第22話 星波志穂の馬鹿野郎

謝らないで、お願い…………。



◆ ◆ ◆



「貴女、優しい眼をしてるのね」



「…………え?」





不意に掛けられたその言葉に、私は耳を奪われ、向けた視線の先にいる彼女に眼を奪われた。




「……そんな事言われたの、初めてだよ?」


「っふふ、私も、今日初めて言ったわ」


そう言って彼女は笑ったけれど、私は笑わなかった。

笑わなかったというか、笑えなかったというか、私は…………。



「……貴女――」



貴女、名前は?



問うと、彼女はほんの一瞬だけ呆けた様な顔で首を傾げてから、直ぐに大きく笑みを浮かべて、


「辻絢音、絢芽っていいます」


と、それはそれは、可愛らしく――。



ツジアヤネアヤメ。


ツジアヤネアヤメ。



ツジアヤネ、アヤメ――。





「……私は、星波志穂って、いいます」


「……うん、ありがとう。ホシナミさん」




雪の降る寒い日だった。


セーターとコートとマフラーで着膨れした彼女は、まるでマトリョーシカみたいなシルエットになっていて、きっとその一番下には彼女の小柄な体躯が収まっていて、寒さで赤くなった鼻頭が降りてきた雪の粒を溶かし、肩口までの黒髪は冷たい風に揺られて、黒髪から覗く耳は鼻頭と同じくらい真っ赤になっていて――――。


これまで特別な意識なんてしてこなかったのに、こうも一瞬で色んなものが奪われるとは思いもしなかった。


彼女の声に耳を奪われ、彼女の容姿に目を奪われ、彼女の笑みに心を持っていかれた。



14歳の冬。



場所は校舎屋上。



その場所には、私と彼女しかいない。



だから、校内で一番最初に降る雪を感じられるのは、私より2㎝だけ背の高い彼女の特権だった。


私はこの場で、辻絢音絢芽に恋をした。


彼女はこの場で、身を投げようとしていた。



◆ ◆ ◆



「……どうして??」


「? 何が?」


問うた返しで問いを投げられ、少し混乱する頭で自身の問いには些か言葉が足りなかった事を理解した。

なので、私は再度、彼女に問いを掛ける。


「何で、うちの場所、知ってるの?」


すると、彼女は思い至った様に、「あぁ」と納得した様に手の平を打って、「先生に聞いたら、名簿見せてくれた」と、あっさり、あっけらかんとして答えた。


「取り敢えず、中に入れてもらって良い? 1月はお昼でも日が出てても寒いのよ。星波さん苺のタルトと梨のタルト、どっちにする?」


意図して呆れた素振りを見せていたのだけれど、それを全く意に解することなく、彼女はそう言って手にしたケーキ店の小箱を掲げて見せる。


タルトは好きだ。


果物のものなら尚更。



「……じゃあ、苺のタルトで」



言って家内に招き入れると、花見坂上さんは頬を紅色にして薄く笑んで見せた。



◆ ◆ ◆



「私ね、良いトコのお嬢様なの」


……知ってる。


「だからね、もう行く学校も大学も、仕事する場所も決まってるんだって」


なんでそんな事言うの……?


「結婚する人も、決まってるんだって」


なんで、そんな事言うの……?


「それでも志穂、私と同じ高校に来てくれる?」


…………。


「それでも志穂、私と同じ大学に、来てくれる?」


……………………。


「なんかね、写真見せてもらったら、そこそこカッコいい人でね、勉強も出来るんだって」


…………へぇ。


「私より三つ上で、背も高くてね」


「……何で?」


「…………へ?」


「絢芽、何で泣いてるの?」


問うと、絢芽少しだけ口を閉ざした。

無意識下で流していたであろう涙を拭って、口元を両の手の平で抑えて。


15歳の秋。


高校受験はもう直ぐそこまで迫って来ている。


「……志穂」


「…………ん?」




このまま、二人で逃げちゃおうか……?




私は、彼女の言いに、黙ったままで首肯した。


だから、絢芽は困った様に笑って見せた。



◆ ◆ ◆



「これ、お休みの間の授業内容ね。コピーだから自由に使って。あと、学年末テストの範囲。そんなに広くないから星波さんなら大丈夫だと思うけど、一応、ね。それから、行事関係のプリント何枚か」


「……お休みって言うか、停学なんだけどね」


「まぁそれはそれとして、さ。明後日で停学開けでしょ」


週明けの月曜日で停学が解かれ、晴れて私は学園に復帰する事が出来る。

自身の身から出た錆だけれど、私は別に、八木沢さんを叩いた事を後悔はしていない。


「……八木沢さんは、大丈夫そう?」

……後悔はしていないけれど、何となく、心配ではあった。


「大丈夫かどうかは分からないけど、口が過ぎたとは言ってたよ。自分が叩かれたのは当然じゃないかって」


「……そぅ」


なんとなく、安心した様な、不安だった様な、そんな心持ちで停学期間を過ごしていた。

手を上げてしまった八木沢さんは大丈夫だったのかとか、件の新聞掲示はどうなったのかとか、晒した失態についてとか、今回の事を誰がどう思っているのかとか。


透かした態度で余裕のある風を装っていても、手前の内心には卑屈な弱さと怯えた醜さが居座っているのを理解しているから、結局誰の事をも好きになれないし嫌いにもなれない。


「ちょっとは安心した?」


「……まぁ、学校に行ってるって分かったから、少しだけね」


言うと、花見坂上さんは「そうだね。気にするなって言うのは簡単だし、安心するのは難しいけど、少しだけでも安心出来たなら、今日来た意味はあったかな」と、そう答えて笑んで見せる。そうして取り出していたファイルやら何やらを片付けると、「それじゃあ、ケーキでも食べましょうか」とテーブルの上でケーキの箱を開けた。

中には先に言っていた通り、二種類のタルトが入っていて、片方は苺。もう片方は梨。


「お皿とフォーク、持ってくるね」


ケーキは好きだ。


苺が乗っているなら、なおの事好きだ。



◆ ◆ ◆



右の頬を叩かれた。

ジンジンとした痛みが内側から込み上げてきて、それが徐々に熱を持ち始める。


泣きたいのに泣けなかった。

眼の表面まで涙が迫ってきているのに、そこから零れ落ちる事がない。

それは、今ここで、私に涙を流す資格が無かったから。


「貴女みたいなのが一番迷惑なのよ!」


そうやって声を荒げる女性の背後で、絢芽は視線を落として地面を見つめていた。

絢芽の頬もまた、赤く腫れていて、熱を持っているのが目に見えて分かる。


絢芽に、本当にその気があったのかは、私に判別する事は出来ない。

けれど、結果として、だ。



私と絢芽は逃げ切る事が出来なかった。



たった三日間だけの、学校の無断欠席。

逃げられたのは電車でたった3時間の距離まで。そうして出先で捕まって、お父さんとお母さんは何度も何度もツジアヤネさんに頭を下げて……。



それ以来、絢芽が学校に来る事は無かった。


一緒に卒業する事も出来なかったし、一緒の高校に行く事も無かった。


あと5年もすれば絢芽は『辻絢音』ではなくなり、顔も声も知らないやつの家に嫁いでいく。



そりゃあ、そうだよね。



世間の普通じゃないやつへの風当たりは冷たい。

そうじゃなくても絢芽は良いトコのお嬢様で、私みたいなのが勘違いして触れて良い人じゃなかった。


幸せになって。絢芽。


私は少し、難しいかも知れないけど。


今一度、貴女に会えるのなら、一つだけ聞いておきたい事があるの。




絢芽。

あの時、私の事を、

本当に好きでいてくれてた?



◆ ◆ ◆



「それじゃあ、そろそろお暇しようかな」


一月の日暮れはまだまだ早い。

6時を過ぎれば辺りはもう真っ暗になり、街灯が帰路を照らすのに十分な時間帯だ。


「駅まで送ろうか?」


そうやって申し出るも、花見坂上さんは「ううん、大丈夫。道ならわかるから」と、コートを着込んでマフラーをキツく巻いた。


苺のタルトは美味しかった。


ケーキを食べてからは特に身のある話をする事も無かったけれど、停学期間で少し人恋しくなっていた私には誰かと何でもない話が出来る事がそれだけで十分だった。


見送り際、玄関先で彼女が靴を履くほんの数秒の間に、私は今日の花見坂上さんへ抱いていた一つの疑問を投げて渡した。


「今日は――」


「んん?」


「……今日は、どうして来てくれたの……?」


「別に、なんとなく。ただ、星波さんが学校に来てない間に、テスト範囲が決まって、色々大事なプリントとか配られて、困ってるかなって。そう思っただけだよ」




…………そっか。




「…………そっか。うん、ありがとう」


「どういたしまして」



それじゃあ、月曜日にね。

言って、花見坂上さんは帰路に着いた。



月曜日には、私は復学してまたいつも通り登校する。


白海坂は楽しい。

授業も退屈ではないし、部活にも入れば遣り甲斐もあるだろう。


私の所為で邪険にされる事もあるけど、それを知らずに優しくしてくれる子もいる。

申し訳なくも、友達も出来た。


後ろめたさは幾らでもあるけれど、白海坂での毎日は充実している。


白海坂は好きだ。





…………だけど、


そこには絢芽。


貴女がいない…………。



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