第4話 彼しかいらない

 やってしまった!

 息を切らし、茂みのあいだを駆け抜けながら、ユキは顔面蒼白になっていた。


 今まで後をつけられたことなんかなかったのに。よりにもよってあの怖い不良(?)に見つかってしまった。彼はこの心に秘めていた恋心をいとも簡単に暴き、さらに踏み込もうとしてきた……もうおしまいだ。彼の口から純にすべてがバレてしまったら、もうここに居場所はない。


 いや、彼がバラすとは限らないじゃないか、という考えが頭をよぎったが、すぐ掻き消える。こんなおかしな恋心、いい話のネタになるに決まっている。関西人なんだから「ウケる」話を逃すとは思えない。……


 考えれば考えるほど、最悪の展開がどんどん頭の中に広がっていく。そうこうするあいだにも時間は過ぎて、昼休みが終わり、掃除が始まり、午後の授業に入ってしまう。


「ゆっきー、着替えにいこ!」


 万璃子と汐里に引っ張られ、寮に戻る。六時間目は畑作業だ。一度寮に帰って、作業着に着替えなくてはならない。去年の入学前、両親と一緒にホームセンターで買ったつなぎだ。一年使ったせいか、深緑の生地は早くも色あせていた。

 作業の邪魔になるので、万璃子は髪をポニーテールに、汐里はお団子にしていた。ユキもこの時間ばかりは、髪が耳から前に落ちないようにピンで留めている。それから三人で畑まで一緒に歩いた。


「今日、ちょっと曇っててよかったよね!」

「そうよねえ、快晴だと汗がひどいもの」


 二人の会話が耳を通り抜けていく。畑が近くなると、その向こうの飼育小屋の存在を思い出して動悸が速くなる。手足が冷えるような心地がする。


 男子たちはすでに着替えて到着していた。純の作業着姿は去年からずっと変わらない。オレンジ色の作業着と首に巻いたタオルが本格的だ。


「ほんまに落ち着かんわ。ダサない? 俺」


 辰也の声は通りがよくて、少し離れていてもはっきり聞こえた。話しかけられた純は朗らかな笑みを浮かべて首を振る。


「そんなことないよ、かっこいいよ。職人さんって感じで」

「職人か。そう言われたら悪い気せんな。……おまえはすげー似合ってんな。農家生まれか?」

「残念。家の近くは畑だらけだけど、僕の親はどっちもお役所勤めなんだよね」


 だが彼の祖母が兼業農家をやっていることを、ユキは去年から把握している。


「男子ははやいね~。黒鉄くん似合ってんね! 紺色渋いじゃん」


 こうして彼になんの抵抗もなく話しかけられるのは、万璃子のすごいところだ。辰也は「俺が選んだんちゃうけどな」などと照れくさそうにつぶやいている。


「そういや、悠はそこで何しとんねん」


 彼の言葉で、全員の視線が畑の入り口に集まった。見れば悠が柵の傍で小さく丸くなっている。マスクに軍手、その上にビニール手袋までして完全防備だが、顔は風邪でも引いたように真っ青だった。


「ふ……ふふふ、何も知らない君がうらやましいよ僕は」

「え、何が?」

「ここには大いなる恐怖が眠っているんだ。暗い土の下に、地雷のように隠れて、僕たちを餌食にしようと……」

「あははは! それミミズじゃん? 朧くん苦手だもんね~」

「ちょっとマリちゃん、苦手な人は苦手なんだから、あんまりからかっちゃ……」


 万璃子に笑い飛ばされ、悠はうずくまった姿勢のまま、のそのそと気まずそうに背を向けた。


 ユキは汐里の背に隠れながら、ちらちらと辰也の様子をうかがっていた。こんなことは初めてだ。いつもなら純の様子を見て癒されているはずなのに。彼が自分の秘密を純にいつばらしてしまうのか、気が気でなかった。


「もう、ゆっきーってば、背中に隠れないでよ」


 ふいに汐里の体が眼前から消え、間の悪いことに辰也と目が合った。鋭い三白眼がこちらを睨んだ気がして、ユキの足はその場に縫い付けられたように動けなくなった。


「みんな、ごめんね遅くなって!」


 望月先生の声で我に返る。足の硬直が解き放たれ、ユキは汐里と万璃子の後ろに急いだ。


「去年もやったからわかるよね? 今日はこっちのゾーンを耕してもらいます。ふわっふわにしてね、ふわっふわに!」


 先生のニッコリ笑顔を合図に、作業が始まった。まずはみんなでシャベルを持ち、土を掘り起こすことから始まる。


 ユキははじめ、汐里の近くでシャベルを突き刺していたが、作業が進むにつれ、いつの間にか場所があいまいになり、気づけば純と辰也のすぐ背後にいた。慌てて退散したいところだが、一度手を付けた場所を放棄するわけにもいかない。


「はー……これ結構腰にくるなあ。純、おまえ結構体力あるんやな」

「僕なんて全然だよ。あ、でも、おばあちゃんちの畑仕事をちょっと手伝ったりはしてたけどね」

「へー……悠はもうギブっぽいな。しりもちついとるやん。絶対マスクのせいやろあれ」

「ほんとだ。先生! 悠を休憩させてあげてください!」


 そんなやり取りにもユキはしっかり耳をそばだてる。純の一言一句が神々しい。ボイスレコーダーで録っておけないのが悔やまれる。


「あれ、辰也も何か……頭についてるよ」

「嘘やん。何? 土?」

「ううん、虫」

「虫⁉」


 辰也の声に緊張が走る。


「うん。土にいたのがついちゃったんだね~」

「え、ちょ、マジかよ、虫はあかんねんて!」


 辰也は焦ったように髪をがしがし掻いた。その直後、何やら小さな物体が飛んできて、土を掘り起こしていたユキの膝にぴたっとくっついた。


「……」


 白くてにょろんとした何かと、目が合った。


「――きゃああああああ!」


 反射的に叫び声を上げてしまう。足踏みして振り落としたいが、かろうじて残った理性が(そんなことして、頭とか顔に飛んだらどうするの?)と問いかける。


「ユキさん、どうしたの?」


 せっかく純が声をかけてくれているのに、答える余裕もない。膝を凝視しながらぶるぶる震えるだけで精いっぱいだった。


「ゆっきー、じっとして」


 後ろから汐里が駆けつける。


「すぐ取ってあげるから、そのままでいてね」


 そのとき何を思ったのか、虫がうねうねと激しく動き出した。それだけで全身に津波のような悪寒が走る。


「い、いや、いやあああああ!」


 虫の乗った足は硬直しているが、喉も割れよと叫びながら腕だけぶんぶん振り回す。その様子をおろおろと眺めながら、純ははっと目を見開いた。


「あ、あれ、辰也の頭にいた虫かも」

「マジで?」

「うん、あんなんだった。ユキさん落ち着いて、僕が取って――」


 純が一歩踏み出す前に、辰也が素早く動いた。ユキの背後に回り、振り回している両手の手首をがしりと掴む。


「暴れんなって」


 荒ぶるユキの呼吸が一瞬止まる。おそるおそる首を振り向け、こちらを見下ろす辰也の顔を呆然と見上げる。


「ごめんな。俺のせいやわ。おーい汐里、今やぞ。取ったって」

「はいはい」


 汐里はすぐさまやってきて、膝から虫を取り除き、丁寧に土へ返してやった。


「ゆっきーってば、まだまだ都会っ子ね。ちょっとは慣れたかと思ってたけど」


 ユキの膝がへなへなとくずおれる。まだ息が荒く、肩がはげしく上下している。


「だって、その、急に、飛んできたから……」

「ごめん。俺も虫はあんまし得意じゃないから、頭に乗られてつい払いのけてしもて――」

「……」

「ごめん。ほんまにごめん」

「……」

「ごめんねユキさん、僕が辰也をからかいすぎたから……」

「純くんは悪くない」

「俺だけ悪いんかよ」


 そばで見ていた汐里と万璃子が同時に吹き出した。万璃子の高らかな笑い声が響き、柵の向こうで休憩していた悠がぼそりとつぶやいた。


「やはり、ここは混沌の地獄だった……」




 畑仕事も無事に終わり、生徒たちは現地解散となる。調理当番だという汐里と悠が先に帰り、残りのメンバーで後片付けをした。


「純、このあとバスケすんねやろ?」

「うん! 足立くんたちも来るから、先に体育館で待ってようよ」


 純はタオルで額の汗をぬぐい、爽やかな笑顔を振りまいた。


「万璃子さんもどう?」

「あたしはパス。新聞部から頼まれてるイラストの締め切りあるし」

「残念。ユキさんは?」


 純と辰也の視線が、ユキへ同時に注がれた。


「あ、えと、わたしは」


 純がバスケをしているところは、いつもこっそり見に行っていた。人目を気にせず、だれにも知られることなく観戦できるお気に入りのスポットがあるのだ。だがこうして本人から直接誘われると、心が特別に嬉しくなる。


「その、プレイはできないけど、点数をつけるだけなら……」

「うんうん、それでもいいよ! 着替えたら体育館に来てね」


 にっこり笑った顔が眩しくて、心の薄暗いところまで照らされるような心地がして、ユキは視線を逸らしながら「じゃああとで……」と逃げるようにその場を去った。


 嬉しい。嬉しい。純くんが、直接誘ってくれた……!


 今日はこっそり見なくていいんだ。しゃがみすぎて立ち眩みすることも、水分不足で倒れることもないんだ。何より、本人公認で近くに行って観戦できるんだ!


 だが、弾んだ心はすぐに大きな不安に搔き消されそうになる。今、純と辰也はふたりきりだ。もし、辰也にこの心の秘密をばらされてしまったら――

 心臓が一気に冷たくなる心地がして、ぎゅっと胸元をつかんだ。

 

 寮に帰っても気が気でなくて、着替えがおぼつかない。どうにか急いで体育館に駆けつけたはいいものの、入るのをためらってしまう。

 開かれた扉の向こうから、キュキュ、とシューズのこすれる音が響く。ボールを床に打ちつける音……「そうそう、いい感じ! バスケよくやってた?」――純の声だ。


「いや、学校の体育でちょっとやったくらいやけど」

「ほんとに? 背が高いからゴールもしやすそうだし、これで今日こそ足立くんたちに勝てるかも」


 純と辰也の会話は、なんてことない、普通のおしゃべりだ。恥ずかしい秘密を暴露したあととは思えない。ユキはそろそろと扉に張り付き、そーっと顔を覗かせた。


「あ、ユキさん!」


 真っ先に手を振られ、心臓がどきんと高鳴った。


「ごめんね、足立くんたち、まだ来てなくて」

「ううん……」


 ちらと辰也の顔色をうかがってしまう。彼の眼がこちらを見下ろした瞬間、急いで逸らしてしまった。


「あの……がんばってね。応援してるから……」

「ほんと? 嬉しい。足立くんとずっと戦い続けてるけどほんとに勝てなくてさ――」

「純くんは周りをよく見ていて動きも素早いしパス回しも丁寧だから大丈夫、でも足立さんは目が良すぎて読まれてしまうから純くん自身の動きで翻弄してからパス回すなりしてとにかく足立さんの視界からボールを一瞬でも離すことができれば」

「ユキさん? ユキさん?」


 ユキははっと口をつぐんだ。戸惑う純の視線と、明らかにドン引きした辰也の視線が同時に向けられていて、さあっと血の気が引いていく。


「……あっ、ごめんなさい、つい……」

「もしかして、バスケやってるとこ、見に来てくれたことあるの?」

「な、ないよ! でも、体育のときとかで見てるから」


 危ない危ない。つい彼を観戦していたときの癖が出てきてしまった。無理やり笑みを浮かべて取り繕っていると、背後からどやどやと複数の足音がやって来る。


「おっしゃー、来たよ純!」


 足立拓斗がボールを片手に堂々と入って来る。周囲に他学年の男子を何人か引き連れて。


「足立くん、今日こそ僕、勝ちますよ。頼もしい仲間もできたので」

「ん? ああ、たっちゃんもいるじゃん。あー、いかにもバスケやってそうな雰囲気だもんね~」

「いや、やってないっす」

「じゃチーム分けしよ。城戸さんはやるの?」


 突然声を掛けられ、ユキはその場でぶんぶん首を横に振った。


「観戦かな? じゃ、ぼくのこと応援してて~」

「あ、ユキさんだめだよ、僕らのほうを応援しててね」


 純の言葉に反射的にうなずいた。かなり力強く、何度も。


 得点版をゼロに戻して、試合が始まる。純と辰也、三年生と一年生が一人ずつ。対して足立は三年生と一年生二人がついている。下級生が一人多いハンデを足立はものともしなかった。ひとたびボールを手にすれば、あっという間にゴールまでたどり着いてしまう。


 これまで純が足立に勝ったことは一度もなかった。小柄ですばしっこい純だって十分素質はあるのに、やはりバスケは背丈があるほうが有利だ。

 ――純くん!

 ぎゅっとこぶしを握り締める。純と足立の攻防を祈るような気持ちで見つめていると、同チームの三年生がうまい具合に割り込んで足立を妨害してくれた。純はそのままボールを運ぶ。彼の得意なジグザグ走行で――


「させないよ~」


 いつの間にか、マークを振りきった足立が立ちふさがる。長い手足を広げると、それは立派な壁になる。


「もう、ほんっとどこまでも……!」


 汗みずくになりながら純が苦言をこぼしたその瞬間、


「こっちや!」


 その声が耳に届くや否や、純は声の主を見もせずに後ろ手にボールを飛ばした。それを受け止め、走り出す辰也。

 そこからは、瞬きする間もなかった。

 彼の長い脚はあっという間に敵を抜いて、ゴール前でばねみたいに飛び上がった。追いついた足立の伸ばした腕も飛び越えて、ボールはぽすんとネットに落ちる。


 歓声が体育館に轟いた。純がうわあああと叫びながら辰也に体当たりする。


「すごい! なに今の! すごいよ!」

「いや、俺もびっくりやわ……なんかできた」


 辰也は肩で息をしながらヘアバンドを外し、汗で湿った髪を犬みたいにぶんぶん振る。


「けどおまえがあんだけ動いてくれへんかったら、無理やった。俺パスとかヘタクソやから」

「おまえすげーな! 拓斗を抜くとかやばいよ」


 他学年にも囲まれて、辰也は照れたように頬を掻き、困り顔で視線を逸らす。その先に自分がいることに気がつき、ユキは我に返った。


 いけないいけない。純に向けていたはずの視線が、いつの間にか辰也に向いていた。純以外を応援する気なんてさらさらなかったのに、なんて罪深いことをしてしまったのだろう。


「ああああ~、くそー、今までぼくに匹敵する身長のやついなかったからさあ」


 足立は息を荒げて床にへたりこんでいた。


「たっちゃん、ぶっちゃけ何センチよ?」

「去年計ったときは、確か一八三……」

「だあああ一センチ負けたー! 何、ぼく一センチの差で負けたの~?」

「一センチだったら関係ないっすよ。ほら、次の試合やりましょうよ」


 いじける足立の腕を純と辰也で引っ張り上げる。その様子を、ユキは未だ呆然と眺めていた。


 ――きっと、思いもよらないところから純くんを助けてくれたから、見ちゃっただけ。


 首を振って雑念を追い出す。腕で汗をぬぐいながら走る純の爽やかな笑顔を、うっとりと見つめた。


 ――わたしの視界には、彼しかいらない。

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