第9話 夢のあとで
がばりと上体を起こす。寮の自分の部屋のなかで、荒い息だけが響いていた。
カーテンの隙間から明るい陽が差している。時計を見ると午前八時を差していた。平日なら立派な寝坊だが、今日は土曜日なのでむしろ早起きの部類である。
「……はー……」
背中から力なくベッドに倒れこむ。右腕で目元を覆い、深く息を吸って吐いた。だが、心臓の鼓動は未だ強く鳴り響いている。
『黒鉄くん』
ユキの囁くような声が耳元によみがえって、胸の奥がずきんと痛んだ。頭を振って無理やり追い出そうとしても、夢の中の彼女の顔が勝手に思い浮かんで離れない。
ユキは、純に向けるはずの顔を自分に向けてくれていた。夢の中でだけ……束の間の短い時間だけ、あの教室は二人だけの空間だった。……
思い出すたび、胸の奥が苦しくなる。むずむずとした痛みがある。その痛みを何度も胸に刻んでいる自分がいた。
「……嘘やろ」
――絶対、違う。違う。昨日、彼女に不意に触れてしまったからだ。そうに違いない。これは断じて、そういう感情じゃない。
両手で頬をパンと叩き、勢いよく起き上がる。冷たい水で顔を洗って朝食でも食べれば、邪念は消えるに違いない。
「黒鉄くーん!」
がらんとした食堂を訪れると、奥のテーブルで万璃子がぶんぶん手を振っていた。朝食をすでに食べ終えたのか、万璃子はテーブルにスケッチブックを開いている。
そしてその隣には、なぜかユキがいた。
「……おぉ」
声が上ずりそうになるのをすんでのところで押し留めた。
「黒鉄くん、ちょうどよかった! 今ひま?」
「なんで?」
「ちょっとお願いがあって。こっち来てくれない? すぐ済むから。あ、朝ごはん持ってきていいよ!」
いったい何の用事だろう。訝しみながらもパン皿とカップを手に万璃子のいるテーブルに向かうが、なんとなく顔を上げられなかった。
「なんなん、急に」
「ちょっとスケッチさせてほしいんだよね」
「スケッチ?」
「そうそう。ここで待ってたら黒鉄くん来るかなーと思って待ってたんだ。あ、ついでにゆっきーにもモデルになってもらってるんだけど」
「わたし、朝から叩き起こされたのに、ついでなの……?」
ユキの悲痛な声は思いきり無視された。
「黒鉄くんを初めて見たときから、マジで理想的な体してるなーと思ってたんだよね」
「はあ」
「この手とかさ! 鎖骨とか顎のラインとかさ、この骨ばった感じがめっちゃ少女漫画的ヒーローの理想そのものだから、一回モデルになってほしいんだ。お願い、このとおり!」
万璃子がぱんと両手を合わせて頭を下げる。
「いやでも、俺そういうのよーわからんし……じっとしてなあかんねやろ? 苦手やねんけど」
「ううん、普通に朝食食べてくれていいよ。雑談しても笑っても怒っても昼寝してもいいから、とりあえず目の前に座っててほしいんだよね」
「そんなんでええんかよ。でも俺……」
ただでさえ絵のモデルなど気恥ずかしいのに、ユキもいるというのがどうしても落ち着かなかった。
「俺じゃなくても、似たような体形の奴いっぱいおるやろ。足立さんとか」
「足立くんはもう去年さんざん描いたよ」
「マジかよ」
「とにかくお願い! ……えーと、明日女子寮でイーコンに買い物いくから、ケーキとかお菓子とか、好きなのおごるよ!」
「べつにおごるとかはいらんけど……てかイーコンて何」
「お願いします、将来の有名神絵師を助けると思って、このとおり!」
もう一度あらためて深々と頭を下げられる。女子にここまでされて、つっぱねる根性は辰也になかった。
「……まあ、ちょっとだけやったら。そんな長いことおるつもりないけど」
「わーい、ありがとう! やったやった!」
おもちゃを買ってもらう子供のような喜びようで、万璃子はさっそくスケッチブックの新しいページを開いた。
「シチュエーションイメージもしたいから、ゆっきーも隣に座って」
「ふぇっ」
「なんにもしなくていいからさ」
ユキがしぶしぶ席を立ち、隣の席に来るまでのあいだ、辰也は妙な蒸し暑さを肌に感じていた。急に気温が上がったみたいだ。
「この体格差がちょうどいいんだよね~」
万璃子はご機嫌でペンを動かしている。辰也は決してユキのほうを見ないように、ひたすら食パンを咀嚼することに努めていた。そのせいであっという間になくなってしまい、気まずい手持無沙汰の時間がやってくる。
「なあ、イーコンってなんなん」
「あ、もしかして関西にないのかな? ショッピングモールだよ。ここから山を下って麓にあるんだけど、片道一時間半はかかるんだよね」
「は? 一時間半?」
「うん。ほんっと、ひどい立地だよね~」
山と田畑しかないと思っていたこの大地に、ショッピングモールがあるというのも驚きだが、女子だけで一時間半もかけてそこへいくというのもかなり衝撃だった。
「バスとかないん?」
「あるわけないじゃん。タクシーも校則でダメだしね」
「マジかよ。よー行くわ、そんなとこ」
「黒鉄くんももうしばらくここでの休日を味わえばわかるよ。することなくなったら行きたくなるもん。『シャバの空気!』って感じするよ」
万璃子がよく喋る性格で助かった。隣のユキの存在をあまり意識しなくて済む。
「てか黒鉄くん、大丈夫?」
「何が」
「ちょっと顔赤くない? 熱でもあるの?」
「……普通にもう夏やし、暑いからやろ」
「ふーん……」
万璃子のこちらを見る目が、すうっと細くなる。だがすぐにぱっともとに戻り、再びペンを動かし始めた。
「そうだ」
万璃子がぴたりと手を止め、顔を上げた。辰也とユキを交互に見やり、二人のあいだに開いた微妙な距離感に目を留める。
「あのさ、もうちょっと寄ってくれない?」
「え」
「いいから、寄って」
有無を言わせず、両手で席を合わせるようジェスチャーする。辰也は思わずユキを見下ろし、すぐさま目を逸らした。
「……こうか」
席をわずかに左に寄せる。ユキも、ほんの数ミリほど右にずれた。ものすごく嫌そうに。
「うーん、まあいっか。それでオッケー」
再びペンをざかざかと動かしていく。ただ二人並んで座っている光景をどんなふうに絵描いているのか気になるが、残念ながらこちらからは見えなかった。
「よし、じゃあ次、二人とも手を出して」
「手? どっちの?」
「どっちも出して」
言われるがままに両手を出すと、彼女は二人の手をじっと見比べ、おもむろに辰也の右手首とユキの左手首をつかんだ。
「ちょ、何す――」
「ちょっとのあいだ、こうしてくれる?」
つかんだ二人の手をぴたりと合わせ、ぎゅっと手をつながせた。
「――っ」
反射的に手を思い切り離してしまった。ユキも呼吸が止まったようなひどい顔をして固まっている。
「いきなり何すんねん!」
「ま、万璃子ちゃん……」
「ちょっとふたりとも、勝手に離さないでよ! ちゃんと繋いでくれないと描けないじゃん」
万璃子は不満げに身を乗り出し、もう一度二人の手をつなぎ合わせる。
「君たちは今、あたしのモデルなんです。イーコンのケーキで二人の時間を買ってるんだから、値段に見合う働きをしてください」
「は――」
「それとも、二人はモデルでそういうポーズを取るのも気恥ずかしい関係なの?」
そんな言い方をされると、何も言い返せなくなってしまう。
「安心してよ。ちゃんといいお土産買ってくるから」
にっこり笑って、万璃子は二人の手から手を離す。そうして再びペンを取った。
「あー……このサイズ感、最高……二人に目をつけて正解だった……」
万璃子のぶつぶつ言う声は、自分の心臓の鼓動にかき消されて耳に入らない。
左に座るユキと、右手で手をつなぐ。すると体も自然と左を向いてしまい、油断すると視界にユキの顔を捉えてしまいそうになる。それだけは避けたかった。あんな夢を見てしまったせいで後ろめたさも相まって、緊張に手が汗ばんでしまう。
「なあ、おい、これいつまでかかんねん」
「もうちょっと。いろんな角度で描いときたいし」
「ほかの人に見られたら、変な誤解されそう……」
ユキの心底嫌そうなその一言が、胸にぐさりと突き刺さる。
「……ほ、ほら、ユキも言うてるやろ」
「大丈夫だいじょうぶ。去年、足立さんと時恵さんでやってもらったし、純くんとしおりんでもやってもらったよ。いろんな手のサイズ感のパターンがほしくてさ」
サイズ感、と言われて、初めてユキの手の小ささに意識が向いた。辰也の指は、ユキの手の甲の半分以上を覆ってしまいそうだった。
「てか、黒鉄くんの手が綺麗すぎるんだよね。骨の浮き方が芸術品みたい。適度に日焼けしてるし、ゆっきーの真っ白さとの対比がエモい」
「はあ……」
「純くんも白くて細いから、ゆっきーと合いそうだなーと思ってお願いしたことあるんだけど、ゆっきーが死ぬほど嫌がったからできなくて――」
「あ、あれは! だって! そんなの……っ」
思わず彼女の顔を真正面から見てしまった。必死になって訴えるユキの顔と万璃子の発言が頭の中でまじりあう。
純とはできなくて、辰也とはいやいやながらもできる。その大きな違いに、胸に穴が空いたような底冷えがした。
今日の自分はどうかしている。胸の中でよくわからない感情が暴れて抑えられない。気づけばユキの手を離していた。
「もうええやろ。寮帰るわ」
「えー、待ってよ、まだ描き足りないんだけど」
「もうじゅうぶんやろ。あとはほかの奴に頼めや」
皿を片手に席を立つ。食堂から洗い場に出るまで、一度も振り返ることはなかった。
寮に戻ると、足は自然と談話室に向いていた。ギターケースを手に部屋を出るが、裏山に行く気はしなかった。
もしもユキが来て、また一緒に歌ってくれたとしても、今の自分に冷静でいられる自信がなかった。とにかくこのおかしな気持ちを一刻も早く鎮めてしまいたかった。
自室に戻り、ベッドに座る。ケースからギターを取り出して構える。それだけの動作のあいだに、頭が少しだけクリアになった。
――なんでもいいから、弾こう。
指が思い出すままに弦をつまびく。静かで穏やかなアルペジオが流れ、自然と鼻歌まで出ていた。
弾きながら、これはなんの曲だったかと考える。たぶんどうせギャランナだ。歌詞が自然と頭に浮かんできた。
寝たきりになりたい
肺呼吸と点滴だけの人生を送りたい
目をつぶらなきゃ 見えない景色がある
目をつぶらなきゃ 君は笑ってくれない
『黒鉄くん』
夢の中で、彼女はあの顔を自分に向けてくれた。
夢から一歩出れば、彼女の視界に自分はいない。
ああそうか、と口から言葉が衝いて出た。同時に、絶望で喉が塞がれそうになった。「違う」という心の声は息をひそめて出てこなかった。
弦をつまびく手を止める。じっと自分の手のひらを見下ろした。
じっとりと汗ばんだこの手のひらに、柔らかく合わさった細くて白い手。その感触をもう一度思い出したくて、無意識に自分の手をつかんでいた。固くて骨ばった味気ない感触に心が萎えた。
*
「辰也、明日、買い物に付き合ってくれないかな」
夜、歯を磨いていると純が話しかけてきた。
「買い物? どこに」
「イーコン! あ、イーコンっていうのは、ここから一時間くらいの距離にあるショッピングモールなんだけど……」
「ああ」
「来週、足立さんの誕生日なんだ。ルームメイトだし、なんか好きそうなものあげたくて。辰也もよければつきあってほしいんだ。悠は生徒会で無理みたいだし」
「別にええけど……」
明日は女子寮も行くらしい、とは、なんとなく言えなかった。
「よかった! 男子は二人以上じゃないと外出許可降りないから本当に助かったよ。じゃあ明日、早めにお昼を食べて、十一時に出発しよう」
上機嫌で歯ブラシを取る純を視界の端に捉えながら、辰也はぼんやりと鏡を眺めていた。
女子の出発が二時間くらい遅れてくれれば、被らなくて済むのにと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます