負け犬と噛ませ犬
シュリ
第1話 転校先は隠れ里
ああ、純くん。
わたしの席の斜め前に座るあなたの、少しだけ見える横顔が好き。
教科書を見ながら考えるとき、無意識にページの角をいじる指先が好き。
鼻筋が汗ばんで、ずれてきた黒ぶち眼鏡を押し上げる仕草が好き。
あなたのふわふわした猫っ毛が好き。その髪質に悩んでいるところも好き。
冬になったらいつも羽織っているコートの、ふさふさのファーが好き。
誰も見ていないのに、落ちているゴミを拾って捨てるあなたが好き。
窓ガラスにぶつかった小鳥を心配して、授業中なのに飛び出していくあなたが好き。
わたしを、ユキさんって呼ぶ声も。
汐里ちゃんにしか見せない、くしゃくしゃになった真っ赤な笑顔も。
毎日こうして拝めるだけで、わたしは幸せです。
その幸せな日常をぶち壊す
「じゃあ、自己紹介してね」
担任の望月先生が連れてきた、背の高い男子生徒。
「
浅黒く日焼けした肌と、教室中を睨んでいるような鋭い目つき。髪をかき上げるヘアバンド。ストリート系というのだろうか、だぼっとしたTシャツにズボン姿で、汚れた街角に座って煙草でも吸ってそうないかつい雰囲気は、わたしが今まで絶対に関わったことのない人種だった。
切れ長の三白眼が一瞬、こちらを睨んだ気がした。怖くてまともに見られないから、思い切り目を逸らしてしまった。
できることなら、あまり関わりたくない。でも、きっとそれは叶わない。
なぜなら、この教室には六人しか生徒がいないのだから。
***
――なあ親父。俺、転校したい。無理やろか。
黒鉄辰也は、確かにそう言った。
何もかも無かったことにして、一から出直せるようにできるだけ遠くへ。
都会は嫌だ、どこかのどかな田舎に行きたい。
喫茶店に流れるBGMすら聞こえないくらい、静かな場所で暮らしたい。……
どれも本音だが、願望というより愚痴に近いものだった。まさか本気で叶うとは思ってもいなかった。それがある日、
「転入試験受けや!」
と父に言われ、目が点になった。
試験が終わり、あれよあれよという間に手続きが終わってしまい、気がつけば荷物をまとめて高速バスで送り出されていた。
走り続けて十時間。下りたのは小さな無人駅の前。背の高い雑草の生えた土手と畑に挟まれた道をひたすら歩いて、延々続く山道を登れば、その全貌が見えた。
星牧学園。山の中に隠れるように広がっている、小さな全寮制の高校だった。
教室の横に、「二年生」とふだがかけられている。「2―A」じゃないのは、一学年に一クラスしか存在しないからだ。
「じゃあ自己紹介してね」
四十代くらいだろうか、ひょろりと痩せ型の女教師から言われ、辰也は改めて目の前に広がる教室を見回した。座席がたったの六席だけ。辰也を除けば、生徒はわずか五人しかいない。土地柄、生徒もそれほど多くないだろうとは思っていたが、まさか十人以下とは想像もしておらず、ひどく戸惑ってしまっていた。
「黒鉄辰也です。……これって、趣味とか言ったほうがいいんですか?」
「言って言って。黒鉄くんの趣味は?」
「音楽……とか」
そのとき、教室内が少しざわついているのに気がついた。「関西弁?」という声も聞こえる。
関西弁は聞き慣れない人からすれば威圧感があるらしいと聞いて、極力抑えたつもりだった。だがイントネーションはごまかし切れていなかったらしい。
――もうええわ、バレたんならしゃーないよな。
「はい。関西から来ました」
「マジ? なんか関西弁でしゃべって!」
キンと高い女子の声で、めちゃくちゃな要求が飛んでくる。
「なんかってなんやねん……」
「わー! すごい、本物だ!」
さきほどから黄色い声を上げているのは、ツインテールにピンクと黒のフリフリワンピースという、絵にかいたような地雷系女子だった。制服のない学校とはいえ、好き放題である。
「じゃあ黒鉄くん、空いた席に座ってね」
先生に指示されたほうを見て、たちまちげんなりした。二列しかない座席の後方、黒板から見て左端、うるさいツインテールの後ろだ。だが、
「あ、黒鉄くんはやっぱり真ん中がいいかな。早く慣れてもらいたいし、みんなが助けられるしね。
朧と呼ばれた男子は、後列の真ん中に座っていた。机ごと移動する際、ちらりと彼を見たが、前髪が長くひどい猫背で、表情がよくわからない。だがあのツインテールの後ろはかわいそうだなと思ってしまった。
席に座り、改めて周囲に目をやる。左隣に女子生徒が座っていた。切りっぱなしのショートヘアは腕の悪い美容師に引っかかったのかあちこちはねていて、少し長めのおくれ毛からうつむけた横顔がちらりと見える。目が大きくて、まつ毛が長かった。ひとめ見ただけで、辰也の好みの顔立ちをしていた。
視線は自然と、顔から下へ移ってしまう。グレーのカーディガンでは隠し切れない、黒いインナーの大きな膨らみに目が吸い寄せられて、慌てて目を逸らした。
「よろしく」
そう小声でつぶやいてみたが、聞こえていなかったのか、なんの反応もない。彼女の顔はうつむけられたままだ。
「よろしく、黒鉄くん」
ふいに前方から声がした。目の前の席の男子がこちらを振り向き、にっと笑っている。ふわふわ猫っ毛に黒ぶち眼鏡……見るからに「いい人」オーラが漂っていて、駅前で募金活動でもしてそうな雰囲気だった。
「僕は白山純だよ」
「ああ、よろしく」
黒と白かオセロやん、などと軽口を叩こうとしたところで、ふと左隣から異様な気配を感じた。むき出しの腕に冷気がびしびし突き刺さるような感覚がして、背筋が寒くなる。見れば先ほどの女子生徒が凄まじい眼圧でこちらを睨んでいるではないか。
「……何?」
小声で問うと、彼女ははっと目を見開いた。みるみる青ざめ、慌てたようにそっぽを向く。わけがわからない。
ホームルームが終わり、そのまま授業が始まる。一時間目は英語で、望月先生が前回の復習からスタートしてくれた。さっそく白山純が当てられて、教科書に書かれた英文を朗々と読み上げてくれているが、残念ながら辰也にはちんぷんかんぷんだった。
長い脚を床に投げ出してぼんやりしていると、ふと左隣から、何やら凄まじいオーラのような、きらきらしたものを感じた。といっても直接目に見えたわけではない。直感的に感じるままに、辰也は左に目を向けた。
さっきまでこちらをキツい眼で睨んでいた彼女が、一心不乱に斜め前方を見つめている。その視線の先には、今まさに英文を朗読中の白山純がいた。だがその眼は、こちらを見ていたときとは明らかに違う。うるうると熱っぽく、頬もほんのり上気して、唇は半開きだ。あまりにもだらしない、絵にかいたようなうっとり顔を直視した瞬間、なぜか全身にぞくりと震えが走った。
悪寒とは違う。冷たいどころか、何か熱いものが全身を駆け巡るような感覚だった。心臓から脳にかけて熱湯が走り抜けるような、心臓の奥がうずくような、この感覚はなんだろう。
辰也は無意識に彼女の机の辺りを目で探っていた。そして、すぐに見つけた。
机の横にキルト生地の手提げがかかっている。その隅っこに、糸でKIDO YUKIと刺繍されていた。
黒板を見ると、右端の日直のところに「城戸ユキ」とチョークで書かれている。城戸ユキ……それが彼女の名前なのか。
普段、人の名前など一瞬で忘れてしまうのだが、この瞬間、この名前だけは、脳裏に強く刻み込まれていた。
四時間目まで終わると、一旦昼休憩が入る。普通の高校ならおのおの鞄から弁当を出したり、食券を持って食堂で学食を食べたりするものだが、この学校は違っているようだった。
「黒鉄くん、よければ一緒に弁当取りに行こうよ。案内するよ」
白山純が前の席から振り向いてにこにこ顔で誘ってくる。辰也は戸惑うようにまばたきした。
「なあ、さっきもやけど、俺のこと怖ないん?」
「え?」
「いや……俺の顔、結構怖いらしくて、昔から避けられやすいから」
「あはは、全然そんなこと思わないけど。確かに目つきが鋭いよね~、鷹とか鷲って感じで」
「タカ……?」
「とにかく全然そんなんじゃないし、食堂まで一緒に行こうよ。今日はお天気もいいし、外でお弁当食べるの気持ちいいよ」
「へえ、外で食ってもええんや。じゃ、城戸さんも誘っていい?」
横から「へっ⁉」と素っ頓狂な声が響いた。城戸ユキは思いもよらない不意打ちにあわあわしている。そんな間の抜けた顔もできるのかと、辰也はこっそり得した気になった。
「な、なんで、わたしの名前……」
「手提げと日直。――なあ、人数多いほうがええやろ?」
「うんうん、ぜひユキさんも一緒に――」
純の言葉を聞くや否や、彼女の顔が真っ赤になり、耐えられないというように顔を背けて「し、しおりちゃーん!」と叫んだ。
「はーい、何?」
返事をしたのは、日直の彼女に代わって黒板を拭いていた女子だった。
この教室三人目の女子は、結構な美人だった。背が高くて、大学生のような小綺麗な服装をしている。世に言う「量産型女子」だ。
「助けてしおりちゃん、お願い、一緒に来て!」
「あはは、汐里さんもよかったら黒鉄くんとランチに行かない?」
彼女は純の誘いに乗って一緒に来ることになった。中村汐里というらしい。名前を覚えるのが苦手な辰也は、明日には忘れている確信があった。
食堂はそれ自体が別の建物になっていて、教室のある校舎とは渡り廊下で繋がっている。四人で歩いていると、すれ違う生徒みんなが振り向いて、じろじろと辰也を見た。
「あ、転校生?」
上級生らしき知らない男子生徒に声をかけられ、戸惑いつつも「ハイ」と軽く頭を下げる。
「ウソ、転校生?」「どこどこ?」「え、かっこよくない?」「でもちょっとコワいかも……」
知らない女子生徒の声まで聞こえてくる。こうも注目されるとやりづらい。「はよ行こうや」と純を促し、早々に廊下を抜け出ていった。
食堂でも辰也は注目の的だった。主に女子生徒からの視線が痛い。
テーブルに並べられたプラスチックの弁当箱を手にするや否や、足早に食堂を出ていく。
「落ち着かんわ。みんな見すぎやろ」
「あはは。しょうがないよ、こんな小さな学校だから、外から来る人が珍しいんだよ」
「そうよ。先月に新しく来たALTの先生なんか、もうもみくちゃになってたんだから」
汐里もくすくす笑う。辰也は一気にげんなりした。
「俺もそんなんなるん?」
「少なくとも、今夜男子寮で熱烈に歓迎されるんじゃないかな」
「うわ怖……どうしよ、寮に帰りたないわ」
四人は廊下の窓からデッキに出て、涼しい中庭に出た。そろそろ日差しも強まる頃だが、風はまだ涼やかだ。
中庭は校舎にコの字に囲まれた小さな庭園で、雑草か花かわからない花壇がそこかしこにあり、中央に木製のテーブルが置かれている。山の緑の連なりが見渡せるので、景色もなかなかいい。白山純のお気に入りスポットらしい。
「じゃあ、黒鉄くんの転入を祝してってことで、乾杯しよう」
乾杯といっても、お茶の入ったコップだ。四人で縁を打ちつけあって、一口飲む。辰也の隣には城戸ユキが、向かいに白山純と中村汐里が座っている。
「黒鉄くん」
汐里が口を開いた。
「前は関西の高校にいたのよね。部活とかやってたの?」
「いや、入ってない」
「ああ、そういえば音楽が趣味って言ってたわよね。部活じゃなくて、どこかに習いに行ってたとか?」
「ああ、まあ……そんなとこ」
「なんの楽器してたの?」今度は純だ。
「楽器……楽器は、知らん。内緒」
「ええ、どういうこと?」
「ええやんもう。ちょっと触っとっただけやし」
手を軽くひらひら振ってごまかす。その態度に何かを察してくれたのか、純は「じゃあ、他に何か好きなことは?」と聞いてきた。
「他は……どうやろな、何が好きやろ」
「バスケとかスポーツは?」
「ああ、やるのも見るのも普通に好きやで」
「ほんと? この学校、娯楽がスポーツくらいしかないから、暇なときに一緒にやろうよ。誘っていい?」
黒ぶち眼鏡の奥の瞳がきらきらしている。だんだん彼がシベリアンハスキーか秋田犬に見えてきた。
「ええよ。そういや、ここって漫画の持ち込みあかんかったよな」
「そうそう。テレビもゲームもないし、雑誌も許可を取らないと持ち込めないよ。いろいろ厳しいんだよね」
「メイクもヘアアイロンもだめなのよね。ドライヤーだけなんて、身だしなみができてる気がしないわ」
そういう前情報は転入試験を受ける日に聞かされていた。異次元の話すぎてその場ではよく理解できなかったが、家に帰って父親に問いただすと笑ってはぐらかされた。知っていながらここに送り出したに違いない。
スマホについては、持ち込んでもいいのだが寮で預かられている。用事がある場合だけ許可を取って使用を許されるのだ。「刑務所かよ」とその場でつっこみたくなるのをかろうじて耐えた。
「スマホもテレビもないて、他のやつらは暇なときどうしてるん? 全員スポーツ好きってわけでもないやろ」
「うーん、本を読んだりとか……あと、楽器をしてる人もいるね。教室とか講堂にピアノがあるし、ギターや管楽器を持ってきてる人もいるよ」
「……へえ」
「放課後になるとあちこちからいろいろ聞こえてくるから楽しいよ」
そのとき、視界の端から白い手がにゅうっと伸びるのが見えた。見れば今まで一言も発していなかったユキが、箸で摘まんだものを汐里の弁当箱へせっせと移しているではないか。
「ゆっきーったら、また豆?」
汐里はくすくす笑って弁当箱を彼女のほうへ近づけてやった。
「甘いの苦手だものね」
「うん……」
今日の弁当の片隅には、金時豆の煮物が入っていた。確かに強烈な甘さがあり、辰也もそれほど得意ではなかったが、ここまでするほどではない。眉をキュッと寄せて一生懸命手を動かしている彼女の姿が、ピラフからグリーンピースだけをよける幼稚園児みたいに見えて、思わずぷっと吹き出してしまった。
「……」
しまった、と凍りつく。彼女は鋭い眼でこちらを睨みつけていた。今日で彼女に何回睨まれているのだろう。
「あ、もうこんな時間か」
白山純が腕時計を覗き込んだ。この学校はチャイムがないのだ。
「掃除が始まるね。そろそろ片づけよっか」
「掃除当番て、どこでわかるん?」
「食堂前の廊下に貼り出されてるよ。一緒に見に行こう」
純は優しいが、ここまで来ると単なるお人よしである。
「ええよ、そんな世話焼かんでも。場所さえわかったら勝手に見るし」
「世話とかじゃないよ。僕、黒鉄くんと仲良くなりたいからさ」
「そうよ。初めのうちはいろいろルールに戸惑うだろうから、私たちになんでも頼ってね。ね、ゆっきー?」
城戸ユキは「ふぇっ」と声を上げ、飲みかけていたお茶をごくんと飲み下した。汐里の隣で笑う純の視線に気づき、ぼっと顔を赤らめる。
「う、うん……」
先ほどまで人を睨みつけていたとは思えないしおらしさである。辰也は心中で苦笑していた。呆れるくらいわかりやすすぎる態度だ。
弁当箱を洗って干して、廊下の掲示板の前まで来る。この学校は生徒数が三十人もいないので、全員分の名前が一覧に貼り出されていた。辰也は図書室だった。
「図書室の場所はわかる? 僕がそこまで一緒に――」
「あー、もう大丈夫。担任に教えてもらってるから」
「ほんと?」
「ほんまに。ありがとうな、えー……白山」
「純でいいよ。男子はみんな下の名前で呼び合ってるし」
「そうなん? んじゃ俺もそれで呼んでや」
「私も、みんなには名前で呼んでもらってるの」
汐里も微笑む。本当に遠慮はいらなさそうだった。
「純と汐里な。で――」
彼女の後ろで小さくなっている城戸ユキに視線を向ける。
「ユキって呼んでも?」
「なっ……!」
ようやく初めてきちんと真正面から目が合った。
こちらを睨まない眼は大きく真ん丸で、とても澄んでいた。陽に当たるとぼんやりと黄色みがかって見える。ほんの一瞬だが、はっきりと目を奪われてしまった。
「ごめんね~、この子はちょっと人見知りが激しくて。でも、みんなユキちゃんとか、ゆっきーって呼んでるの。だから辰也くんも……」
「し、汐里ちゃん!」
「僕はユキさんって呼んでるよ」
純が口を挟んだ途端、ユキはことさら真っ赤になった。
「そんなら俺もユキさんって呼ぼかな」
「絶対、だめ!」
「なんで? 純はええんやろ?」
「純くんは、もう定着してるから、その……」
「はいはい。じゃあユキにするわ。はよ定着させといてな」
ひらひらと手を振って、廊下の向こうへ歩き出す。後ろから何やら呻き声が聞こえるのが、おかしくて仕方がなかった。
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