第11話 夏休みの約束

 だれかを好きだと気づくと、突然視界が変わる。別世界みたいに。


「みんな適宜水分とってね~」


 望月先生の声を背に、二年生は作業着姿で校庭に出て草ぬきをしていた。辰也も顎につたい落ちる汗を手の甲でぬぐいながらせっせといそしんでいる。


「ゆっきー、土、土掘ってるわよ!」


 視界の端で、汐里に突っつかれて我に返るユキの姿が見える。相変わらず純を一心不乱に目で追っていたせいで、草を抜き終え土を掻いていたことに気づかなかったらしい。


「お茶、飲んできたら? 暑さで気分が悪くなったんじゃない?」

「だ、だいじょうぶだよ」


 ユキは作業着を着るとき、髪を耳の後ろでピン留めする。その姿が新鮮で、毎週やってくるこの気怠い奉仕活動時間も苦ではなくなった。


「職人黒鉄辰也さん、そのお姿を一枚収めさせてくださいな」


 いつの間にか、万璃子が後ろでスマホを構えていた。


「は、なんでおまえスマホなんか――」

「あたしは特別に許可をもらってるの。みんなの写真を撮らせてもらって、将来のために活かしたいから」

「いややめろや、俺なんか撮ったって」

「安心して、みんな分け隔てなくあたしの素材だから」

「サイコかよ。マジでやめろって」

「もう撮っちゃった。大丈夫、流出させたり他人に見せたり、そういうのは絶対しないから」


 万璃子はふんふん鼻歌を歌いながら「朧くーん、その絶賛へばってるところ撮らせて」と上機嫌で行ってしまった。


「マジでなんやねんあいつ……」

「辰也、よく撮られてるね」


 抜いた草を集めながら純が苦笑いを浮かべた。


「僕も去年、週刊誌の記者みたいな勢いで撮られてたなあ。辰也も今年はすごいかもね」

「うへー……いざとなったら職員室にクレーム入れるわ」


 そのとき、ふとものすごい視線を感じて目を上げる。

 少し離れたところで、ユキがこちらを爛々と凝視していた。おおかた純と親密に話しているからだろうが、もう腹立たしい気持ちも困惑も湧かない。

 ――そうや、俺を見ればいい。

 純に向けられる視線を少しでも奪えるなら、どんなにキツく睨まれようが構わない。


 翌日、ホームルームが終わって望月先生が去る。一時間目の国語教師が来るまでのあいだ、辰也は机の下で足を投げ出しながら何気なくユキを見た。ユキは頬杖をついて、うっとりと斜め前の純を見つめている。はたからみれば気持ちの悪い光景だが、辰也はなぜか、この顔を見るたびに心臓にぞくりと熱い悪寒が走るのだった。

 純から片時も目を離さない彼女になんだかもどかしい気持ちになって、辰也はおもむろにペンケースを漁った。


「あー、ないわ」


 そうわざとらしくつぶやき、左隣へぐっと身を乗り出す。


「なあ、シャー芯持ってくんの忘れてんけど、余ってたらくれへん?」

「……」

「おい」


 うっとりと頬杖をついていたユキの眉間が、きゅっと皺をつくる。


「いやです」

「え、なんて?」

「いやです」

「シャー芯なら、僕のあげるよ」


 能天気な声が割り込んで、辰也の視界にシャー芯のケースがぬっと現れる。いつの間にか純がにこにこ顔でこちらを振り向いていた。


「BとHB、どっちがいい?」


 彼はなぜ二種類持っているのだろう。そんな疑問が浮かんだ瞬間、反対側の視界から「HB」の文字がぐぐっと至近距離に表れた。


「わたしのあるから、どうぞ使って!」


 ユキの迫真の眼力が間近に迫る。彼女はケースから芯をどばっと取り出して、辰也の机に勢いよくばらまいた。


「はい、ほら、どうぞ!」

「いや、こんなばらまかれても……」

「それだけあれば、当分はだれからも借りなくて済むでしょ」

「おまえ俺をなんやと思てんねん。一本でええわ」

「あはは。ふたりとも仲良くなったんだね。なんか嬉しいな」


 純が朗らかに言った瞬間、ふたりは同時に口を開いた。


「仲良くない!」

 



 辰也は相変わらず放課後になるとギターを持って裏山に行った。あれほど嫌だったのに、思い出すだけで苦しかったのに、毎日のようにギターを触っている自分が信じられなかった。だがその動機の半分以上はユキが歌いに来てくれるからだ。初めはそんな自分にもやもやしたが、この「雑念」がモチベーションになると気づいてからは、素直に受け入れられるようになった。


 ユキの声は、自分の汚れた音を洗い流してくれる。死んでいた音をよみがえらせてくれる。


 弾きながら、ふと思う。ユキは今、どんな気持ちで歌っているのだろう。

 初めの一回だけならただの気まぐれにすぎないとも考えられるが、この習慣がここまで続くと、気まぐれなどでは決してない。誰の音かもわからないギターのために、どうしてわざわざ、何度も足を運んでくれるのだろう?

 ユキはここにやって来ても、歌わずに黙って座っているときがある。でも旋律に合わせて体を小さく揺らしていて、ちゃんと聴いてくれているのだとわかった。少なくとも、彼女はこのギターの音を気に入ってくれているのだ。


 ――言いたい。

 今、おまえが懸命に耳を傾けているギターの音は俺が奏でているのだと暴露してしまいたい。だが衝動に駆られるたびに、冷静な自分が戒める。「調子に乗るな」と。


 きっと、これが黒鉄辰也の音だと知ったら、もう二度と来てくれない。

 だから黙って、顔を見せずに弾くのだ。彼女が関心を寄せてくれているうちに、彼女の奇跡的な歌声を耳に刻みつけておきたかった。



 最近、幸せすぎて頭がおかしくなりそう。

 海開きのとき、純くんの水着写真を密かに撮りためられたし、放課後はほとんど毎日純くんのギターを聴ける。

 スマホの許可制度だけは改善してほしいなとずっと思ってる。授業中や調理中の姿が撮れないから。将来のためにと特別に許可をもらってる万璃子ちゃんが羨ましい。わたしも撮りたいのに。

 そうだ、今度、裏山でギターを弾いてるところをこっそり撮ってみようかな。

 最近ますます弾き方に磨きがかかってて、本当にすごい。あの音も録音したいな。綺麗で、爽やかで、でもどこかちょっと……寂しい感じの音。哀愁って言うのかな。あの音を聞いて眠れたら、きっとそのまま昇天できる。

 ギャランナのCD、もっと聴きこんでおかなくちゃ。

 ああ、幸せ。毎日が純くんでいっぱい。幸せ。幸せ。幸せ。……



「え待って、あと一か月で夏休みじゃん」


 朝、教室いっぱいに万璃子のキラキラした声が響く。望月先生がにっこり笑った。


「そうよ~。たーっぷり課題出すから覚悟しといてね?」


 うげー、と呻く万璃子の声を耳に素通りさせながら、ユキは純の姿をぼんやりと見つめていた。


 ――そっか、あと一か月で、純くんに会えない日常が来る……


 最近、純が裏山でギター練習をしてくれる頻度が多くなり、平日のその時間を密かに楽しみにしていたのだが、それすら聴けない夏休みなど無の地獄に等しかった。


「みんな、夏休みの計画しっかり立てとくのよ? 高校二年生の夏休みなんて、ぼーっとしてたらあっという間に終わっちゃうんだから」


 とホームルームが締めくくられ、望月先生が去っていく。次の授業の教師が来るまでのあいだ、教室内は夏休みの話題で賑やかに湧いた。


「あたし、今回の夏休みは大阪に行こうと思ってるんだよね」

「大阪? マリちゃん、何か用事でもあるの?」

「うん。前からずーっと行きたかったんだ。同人誌関係のディープな店がいっぱいあるからさ。東京は何度も行きすぎて定番化しちゃったから、今年こそと思ってて」

「ああ、なるほどね……私も実は今年、関西に行くのよ。おばあちゃんのお家があるから」

「え、しおりんのおばあちゃんちって関西なの? あ、てか、関西っていえば黒鉄くんじゃん!」


 万璃子は突然ひらめきが降りたように目を見開いた。


「ねえ、みんなで関西行っちゃわない?」


 ユキの視界の端で、辰也がぎょっとしたように万璃子を見た。


「え、なんで?」

「だって楽しそうじゃん。USJとかいろいろあるし、みんなで回れたらなって」

「まあ確かにいろいろあるけど――え、マジで来るんか?」

「行こうよみんな! しおりんの帰省を合わせればいい感じに実現できると思うけど」

「いいわね」


 なんと汐里もすぐに賛成した。


「女子限定になっちゃうけど、うちに泊めてもいいか、おばあちゃんに聞いてみるわ」

「え、いいの? やったー!」

「僕も行ってみたいな、関西」


 純まで目をキラキラさせはじめた。秋田犬モード突入だ。


「僕、一度も行ったことないんだよね。本当に未知の世界だよ」

「マジかよ。じゃあ来いよ。親父に言っとくから家に泊まってええで。悠は?」


 悠は長い前髪の下でむずがゆそうな表情をつくった。


「僕は、別に、そういうのは……」

「あ、朧くんも来て」


 万璃子が前の席から振り返り、悠の机をこんこんと叩く。「個別にお願いしたいことがあるから」


「な、なんだ、いったい……」

「それは来てくれてからのお楽しみ」

「ユキは?」


 辰也がこちらを振り向き、ユキは反射的に硬直した。


「来るよな?」

「……う、うん」


 純が行くと言い出した時点で答えは決まっていた。ただ、自ら名乗りを上げるのが気恥ずかしかったのだ。


「いいのかな……あの、しおりちゃんのおばあちゃんのお家なんて」

「たぶん大丈夫よ。古い家だから空き部屋もあるし」


 こうして、二年生の関西旅行計画が順調に立てられていったのだった。

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