第23話 朧扉の生活

閑話休題。

家に帰ると貴女が居てくれる幸せ。


◆ ◆ ◆


「で、貴女今年は何処のクラスになってたの?」


2LDKマンションの一室。


今日はお互いに帰りが遅く、着家時間もマチマチだったので、其々で外でご飯を食べて帰る事となった。

当番なんかは特に決めていない。

お互いがお互いにそれぞれなんとなく読み取ったり読み取られたりしているので、必要ならば一週間ずっと夕飯を用意する事もあるし、一週間ずっと洗濯を任せっきりにしてしまう事もある。


帰ってきてソファに腰を落とし、適当な特に観る予定の無い番組にテレビのチャンネルを合わせ、私は雅にそう問うてみた。


「今年は一年生。1-Cの担任だよ」


私の問いに答えながら、雅は沸騰したヤカンの火を消して、自分のコーヒーを淹れる。


「ズルいなぁ。私の分も淹れてくれれば良いのにさ」

そう言って、私は肩を竦めながら溜息を吐いてみせるけれど、やはり雅はいつも通り、「嫌よ」と一言だけ吐いて、ソファの私の隣に腰を落ち着けた。小柄で軽い彼女でも、ソファに座ればある程度身体が沈む。二人分の重さを、このソファは毎日支え続けている。ソファにとってそんな生活がもう三年も続いている。


そうして、正面の足の低いテーブルには、雅が自らの為に淹れたインスタントのコーヒーが一杯だけ置かれた。


「寧ろトビラが私にコーヒー淹れてよ。貴女が淹れたコーヒーの方が美味しいもの。インスタントコーヒーは味気無いのよ? 貴女には分からないでしょ?」


「じゃあ飲まなければ良いのに」


「たまに飲みたくなるのよ。味気は無いけど稀に美味しい時があるのよ」


「疲れてる時とか?」

「疲れてる時とか」


雅は一度ソファに大きく体重を預けてから一つだけ大きく息を吐き、天井を仰いだ。


「っあーー。トビラの淹れたコーヒーがのーみーたーいーなー」


「何でそんなに拘るかなぁ?」


「だって、貴女喫茶店のオーナーじゃん。店長じゃん」


喫茶店ライトオレンジ。

確かに私はオーナーで店長で、今は保険医をしているけれども、残念ながら……。


「ここには豆もミルも無いんだから、結局私の淹れるコーヒーもインスタントなんだよねぇ。諦めなよミヤビ。そして、私にインスタントコーヒーを淹れておくれよ」


「やーだよ」


そう言ってソファに預けていた身体を起こし、テーブルの上からコーヒーを掻っ攫って、一口分だけ飲み下した。


「あー、温かい! 美味しい!」


「本当に?」


「本当だよ失礼な!」


「本当は?」


「うん、あんまり美味しくない」


教師っていうのは大体みんなこんな感じなのだろうか?

学校では威厳を保って生徒に指導する立場であり、手本として行動する役割があるのだろうけれど、こうして家に帰ってくると、どこまでも子供の様に行動や言動に対しての箍が外れてしまう。

雅が稀有で突出している例なのか、それともこれがスタンダードなのか。

私も、教師になったらこうなるのだろうか?



テレビのチャンネルをザッピングし、適当で当たり障りの無いバラエティ番組で止めると、雅は「私この人あんまり好きじゃないんだよねぇ」と、唇を尖らせてみせる。雅の言う『この人』は女性タレントだった。老若男女問わず、ファンも多ければアンチも多い、比較的評価が分かれやすいタイプの、そういうタレントさんだ。


「じゃあ何でも止めたのさ?」


「ん? トビラにこうなって欲しく無いなぁって、釘刺し?」


「なにそれ?」


「絶対こういう風にならないでね? 絶対だからね?」


テレビの画面では、件の女性タレントが両の手を叩きながら、あまり上品ではない様相で声をかけ大きく笑い声を上げている。これを元気と捉えるか、はたまた下品と捉えるか、そのどちらかで彼女の印象が変わるのだろう。


残念ながら、私の彼女に対しての印象は後者だ。


「ならないし、なる要素も無いでしょ?」



「んふー、知ってる」



「へぇ、ミヤビは私の事何でも知ってるのね?」



「えへー。だから好きぃ」



言って、雅は私に抱き付いてきた。

柔らかくて、温かくて、ほんのり良い匂いがして……。



「飲んだのって本当にコーヒー? 本当はお酒だったんじゃないの?」


「んー? なんでー?」


「今日は何か、やたら甘えてくるから」


「お酒じゃないよ。ちゃんとコーヒーだよ」


そう言う雅の腕に少しだけ力が入り、私に抱き付く強さが少しだけ増す。

なので、私もまた、雅の腰に手を回して抱いてあげると、彼女は、耳を真っ赤にして、微かに目を潤ませて。



「何か、嫌な事あった?」


「……べつに無いよ」


「本当は?」


「まー、クラスの子でちょっとトラブルはあったよね……」



……トビラ、私の事何でも分かるの?



分かるよ。何でもね。

と、そうは言わずに、私は雅の頭を優しく撫でてあげた。

サラサラの髪が手の平に心地良く、私の腕の中に収まる雅は、なんとも満足そうにその身を委ねてくれる。


「気持ちいい?」


「……ん、気持ち良いの」


「ミヤビ頭撫でられるの好きだもんね」


「……ん、トビラに撫でられるの、好きぃ」


「久し振りに髪とかしてあげよっか?」

言うと、雅は「それも好きぃ」と言ってわたしの胸に顔を埋めてくるが、パッと顔を上げて、「それならお風呂上がってからの方が良いなぁ」と、ニヘっと笑って、少し目を細めながら言いを続ける。

真っ赤になった耳と、少し紅らめた頬。



「だからさ、今日は、一緒にお風呂、入ろ?」



……あぁ、そう言う風に言われると拒めないなぁ。

私も雅には甘いなぁ。


「じゃあ、一緒にお風呂入ったら、私にコーヒー淹れてくれる?」


問うと、雅は少しだけ思考する様にしてから、「仕様が無いなぁ」と、再び私の胸に顔を埋めた。


◆ ◆ ◆


いつも彼女は私より三十分早く家を出るので、部屋を少しだけ片付け、朝食の食器を洗って、ゴミ出しをするのは大体私の担当だ。


だから、通勤中の彼女を見た事は殆ど無い。


私より早く白海坂に着いている雅。


家で化粧を落とした雅も、白海坂でスーツを纏い、バッチリ着こなしている雅も、私の知ってる同じ雅だ。


「おはようございます。高柳先生」


言うと、彼女もまた「おはようございます。朧先生」と、笑顔でそう返してくれる。


学校では威厳を保って生徒に指導する立場であり、手本として行動する役割がある。


だから私は学校内で、稀に彼女へちょっかいを出したくなる。


すれ違い様で雅のお尻を軽く触れると、彼女は真っ赤な顔をして、弱々しく私を睨んでくるのだ。



今日の放課後、雅は保健室にきてくれるだろうか?



期待はしないが、期待しないのも少し難しい。




高柳雅。

今年は1-Cの担任だった。




私は彼女の事が好きなのだ。

愛しているのだ。



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