染めて、唇の先をだらしなく開いて……彼女の眼は、辰也を通り越して別のだれかを見つめている。
「純くんのギターに合わせて、こっそり歌声を重ねさせてもらってるあいだ、ほんとうに幸せで死にそうになるよ。こんなわたしでも生きてていいんだって、心の底から思える時間なんだ」
「ユキ……それは」
――それは、俺や。
その言葉は喉を飛びだして、だが唇を無理やり閉じて押し戻した。
「よかったな」
「うん。あれがわたしに許された、唯一の……純くんとの時間だと思ってる」
正体を隠そうと決めたのは、自分だ。
でも、どうして、よりによって……純なんだろう。
聞きたかったユキの秘密も、何もかもが頭から吹き飛んでしまった。それからどうやってユキとカフェから出て、どうやってみんなと合流して、迎えに来た父のハイエースに乗り込んだのか、記憶がぼんやりと曖昧だ。
「すみません、車まで出してくださって」
後ろの席で純が申し訳なさそうな声を出す。その隣には梅田で拾った悠がいた。来たときよりもさらにげっそりとやつれて、ゾンビみたいな顔色になっている。
辰也の父はハンドルを切りながら豪快に笑った。
「車で行かんと、ちょっと入り組んだ場所にある家やからな。気にせんと、おれのスーパークロガネ号に乗ってってや!」
「だっさい名前……」
「なんでや辰也、わかりやすいし語呂がええ感じやろ」
「……ええんちゃう、すごいやん」
ツッコむ気力すら湧かないくらい、心にぽかりと穴があいていた。ただひとつ、はっきりと覚えているのは、彼女のコーヒーがほとんど空になったとき、ぽつんと告げられた言葉だった。
「わたし、もう誰も傷つけたくないんだ」
前後の脈略のないその言葉が、ユキへの問いの答えだと気づいたのは、父親の車の助手席に乗り込んで数十分が経ち、実家の近所の酒屋が見えてからだった。
「近くにな、うまい焼き肉屋があんねん。君ら焼き肉好きか?」
「大好きです! ――ね、悠もだよね」
純がにこやかに答え、隣の悠は死人のような顔で「はい」とうなずいた。
「悠、大丈夫か? 顔色悪いんはいっつもやけど、なんか特にひどいで」
「僕は平気だ。すこぶる調子がいい」
「あっそう。じゃあ親父、いつものあそこで大丈夫やで」
辰也がうながし、父が「よっしゃ」とハンドルを切る。実家のあるマンションの前を横切り、車は住宅地の奥まった街道を進んでいった。
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