第30話 彼女達の並走〜中編

貴女との約束。



◆ ◆ ◆



心臓が速い。

まだ始まったばかりなのに。

まだ走者は一人目なのに。

この心臓の速さは緊張なのか?

それともアンカーというプレッシャー?


……違う。


そんなの、理由なんて分かりきっていた。

理由は分かってるし、私はそれを聞き入れている。


『奥海さん……。もし、体育祭の学年リレーで、もし私が貴女に勝ったら、少しだけ話を聞いて下さい……』


馬鹿みたいだ。

私も彼女もアンカーだとしても、前の走者で双方にどれだけの差が付くか分からない。

もしかしたら何十メートルも差が付くかも知れないし、上手くバトンが繋がるかも分からない。

例えば、これが100m走とか400m走とか、そういったスタートが同じ種目での勝負だったら、受け入れる事も容易だっただろう。

単純な話だ。

スタートが同じなら、先にゴールした方が勝ちなのだから。

分かりやすい。

勝負ならば、そういう勝負が望ましい。


……それなのに、それなのに……だ。


彼女は勝負の種目にクラス対抗リレーを指定して、同じアンカーで、どちらが先にゴールするかという、そんな勝負を望んでいる。


馬鹿みたいだ……。


……だけど、それなのに……。




『……うん、分かった』




私もまた、それに二つ返事で了承してしまった。

彼女も馬鹿みたいなのに、私も私で馬鹿みたいだ。


私だって、彼女に言いたい事や話したい事は山程ある。

別にそんなものはいつだって良いし簡単で良いのだ。

例えば、授業の合間の休み時間とか、放課後とか、お昼休みとか、別に、そんないつでも毎日ある時間の合間に、話でも何でも出来るのに。

それなのに、彼女はこのクラス対抗リレーで『勝ったら』という、自身に、特になんの得もない枷を勝手に嵌めてきた。


走者は四人目。


うちのクラスは、今のところ3位。


そして、彼女のクラスは、6位。


まだ展開は分からない。

それでも、もう10メートルは差が付いている様に見える。

初めからこんな勝負なんて成立していないし、真っ当な勝負として成立させる方が難しいのだ。

彼女のクラスが走る分だけ、うちのクラスだって、同じだけ走るのだ。同じ距離を。ほぼ同じ速度で。

その距離が、双方のクラス間の差がアンカー迄に縮まったところで、それは高々数メートルだろう。

バトンを落とすなんてベタな展開も無い。



だから、単純な話だ。



後半、うちのクラスが遅くて、彼女のクラスが速かっただけ。

ただ、それだけの事なのだ。



『2位との差を大きく開けて独走するE組ーーッ! しっかーーしッ!! それを追付いするF組の後方にピッタリ位置付くのはッ! 序盤遅れを取っていたD組ッ! 今年の2位争いは熾烈を極めるのかぁッ!?』



テークオーバーゾーンに立つと、先程よりも日差しが強く感じられた。

今日は、気温も例年より高い。

だけど、湿度は高くなくて、言うなれば気持ちの良い暑さだ。

額に浮かぶ汗も、不快では無い。


「……勝負だよ。奥海さん」


前の走者からのバトンを待つ。

私の横で、同じ様に並び立った星波さんは、それだけ言って笑わなかった。


だから私も、


「……望むところだよ」


それだけ言って、笑わなかった。




『先にバトンを受け取ったのはF組ッ! しかし! 僅差でD組がその後を追うぅッッ!!』



駆け出す足は、軽い。


勝負?



望むところだよ、星波さん。



◆ ◆ ◆



木管と違ってトランペットは炎天下の日でも屋外で吹けるのが強みだ。

応援団なんかでも活躍の場があるし、練習の場にも制限が無い。


『さぁ! 2年800m走も最終組! 各走者も位置に着き! 今! スターターと同時にスタートしましたっ!』


放送部の熱のこもった解説実況が響く中、私が自席に持ち込んでいたケースからトランペットを取り出すと、隣に座っていた由紀は「もしかして、殻梨さん?」と私に問うて来た。

視線と一度の首肯だけで由紀に応えて、私は立ち位からトランペットを構える。

私のその行為に周りは少しだけ騒つくけれど、それは気にする必要など無い。

私にとって重要なのは、今、トランペットを吹く事なのだ。


800m走。


200mのトラックを四周。


私も中学の時に走った事がある。

短距離よりも長く長距離よりも短い。

中距離走はペースも難しくてとても走り辛いのだ。


特に一番キツイのは、最後の一周。


『さぁ、周回も三周目に突入! キツイけどみんな頑張って!』


放送部の実況も継続して興奮状態。

流れるBGMはやたらポップでハイテンポな曲。

走者六人の中で、殻梨さんは、現状三位。


『さぁ! 先頭の走者がラスト一周に差し掛かりましたッ!』

その放送部の実況と同時に私は息を大きく吸い込み、殻梨さんがスタート位置に戻ってきたところで、マウスピースに全てを吹き込む。


それじゃあ殻梨さん。

最後の一周頑張って。


「――――ップァアアアアッッ♫♫!!」


一瞬、全ての視線がトラックの走者から私に注がれるけれど、直ぐにみなトラックの方に視線を戻す。


吹く曲は、別に殻梨さんが好いている曲という訳でも無い。

パッと聴いて、何となくこれが合っているだろうなと思った、そんななんでもない曲。

由紀と殻梨さんは同じ部活の友達だけれど、私と殻梨さんは、言うなれば顔見知り程度だ。

私には由紀が居るし、殻梨さんにもきっと同じ様に誰か大切な人が居るだろう。

だから、私も彼女も、別に特別思い入れのある曲じゃなくて良い。


これは応援と、そして感謝の演奏なのだから。


『おっとぁ! 唐突なトランペットの演奏が割り込んだ途端に! C組がどんどん追い上げてきたぁッ!? 速いぞC組ぃッ!!』


私はトランペットを吹く。

殻梨さんは残りの200mを追い上げる。


駆ける速度。

暑い日差し。

迅る心臓。

手にしたトランペットは、少しだけ温い。

もう少しだけ、頑張って走りなよ。殻梨さん。



歓声と、放送部の実況と、BGMと、私のトランペット。それらが入り混じる中、結果として殻梨さんは一人を追い抜き、2位の着順でゴールしてみせた。


構えていたトランペットを下ろし、大きく酸素を取り込んで呼吸を落ち着けると、由紀が私の体操服の端を控え目に引いた。

「……茜ちゃん、満足した?」

「うん、大満足だよ」

応えると、由紀は少しだけ拗ねる様に頰を赤くする。


「なぁに? ヤキモチ?」

「……違うもん」

明らかなヤキモチを表出す由紀が、私には可愛く見えない訳がない。


「こんな皆んなが聴けるような場所で由紀の為に吹く訳無いでしょ?」

今度、由紀の為だけに由紀の好きな曲を吹くよ。

そう言うと、由紀は「知らないよ」とそっぽを向くが、口元が見て分かるくらいにニヤついているので、私は満足してトランペットをケースに仕舞う。


800m走の走者が全員ゴールすると、2位のフラッグを持った殻梨さんがこちらに気付き、私に手を振ってグッジョブのハンドサインを示した。

彼女も私の演奏に気付いてくれた様だ。

意図が伝わっていたかを判ずる事は出来ないけれど、それでも私は満足なのだ。

だから私も、殻梨さんに手を振って返す。


今ではもう、私は星波さんに対しての怒りや憤りは無い。

面と向かって素直に謝って貰えたし、彼女の抱えてた理由も苦悩も知ったから。


だからこの件は、私が殻梨さんにトランペットを吹く事で全部終わりだ。

私にとってのこの件は、ここで全て、なにもかも終わり。


殻梨さん。

あの時、最初に由紀を助けてくれて、ありがとうね。



◆ ◆ ◆



冷房が効いていて送風が心地良い。

外は暑い日差しが照り付けているけれど、この場所はいつだって快適だ。

夏は涼しく、冬は暖かい。


体育祭には、もう何年も参加していないけれど、白海坂の体育祭は好きだ。

賑やかな掛け声もそうだけれど、なんといっても放送部がとても楽しそうで良い。


「桃、貴女此処にいて良いの?」


問うと、ここ保健室で、ベッドに腰掛けて窓の外を眺め、横並びで私に寄り掛かりながらシャーベット状の棒アイスに齧り付く彼女は、「んー、多分大丈夫」と曖昧な返事した。


「私の種目はもう終わったし、サヤちゃんにもハルちゃんにも言ってあるし。だから大丈夫」


桃の参加した種目は障害物走と400m走だと言う。どちらも最下位のゴールだったけれど、桃は『楽しかったよ!』と屈託無く笑んで見せたので、体育祭とは本来こういうものなのだろうと思う。


「冬乃はさ、種目だったら何が好きなの?」


あぁ、水泳以外でね。と、桃は食べ終えたアイスの棒を口に咥えながら此方に頭をぐりぐりと当ててくる。

此処最近の桃は甘えただ。

何でもないかの様にそうしてくるのは桃なりの合図で、私は桃の腰を抱く様にして引き寄せてあげると、桃は甘く喉を鳴らして頰を紅くした。


「うーん、普通に徒競走とかが好きだったかな。あとは、障害物走とか、パン食い競争とかもやってみたかった。……リレーは、あんまり好きじゃなかったね」


……だった。


……やってみたかった。


……じゃなかった。


無意識のうちに、吐き出す言葉の末尾には全て過去の思い出だという意味合いのそれ等が連なっていた。

今ではもうそうする事すら躊躇われる、走ったり、跳んだり、息を切らしたり。

地面を蹴って駆ける感覚なんてもう覚えてないし、水を掻いて進む浮遊感なんて尚更だ。


こういう時、桃はいつも不安そうな顔をする。

そうして、私は後悔の念で内側を覆い満たしてしまう。

桃にそういう顔をさせてしまっているのは私なのだから。

私が、今と以前を比べて、いつまでもウジウジとしゃがみ蹲っているから。



「……良いよ。ごめんね冬乃。私がまたアホな事聞いたからさ」

「……察しだけは良いのよね。桃はいつも」

「だけとは失礼だね」


言って、私は少しだけ笑んで見せると、桃は咥えていたアイスの棒を指先だけで器用に弾き、ゴミ箱へと投げ入れた。

プラスチック製のゴミ箱は、『カランッ』と小気味良い音だけを鳴らして口を閉ざす。


「……冬乃、キスして良い?」

「……良いよ?」


そうやって一つ前置きを入れられるのは久しかった。

最近は桃が『ニヘッ』と笑って無邪気に唇を合わせてきていたから。

私もそれを当然として受け入れていたし、私もいつだって桃の暖かさと唇の柔らかさが恋しく愛おしかったから。


別に、この時に気付いたという訳でもない。

なんとなくだけれど、本当に『そうだろうな』と感じていた場面はいくつかある。

いくつかあった。

だから、この『キスして良い?』の問いは、私の中の『なんとなく』が『確信』になった、ただそれだけの事。


キスされた箇所は唇じゃあなかった。


首筋に口付けをされて、舌を這わされる。


声が漏れない様に手の甲で口元を抑えると、桃は私の制服のリボンを解き、肩が露わにされ、骨張った部分に歯を立てながら私の腰を抱いた。


「……少し、痛くして良い?」

「……良いよ。桃、痛くして」



あのB組の団幕ね、ハルちゃんが描いたんだよ。

保健室に来てすぐ、桃はそうやって大きく破顔してみせた。

保健室の窓からは各クラスの団幕が横並びにズラリと並んで見えている。学年と各クラスで個々に制作される団幕の数は30を超える。

その中の一つが2年B組。


『去年の文化祭、冬乃と一緒にハルちゃんの絵を見れなかったからさ。今日一緒に見れて良かった!』

『桃、そういうのは本当に良く覚えてるよね』

『覚えてるよ。だって、冬乃との約束だもん』


桃は快活に笑んで見せる。

私も、薄く笑んで見せる。


次の文化祭でも、一緒に安西さんの絵を見れるね。


私はそう言わなかったし、桃もそうは言わなかった。


桃は察しが良い。

そして、桃は優しい……。



「……――っ痛」

肩に受けた感触に反射でそう言いを漏らすと、桃は自身で私の肩に付けた歯型に優しく舌先を這わせると、ベッドに押し倒してきて、今度こそ唇に唇を重ねた。


唇と唇で熱を交換し、舌先と舌先で互いに触れ合い、唾液を双方に行き来させた。


桃は察しが良い。

桃は優しい。

桃の事が好きだ。

桃の事を、愛してる。


だから、きっと桃は、なにもかもに、『気が付いている』……。



「……桃、私ね――」


「待って」


「…………桃?」


「……今は、聞きたくないの」



言われ、私は黙って頷くと、再度口を塞がれる。

言いは吐けない。

言葉は紡げない。

今は聞きたくないと、桃は言う。


…………あぁ、桃の体操服、可愛いなぁ。なんとなくえっちだなぁ……。

……可愛いなぁ。


腰を抱き、髪を弄り、互いの頬が熱を帯びる。



夏休みは何をして遊ぼうか?

何処に行こうか?


桃の唇。

桃の体温。

桃の体操服姿。

肌。

瞳。

柔らかさ。

心臓の音。


きっと桃は、気が付いている…………。












ねぇ、桃……。



私ね、九月になったら入院するの。



白海坂にね、戻ってこれるかも、分からないんだって……。







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