第8話 海開き

 翌日の午前十時。空はからりと快晴で、日差しの強さと圧がすごい。海開きの場所はバスで二十分ほど行ったところにあった。停留所から海岸まで坂になっており、その先の石段を下りれば広い砂浜に出る。


 女子たちはいち早く降りて、手すりのそばで大はしゃぎしながらスマホのカメラを構えている。こういったレクリエーションの時間はスマホの持ち出しを許されているのだ。せっかくなので辰也もポケットからスマホを取り出した。手すりの向こうに見える、目の醒めるような深い青を画面に収めて構える。

 画面の角度を慎重に調節して、シャッターを切ろうと画面をタップしかけた瞬間――


「ゆっきー、こっち来て、一緒に立って!」


 万璃子がユキの腕を引き、手すりのそばに連れてくる。恥ずかしそうにはにかむ彼女の顔を端に捉えたまま、シャッターが下りた。


「……」


 黙って、撮れた写真を見つめる。

 まっさらな海原を撮りたかったのだから、これは失敗だ。だがなぜか、その場で消す気にはなれなかった。


「海、撮れた?」


 後ろから純が覗き込んできて、辰也は慌ててスマホを伏せた。


「お、おお。ほんま綺麗やな」

「ね! さ、海岸行こ。下にロッカールームがあって、着替えられるからさ」


 純の言うとおり、坂を下りたすぐ横に、小さな四角い建物があった。簡易的なロッカールームだ。男女分かれて着替えに入る。

 男子の着替えなどものの数秒で終わる。脱いで穿く、それだけだ。悠は肌が弱いとかで、全身に日焼け止めを塗りたくっていた。「女子かよ」とからかうと、怨念のこもった凄まじい眼で睨まれる。


 案の定、外に出ると女子たちはまだ出てきていない。暇を持て余した男子たちがさっそくビーチボールを持ってきて、近くの者にゆるゆるとパスを始めている。辰也は海岸に据わった大きな岩にもたれかかって、ぼうっと波打ち際を眺めていた。


 こうして海に来たのは、いつぶりだろう。

 関西にいたころは暇さえあればギターに打ち込んでいたので、かなり久しぶりに感じる。

 そのうち、男子たちがざわつく気配を肌に感じ、辰也は顔を上げた。


 ロッカールームから女子たちが一斉に出てくるところだった。校則で上着を着なければならないので、みんなジャージの上や薄手のパーカーを羽織ってはいるが、思い思いに着てきた水着はしっかりと見える。汐里は白のホルターネック、万璃子は前情報通り、ピンク地のフロント部分に大きな白いリボンがついている。


「やっぱ汐里ちゃんかわええーっ!」

「万璃子ちゃんあざとい、いい!」


 三年生がぐっと拳を突き上げている横で、辰也はひとり、ある一点を無意識に目で追っていた。

 汐里の後ろで、隠れるようにしておずおず歩いている、ユキの姿を。


「もう、ゆっきーってば、私に隠れないでよ」


 汐里が無理やり引きはがす。


「そうそうゆっきー、上にTシャツ着てるんだから恥ずかしいも何もないじゃん!」


 ユキは白いロングTシャツを着ていた。裾をひっぱりながら、もじもじと落ち着かなげに「だって……」とつぶやいている。


 ――Tシャツかよ。


「なんて?」


 純が聞き返してきたので、辰也ははっと口をつぐんだ。心の声が思わず漏れていたらしい。


「なんでもない」


 海開きは生徒会主催のイベントで、彼らが海での注意事項や遊泳範囲の説明などを語ってくれた。辰也はここで初めて悠が生徒会の書記担当だと知った。


「おまえ生徒会かよ。意外すぎるわ……」

「君はちょくちょく失敬だな。言っておくが、僕は現会長からスカウトされたんだぞ」


 現会長とは、小麦肌にポニーテールの三年生女子だった。後藤時恵――ユキのルームメイトだ。


「彼女が僕のタイピング検定を知ってオファーをかけてきたんだ」

「何その検定、初めて聞いたわ」

「君は本当につくづくまったく……」

「辰也、悠! ふたりともこっちで一緒にバレーやろうよ!」



 純がにこにこ顔で手を振っている。その向かいには足立も立っていて、思わず苦笑してしまった。


「ここでも試合するんすか」

「だって純がさあ、バスケはあれだけどバレーなら負けないとか言うから~」

「純って意外に負けず嫌いなんやな……」

「いいじゃない、お願いふたりとも! 僕のチームに入って!」


 純が両手をぱんと合わせて懇願する。だが悠は「僕はパスさせてもらう」とそっけなく言って岩場のほうへ行ってしまった。一応観戦する気はあるらしく、砂の上に足を投げ出して座っている。


 ビーチバレーのメンバーには後藤時恵も加わった。――嫌そうな顔のユキを無理やり引き連れて。


「よろしくね、ユキさん」


 純に声をかけられ、ユキはもじもじと視線をそらした。


「う、うん……」


 四人制で行うため、チームも四人ずつに分けられる。一年生からもメンバーを募り、適当に分かれてみたものの、足立が速攻で「ずるくない?」と言い出した。


「後藤さんがたっちゃんのチーム行くの、絶対やばいっしょ」

「いや、俺そんな強くないっすけど。普段インドア派なんで」

「何言ってんの? このあいだのバスケのこと、ぼく忘れてないからね?」


 足立はまだ根に持っているらしい。結局、なんやかんやで時恵は足立チームに入り、一年生が二人入った。純のチームは辰也にユキ、背の高い一年生男子だ。彼が悠のルームメイトで、悠の言動にも動じず淡々と掃除をこなしていた姿を思い出した。


「ゆっきー、頑張ってね!」


 汐里の声がすぐそこから飛んでくる。


「ちょっと汐里ちゃん、公平に審判してくれよ~」

「わかってます。じゃ、笛吹きまーす!」


 笛の合図で試合が始まる。純のサーブでボールが動き出した。

 はっきり言って、辰也はバレーを知らない。ましてビーチバレーなどしたことがないので、砂に足を取られて思うように動けない。足立がばねのようにぴょんぴょん飛び跳ねているのが信じられなかった。


「あれ~、たっちゃん、思ったより動けてなくない?」


 ネットの向こうから意地の悪い声が飛んでくる。


「だから、俺あんましやった経験ないって言いましたけど!」

「あはは~、なあんだ、後藤さんそっちに貸してあげればよかったね~」

「こら、私を兵器みたいに言うんじゃない!」


 後藤時恵は見た目を裏切らない抜群の運動神経を見せつけてくる。点差はどんどん開いていくばかりだった。


「みんな、大丈夫! 最後まであきらめないで頑張ろう!」


 少年漫画のお手本のような純のセリフに、奥に控えていたユキの目がきらりと光った。

 やがて足立が渾身の一球を打ち込んでくる。それをかろうじて辰也が打ち上げた。一瞬、ひゅうと勢いよく海風が吹きつけ、ボールは弧を描いて海側へ飛んでいく。


「あっ――」


 その瞬間、ユキが飛び出した。体を前のめりにしてボールに手を伸ばす。


「ユキさん、危な――」

「ユキ!」


 嫌な予感がしたと同時に、辰也の足が動いていた。眼前でユキの足が砂浜にとられ、つんのめるのがスローモーションで見える。手を伸ばして、彼女の腕をつかんだ。だが持ち上げることができず、二人とも波打つ海水に倒れこんでしまう。


「――っつ」


 辰也の腹に、柔らかな重みが乗っている。それが慌てたように離れて、辰也は染みる両目を開けた。

 眩しい陽の光を背に、ユキの顔が至近距離にあった。そしてようやく、自分が間一髪で彼女の下敷きになれたのを理解した。



「ど、どうしよう、ごめんなさい、黒鉄くん……!」


 血相を変えて口走るユキを見上げ、辰也はぼんやりと口を開く。


「……大丈夫かよ」

「え?」

「怪我、してへんか」

「し、してない……わたしじゃなくて、黒鉄くんが……」


「辰也、ユキさん!」

「たっちゃん、おーい、生きてる~?」


 他のメンバーの声がして、ユキは辰也の上から飛び退き、しりもちをついた。


「だめだよユキさん、あんな無茶してボール追いかけたら!」

「でも、ボールが取れなかったら、試合が……」

「そんなの怪我してまで勝つものじゃないでしょ! 辰也も辰也だよ、砂浜だったからよかったけど……」


 辰也はゆっくりと起き上がった。しょぼくれた顔のユキをぼんやりと眺める。


「純くんごめんなさい、結局取れなくて……」

「いいんだってば。 怪我がないのが一番なんだから」


 ――俺の心配はもう終わりかい。

 

腹の底の薄暗いところが、妙にいらいらした。


「……あー、変なとこ打ったかも」


 わざと聞こえよがしにつぶやくと、ユキははっとこちらを向いた。


「あの、本当にごめんなさい……」

「腰いわしたかもなあ」

「すぐに養護の先生を呼んでくるから」

「嘘や。どこも痛ないわ」


 しれっと言い放ち、ユキの手からボールを奪い取る。


「試合、どうするんすか? 中止っすか?」

「二人がよければこのまま最後までやるよ~。でも、ふたりともびっしょびしょだから、ちょっと拭いてきたほうがいいんじゃない?」


 足立が提案してきたときには、汐里がすでにタオルを持ってユキの頭に被せていた。


「顔まで海水まみれじゃない。日焼け止め、塗り直したほうがいいわよ」

「そ、そうしようかな……ごめんなさい、わたしはちょっと抜けます」


 申し訳なさそうに言って、ユキはタオルで顔を拭いながら立ち上がる。その姿をなんとなく目で追った辰也は、その場に座ったままぎょっと目を剥いた。


 ユキの濡れたロングTシャツが肌に張りついて、下から水色の生地が透けて見えている。日差しに照らされ、白い水玉模様までくっきりとあらわになっていた。背中で結んでいるリボンの形も、腰や背中の肌の色も――

 小走りにロッカールームへ急ぐユキの姿を、その場にいた男子たちが揃って目で追いかける。みんなが何を凝視しているのか、口にせずともわかる。


「あれ、朧くん? 鼻血出てるよ鼻血!」


 万璃子の声につられて岩場を見れば、悠が鼻から血を流しながらユキを見つめていた。


 ――バカ、見るなボケ!


「え、なんて?」


 純がこちらを振り返る。辰也は慌てて口をつぐんだ。


「なんでもない……」



 その晩、辰也は夢を見た。

 昼間のひと気のない教室で、自分の席に座っていた。妙に蒸し暑くて、着ていたシャツのじっとり汗ばんだ感触がやけにリアルで、それなのに不思議と「これは夢だ」という意識があった。


 ふと、左隣から強烈な視線を感じて首を振り向ける。


 ユキと、目が合った。


 椅子に座る彼女は全身ずぶぬれで、白いTシャツの下から水着が透けて見えていた。胸に張りついた布地がくっきりと大きな膨らみをあらわにしていて、目を逸らさなければと思ったのに、逸らせなかった。


「黒鉄くん……」


 ユキの囁くような声がやんわりと響く。頬を染めて、口を小さく半開きにして……いつも純に向けているあのだらしのないうっとり顔が、まっすぐこちらを見つめている。


 ユキがじわじわと身を乗り出してくる。その顔が近づけば近づくほど、心臓がばくばくと速くなって、全身の血がカッと熱を帯びるような感覚がした。


 彼女の顔がいよいよ数センチの距離まで近づいたとき、辰也の心臓が爆発した。

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