第6話 天使の歌声

 翌朝、辰也はざわつく人の気配で目が覚めた。外はすっかり明るく、カーテンの隙間から陽がさんさんと輝いている。「うわ寝坊や!」と叫びかけたところで、今日が土曜日なのを思い出した。


 この学校で迎える初めての休日だ。もちろん授業はなく、食事時間の縛りもない。夕食時間の十八時だけはいつも通りだが、それまではまったくの自由なのだ。何をしてもいい。人によっては外へ出かけたりするらしいが、この見渡す限りの山と田畑のどこに行くというのだろう。


 洗面所でのろのろと歯を磨きながら、こんな休日は何をしていたっけなと考える。よく遊びに出かけていた。お小遣いやバイト代を持って、友達と電車に乗って繁華街をうろついたり、カラオケに行ったりしたものだ。だが何より、ギターを触っていた。学校の音楽室でバンドメンバーたちと一日中練習に明け暮れていた。……


「おはよう!」


 振り返ると、純がいた。後ろに悠もいる。朝からはつらつとしている純と対照的に、悠は死にそうな青白顔だ。彼は朝に弱いらしい。


「おー、おはよう」

「ようやく土曜だね~。辰也は何するの?」

「さあ、全然わからん。おまえらはいっつもどうしてるん?」

「んー……僕はスマホを借りて、裏山にのぼってのんびりしたり、宿題したり……足立くんたちとサッカーとかバスケしたりしてるかな」

「ふーん。悠は?」

「僕は精神の休息をはかっている」

「……要はのんびりすんねんな」

「君には情緒とか趣きというものはないのか」


 うがいをして顔を洗う。三人並んでタオルで顔を拭いていると、純がぱっと顔を上げた。


「あのさ、辰也……このあと、ギターの練習に付き合ってくれないかな」

「……え?」

「辰也、ギターに詳しいでしょ。この学校にあんなにギターが扱える人、いないしさ。今度何かおごるから――」

「ごめん。無理」


 ほとんど反射的に出た言葉は、自分でも驚くほどつっけんどんだった。


「……いや、ごめん。その、俺そういうのはもう――」

「そっか、ごめんね。もしかして、昨日もちょっと嫌な思いさせたりした?」

「別に。全然大丈夫」


 そのまま、足早に洗面所を出る。

 自分はいったい、何をしているのだろう。

 嫌な記憶から目を背けたくて、友達に八つ当たりして、今めちゃくちゃかっこわるい。


 外に出て、食堂にふらりと入る。席はまばらに埋まっていた。目玉焼きとスープが並ぶ後ろのテーブルで、調理当番らしき生徒たちが集まり、「おつかれー」と言い合いながらパンをかじっている。


「あ、黒鉄くんじゃん」


 万璃子がひらひら手を振った。汐里もいる。当番だったらしい。


「おー、お疲れ」

「はやいねー、もっと寝てそうなのに。でもそのギャップがイイね」

「ギャップ?」

「人によっては昼過ぎまで寝てることもあるからね~」

「ゆっきーなんて、休日はひたすら惰眠をむさぼってるものね」


 汐里の言葉が耳に入った瞬間、しましまパジャマを着たユキがぬいぐるみを抱いて布団に潜り込んでいる映像が頭に浮かんだ。ほんとうになんの脈略もない、突発的な映像にどきりとする。


「どしたの? 顔赤いよ?」

「え」

「暑いの? ってか暑いよね。厨房とかマジ地獄だったもん。真夏が近づいてるーって感じ」


 手で顔をぱたぱたあおぐ万璃子に背を向け、辰也はパンをトースターに放り込んだ。


「確かに天気ええもんな」


 朝はあまり食べるほうではない。焼いたパンをかじりながら寮に戻る。正直、時間を持て余していた。こんなことなら、万璃子の言うように惰眠をむさぼるべきだった。


 初夏の爽やかな風を頬に受けながら寮の前の小道を歩いていると、ジャン、ジャーン、とたどたどしいギターの音がした。――純だ。見れば部屋の窓が開いている。


 来た道を引き返そうかと思った。だが、なぜだろう。その場に立ち止まって、じっと耳を澄ませてしまっていた。

 指先がちりちりと疼く。もう見たくもないギターの音に、渇いているというのか。そんな馬鹿な……もう関わりたくないのに、聞きたくもないのに、だからこんな辺鄙な田舎に来たのに。……


 混濁した心を抱えたまま古い雨ざらしのベンチに腰かけ、黙ってパンをかじった。そのあいだも、耳をかすめるつたない音に耳を傾けてしまっていた。


「……音楽に、罪はないのにな」


 そう独り言のようにつぶやいて、手についたパンくずを払った。


 午前中は足立に捕まってバスケに付き合わされた。メンバーには三年女子も混ざっている。日焼けした小麦肌にポニーテールで、驚くほど足が速かった。彼女はひとしきりゲームを終えると、水を飲みながらつぶやいた。


「朝からスポーツはいいな! ユキを無理やりにでも引っ張ってくりゃよかった」


 辰也の耳が彼女の発言にぐいと引き寄せられる。

 隣で足立が水を飲みながら苦笑した。


「城戸さん、こういうの全然やんないよね~」

「うん、同室の私がいくら誘っても絶対に応じないな。休日は不健康そのものだぞ。このあいだなんか、夕食ぎりぎりまで寝ていたんだ」

「なにそれ、あれじゃん、寝太郎じゃん」

「そうなんだよ。よし、明日こそ叩き起こして、朝から体を動かす楽しさを教えてやろう」


 ベッドでぬくぬくしていたら突如ルームメイトにふとんをひっぺがされ、泣きそうになっているユキの顔が容易に頭に浮かんだ。気の毒だが、少し笑ってしまった。


 昼頃、弁当を食べてから一度寮に戻った。ギターの音はもう聞こえない。純もお昼にしているのか、はたまたどこかへ出かけているのか。

 スマホを借りて動画でも見ながら過ごそうかと思った。だが寮監の部屋の戸を叩くより先に、頭の中に談話室のギターケースの姿が浮かんだ。


 弾いていないなら、純はきっとあの場所に戻しているだろう。今なら、弾ける。


 ――「弾ける」? いや、弾かない。弾きたくない……って思ったから、この学校にいるんじゃなかったか?


 二階の一番奥。ミーティングルームの扉は、すぐ目の前にあった。鈍い銀の取っ手を見下ろし、ごくりと唾をのむ。そっと手でつかみ、取っ手を回した。

 扉が動き、その隙間からカバーの被せられたキーボードとギターケースが見える。色褪せ、擦り切れたステッカーまみれの小汚いケース……そのそばに、そっと膝をつく。


 ――弾きたくない。

 でも、目の前にあるのを見れば見るほど、指先がちりちり疼いてしまう。まるで呼ばれているみたいに。

 おそるおそる手を伸ばした。脳裏に、かつての相方の顔がちらついた。


『おまえセンスないやん』

『曲なんか作らんでええよ。耳コピだけしとけばええねん』


 胸の奥がカッと熱くなり、頭の中が真っ黒になる。ひったくるようにギターケースをつかみ、部屋から飛び出した。どこへ行こうかなんて、何も考えてはいなかった。


 気づけば、薄暗い裏山の中にいた。

 柔らかな土に埋まった粗末な木の階段を踏みしめ、のぼりきったところに古びた東屋があった。屋根の下のベンチに座り、隣にギターケースを無造作に置く。


 下は夏らしい暑さがあったのに、ここはまだ空気がひんやりと落ち着いている。真ん中に古びた木のテーブルが置かれており、内壁には生徒のものと思しき落書きが点々としていた。衝動に駆られて持ってきてしまったギターケースの蓋を、そっと開く。

 取り出したギターを膝に置いて構える。試しに弦をはじいてみた。改めてピッチを調整して、弦に指を添えたところで、はたと手を止める。

 何を弾いたらいいのだろう。


 ギターを弾くのは、全部バンドの練習のためだった。相方が「これをやる」と決めたものを、ひたすら弾いていただけだった。

『なあ、これやろ』『めっちゃええ曲やねんて!』

 彼がそう言って持ってくるのはいつも、Galaxy Madonnaだった……


 指が赴くままに音をつま弾く。よみがえりかけた記憶を振り払うように、まったく関係のない音で、見知らぬ曲を紡ぎ出そうとする。


「……っ」


 ガアンと不協和音が鳴り響き、手の動きがぴたりと止まった。腕をだらりと下げたまま、膝頭を見つめる。


『作曲?』

『おまえはやめとけって』

『オリジナルを作ってええのは、センスのあるごくごく一部の選ばれた人間だけやで』


「うっさい!」


 歯を食いしばって顔を上げる。穴の空いた天井から木漏れ日を透かしたような明るい緑が差し込んで、真っ暗だった視界を塗り返してくれた。――呼吸が戻ってきた。

 何もかもから離れるためにここへ来たのに。苦しんでいては意味がない。


 それとも、どうあがいても逃げられないというのだろうか。この手は、弦をつまびくことに飢えているのだろうか。


『辰也、もしギャランナ知ってるなら、何か弾いてよ』


 純のきらきらした眼差しを思い出し、ふっと笑った。彼は何も知らないのだ。辰也の過去に何があったのか、なぜ好きでもないバンドの曲を耳コピし続けていたのか……事情を知らない相手に八つ当たりして、つくづくダサい姿をさらしてしまったと自省する。


 ――音楽に罪はないのにな。

 悪いのは、力不足だった自分なのに。


 ジャン、と弦を弾き下ろす。そのままストロークを続けた。手が覚えているままに、決して好きではない、慣れ親しんだコードを。


 君が苦しみ泣き叫ぶ 

 地上に降りてこなけりゃよかった 俺にはそう聞こえたんだ

 羽をむしられて車に轢かれて脳髄まき散らしながら……


 思い出せば思い出すほどひどい歌詞だ。こんな曲で好きになったなんて、純はイカれている。こんな歌、だれがどんな美声で歌ったって、小汚くて聞き苦しいに違いないのに。


「でも憧れているんだ、この綺麗な無菌の街で、血まみれで歩く君の姿に……」


 突如、耳に清流のせせらぎが流れ込んできた。

 息が止まりそうになった。――だれかが、歌っている。このギターに合わせて。……『青春マドンナ阿鼻叫喚』を。


 女子の声だ。高くてまっすぐで、とても澄んだ、透明なみずみずしい歌声が、ひどい歌詞を洗い流すように歌っている。その声は東屋の下の小道のほうから聞こえてくる。


 ギターを奏でつづけながら、辰也は内壁から身を乗り出しておそるおそる下を覗き込んだ。坂道を下りていったところの草陰に、こちらに背を向けて木にもたれかかるだれかの頭が見下ろせた。切りっぱなしのショートボブと、グレーのカーディガンを見た途端、思わず手が止まりかけた。

 あれは、ユキだ。


 彼女の頭上はちょうど木の葉陰が薄まっていて、木漏れ陽がきらきらと降り注いでいた。歌う彼女の輪郭を淡く光らせて、息をのむようなウィスパーボイスと相まって、天使みたいに綺麗だった。ぼうっと聴き入っていたせいで、自分の手が完全に静止するまで曲の終わりに気づけなかった。


 はっと我に返り、急いで壁に身を隠す。


 ――なんや、今の声。ほんまにあいつの声か?

 ――てか、なんであいつがこんなとこにおるん? なんで歌ってんの……?


 確かめたかった。このわけのわからない曲を美しく塗り変えた、奇跡の歌声をもう一度、聞きたかった。


 手が覚えているまま曲をかき鳴らす。同じギャランナの『海洋女群、君のヒレ』……もはやギャグのようなタイトルの、これまたひどい歌だが、咄嗟に思いついたものだったのだから仕方ない。彼女がその場から去るより早く、次の曲を弾きたかった。


 壁から覗き見る彼女は、木にもたれかかったまますっと口を開く。

 鈴の音が連なるような声が、静かな緑の空気を震わせる。決定的だ。まぎれもなく、これが彼女の歌声なのだ。


 ふと疑問が頭に湧く。なぜ彼女が、ギャランナを?

 マイナーインディーズバンドといえど、コアなファンが少なからずいることは承知している。それでも、こんな小さな学校に二人もいるとは考えられなかった。純とユキ……そこまで考えて、はたと気づく。

 答えは明白だった。純が好きなバンドだからだ。


 好きな人に音楽の趣味が感化されることは誰しもあるものだ。あるものだが、この導き出された答えに、なぜか心が動揺していた。驚愕ではなく、落胆している。


 自分は彼女に嫌われ、怖がられている。正体を明かせばまた睨まれて、二度と歌ってもらえなくなるかもしれない。


 ギターをかき鳴らしながら、東屋の裏手にこっそり回る。もしも彼女が上がって来る気配がしたら、ここからすぐに逃げられるように。


 曲は佳境に差し掛かっていた。彼女はどこまで付き合ってくれるだろう。もう少しだけ、この声に音を重ねさせてほしい。この死んだ音を洗い流してほしい。つらい記憶も嫌な思い出も、全部全部、浄化してほしかった。


***


 今日は待ちに待った土曜日。だから夕方まで寝ていたかったのに、ルームメイトの後藤時恵に起こされて、「ユキ! 天気がいいんだから外に出てこい!」と追い出されてしまった。しぶしぶ外へ出て無意識に純の姿を捜したが、食堂にも教室にも姿がない。もしかしたら、だれかと麓のショッピングモールにでも出かけたのかもしれない。


 ユキは食堂でひとり、弁当を食べながら窓の外に目をやった。確かにすがすがしいほどの快晴だった。窓から見える裏山の緑が風に揺れていて、目に心地よかった。

 だからだろうか、普段はあまり近づかないのに、裏山へ珍しく足を向けてしまったのは。


 裏山には散歩用に開かれた細い小道がある。この学校は堂々と男女交際するのを禁止されているけれど、こっそり付き合っているカップルがここを秘密の逢瀬に利用しているのは、生徒ならだれでも知っていた。純と汐里も、ちょくちょくここに来ている。ふたりが入っていくのを、入口付近まで何回も見届けている。


 そんな裏山に一人で立ち入るのは初めてだった。だれもいない裏山は静かで、涼やかさと悠然さが同居している。スニーカーの底で柔らかな土を踏みしめるのが気持ちいい。

 ――なんだ。だれもいないときなら、ここに居座るのも悪くないかも。


 そう思い始めたとき、どこかから突如、ギターの音色が聞こえてきた。――だれかがいる! ぎょっと立ちすくみ、反射的に身構えたものの、頭の中は次第に落ち着いていった。流れてくる音色に、思わず耳を傾けてしまっていたから。


 いかにも弾きなれている感じで、手練れた弾き方だけれど、なぜだろう……どこか寂しい音だった。気のせいかもしれないけれど、じっと聞いていると切ない感覚におちいる、不思議な音だ。

 この学校に、ギターを弾く人は男女問わずそこそこいる。その中のだれだろう……耳を澄ませていると、かき鳴らされる音の流れに聞き覚えがあるのを感じた。

 ――これは、ギャランナだ!


 純が愛してやまないマイナーバンド。歌詞の意味はあまりよくわからないけど、純が好きで、純が聴いていると思うと、それだけで特別心に響いた。もちろん、長期休暇を使ってアルバムを取り寄せ、学校が再開されるまでに全部聴いて歌詞も覚えた。今ではすべての曲をそらで歌える。


 この学校でギャランナが好きな人なんて、一人しか思い浮かばない。このギターはもしかして、純ではないか?


 心臓がどくどくと興奮して、頬が熱くなる。音を聞けば聞くほど、正気でなくなりそうだった。

 純がギターを練習していることは、とっくの昔に知っていた。寮で隠れて弾いているようだが、その成果がこれほどまでに表れているとは……! 


 音は、小道から別れた坂道を上った先にある東屋から響いていた。ほんとうはそばまで行って、演奏する姿を直接見ながら聴きたいけれど、そんなことはもちろんできない。彼がいつ降りてきてもいいように、すぐ身を隠せる場所で、かつ音がはっきり聞こえる場所は……

 目を凝らして、見つけた。東屋の真下にある木陰だ。すぐそばに濃い茂みが続いていて、身を隠すにはうってつけだった。


 聞こえてくるのはギターの音だけで、歌声は聞こえない。どうせなら彼の声も聴きたいけれど、まだ弾き語りするまでには至らないのだろうか。

 歌のないギャランナを聞くうちに、その空白を埋めてしまいたくなった。上まで聞こえないように、こっそり小さく歌うくらいなら許されるだろうか。


『青春マドンナ阿鼻叫喚』……純がギャランナのファンになったきっかけの曲。『海洋女群、君のヒレ』……純が寮で起床当番のときによく流すらしい曲。彼のことを知りたくて、たくさん調べた。そして今、彼の音に自分の声を重ねられている。なんという奇跡、なんという暁光だろう。

 朝から起きてよかった。起こしてくれたルームメイトに今すぐありがとうと言いたい。ああ、今ここにスマホがあったなら、この音を隅から隅まで録音するのに……!




 音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。がさがさと裏道を踏みしめる足音がする。てっきり東屋の入り口から下りてくるものとばかり思っていたので慌ててしまった。

 だが、幸い彼はまっすぐ下へおりていった。ほっと胸を撫でおろす。

 頬がぼうっと火照っていた。うるさかった心臓はすっかり満ち足りて、胸の中があたたかい。

 今日は、なんて素敵な日だろう。

 



「あら、ゆっきー」


 お風呂に入ろうと脱衣所に向かうと、汐里がひとり、服を脱いでいた。彼女はこちらを見るや否や、嬉しそうにはにかむ。


「今ならだれもいないわ。わたしたちの貸し切りね」

「うん……!」


 彼女の隣のロッカーに、脱いだ衣服を放り込む。ボトルを詰めた洗面器を手に浴室に入った。


「ああ、ごくらく……」


 汐里は湯船に浸かると、腕を外に思い切りたらしてだらしない声を上げている。ユキも隣に座り、肩まで湯に浸かった。


「汐里ちゃん……今日、どうだった?」

「どう、って?」

「その……今日は、純くんも汐里ちゃんも当番とか無かったと思うし……何か、一緒にできたかなって」

「ゆっきー……」


 汐里はがばりと身を起こし、ユキの手を取った。


「ありがとう、いつも心配してくれて。あのね、実は今日の午前中、一緒に飼育小屋にいたの。絵を描いたわ。ウサギとニワトリの絵を」

「そうなんだ。よかった……」

「うん、本当に楽しかった……純ったらほんとうに動物が好きね。絵もとても上手だったわ。マリちゃんほどじゃないけれど、すごく丁寧で、動物好きって感じがよく出てて……」


 うんうん、と熱心にうなずきながら、汐里の話に耳を傾ける。純が飼育小屋にあしげく通っていることも、好きすぎてもふもふした生き物の絵だけやたらと上手に描くことも、図書室で動物が掲載されたものばかり読んでいることも、寮に預けてあるスマホのロック画面が肉球一覧表であることも、家で飼っているペットが兎(ネザーランドドワーフ)とセキセイインコとクサガメであり、それぞれ彼が名付けた名前も、その由来も、もちろんすでに知っていたが知らないふりをしている。汐里はきっと、これからゆっくりと知っていくだろうから、黙っておくのだ。


「ごめんね、ゆっきー。なんだかんだ、いつも純とのことを気にかけてもらって……」

「ううん。力になりたいと思ってるから」

「この秘密を知ってるのは、ゆっきーだけよ。こんな話、堂々とできないもの……」

「うん。うん。わかってるよ。わたしには全部話して。協力できることはするから」


 ――だから、お願い。純くんを幸せにして。世界一幸せな男の子にして。


「ありがとう……! ああ、本当によかったわ。今日はとても素敵な一日だった……」


 ――わたしもだよ。


 幸せそうに笑う汐里を見つめながら、ユキは胸の奥に感じた鈍い痛みを、ぎゅっと押し殺した。


 ――純くんのギター、初めて聴いたんだ。たぶん、汐里ちゃんよりも先に。

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