第5話 パンドラの音

 夕食のあと、厨房でひたすら食器を洗う当番がある。辰也は今日、そのメンバーに名前が挙がっていた。ユキの名前もある。


「一年は手前の水道でコップ、二年はあっちの水道で小皿とお椀よろしく~」


 三年生に命じられるままに、辰也は裏口横の洗い場に立つ。隣にユキが音もなく立ったとき、どこか気まずい空気が流れているのを肌で感じた。畑仕事とバスケで頭から退出していたが、自分は彼女のすごい秘密を知ってしまっているのだ。


 目の前に置かれた洗いカゴからお椀を取り、スポンジを泡立てる。隣に立つユキに、もう一つのカゴをそっと押しやった。


「おまえ、小皿しろよ」

「え?」

「いや。……こっちのが持ちやすいんちゃうんかなって」


 ユキは自分の白い手のひらと、手指の長い辰也の手とを見比べた。


「うん……」 


 水道の流水に掻き消えそうな小さな声でうなずき、素直に小皿を手にしてくれる。それからしばらく、互いに無言だった。ただ黙々と食器を洗い、新しいカゴに詰め直していく。


「……あの」


 食器も半ばまで来たころ、ユキがつぶやくように声を発した。


「その……お願いがあって」

「何?」

「き、今日の、こと……誰にも、言わないでほしい」


 辰也はうつむくユキを見下ろした。


「昼休みに聞いた話?」

「うん、それ……言わないでほしい……です」


 声は気の毒なほど震えている。臆病な彼女の中にある、なけなしの勇気を必死にかき集めたのだろうと容易にうかがえる声だった。


「別に、言わんよ」

「ほんとう?」

「つか、聞いてもよーわからん話やったし。おまえがあいつを好きで、なんでか汐里とくっつけたがってるってことしか」

「しーっ! しーーーーっ!」

「うっさいな。声小さくしとるやろうが。……まあ、そんなこと本人らにばらしても、俺にはなんの得もないし。言わんから安心しとけ」

「……ありがとう」


 心底ほっとしたような、一段と明るい声が返って来る。それがなぜか辰也の心の隅をかすかに苛つかせた。


「黙ってる代わりに、お願い一個聞いてくれへん?」

「えっ」


 途端にユキの声が不安げにしぼむ。一瞬で身構える彼女の顔色の変化が愉快だった。


「な、なに……?」

「まだ決めてへん。決まったら言うわ。それまで待っといて」

「え、そんな……」


 青い顔の彼女を尻目に、自分はさっさと食器をカゴに詰め、指示通りに滅菌庫まで運んでいった。

 ――俺、何してんねやろ。

 秘密がバレないよう必死になっている彼女の心を利用しているみたいだ。どう利用しようとしているのかは、自分でもわからないが。






 寮の風呂は一階の奥にあるので、辰也の部屋から近い。風呂セットを手にほかほかの体で脱衣所を出ると、どこかからギターの弦をはじくような音が聞こえてきた。ぽん、ぽん、と上から順にはじいているだけで、弾き方もつたない。その音は辰也の部屋の隣から聞こえてくる。純か、足立だろうか。


 風呂セットを片づけ、脱いだ服を洗濯カゴに放り込み、努めて気にしないように過ごしていたが、どうしても耳が音に吸い寄せられてしまう。絶妙に届いていない音程がもどかしく、イライラしてしまう。

 弦の音がしばし止む。だがすぐあとに、ジャン、とストロークが鳴らされた。とんでもない不協和音がゆっくりと断続的に響き、閉じていた辰也の耳にごりごり侵入してくる。


 ――ああ、もう。関わりたくないのに。

 ついに耐えがたくなり、辰也はヤケクソで部屋を飛び出した。隣の扉を迷わず叩く。


「はーい」


 純の能天気な返事を聞くや否や扉を開け、ずかずかと中に侵入した。足立はいない。純がひとりでベッドに座り、ギターを構えている。驚き顔の彼に向かって手を差し出した。


「貸せ」

「え?」

「ええから」


 半ば強制的にギターを手に取ると、椅子に座って弦をはじく。ぽんぽんと音を鳴らしながら、ペグを回して弦を締める。


「あのー……辰也?」

「ピッチが狂いすぎや。チューニングしろよ」

「えーと」


 純はえへへと困り顔で頭を掻いた。


「それ、談話室にあったやつだから。チューナーとかなくて、よくわからなくて……」


 椅子の横にギターケースが横たわり、ぱかっと口を開けている。そのあちこちに貼られた古いステッカーの小汚さで、あの夜の歓迎会で見かけたギターケースを思い出した。


「これ、卒業生の置物なんやっけ」

「そうそう。ていうか辰也、チューナーなしで音がわかるの?」

「……まあ」

「すごいね! なんだっけ、絶対音感?」

「そんなすごいもんじゃないけど」


 否定はしたものの、辰也は昔から音に敏感だった。音楽を聴けば、勝手に頭の中で音階が聞こえるくらいには。


「もしかして、辰也がやってた楽器って、ギター?」

「……まあ、うん」

「え、じゃあ教えてよ! 僕、ギャランナの楽譜が手にはいってから 興味が湧いちゃって……」


 純はベッドの上に広げていた冊子を閉じ、表紙を見せてくれた。「THE・GalaxyMadonna」と白いインクで書きなぐられたタイトルの下に、小汚い格好をした五人組の男たちが思い思いに楽器を振り回している写真が載っている。


「ほんまに好きなんやな」

「そりゃもう! 初めて聴いたとき、衝撃的でさ。イントロから心をつかまれたって言うか……」


 イントロといっても、彼らの曲は開始直後から叫んでいるものばかりだ。あれをイントロとは呼びたくなかった。


「ギャランナって、赤、青、白に分かれてるの知ってる?」

「そうやったっけ」

「そうだよ! デビュー当時の鮮烈なサウンドと過激な歌詞が『赤』、メンバーが二十代になってから急に曲調が爽やかになって、歌詞も哲学的になってから『青』、三十目前でアコースティックが増えて、しっとりしたバラードが多くなってからが『白』なんだよ。僕は全部好きだけど、好きになったきっかけは『赤』の時代の『青春マドンナ阿鼻叫喚』で――」


 目をきらきらさせて興奮気味に語る純は、秋田犬というより骨ガムを咥えて興奮するチワワだ。この姿を見たらユキはどんなにとろけた顔をするだろうと、辰也はふいに考えてしまった。


「辰也、もしギャランナ知ってるなら、何か弾いてよ」


 純が嬉しそうに楽譜を見せてくる。


「僕、全部歌えるから」

「……あー、まあ、そのうちな」


 歯切れの悪い声と同時に立ち上がり、ギターを純の手に預ける。


「宿題してくるわ」

「忙しいのにわざわざ来てくれてありがとう。助かったよ」


 踵を返した辰也の背に、「あ、そうそう!」と無邪気な声が飛んでくる。


「このギター、寮か校内ならどこでも持ち出していいんだって。自由時間なら楽器をやっていいらしいから、辰也も気が向いたら使ってよ」

「へえ、そうなんや。どうも」


 返事が思いのほか無愛想になってしまった。怪しまれただろうか。でも、これが精いっぱいだった。


 宿題すると言ったものの、そんな気にはなれなかった。かといって、部屋にいてもやることがない。寮監をたずね、許可を得てスマホを持ち出した。

 イヤホンを挿し、適当なショート動画をぼんやりと眺める。お笑いタレントや動画配信者の喋りを眺めているあいだは、意識がそちらに集中するので何も考えなくて済む。


 だがほんの一瞬、動画を読み込むあいだに、壁の向こうの拙い音が耳に入り込んでくる。おぼつかない指で懸命にストロークを奏でようとする純の姿が瞼に浮かび、その顔にだんだんと別の顔が重なってくる。


『なあ辰也、こう? これでうてる?』

『ギターむずいわ、俺には無理かも。おまえはええよなあ、手ぇでかいもんな』


 その顔が困り顔ではにかんだとき、反射的に首をぶんぶん振って追い払おうとした。


『ギャランナ知らんの? アルバム全部貸すから聴いてや。俺めっちゃ好きやねん。歌いたいやついっぱいあんねん!』


 壁の向こうのストロークは、ゆっくりとだが、記憶の彼方で聞かされた曲をなぞっているようだった。


「なんで……なんでおまえもギャランナやねん」


 マイナーなインディーズバンドなのに。どうしてこうもピンポイントに思い出させてくるのだろう。忘れたかった記憶も封じたかった思いも、全部。

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