第12話 過去の影

 終業式が終わると、星牧学園の生徒たちはおのおの実家へ帰っていく。たいていの生徒がこの付近か、隣近所の県へ帰るが、辰也は高速バスを乗り継いで関西まで帰らなくてはならない。


「じゃーな、また八月に!」


 バスが到着し、辰也は振り返って手を振った。純や汐里、万璃子も悠も見送りに来てくれている。ユキはいない。彼女は終業式が終わるや否や、まとめた荷物を持ってタクシーに乗り込んでしまったのだ。

 何を慌てていたのか、真相はバス停へ向かう途中で万璃子が教えてくれた。


「ゆっきー? ああ、だって家が東京だからね。遠いし、新幹線の時間もあるからいつも大慌てで帰っていくよ」


 ユキが東京から来ている事実は汐里も純も悠も知っていたようだった。知らなかったのは自分だけだ。知り合って二か月ほど経つが、自分はそんな世間話すらできない仲なのだと改めて思い知らされる。


 でも、そんなのはいい。まだこれからじゃないか。

 それに、この夏は、彼女に会える。


 クラスメイトが関西まではるばるやってくるのは、八月の初旬だ。汐里の帰省に合わせてそう決まったのだ。

 それまでのあいだ、SNS上で作ったグループチャットが細々とにぎわっていた。当日の待ち合わせ時間、待ち合わせ場所、回る場所のプランなどが練られていく。


〈ところで、みんなでUSJ行くってのは無しになったの?〉


 万璃子の発言の直後、純からスタンプが貼られた。ゆるいハムスターが土下座しているイラストだ。


〈ごめんみんな、やっぱり僕はUSJに行けない。そこまでの費用を出してもらえなかったんだ〉

〈え~、そうなの? じゃあ卒業後行こ♪ 黒鉄くん、なんか他にいい案あったら教えてよ〉

〈関西ってか、大阪行きたいんやんな? 梅田に集まって飯食って難波とか〉

〈あ、いいじゃんグリコ! みんなでたこ焼き食べよ!〉


 チャットをにぎわせているのは主に万璃子、純、辰也だった。汐里はスタンプでリアクションをしてくれる。まったく参加する気配を見せないのは悠とユキだった。完全に沈黙しているが、既読がつくので見てはいるらしい。


 みんながやって来る日の前日、辰也は父と一緒に大急ぎで和室を片づけた。マンションの狭い一室だが、布団を詰めて並べれば、三人きっちり眠れるくらいの広さはある。


「おまえが友達つれてくるなんて、ほんまに珍しいな」


 父は感慨深げにつぶやいた。


「あっちでちゃんと仲良くしとるみたいで安心したわ」

「まあ、人数少ないしな。六人しかおらんから」

「そん中で馬が合うっていうのはなかなか無い奇跡やで。大事にしいや」


 父はそう言って笑った。


 いよいよ当日、朝十時に辰也は梅田駅の改札前に向かった。学校にいるときと変わらない、緩いカットソーに黒パンツ、愛用のヘアバンド姿だ。昨夜は学校以外でユキに会うという緊張に突き動かされ、クローゼットの前に仁王立ちして一人ファッションショーをやっていたが、「待ち合わせるならわかりやすいほうがええか」と思い直して結局いつもどおりになってしまった。


「黒鉄くーん!」


 はつらつな声に振り返ると、駅の入り口から万璃子がやってくるのが見えた。汐里も後ろからひょっこり顔を出して手を振る。そしてその後ろから、切りっぱなしのショートボブがちらりと見えた。


「おまえら一緒に来たん?」

「実は昨日から泊まってたの」


 汐里がうふふと笑う。

 汐里と万璃子の服装は、学校とほとんど変わらない。スカートが若干短くなり、髪が丁寧に捲かれ、顔にメイクが施された程度だ。後ろにいるユキのほうは、全身を絶妙に隠していてよく見えなかった。


「もうゆっきー、いつまで隠れてるの」


 汐里が呆れ顔で体をどかそうとするが、ユキはてこでも離れない。


「わたし、もう、帰りたい……」

「どうしてよ。かわいいのに」

「そーだよゆっきー、ほら、早くお披露目しなって!」


 何がなんだか、三人でもみ合っている横から「あ、みんな見っけ!」と明るい声が響き、ユキの動きがぎくりと固まった。


「あ、ほら、残りの二人も来たじゃん。さ、お披露目お披露目」


 万璃子がにやにやしながらユキの腕をぐいぐい引っ張り、ついに汐里の後ろからよろよろと姿を現した。それと同時に純と悠が改札をくぐり、こちらに到着する。

「やっほー、みんな。あ、ユキさん! なんかすごいおしゃれだね」


 ユキは足もとに穴でも開いたみたいに、じいっと下を向いていた。今日の服装はいつものグレーと黒の地味なスタイルではなく、ゆったりした白のブラウスにブラウンのチェック柄ワンピースという、女子大生のようないわゆる量産型女子スタイルだった。まるで汐里のコスプレだ。


「どうしたのユキさん、その格好すごく似合ってるけど」

「……し、しお、しお……」


 純を前に唇も喉も震えて、まともに言葉を発せていない。


「うふふ。私の服を着せてみたの」汐里が楽しげな笑い声をあげた。「ゆっきーったら、せっかく夏休みに遊ぶのに学校と同じ服しか持ってこないんだもの」

「ああ、女子って服の貸し借り楽しそうだよね。僕も辰也のファッション興味あるけど……」


 辰也、と名を呼ばれてはっと我に返る。辰也は慌ててユキから目を逸らしながら「俺の?」とたずねた。


「うん。ほら、僕そういうの持ってないから」

「貸してやってもええけど、たぶんおまえとサイズ合わんで」

「あー、言ったな! ちょっと気にしてるのに!」

「僕は貸さないぞ」


 全員の視線が悠に注がれる。彼は腕組みして純と辰也を堂々と見上げていた。上から下まですべてが黒、背中と胸もとに特殊な英文字がプリントされたカットソーを見、純と辰也は同時に「ううん、大丈夫」と告げた。


「で、俺らこれからどうする? 前に話してたとおり、難波でもうろつくか?」

「そうね。食べ歩きでもしましょ」


 そういうわけで、六人そろって地下鉄に向かった。その道中、ユキはひたすら汐里の腕にすがり、終始肩を小さく丸めて歩いていた。


「ちょっとゆっきー、重いわ」

「……だって、あの、恥ずかしい……」

「何がよ」

「こんな恰好、あの、わたし……」

「みんな着てるじゃない。私とおそろいみたいなものでしょ」

「しおりちゃんはいいの。わたしはだめ……」

「ユキさん、すごく似合ってるよ。ぜひ学校でも着てほしいな」


 純がすかさず振り返り、爽やかにフォローを入れる。


「ね、辰也」


 ああそうやな。――という言葉は瞬時に浮かんだのに、なぜか喉の奥でつかえて一瞬出てこなかった。そのせいで妙な間が空いてしまう。


「……ええんちゃう」

「あれ~、黒鉄くん、なんか照れてる~?」


 万璃子が横から肘でぐいぐい押してくる。


「ちゃう、あんま話聞いてへんかっただけや」

「ほんと~?」

「ほんまやって。ほら、電車来たで」


 六人はやってきた地下鉄に乗り込んだ。夏休みのせいだろうか、車内は普段より人が混み合っていて、六人はばらけざるを得なかった。純は人でいっぱいの車内に終始驚いているし、悠は人の波に押されて吐きそうな顔になっていた。


 ユキはというと、さすが東京育ちだけあり混雑した中でもしっかり立っている。そしていつも通り純を観察する余裕もあった。辰也は人ごみをかき分けてさりげなく彼女に近づき、小さく咳払いする。


「おまえの実家、東京なんやってな」


 電車が走る騒音にまぎれるくらいの声で、そっと声をかけてみる。ユキは辰也をちらりと見上げ、すぐに目を逸らしてうなずいた。


「うん」

「こっちには来たことあるん?」

「ない、と思う」

「そうか。じゃあ、ちゃんと楽しめよ。……計画もあるけど」


 最後の言葉はいっそう声を小さくした。ユキも決意に満ちた顔でこくりとうなずく。

 そう、二人のあいだには密かな計画が立てられていた。この二年生関西プチ旅行が企画されてからすぐに練られたものだった。


「難波は人が多いから上手くいくやろうけど。問題は悠たちやな……」

「わたしが万璃子ちゃんをさりげなく引き離すから、黒鉄くんは朧くんを」

「そうやな。なんか適当にあいつの好きそうなアングラな店に寄せとくわ」

「ありがとう」


 そう言葉を交わし、あとは電車が到着するまで互いに無言だった。


「人が多すぎるよ……」


 電車からなんとか降りられた純は、すっかり汗だくになっていた。


「僕、親の温泉旅行くらいでしか地元から離れたことないから、こんな都会の電車初めてで……」

「大丈夫や。悠なんか見てみ、もう手遅れやで」


 朧悠はうつむけていた顔をわずかに上げ、「僕はすこぶる元気だ」と棒を飲んだように言ったが、顔色はげっそりと青白い。


 六人で地上に上がり、街中に出る。「おおーっ」とはしゃぐ純と万璃子、微笑ましく笑う汐里、無言の悠。その後ろで、辰也とユキはそっと目くばせした。


「こっから先やけど、めっちゃ人が多いねん」と辰也がみんなに声をかける。

「そうだね、はぐれそうだね」

「せやろ。そのたびにいちいち全員が集まってたら時間がもったいないから、一人ではぐれてしもたときだけそいつを捜す、だれかおるときはそのまま観光するってことにしといたほうがええと思う」

「なるほどね」純が真っ先に同意してくれる。

「万一ほんまに一人ではぐれたらすぐ連絡入れてくれ。迎えにいくわ」


 辰也の提案には全員が賛成してくれた。これも、事前にユキと打ち合わせた作戦どおりだった。


 六人は駅前からぞろぞろと歩き出し、道頓堀へ向かった。「あー、グリコじゃん!」と万璃子がはしゃぎながら巨大な看板の写真を撮っている。看板前のえびす橋の上では大道芸人が自転車に乗って奇妙なポーズをとっていて、学生服の集団が一緒に自撮りをしていた。


「なんか、すごいわね。私もこんなところ久しぶりに来たから……」


 汐里でさえも目を白黒させている。


 橋の両側から伸びる通りにはびっしりと屋台がつめかけていて、これぞ大阪と体現するようなごちゃごちゃした様相を呈していた。六人は行列に並んでたこ焼きを食べたり、メロンパンを買ってシェアしたりと楽しく観光していたが、途中でユキが辰也の袖を引っ張った。


「あの……そろそろ……」

「わかってる」


 そう小声でやり取りし、辰也はくるりと振り返った。


「悠、あっちのほうにな、おまえの好きそうな――」


 だが、振り返った先に悠の姿はなかった。前に純と汐里がいるだけだ。万璃子もいない。


「あれ、あいつらどこいった」


 そのとき、四人のスマホが同時に震え、辰也の開いたチャット画面に万璃子のメッセージが届いた。


〈ごめん! 急ですが日本橋に行ってきまーす♪〉


 ソシャゲのキャラであろう、男の子キャラの土下座スタンプが貼りつけられる。そのすぐあとに、


〈朧くんも借りていきます〉


 と続けられ、四人はぽかんと顔を見合わせた。


「日本橋って?」純が問う。

「あー、えっとな……あれや、東京で言うところのアキバとか原宿的な場所。メイド喫茶とかあるし、アニメ関係のグッズの店とかいっぱいあんねんけど」

「ああ、なるほど……」


 みんな瞬時に納得顔になった。


「もしかして、万璃子さんが言ってた『行きたかった場所』って、そこだったのかも……」

「そうやろな。なんで悠までついていったんかわからんけど」

「まあ、私たちは私たちで楽しんだらいいじゃない」


 汐里がたい焼きを上品にかじりながら微笑んだ。

 だが、そんなつもりは辰也たちには毛頭なかった。辰也はうまい具合に三人を誘導し、戎橋商店街の人の海にまぎれさせ、純と汐里から自分たちを切り離すことに成功した。


「ユキ、こっちや」


 ユキに声をかけ、自分たちは戎橋に出て、反対側の商店街まで急いで突っ切る。


「よし、ここまで来れば、あとはスマホの電池が切れたふりでもして――」

「待って」


 ユキが慌てたように辺りを見渡した。彼女の顔がみるみる青ざめる。


「これじゃ、二人のこと、見れない……!」

「え?」

「作戦は二人のデートを後ろから見守ることなのに! ほんとうにはぐれちゃったらそれができないよ!」


 辰也は目を見開き、「……マジ?」とつぶやいた。


「初めにそう言ったのに……!」

「ごめん。ちょい待って、メッセージ送ってみるから……」


 スマホを開くと、案の定純からチャットが届いていた。


〈辰也たちの姿が見当たらないんだけど、もしかしてはぐれちゃった?〉

〈かもしれん。おまえら今どこ?〉

〈うーん……なんかずっと商店街が続いてるんだけど、どこも似てるからわからないや〉


 そのやり取りのあいだに、ユキのメッセージが割り込んだ。


〈二人はそのまま観光してて。初めにみんなで約束したとおり、時間を無駄にしないで〉


 辰也は驚いてユキを見た。


「……ええんか?」


 ユキは不服そうにうなずいた。


「だって、わたしたちを捜させる時間がもったいないし、わたしたちが捜しに出て出くわしちゃったら、もう作戦は使えないし……」

「それもそうやな」


 辰也は改めてメッセージを打ち込んだ。


〈俺らもこの辺うろついとくし、そのうち会うやろ。難波駅に集合な〉


 それだけ打ち込んで、スマホを閉じる。ユキは小さくため息をついた。


「どうしよう、せっかく二人きりにできたのに、邪魔する人が現れたりしたら……」

「ないやろ。どんな邪魔が入んねん」

「それは……その……例えば酔っ払いとかヤンキーとか……」

「おおざっぱやな……酔っ払いはあるかもしれんけど。まあ汐里がしっかりしとるからなんとかなるやろ。あいつもこの辺来たことあるみたいやし、心配すんな」


 商店街を通り抜けたところで、辰也はぐるりと周囲を見回した。幅の広い横断歩道が見え、その向こうに千日前通の看板が見える。


「おまえもせっかく来たんやし、適当に観光すれば?」

「……」


 ユキの顔は曇り切っていて、観光どころではなさそうだった。二人のことがよほど気にかかるのだろう。


「ほら、行くで。いつまでも突っ立ってたってしゃーない」

「……」

「歩いとけば見つけられるかもしれんし……そうや、どっか店に入って、二階席の窓から通りを監視するのも手かもしれんで」


 最後の言葉はようやくユキの耳に入ったようだった。彼女ははっと顔を上げ、こくこくとうなずいた。


「よっしゃ。じゃあそういう店探すか」


 そう言って前に向き直り、横断歩道の手前に立つ。数秒で信号が青に変わった。前から後ろから、人がせき止められた川のように流れだし、人並みが交わる。

 その真ん中あたりに差し掛かったとき、辰也の視界に突如一人の人物が目に飛び込んできた。それはこの人並みの中でたった一人、存在感を示すようにはっきりと輪郭を見せながら、前方から歩いてくる。


「黒鉄くん」


 ユキの呼ぶ声がする気がしたが、もやがかかったみたいに素通りしていく。辰也の視線に呼応するかのように、その人物もまた、顔を上げてこちらを見た。

 英字の入ったぶかぶかのロゴTシャツに、黒いパンツ。ハイカットのスニーカー。背中にはギターを背負っている。彼は辰也の顔に目を留め、一瞬、驚いたように目を見開いたが、すぐさま目を逸らし、隣を歩く年の近い女子に向かって人懐っこい微笑みを浮かべた。

 彼らとすれ違う瞬間、辰也の胸の鼓動はぴたりと止まる。まるで体内の時まで止まったかのように。


「黒鉄くん!」


 反対側の耳から切羽詰まったような声が響き、袖がぐいと引っ張られた。止まっていた血の流れが動き出し、瞼が思い出したようにまばたきする。褪せていた視界の向こうで、信号がちかちかと点滅していた。


「はやく渡らないと!」

「あ、ああ」


 辰也は急いで横断歩道を駆け抜け、向こう岸についた。商店街の入口を背に、もう一度振り返る。


「どうして急に止まったの? こんな人通りの中で止まるなんてありえないよ」

「……ごめん」


 心臓がきゅっと絞められたような感覚の余韻がまだ胸の奥に残っている。自然と呼吸が浅くなり、うまく息ができなかった。


「ごめん。なんか冷たいもん飲みたい。どっか入っていい?」


 そう言うので精いっぱいだった。

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