第7話 夜中の試験勉強

 六月の末に期末試験が控えている。二週間前にもなると、転校してきたばかりの辰也にも学校内の空気が何となくぴりついているのがわかるようになる。


 放課後になるとすぐバスケやサッカーに誘ってくる純も、「そろそろ本格的に勉強しなきゃだね」と言い出すようになった。


「言うて、まだ二週間もあるやん。そんな焦らんでええやろ」

「いや~……僕、数学が苦手だから、ちゃんとしときたいんだよね」

「真面目かよ、クソ」


 こうして、純は図書室にこもるようになった。図書室は普段、寮の門限まで開かれているが、テスト期間に入ると消灯時間ぎりぎりまで開くようになる。図書室利用の場合のみ、夜間でも寮の出入りが可能になるのだ。


 周囲の勉強の邪魔になるからと、楽器の使用や体育館での球技は一時的に禁止される。特に楽器利用の制限は辰也にとってかなりのストレスだった。あの日、ユキの歌声に心を奪われた日から、調理当番のない放課後は山に登ってひそかにギターを弾くのが日課になっていたからだ。彼女も時折ふらりと訪れては、少しだけ歌ってくれるようになっていたのに。テスト期間が明けたら、彼女はもう来なくなるかもしれない。


「あー……クソ、マジでテストがくそすぎる」


 ぶつぶつ呪っても仕方がない。強制的に勉強しかできない環境にされたなら、おとなしくそれに倣うほかないのだ。


「なあ、テスト勉強って、みんなどこでやるん」


 夜、洗面所で歯磨きをしながら尋ねると、純は「えーと……」と少し考えた。


「だいたいは自分の部屋だけど、図書室とか、空き教室とか……あと山籠もりしてる人もいるね」

「山籠もり?」

「うん。後ろの裏山、ちょっと坂道をのぼったら休憩スペースがあるんだ。涼しいからってそこでやってる人もいるよ」


 ああ、あの東屋か、と納得がいった。あそこは静かで涼しくていい場所だ。少しはやる気も出るかもしれない。そう思って翌日出向くと、すでに先客がいた。

 三年生の男女が二人、仲良く身を寄せ合っている。……というより、明らかにいちゃいちゃしている。

 ――付き合ったらあかんのとちゃうんかい。


 堂々とした校則違反を目の前にすると、気分もげんなりしてしまう。辰也もとくにそういったルールを守るタイプではないのだが、他人のいちゃつくシーンなど見たくはない。かといって自室にこもっても、ベッドに寝そべってうたた寝してしまう。空き教室もダレてしまいそうだ。


 辰也が最終的に頼ったのは、図書室だった。あの厳しい空気と人目が苦手で、普段なら決して寄り付きはしないが、今ならそれが自分を律してくれる気がした。


 夕食後、辰也は図書室の扉を開けた。この小さな学校にそぐわぬほどの広々とした空間と迷路のように張り巡らされた本棚のあいだを縫うように、ぽつんぽつんと机やカウンターが設置されている。テスト勉強に訪れている生徒の姿もちらほら見かけた。そのどこに座ろうかとうろうろしていたとき、ふいに足が止まった。


 本棚と本棚のあいだの突き当り、窓に面したカウンターに、ものすごく見知った後ろ姿がある。切りっぱなしのショートボブと小柄な背中。邪魔しちゃ悪いなと早々に退散しかけたとき、なんだか嫌な予感がしてもう一度振り向いた。


 ユキはカウンターのサイドパネルに隠れるように背を丸めている。が、たびたびそーっと顔を出しては、パネルの向こうを覗き見ているのだ。

 何をしているのか、この不審な動きを少し見ただけでわかるようになってしまった。呆れを通り越して笑ってしまう。本当に吹き出してしまい、彼女は瞬時にこちらへ首を振り向けた。


「……!」


 辰也の顔を見るや否や、みるみる真っ青になって口をぱくぱくさせる。もうすっかりお馴染みの反応だ。辰也はまっすぐユキのそばまで歩み寄り、パーテンションの向こうを覗き見た。


「やっぱりな」


 窓に面したカウンターは、図書室を囲うようにぐるりとつながっている。二席ずつ小さなパーテンションで区切られていているのだが、右側、何席か飛び越した座席に、純がいた。隣に汐里もいる。ふたりは真面目に机に向かっているようだが、時折何事かひそひそと言葉を交わしては、楽しげに笑っていた。


「……ほんま、こんなとこでイチャつくなよなあ」

「く、黒鉄くん……なんでここに……」

「そら、俺だって勉強くらいするし」


 少なくとも、しようかなくらいの気持ちで来たのだ。


「おまえこそ、こんなときでも純をストーカーするんやな」

「……悪い?」

「だから開き直んなや」


 ユキの隣の椅子を引き、どかりと腰を下ろす。途端に彼女は目を丸くした。


「あ、あの、なんで……」

「おまえ、割と勉強できるやろ。教えてや」


 いつもハの字に寄っているユキの眉が、ことさら迷惑そうにきゅっと皺を寄せる。


「なんでわたしが……」

「どーせおまえ、純ばっか見て勉強にならんやろ。俺に教えたほうがためになるやん」

「他の人に頼んでください」


 そそくさと腰を上げた彼女に聞こえるよう、辰也はぽつりとつぶやいた。


「……純に言おかな」

「! ――なんで、そんな」


 ユキは慌てたように椅子に戻った。


「前は、言わないって……言うこときくからって約束で……!」

「俺が約束したんは、おまえが純を好きやっていうのを黙っとくことやろ。覗きに関しては別件や」

「お、横暴……!」


 横暴だという自覚はとっくにあった。自分でも自分の発言に驚いている。どうしてユキにここまでつっかかってしまうのだろう。


「『おー純、なんか図書室行ったらユキがおってな、おまえのこと隠れてこそこそ熱心に見つめててんけど、なんでやろなあ――』」

「しーーっ! しーーーーっ!」


 顔を真っ赤にして息を荒げるユキを、してやったりな笑顔で見下ろす。


「教えてや。俺、特に英語と理科がマジで宇宙語やから」

「……」

「てか、ノート見して。その日やらんやつでええから、一冊ずつ放課後貸してくれへん?」


 その瞬間に彼女が見せた絶望的な敗北顔を、忘れることはできそうにない。




 寮の門限が近づくと、純と汐里が勉強を切り上げた。消灯時間まではやらないらしい。二人が去ると、ユキも逃げるように帰ってしまった。英語のノート一冊だけをカウンターに置いて。


 寮に戻って、辰也は背中からベッドに寝転んだ。目を閉じると、先ほどまで見下ろしていたユキの顔が思い浮かぶ。怒ったような困ったような複雑な顔でノートを見せ、辰也の質問に答えてくれた。


 床に置いた鞄に手を伸ばし、ユキに借りたノートを取り出す。開くと、彼女の字が一面に見える。ちょっと丸っこくて、絵本の字体にありそうなくせ字だった。丁寧な板書に、先生がちょっと口にしたようなコラムまで、あますことなく書かれている。ところどころ妙に字面が崩れているのは、純を見ているときだろうか。彼女のだらしないうっとり顔を思い出し、またも胸の奥を鈍く叩かれるような感覚におちいって、不思議な心地になる。


 寝そべったままページをぱらぱらとめくっていると、ページの隙間からひらひらと何かが落ちてきた。切り取ったメモ用紙のようだ。薄い罫線の上に、シャーペンでふわふわした黒髪の男子が書かれていた。後頭部と小さく見える横顔、丸められた背中から、ユキの席から見た純だとわかる。なかなか上手だ。授業中にこっそり描いていたのだろうか。


「ほんま、好きやねんな……」


 ユキの愛は、少々異常だ。ストーカーしたりこうして似顔絵を描いたり……好きな女子と二人きりにさせようと画策したり。

 それほどまでに好きなのに、どうして汐里とくっつけようとするのだろう。自分こそが結ばれたいとどうして思わないのだろう。

 汐里が、それほど大切な親友だとでもいうのだろうか。


 だが、たとえ相手が親友でも、恋敵は恋敵だ。自分の気持ちに嘘をつくなんて選択肢は、辰也の中にはない。それで引き裂かれるような関係ならそれまでだと思うのだ。

 それとも何か、ユキの心の奥底に、思いもよらない闇が眠っているのだとしたら……?


 純を盗み見ながら懸命に似顔絵を描いているユキの姿を思い浮かべると、ぞっとするような、切ないような、なんとも言えない心地になった。




 六月末から三日間、期末試験が行われる。余裕の心で迎える者、青い顔の者、祈る者、頭を抱える者……それぞれの気持ちを飲み込んで、試験は無情に終了した。



「あー……やっと終わった」


 試験終了後、真っ先に声を出したのは辰也だった。それに呼応するように純も振り返る。


「試験、ようやく終わったね~」

「俺、今回は今までで一番マシかもしれん。少なくとも赤点はないやろな」

「ほんと? 勉強、結構うまくいってたの?」

「まあな。秘密兵器があったから」


 ちらりと隣を横目に見やる。純をぼうっと見つめていたユキは、こちらの視線に気づいた途端、慌ててつんとそっぽを向いた。


「え、何? 秘密兵器? ……もしかして、先輩から過去問とかもらってたの?」

「あー、過去問か! その手があったな。そっちの方が効率よかったかもなあ」


 ユキが信じられないというような目でこちらを凝視する。


「なんてな。過去問なんかいきなり見たって、俺ちんぷんかんぷんやったやろうし。なんにせよ助かったわ」

「ええ~、いいなあ。次、僕にも教えてよ、その秘密兵器」

「嫌や。あれは俺だけのもんやから」


 まだ彼女の視線がこちらを向いているうちに、辰也はさらりと口にする。ユキはさっと顔を背け、不自然なほど慌てた仕草で机の上を片づけ始めた。何もかもさっさと鞄に詰め込むと、がたんがたんと騒がしい音を立てて教室を出て行ってしまう。


「何慌てとんねん、あいつ……」

「あ、そうか。僕とユキさん、調理当番だった」


 純も慌てて席を立つ。


「じゃあね。そうそう、あとで海開きの話しようね!」


 海開き? とたずねる前に、彼も急いで教室を出てしまった。


「海開きはねー、試験のあとのお楽しみだよ」


 万璃子がピンクの手帳を持ってやってきた。純の席に座り、こちらに開いたページを見せてくる。ピンクのページに黒いハートやウサギなどのシールがべたべた張られていて目がちかちかした。


「今週の金曜に、みんなで海岸まで遠足するの。水着持って!」

「マジで?」

「そ、マジ!」

「……海……それは恐怖の王が目覚めを待つ海底魔城……」

「あー、あいつはほっといてね」


 何やらぶつぶつつぶやいている悠は無視して、万璃子が続ける。


「てか黒鉄くん、水着あるの?」

「あー、ある。持って来いって言われてたから」

「よかった! じゃ、金曜楽しみにしてよっと。あー、捗るな~」


 何が?


 万璃子は一人ではしゃいでいるが、果たして辰也の水着の何がどう捗るのかはわからずじまいだった。



 試験が終わると、周囲の話題は海開きで持ち切りになる。特に男子寮は、前日になると異様な盛り上がりを見せていた。


「去年、汐里ちゃんかわいかったんだよなー」


 辰也の部屋で、足立は友人たちを連れてどかりを胡坐をかき、ポテトチップスをぼりぼり食べていた。


「全身きゅっと締まってて、ぼく好みっていうかさあ」

「もう足立くん、そういうのばっかり見てたらだめですよ」


 横から純がたしなめる。いつもの困り顔に見えるが、いつになく本気らしいのがうかがえた。


「でも純だって、汐里ちゃんに見惚れてたじゃん」

「なっ……」

「去年、ビーチボールしてて汐里ちゃんにぶつかりそうになって、すっごい情けない声で派手に転んで砂まみれになってたじゃん」

「あ、あれは、だれだってそうなるでしょ!」


 顔を真っ赤にして両手をぶんぶん振りながら否定するさまが、かえって怪しい。


「はいはい。だれだってね。そういうことにしとくよ」

「去年の万璃子ちゃんの水着も好きだったな、俺」


 別の三年生がお菓子の袋を皿にぶちまけながら言った。


「ピンクと白のやつっしょ、でっかいリボンの。あざとくていいよね~」

「城戸さんは水着地味だったけど、でかいから目が行ったわ」

「わかる。あれでもうちょっと愛想よくしてくれたらな~」

「近づきがたいよな、ほんともったいないっていうか」

「……」


 辰也は思わず床に目を落とした。落としつつも、耳だけはしっかりとそのやり取りを聞いていた。

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