第2話 俺なんかした?
「辰也って、手先器用なんだね~、あっという間に僕より剥いてるもの」
純が辰也の手元を覗き込み、感心したようにつぶやいた。
今、辰也がいるのは厨房の裏手だ。純と二人で、ボウルに盛られた玉ねぎの皮をひたすら剥き続けている。教員も含め総勢四十人分の食材だから、家庭用では考えられない量をさばかなければならないのだ。
なぜこんなことになっているのか、事の発端は授業の終わりに望月先生から言われた一言だった。
「黒鉄くん。いきなりで悪いんだけど、今日、厨房に入ってくれる?」
混乱する辰也の腕をすかさず純がひっぱり、「僕も今日の調理当番だから、一緒に行こう!」とずるずる連れてこられたのである。そして学校全員分の夕食と、翌日の朝食の用意をさせられる羽目になったのだ。
この当番制については、もちろん事前に聞かされていた。父親を恨んだ一番の要因でもある。単純にめんどくさいし、料理なんてしたこともなかった。包丁を握ったのは小学校の家庭科だけだ。そのときも、「黒鉄くんが包丁もったら犯罪者みたいでこわい」と女子に泣かれ、ろくに扱えなかった。
「さ、残り三つだね! どっちが多くできるかな~」
無邪気に笑う純。辰也は顔が引きつっていた。厨房の裏口の向こうに建つ、小さな物置小屋の陰から、全身に絶対零度の視線が突き刺さっている。姿を隠してはいるが、確実にユキがそこにいる。よく見れば、物置小屋からちょっとだけカーディガンの袖らしき端が見えていた。純と交互に見ているらしく、肌に感じる冷気は断続的だ。
彼女の純に向ける視線の意味はおおよそ見当がついていた。だが、自分に向けられるキツい視線だけは納得がいかない。
「なあ、俺、ユキになんか気ぃ悪くさせるようなことしたんかな」
「え? ……なんで?」
「今日初めて
「ええっと、どうだろ……少なくともユキさんは誰かを睨むような人じゃないけどな。ちょっと恥ずかしがり屋だけど、控えめで優しくて、いい人だよ。僕が困ってると、いつもさりげなく助けてくれるんだ」
「へえ。いつも、さりげなく……」
「だから気のせいじゃないかなって思うけど」
態度からして、純は彼女の熱烈な視線に気づいていないようだ。あんなにわかりやすいのに、そんなことがあるものかと思うが。
建物の裏から、カーディガンの肩がじりじりとにじり出てくる。会話に耳をそばだてているのだろうか。なんだか寒気がして、残りの玉ねぎを高速で剥き終えると、「はよ戻るで」と急いで純をうながした。
夕食後はようやく自由時間となる。といっても、九時には寮に戻っていなければ寮監から死ぬほど怒られるらしい。門限まであと二時間ほどあるが、送っておいた荷物の整理のために、早々に寮に戻ることにした。
男子寮は、ロータリーから東へ別れた道をまっすぐ進んだ先にある。小さなアパートみたいな建物で、二階建てだ。辰也は一階の一番奥の部屋をあてがわれていた。八畳くらいの部屋に、ベッドと勉強机とロッカーが二人分、左右対称に置いてあるだけのシンプルな部屋だ。本来、部屋は二人ずつだが、人数が一人あぶれてしまっているせいで、辰也にルームメイトはいない。ひとり気ままな快適生活が送れるというわけだ。
それなのに、部屋の引き戸を開けると、なぜか知らない男子がベッドに座ってくつろいでいた。
「やあ」
反射的にがらりとドアを閉める。一歩下がってドア横の名札を見た。ちゃんと「黒鉄」と書いてある。
訝しみつつもう一度ドアを開けると、男子生徒は先ほどと同じ姿勢で「君の部屋、ここだよ~」と手を振ってきた。
「いや、誰っすか」
「ああごめんね。名乗ってなかった。僕、足立拓斗っていうんだけど」
彼は手足がひょろりと長く、羽織っているベージュのカーディガンの袖も長かった。萌え袖だ。ついでに髪の襟足もわずかに肩にかかっている。全体的にゆるい空気をまとっているようだった。
「あの、何勝手に入ってんすか」
「あーそっか、この部屋、今までずっと空き部屋だったから、多目的室っていうか談話室二号っていうか、とにかくみんなで遊ぶのに気軽に使ってて、まだその感覚が抜けてないんだよね」
足立拓斗はおそらく三年生だろう。にこにこしているが、腹の底が読めない笑顔で、純とは大違いだった。
「そうスか。これからは俺の部屋なんで、気軽に入んないでくれます?」
「黒鉄くん、だよね。下の名前はなんだっけ」
人の話を聞いちゃいない。かみ合わない会話と底抜けの笑顔が不気味である。
「……辰也ですけど」
「じゃあ、たっちゃんでいいかな? たっちゃんて確か関西出身なんだよね。純から聞いてるよ。あ、純は俺のルームメイトね。で、なんで標準語っぽい感じなの?」
「いや、まあ、関西弁ってよく怖がられるんで。初対面の人に出しづらいっていうか」
「ええ~もったいない。おもしろいのに。なんでやねん! って言ってみて、ほら」
「いやいや、ボケもないのにつっこめませんて」
「あ、今のイントネーションそれっぽかった! もう一回言って、もう一回!」
――こいつ、ほんま調子乗んなよ!
と叫びかけたそのとき、
「足立くん、その辺にしてください。辰也が困ってますよ」
開けっ放しになっていた入り口に純が立っていた。足立は「純! いらっしゃい~」とへらへら手を振っていて、人を困らせている自覚はなさそうだ。
「今、彼に関西弁を教えてもらおうとしてるとこだったんだ~」
「え、なにそれ、僕も習っていい?」
「そんなもんないわ。つか、純もなに勝手に入っとんねん、ベッド座るな!」
「ええ、ダメ? もしかして辰也も、悠と同じで潔癖症だったりするの?」
「潔癖ちゃうし、だいたい悠って誰やねん」
「僕だけど」
今の今までまったく聞いたことのない声がぼそっと響いた。びくりと振り返ると、引き戸がほんの少しだけ隙間を空けていて、ぎょろりとした眼だけがこちらを見つめている。
「うわ怖っ」
「君、失礼だな。クラスメイトの顔を忘れるとは」
辰也の脳が、今日の記憶を高速でたどっていく。そういえば、転校してきたばかりの辰也を気遣って、望月先生が席を入れ替えてくれた。入れ替わったのは確か、前髪の長い、猫背の男子生徒……
「あー、あいつか。ごめん、忘れてたわ」
「今日はせいぜい枕元に気をつけるといい。きっとろくなことが起こらないだろうからね……」
ぶつぶつつぶやきながら悠は去っていった。
「枕元……?」
「悠は自称霊感少年だからねえ」
足立がのんびり言った。
「見えるらしいよ、いろいろね。入学当初はおもしろかったなあ。ぼくにえげつない守護霊がついてるとか言って、なんか興奮してて」
「なにそれめっちゃヤバい奴やん……」
「そういや最近言わなくなったな~。もう中二病は卒業したのかな?」
「辰也、せっかくだからお菓子を食べない?」
純が持っていた布の手提げからポテトチップスの袋を取り出した。ほかにもいろいろ入っているらしく、がさがさと騒々しい音がする。
「僕たち、隣の部屋なんだ。辰也は一人部屋だから寂しいでしょ。だから、僕たちを同室だと思って、仲良くしてよ」
「……おう」
別に寂しいという気持ちはないが、悪い気持ちでもない。
「あはは~、やったね。これで各部屋の掃除場所も三人で分散できてお得だなあ~」
「もう足立くん、僕はそういう意味で言ったんじゃないんですよ」
「ええ? 違うの? 言わずにこっそりやればよかったなあ」
この先輩だけは、どうにも信用できないが。
二人にベッドから下りてもらって、ラグの上に三人で座ってポテチを囲むことにした。状況はどうあれ、複数人でお菓子を囲むなんて久しぶりのことで、ちょっとわくわくしてしまう。
そのうち、廊下が何やら騒がしくなってきた。どたどたと複数人の足音が近づいてくる。嫌な予感がした。
「おーい、転校生、もう来てるー?」
「あ~、来てるよ! みんなもおいで~」
足立が勝手に応答したせいで、引き戸が思い切りばーんと開かれ、外から男子たちがわんさか入ってきた。これで総勢九人、男子寮全員がこの部屋に詰め込んでいることになる。
「ちょ、ちょっと待てって! さすがに多すぎるやろこれは!」
辰也の苦言により、場は部屋から二階の談話室に移された。カーペットの敷かれた広めの部屋で、全員が輪になっても余裕のスペースがある。端のほうにキーボードと、だれかのギターケースが置かれているが、純が言っていた「楽器をやっている人」の私物だろうか。
輪の中に朧悠もいた。膝立ちをしてハンカチで口もとを押さえながら、もう片方の手に持った小さなスプレーを自分の周辺にせっせと吹き付けている。彼がこちらの視線に気づいたとき、辰也は思い切ってたずねてみた。
「どうしたん。汚れてたんか?」
「汚れているに決まっているだろう。ここは菌まみれなのだから」
「菌……?」
「君も気をつけたほうがいい。この学校で一番汚いのは、この男子寮だ。ようこそ
「お、おう……」
よく見れば彼の手はあかぎれだらけで、しょっちゅう手を洗っているのがうかがえた。ほんとうに潔癖症らしい。どうして全寮制に入学したのか、謎である。
辰也の歓迎会と称して、各部屋から菓子類やらジュースやら、ラーメンやらパスタやらと、あらゆるものが目の前に並べられた。みんな取り皿を手に好き勝手に食べながら、端から順に名乗っていった。
「辰也くん、二年生はどう?」
向かいの足立の隣に座っていた三年生が声をかけてきた。
「まだ初日なんでわかんないんですけど、なんていうか、賑やかっすね」
「賑やか? あ~万璃子ちゃんとかかな? ちょっと声大きいよね。ツインテールかわいいけど」
「わかる、あざとかわいいよな」別の三年生も声高に割り込んでくる。「でも俺は断然、汐里ちゃん派!」
「てか二年女子みんなかわいいよね。そこだけマジで羨ましい」
三年生たちが好き勝手に意見を述べ始めると、後輩たちも女子の査定に加わりだした。全体的に汐里の名がよく出る。だが、ユキの名前が一度も出ない。
「ユ――城戸さんはどうなんスか」
気になったので足立にたずねると、彼は「うーん」と微妙な表情で同級生と顔を見合わせた。
「顔はいいよね~。あと胸がでかい」
「あーでかい! 去年の海開きのときすげー思った」
「おまえ見すぎて怒られてなかった? 後藤に」
「それはまあ、しょーがなくない? あれは見るでしょ」
「でもなんていうか、城戸さんて何考えてるかわかんないんだよな。全然しゃべらないし、調理当番で一緒に作業してるときとか、こっちがどんな話題ふっても全然返してくれなくて、俺泣きそうだったもん」
「ぼーっとしてるよな。常に」
「あと時々目の焦点合ってないときない? ぼくだけかな」
「俺も思ってた。どこ見てんの? って思うときある」
放っておけばいくらでもコメントが続きそうだ。横目に純を見ると、居心地の悪そうな顔でポテトチップスをかじっている。この手の話題は得意じゃないらしい。
「海開きってなんすか?」
さりげなく話題を変えつつも、辰也は内心、眉をひそめていた。彼らはユキに睨まれた経験はなさそうだ。彼女にあんな目を向けられているのは、自分だけかもしれない。
ますます謎が深まっていく。これは一度本人を捕まえて、問いただすべきなのかもしれない。
***
今日は散々な一日だった。転校生が来るとは聞いていたけど、あんな不良みたいな人だと思わなかった。しかも、純くんがあの人を気に入って、あんなに懐いてしまうなんて。誰にでも分けへだてなく仲良くできるのは純くんのいいところだけど、お弁当まで一緒に食べて、お節介焼いて……ああだめ、なんだかもやもやしてしまう。
純くん。あなたにはもう、決まった相手がいるのに。あんな不良みたいな人に構っていないで、いつもみたいに二人きりでお昼を食べてほしかったのに。その時間だけが平日の生きがいなのに。
わたしの世界には純くんしかいないし、彼以外いらない。それ以外は全部じゃがいもだ。――否、じゃがいもは彼の大好物なので聖なる供物です。世界一清らかな食べ物です。……
「ゆっきー、いたいた」
突然がらりと引き戸が開いて、ユキは「ぎゃっ」と飛び上がった。見れば万璃子が大量のお菓子を腕に抱えて立っている。
「ねーねー、これからしおりんの部屋行かない? 同室の由衣ちゃんが別の部屋行ってるうちにさ、一緒に宿題しよーよ」
「う、うん……わかった、ちょっと待ってて」
机に広げていたノートを慌てて閉じて、引き出しの奥に押し込む。
「わたし、何かお菓子あったかな……」
「いーよいーよ、あたしがいっぱいあるから! 賞味期限ぎりぎりの!」
万璃子に腕を引っ張られ、一階への階段を下りる。汐里の部屋は階段横だ。部屋に踏み入った瞬間、鼻腔に甘くていい匂いが漂ってきた。彼女のルームフレグランスらしい。
「いらっしゃい。適当に座って」
汐里がベッドを開けてくれたので、万璃子と並んで座らせてもらう。バインダーにルーズリーフを挟んで、横に問題集を広げた。
しばらく静かに宿題を進めていたが、万璃子がポッキーをかじりながら「ねーねー」と声を上げた。この流れはいつも通りだ。
「黒鉄くんさあ、どう思う? めっちゃイケメンじゃない?」
机に向かっていた汐里も顔を上げる。
「確かにね。目つきがちょっと怖いけど、今日話した感じだと普通にいい人そうだったし」
「あ、しおりんたち、ランチ一緒に食べたんだっけ? 何しゃべったの?」
「うーん……部活の代わりに楽器を習ってたとか、スポーツ好きとか、そんな感じだったかしら。ね、ゆっきー」
「……そうだったかな」
「うわ、ゆっきー全然興味なさそう」万璃子が吹き出した。「ああいうのはタイプじゃないの?」
「全然違う」
「そーなんだ。でもああいうガラの悪そうな見た目の人って、何かしらかわいいギャップがあったりするじゃん? そういうのが知りたいんだよねー」
「マリちゃんは黒鉄くんに興味津々なのね」
「うん。キャラクターとしてすごく興味ある」
「もしかして、漫画に使えそうとか思ってる?」
「へへ……バレた? いいキャラを生むには人間観察が肝心だからね」
万璃子は漫画家を目指していて、暇さえあれば部屋に引きこもって漫画やイラストを描いている。専門校に行かずにわざわざ全寮制を選んだのも、人間観察のためらしい。
「てか、わざわざ関西から転校とか、なんでなんだろね」
「ご両親のお仕事の関係かしら」
「だったら
「……不良だからじゃないの」
唐突にユキが口を開く。二人とも同時に彼女を見た。
「不良って?」
「だって、あんな服装してて、耳にピアスの穴があったから……」
「あはは! ストリートファッションでピアス穴ってだけで不良認定はかわいそーでしょ」
「そうよ。それに、仮にそういう人だとして、どうしてこんな学校に来るのよ」
「前の学校で、何かやらかしたのかなって」
「ちょっと、ちょっとまって……」万璃子は笑いすぎて全身ぷるぷる震えている。「今のやり取り本人が聞いたらめっちゃ怒りそう……」
「そうよ。絶対言っちゃだめよ」
「言わないよ、言わないけど……ほんとにそう思ったの。隣に座ってて、ちょっと怖かったから……」
「怖かったの? ゆっきーかわいい、なでなでさせて」
万璃子に髪をわしゃわしゃかき混ぜられ、ユキは困り顔でうつむく。
「大丈夫よ。純もあんなに懐いてるんだし、少なくとも悪い人じゃないわ。ゆっきーが怖がってるって知ったら、ショックを受けちゃうかもしれないわよ」
「……」
「よければ明日もう一度、ランチに誘ってみる? もう少し話したら打ち解けられるかもしれないし」
「だ、だめ! そこまでしないで!」
ユキは真っ青な顔でぶんぶん首を振った。
「そんなことで貴重な昼休みを使わないで! ほんとうに!」
「そ、そう……?」
突然のすごい剣幕に困惑し、汐里は首をかしげて万璃子を見た。万璃子もそっと肩をすくめている。
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