第26話 宴町雉鶴の物語

あの時勝負があったのならば、決着は本当に一瞬だったのだろうと、私はそう考えている。



◆ ◆ ◆



聞いた話は良いものもあったし、同じく悪いものもあった。

例えば、成績はとても良いらしかった。

学年の順位は常に15番以内だし、スポーツも出来る様だし、なんとかっていうゲームは凄く強いらしかった。

才色兼備という言葉は彼女の為にあるのではないだろうかという人も少なからずいた。

そう言われるのは、専ら彼女の容姿にも深く関わっているのだろうと思う。

端的に言って彼女は可愛いし、そして綺麗だ。

通常ならそのどちらかにしかグラフが折れる事のない要素なのだけれど、彼女はそのどちらにも振れ幅があるという事だろう。


笑顔が可愛い。

照れる姿が可愛い。

真剣な表情が綺麗。

スポーツをする姿がカッコいい。


そのどれもが彼女なのだから、そういう意見や姿は全て正しいのだろうと思う。

それが、1年時中期に編入してきた彼女の築き上げた功績であり、また、実績なのだ。

彼女は可愛かった。

そして綺麗で、頭も良くてカッコ良かった。



そして、それらとは別に、悪い話も沢山聞いた……。


誰だかを叩いて停学になったとか、陰湿なイジメに加担していたとか。

大分類すればその二つなのだけれど、どれが大元なのか色んな尾ひれが付いている様にも思える。聞いた中の一つには『教師を足蹴にして成績を改竄している』なんてものもあった。

絶対にそんな事ある筈がない。

それだけはそうと言い切れるが、他のあれこれは私には判別がつかなかった。

願わくば、良い話ばかりが本当であって、悪い話の全てが偽りならばいいのにと、私はそう思ってならない。


誰かの言葉を適度に信じて、悪い話に蓋をする。

出来る事はそれくらいの様な気もするけれど、実は、私に出来る事はもう一つだけあって…………。



◆ ◆ ◆



「ちーちゃん、最近、星波先輩の事を気にしてるみたいだね」

光莉ちゃんにそう問われ、私は自身の動揺を隠せなかった。


「そっ、そんな事はなぁわよ⁉︎」

緩んだ口元から噛み噛みの台詞が飛び出し、私が視線を外すと光莉ちゃんは大きく一つため息を吐く。


放課後。

授業が終わり、ホームルームも終わり、あとは帰宅する生徒や部活に行く生徒が散り散りになる。そんな空気が緩和する一瞬の時間帯なのだけれど、光莉ちゃんからそう問いを投げられた瞬間に、私の中の空気が張り詰め、ひりつく様な感覚が内臓を抉った。


「……まぁ、色んな話は聞くけどさぁ」と、光莉ちゃんは肩を竦めながら続けた。

「そりゃあ、良い話も色々聞くよ。陸上部の先輩でも、仲の良い人はいるみたいだしさ」

それは分かる。

文芸部の先輩でも、星波先輩と仲の良い人はいた。同じクラスだと言う先輩もいた。

「だけど、悪い話の方がちょっと『アレ』だよね。……なんて言うか、特殊?って言うか……」

…………それも分かっているのだ。

陰湿なイジメとか、振るった暴力で停学とか……。

噂話が噂話で終わってくれればどれ程良いかとは思う。

実際、イジメ云々の話は根も葉もない噂に他ならない。


…………しかし、だ。


停学については誰もが知ってるし、事実としてそれがあった事をみんなが認めていた。


誰が暴力を受け、どういう経緯でそうなったのかは定かでは無い。

けれど、事実として星波先輩が暴力を振るって停学になったというその事だけは、白海坂の誰もが知っていた。


創立以来、白海坂で停学という処置がなされたのは、両手の指があれば数えられる程度の人数だと、いつか誰かが言っていたのを覚えている。


「……だけど、星波先輩は、優しい人だよ?」

言うと、「それは知ってるよ」と光莉ちゃんも首肯して見せる。しかし、顔には苦い表情を浮かべたままだった。

「優しい人なのは知ってる。良い話だって私も沢山聞いてるよ。だけど、停学って事実と、星波先輩は『誰かに手を上げる事が出来る人』って事実は残っちゃってる」


光莉ちゃんの、言いたい事は分かる。


「関わらない方が良いとまでは言わないよ。だけど、入れ込むのは、もう少しだけ考えてみてからでもいいと思う」


「……うん、分かってるよ」


言って返すと、光莉ちゃんは漸く少しだけ笑みを浮かべてくれた。その笑みで私は少しだけ救われた気がした。


「それじゃあ、私は部活に行くよ。ちーちゃんは? 今日は文芸部?」

「ううん、今日は図書委員」

「そっか。ねぇ、ちーちゃん」

「なに?」


問われるが、光莉ちゃんはほんの数瞬だけ考える様にして、ややあってから口を開いた。



「何でそんなに星波先輩の事、気にしてるのさ?」




「え? ……んー、何だろう。分かんない」




そうやって答えると、光莉ちゃんは口角だけで薄く笑み、肩を竦める仕種で返してから部活へと向かって行った。



◆ ◆ ◆



何でもない。

いつもの事だ。

図書委員の仕事だって楽しい。

変わった事など何も無いし、冬を越して日の伸びた五月はもうすぐ終わりを迎えようとしている。

「それじゃあ、時間になったら戸締りよろしくね」

そう言って図書室の先生は職員室へと足を向けた。何でも、今日は職員会議があるのだそうだ。

簡単な返答で先生を見送り、私は少しだけカウンターに突っ伏す。

本の匂いと、木の匂いがほんの少し。


「………………」


何故あんな事を聞いてしまったのか。

何故あんな事を言おうとしてしまったのか。

そういった後悔が、何日も何日も私に付き纏っている。


あの日から、一度も星波先輩に会っていない。

見つける事も出来なかったし、何処に居るかも分からなかった。


……いや、会おうと思えば、やっぱり会えたんだ。

クラスは知ってるし、園芸部だって行けばきっと会えた。

物語を求めていたのか、それとも私が故意的に避けていたのか。


なんとなく、会いたくなかった様にも思う。


言おうとした事に対しての後悔こそ拭えないが、それよりも、想いを伝える前に突き放された事の方が、きっと傷が深かったのだ。


会いたい。

会いたくない。

会いたい……。

会いたくない……。


それなのに、星波先輩の事は知りたかった。

彼女がどういう人なのか。

彼女にはどういう理由があるのか。

彼女の好きな食べ物が知りたかった。

好きな映画が知りたかった。

好きなスポーツが知りたかった。

そして、好きな物語が知りたかった。


だからもしかしたら、あの日からずっとカバンに仕舞ってある本が私の唯一の拠り所となっているような気さえしてくる……。


一人、また一人と、図書室からは人の姿が消えていく。

自習を終えた人、課題を済ませた人、本を借りた人、本を返した人、ふらっと来てふらっと帰る人、長居する人、そうで無い人、そして、心がここに無いのにここに居る私。


今日もまた、貴女に会えないまま一日が終わる。

そんな気がする。


何故だか分からない何て、そんな言い訳する積もりは無い。

理由なんて分かってる。

ここ最近、本を読む気が起きないのだ。

最後に貴女に会ったあの日から、最後に貴女と言葉を交わしたあの日から、私は…………。



「……もぅ、こんな時間か」



いつのまにか、視界に入る範囲には誰も居なかった。

勉強していたあの人も、本を読んでいたあの人も、近付く下校の時刻に合わせて退室してしまっている。

西日のオレンジ色が濃い。

前進も後退も、私は今どちらもする事が出来ていない。


「……帰ろう」


そうやって独り言ち、カバンを手にして図書室の鍵を手にして、図書室内をぐるりと回る。

誰も居ない事は分かっていた。


そう、誰も居ない事は分かっていたのだ。


…………それなのに――。




「あぁ、もうそんな時間なんだね」




そう言って、園芸書の棚の前で本を手にした彼女は、私に視線を投げて寄越した。



「…………なん、で」


「ん? もう少し、別の園芸書を読んでみようと思ってね。色々選んでいたら、もう日も暮れそうな時間になってなっちゃってたわ」

そう言ってバツが悪さそうに笑んで、星波先輩は本を棚に戻そうとした。


「あの、借りるなら、私受け付けしますけど」


「ううん、また来るわ。今度ね」


星波先輩は本を棚に戻すと、「それじゃあ、私も帰るわね」と笑みを浮かべて見せた。



それは、私の驕りだ。

貴女の事なら一目見れば分かるだろうという、そんな見当違いの驕り。


そして、もう一つ。

これは物語では無いという事。


きっと、私がここで何も言わなければ、そのまま貴女は退室して、帰路を急ぐ事だろう。

自分から何かをしなければならないのだ。

これは私に都合の良い物語じゃあないから、私が行動しなければならないのだ。


私は……、私は知りたい……。



「――あの、待ってください」



踵を返した彼女の背中にそうやって言いを投げると、星波先輩は足を止め、再度此方に正面を向けてくれた。


「…………」


彼女は言いを発さない。

だから、そう、これは私にとって都合の良い物語では無いのだ。

それでも、『私に都合の良い物語』じゃなくても、これは『私の物語』なのだから……。


「あの、本って、読みますか?」

「本?」


「あの、私の好きな本、お勧めのやつなんですけど、星波先輩に、読んで欲しいんです」


カバンから文庫本を一冊取り出し、カバーのタイトルを確認してから、私は星波先輩へと差し出す。

そう長くは無く、二百ページにも満たないくらいの文量の文庫本。読み進めれば二時間程で読み終えてしまえるだろう。


受け取って欲しい。

受け取って、これを読んで欲しい。


それでも、それなのに、星波先輩は、頰に手を当てて、少し困った様な薄笑みのままで…………。



「…………あの、あのね、宴町さん。私は――」

「好きです」




………………。

………………。




「…………え」

「あ…………」


…………あ。







あぁ――。


「いゃ、あの違うんです。星波先輩……、あの――」



意識的にか、無意識的にか、気付いた時にはもう遅かった。

その言葉が口を吐いてしまった事で、私も、そして星波先輩も、身体が固まってしまう。


弁解をする機会は今しか無くて、何か違う方に話を向ける必要があって、次に星波先輩に会ったら何を話そうかとか、どうすればこの前の事を謝れるかとか、そういう事を何度も何度も考えて、お風呂に入っている時とか、寝る前とか、帰りの道すがらとか、そういう時にずっとそんな事ばかり考えていて、本を読む事が出来なくて、今の私にとって大切なのは本を読む事より、如何にしても星波先輩に謝るかで、星波先輩ともっと仲良くなりたくて、星波先輩の事を知りたくて…………。


そんな事ばかり、考えていて…………。





「…………好きです、星波先輩」


「待って宴町さん」


「待ちません! 好きなんですッ!!」





…………あぁ、駄目だ。

もう駄目なんだ。


閉館間際でも図書室なのに、もしかしたらまだ誰か人が残っているかも知れないのに。


星波先輩に謝りたいのに。

こんな事を言う積もりなんて、無かったのに……。

こんな、星波先輩に、貴女に嫌われてしまうかも知れないのに、それなのに、だ……。




「……好きなんです。貴女の事が、星波先輩の事が、好きです。……好きなんです。…………ごめんなさい。こんな、……こんな事、ごめんなさい。でも、好きなんです……。貴女の事が、好きなんです…………」



もう星波先輩の良い話とか悪い噂とか、そんないろんな事が全部、なにもかもがどうでも良くなり、この場で星波先輩にとってそれが適切なのかどうかすら分からない言葉を、私はそうやって吐き続けていた。


何百冊も本を読んできたのに、こんな言葉しか出てこない。

美しい言葉とか、機をてらった台詞なんて、いざという時には何も出てこない。


好きな人に、『好きだ』と言う事しか伝えられない。


顔が熱い。

胸が苦しい。

よく分からないのに涙がどんどん溢れてきて、膝も震えてて、頭ではもう、何も考えられない。


お願い。

お願いします、星波先輩。


私に貴女を愛させて……。

そして、願わくば、どうか、私を愛して……。



「……ごめんなさい。好きです。…………ごめんなさい」

「…………泣かないで、宴町さん。それに、謝らなくて良いのよ」


言って、星波先輩はハンカチを手渡してくれるが、それを受け取っても、私は涙を拭う事が出来ない。

貴女の物を、私の涙で汚せない……。




「……宴町さんは、何故私に、そんなにこだわるの?」



問われる。

問われるが、それは私も色々考えた。

ここ数日、貴女に出会ったあの日からずっと。

それでも――。





「…………分かりません」





残念ながら、私にはそれが分からなかった。

「分からないから、ずっと苦しいんです……。理由が無いんです……。理由が無いのに、好きなんです。星波先輩の事が、貴女の事が……。分からないんです……。苦しいんです……。好きなんです…………」




私が『星波先輩を好きな理由』は分からない。

けれど、『理由の分からない好きの理由』は分かる。



これはアレだ。

以前に本で読んだ事がある。






love at first sight.






きっと、本当に最初の一撃で、私は貴女に撃ち抜かれていたのだろう…………。







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