第24話 宴町雉鶴の出逢い

この場所で出会った貴女。



◆ ◆ ◆



中等部から高等部に進級して一週間が経った。

白海坂は中高一貫だけれど校舎も敷地も分かれている。だから、同じ学園内だとしても、結果として新しい環境は常に全てが新鮮だった。


桜の並木や温かい日当たりはそのままに、校舎の匂いだったり、グラウンドの広さだったり、図書室の閲覧可能書籍の数だったり、探せば探すだけ、その違いや質の高さが明確になってくる。


「ウタゲマチさんは、部活何処に入るとか決めてるの?」

問われ、私は「うん、もう決めてるんだ」とあまり間を置かずに答えた。

「なんだぁ、決まってないなら一緒に陸上部でもって思ってたんだけど」

「走ったりも嫌いじゃないよ。だけど、私は本を読むのが好きだから」


だから、文芸部。


言うと、隣の席の志波さんは「そっか。うん、自分の好きな部活に入るのが一番良いからね」と優しく笑んで見せた。


運動は嫌いじゃない。

けれど、得意なわけでもないのだ。

明確なセンスが運動方面に突出していれば身体を動かす部活も選択肢にはあったのだろうけれど、如何せん、きっと私にそれは備わっていないし、それが備わっていたとしても、発揮する機会が今のところ無い。

だから、私は本を読んだり物語を創造したりする方を好んだし、それを選んだ。

幸いな事に、読書は長時間でも苦痛にならなかった。

徐々に進んで行く物語に胸躍らせたり、登場する人物に想いを重ねるのが、楽しくて嬉しくて、私は仕様が無かったのだ。


だから、中等部でも部活は文芸部だった。


今更と言ってしまうにはまだまだ十代も中盤だけれど、これから何か新しい事を始めようと思うのが少し難しいだろうと思えるくらいに、私にとっての活字はもう身体に刻み込まれてしまっているのだろうと思う。

そして、私がそれを自身でそう思える事が、とても嬉しく、そして誇らしいのだ。


高等部の図書室の扉を開けた時、私はその蔵書の多さに言葉を失った。

図書室での私語は控えるのが世の常なので、ここで私が言葉を失ったのは正に好都合だったのだろうけれど、要するに、そこはとっても凄い事になっていると、つまりはそう言う事なのだ。

初めて中等部の図書室に入った時も、私はその世界の広さに驚いたのだけれど、たった三年でその驚きと興奮がこうも容易く塗り替えられるとは思っていなかったから。

中等部の図書室ですら私が一生掛けても読み尽くせないような本があったのに、高等部の図書室を見て、その世界の表面に触れて、私が三回生まれ変わっても、この場所の本を全て読み尽くせるかどうか、判断する事が出来なかった。

たかだか学園の図書室で自分の輪廻感が精査されてしまうのだから、一体世界中の本を全て読み尽くすには、私は何回生まれ変われば良いのだろうか?


大袈裟な例えをするならば、私の人生には時間が足りないのだと、そう思う事さえある。



◆ ◆ ◆



「ちーちゃんは図書委員でしょ」

「アタリ」

「本当好きだよね。本読むの」

「でも、図書委員は別に本を読むって仕事でもないし」

「ちーちゃん本を整理したり管理したりするのも好きでしょ?」

「アタリ。凄いね。よく分かったね」

「なんとなく分かって来たよ」

言って、光莉ちゃんはどこか自慢気に私を見遣る。


中等部でも友達はいた。

大体の時間を活字と共に過ごしてきた私でも、教室移動で誘ってくれたり、お昼をいっしょに食べる友達は少なからず居たのだ。

けれど、彼女達は高校進学を機に他校を受験し白海坂を離れていった。

誰も彼もが一貫校の白海坂でそのまま高等部まで進む事を考えてはいないという事だ。

彼女達が良い例だし、その逆もまた然りだ。

私は中等部を受験して、そのまま高等部まで進む事を念頭としていたから、要するに、人にはそれぞれあるという事。


だから、高等部に進級した1-Bで、隣の席の彼女が声を掛けてくれたのは、私にとってはありがたかった。


志波光莉。


持ち上がりではない新入生組の彼女から見て、新しい生活の始まった数日間、本しか読んでいなかった私を見て同じ新入生組だと思ったらしい。

曰く、『同じ新入生組なら私が声を掛けても何も問題無いだろう!』との事。

別に持ち上がり組でも新入生組でも、誰が誰に声を掛けてもなんの問題も無いのだろうけれど、恐らく、私は彼女に気を遣われたのだろう。

優しさは嬉しいし、光莉ちゃんも良い子だけれど、彼女にそうさせてしまった自分には少しばかりの後ろめたさがある。

『別に、そんなの気にしなくて良いのに』と、彼女は笑って言ったのだけれど、私はやはり少し困った風な笑みしか返す事が出来なかった。


「ちーちゃん放課後は?」

「今日は図書委員の当番だから、部活は明日かな」

「そっか。私も今日は陸部だね」

「うん。頑張ってね」

「もちろん!」


高等部に進級して三週間が経ち、私達はお昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴り始めた校舎内を、少しだけ早足で自身の教室へと戻った。



◆ ◆ ◆



子供の頃、平仮名で自分の名前が書ける事を褒めてもらえるのが嬉しかった。

子供とは褒められると調子付くもので、私もやはりその枠の内の一人だった。

書ける事を褒められると、今度は綺麗に書く事を始めた。

大きさや間隔を揃えて、丸の形や真っ直ぐに線を引く事を心掛けた。

やがて片仮名や漢字の存在を知り、自身の名前や色んな物の文字に傾倒すると、次は文字で埋め尽くされた本を手に取った。

綺麗な字を書く事を主眼として本の文字を追っていると、直ぐに私はその物語の虜になっていったのだ。


この後彼はどうなるのか?

この二人は会えるのか?

船は沈むのか? 沈まないのか?

陽は昇るのか? 昇らないのか?

この子は勝つのか? もしくは、負けるのか?


文字を書くのは好きだった。

けれど、本を手にした私は、それがどうでも良くなる程物語にのめり込んだのだ。

綺麗な字なんてどうでも良かった。

誰かに褒められるのもどうでも良かった。

ただただ、いつでも新しく手にしたこの本の物語の続きが、私は知りたかった。




「貸し出しは一週間で、返却時はそこの返却BOXに投函して下さい」


貸し出されていく本は日に十冊あるか無いか。

金曜日や長期休みの前はもう少し多くなる様子だけれど、それでも、私がここに座る間に貸し出される本の数より、この図書室の蔵書の方が何百倍も多い。


図鑑や参考書なんかもあるけれど、やはり貸し出される本は文芸書がその大半を占めている。

私が以前読んだ事のある本を。

読もうと思って諦めた本。

これから読もうと思っていた本。

まだタイトルも知らない様な本。

女学園だけあって本の扱いは皆丁寧だ。どの本も痛みは少なく、初版が何十年も前の代物でも、カバーには当時の色合いが残っている。

町の図書館も利用していたけれど、何処もここまで綺麗に管理されている書籍も本棚も見た事がなかった。

流石白海坂といったところだろう。


放課後の図書委員の仕事は好きだ。

文芸部での活動も好きだけれど、この場所では何だか気品高く振る舞える気さえしてくる。

自分が特別だと感じられるこの場所で特別だと思える仕事を出来る事が嬉しかったし、光莉ちゃんの言う通り、本の整理も管理も性に合っていたので、全く苦にならなかった。


こうして、図書委員としての放課後を過ごし、本日貸し出された本は七冊。

夕暮れ時の西日が室内に差し込まれる時間帯で、一時間後には完全下校時刻となり、あと十五分程で図書室を施錠する段取りとなる。

貸し出された本と返却された本の確認をし、日誌を書いて書類の整理をして、人が残ってないかを確認すれば、今日の私の委員としての仕事は終わりだ。




「…………あの、そろそろ閉館なんですけど」

図書『室』なのに『閉館』とは何とも可笑しな言い回しだが、咄嗟にそう口から出てしまったのだから仕様が無い。

図書室内をぐるりと回り、人の有無を確認する中で、彼女は図鑑の棚の前で、上方の段に視線を投げていた。


「……あぁ、ごめんなさい。もうそんな時間なのね」


「…………はい」




…………綺麗な声だと思った。




綺麗な声だと思ったし、綺麗な人だとも思った。


呆けた様に彼女へと見惚れてしまった私は、彼女の付けているリボンの色でその人が二年生だという事が分かり、数瞬の後に自身の思考を覚醒させる。



「……ッあの! …………何か本を借りるなら、私が受け付けしますけど……?」


「……? 貴女が?」


「私、図書委員なんです」



言うと、二年生の彼女は合点がいった様に少しだけ目を細めて、「あぁ、図書委員さんなのね」と薄く笑んで見せる。

そうして、「あそこのね、図鑑を借りようと思っているのだけれど、どうやって取れば良いものかと思ってね」と、少し困った様に、彼女はやはり、薄く笑んで見せた。


彼女の見やった本棚の先には、少し高い位置に、図鑑と実用書を兼ねた様な『薔薇と園芸』というタイトルの本が並べられていた。


「あ、踏み台ありますよ。取ってきます」


言って踏み台を取りに行き、戻ってきて、その少し高い位置にいる本へと踏み台を使って手を伸ばす。

私の身長だと踏み台を使っても少し背伸びしないと届かない位置だったけれど、なんとかそれを手に取る事が出来た。


「薔薇とか園芸とか、好きなんですか?」


『薔薇と園芸』を彼女に手渡すところで、私はそんな問いが自然と口を吐いていた。

詮索する気は無いのだけれど、なんとなく、彼女の事が気になったのだ。


綺麗な声と、綺麗な容姿の彼女は、何故この本を欲したのか。



「私ね、園芸部なの」



問うと、彼女はやはり薄い笑みを浮かべたままにそう答えて、先を続けた。


「グラウンドのね、西側の、校舎と講堂の裏手に園芸部の庭があるんだけどね、今年から薔薇を増やそうって、そういう事になったんだけど、私まだ園芸部に入ったばっかりだから、こういうのを勉強しようと思って」

と、彼女は手渡した本で口元を隠す様に、両の手で掲げる。


綺麗な声で、綺麗な容姿で、可愛らしい人。


きっと、これが私の感じた彼女への第一印象になるのだろう。


「園芸部ですか。良いですね。似合ってると思います」

「っふふ、お世辞でも嬉しいわ」


お世辞の積りは無いのだけれど、彼女は続けて「それじゃあ、この本を借りて行こうと思います。お願いして良いかしら」と、再度こちらに手渡すので、私は「はい、承ります」と言いを返した。



◆ ◆ ◆



何で図書委員にしたの?


本が好きなんです。読むのも書くのも。


へぇ、じゃあぴったりだね。それじゃあ部活も文芸部?


あたりです。先輩は花が好きなんですか?


んー、好きは好きだけど、特別大好きって、そういう訳でもないのよね。


じゃあ何でですか?


なんだろう、性に合ってるとか、そういう感じかな。のんびり花が育つのを見てるのが、今の私には、きっと性に合ってる気がしたから。


「あぁ、何となく分かる気がします。そういう時期」




ほんの二分三分の、そんな貸し出し書類の記入時に、少しだけ他愛の無い会話をした。

なんとなく分かったのは、彼女の会話のリズムとか反応の温度とか、そういうのが私に合っている様な気がした。

相槌のタイミングとか、笑んでくれる感覚とか、声量とか、そういう事が心地良かった。



「それじゃあ、ここに学年とクラスと、名前の記入をお願いします」


「えぇ、…………はい。これで良いかしら」


「はい、大丈夫です」

用紙を受け取り、こちらからも控えの半紙を手渡す。

「貸し出しは一週間で返却時は返却BOXにお願いします」


「えぇ、ありがとうございます」

丁寧に頭を下げて、彼女は私の渡した半紙に視線を落とした。


…………不備は無い筈だけれど、マジマジと見られると少し恥ずかしい気もする。




「……ウタゲマチ…………、これ、下の名前は何て読むの?」


「…………?」


そこには、受け付けた私の、自身の筆跡で書かれたクラスと名前が記載されていて…………。


問われ、咄嗟の事だったので返す反応に少しの間が空いてしまう。そうして、瞬間理解すると、私は少し早口で「宴町雉鶴です」と自身の名前を告げていた。


「ウタゲマチ、チヅルさん」




綺麗な名前だね。それに、綺麗な字。




「…………えっ?」


「それじゃあ、ありがとうございました。宴町さん」


言って、彼女は私の返事を待たずにここ、図書室を後にした。




「……綺麗な字なんて言われたの、いつ振りだろう…………」


何だか、とても不思議な時間だった。

彼女ともう少し話がしたかった様にも思う。

もし図書室を閉める時間に、下校時刻に急かされていなかったら、私は彼女を引き止めていたのだろうか?


私もまた、彼女と同様に、記載された貸し出しの用紙へと視線を落とす。






『2-D 星波志穂』






「星波先輩……。星波さんかぁ……」


そうやって声に出すと、何だか顔が熱くなった様な気がする。


図書室を閉める時間はとっくに過ぎてしまっていたけれど、私はもう少しだけ、この夕焼けのオレンジ色に染まったこの場所で、ほんの一握りかだけの幸せな余韻に浸っていたかった。




「『宴町さん』、か…………」






宴町雉鶴。


高等部に進級して、三週間。


白海坂での毎日は楽しいし、部活も委員の仕事も充実している。


新しい環境は、常に全てが新鮮だ。





何故だろう、星波志穂さん……。





どういう訳か、私は貴女に、





『雉鶴』と名前で呼ばれたい…………。





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